一
お花畑から、大きな虫が一ぴき、ぶうんと空にのぼりはじめました。
からだが重いのか、ゆっくりのぼりはじめました。
地面から一メートルぐらいのぼると、横に飛びはじめました。
やはり、からだが重いので、ゆっくりいきます。うまやの
見ていた小さい太郎は、
うまやの角をすぎて、お花畑から、麦畑へあがる草の
とってみると、かぶと虫でした。
「ああ、かぶと虫だ。かぶと虫とった。」
と、小さい太郎はいいました。けれど、だれも、なんともこたえませんでした。小さい太郎は、
小さい太郎は、縁側にもどってきました。そしておばあさんに、
「おばあさん、かぶと虫とった。」
と、見せました。
「なんだ、がにかや。」
といって、また目をとじてしまいました。
「ちがう、かぶと虫だ。」
と、小さい太郎は、口をとがらしていいましたが、おばあさんには、かぶと虫だろうががにだろうが、かまわないらしく、ふんふん、むにゃむにゃといって、ふたたび目をひらこうとしませんでした。
小さい太郎は、おばあさんのひざから糸切れをとって、かぶと虫のうしろの足をしばりました。そして、
かぶと虫は、牛のようによちよちと歩きました。小さい太郎が糸のはしをおさえると、前へ進めなくて、カリカリと縁板をかきました。
しばらくそんなことをしていましたが、小さい太郎はつまらなくなってきました。きっと、かぶと虫には、おもしろい遊び方があるのです。だれか、きっとそれを知っているのです。
二
そこで、小さい太郎は、大頭に麦わらぼうしをかむり、かぶと虫を糸のはしにぶらさげて、
昼は、たいそうしずかで、どこかでむしろをはたく音がしているだけでした。
小さい太郎は、いちばんはじめに、いちばん近くの、くわ畑の中の
「金平ちゃん、金平ちゃん。」
と、小さい声でよびました。金平ちゃんにだけ聞こえればよかったからです。しちめんちょうにまで、聞こえなくてもよかったからです。
なかなか金平ちゃんに聞こえないので、小さい太郎は、なんどもくりかえしてよばねばなりませんでした。
そのうちに、とうとう、うちの中から、
「金平はのォ。」
と、返事がしてきました。金平ちゃんのおとうさんのねむそうな声でした。
「金平は、よんべから
「ふウん。」
と、聞こえないくらいかすかに鼻の中でいって、小さい太郎はいけがきをはなれました。
ちょっとがっかりしました。
でも、またあしたになって、金平ちゃんのおなかがなおれば、いっしょに遊べるからいいと思いました。
三
こんどは、小さい太郎は、ひとつ年上の
恭一君の家は、小さい
また、木にのぼっていないときでも、恭一君はよく、もののかげや、うしろから、わっといってびっくりさせるのでした。ですから小さい太郎は、恭一君の家の近くにくると、もうゆだんができないのです。上下左右、うしろにまで気をつけながら、そろりそろりと進んでいきます。
ところがきょうは、どの木にも恭一君はのぼっていません。どこからも、わっといってあらわれてきません。
「恭一はな。」
と、にわとりに
「ちょっとわけがあってな、
「ふゥん。」
と、小さい太郎は、聞こえるか聞こえないくらいに、鼻の中でいいました。なんということでしょう。なかのよかった恭一君が、海のむこうの
「そいで、もう、もどってきやしん?」
と、せきこんで小さい太郎はききました。
「そや、また、いつかくるだらあずに。」
「いつ?」
「ぼんや正月にゃ、くるだらあずにな。」
「ほんとだねおばさん、ぼんと正月にゃもどってくるね。」
小さい太郎は、望みをうしないませんでした。ぼんにはまた、
四
かぶと虫を持った小さい太郎は、こんどは細い坂道をのぼって、大きい通りの方へ出ていきました。
車大工さんの家は、大きい通りにそってありました。そこの家の
車大工さんの家に近づくにつれて、小さい太郎の
ちょうど、小さい太郎のあごのところまであるこうしに、首だけのせて、仕事場の中をのぞくと、安雄さんはおりました。おじさんとふたりで、仕事場のすみのといしで、かんなの
「そういうふうに力を入れるんじゃねえといったら、わからんやつだな。」
と、おじさんがぶつくさいいました。安雄さんは、刃のとぎ方をおじさんにおそわっているらしいのです。顔をまっかにして一生けんめいにやっています。それで、小さい太郎の方を、いつまで待っても見てくれません。
とうとう、小さい太郎はしびれをきらして、
「安さん、安さん。」
と、小さい声でよびました。安雄さんにだけ聞こえればよかったのです。
しかし、こんなせまいところでは、そういうわけにはいきません。おじさんが聞きとがめました。おじさんは、いつもは子どもにむだぐちなんかきいてくれるいい人ですが、きょうは、なにかほかのことではらをたてていたとみえて、太いまゆねをぴくぴくと動かしながら、
「うちの安雄はな、もう、きょうから、一人まえのおとなになったでな、子どもとは遊ばんでな、子どもは子どもと遊ぶがええぞや。」
と、つっぱなすようにいいました。
すると安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました。そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な目をむけました。
虫がえだから落ちるように、力なく、小さい太郎はこうしからはなれました。
そして、ぶらぶらと歩いていきました。
五
小さい太郎の
安雄さんはもう、小さい太郎のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶことはないのです。おなかがいたいなら、あしたになればなおるでしょう。
安雄さんは、遠くにいきはしません。同じ村の、じき近くにいます。しかし、きょうから、安雄さんと小さい太郎は、べつの世界にいるのです。いっしょに遊ぶことはないのです。
小さい太郎の胸には、悲しみが空のようにひろく、深く、うつろにひろがりました。
ある悲しみは、なくことができます。ないて消すことができます。
しかし、ある悲しみはなくことができません。ないたって、どうしたって、消すことはできないのです。いま、小さい太郎の
そこで小さい太郎は、西の山の上にひとつきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものを見るように、まゆをすこししかめながら、長いあいだ見ているだけでした。かぶと虫がいつか指からすりぬけて、にげてしまったのにも気づかないで||。