智慧の
相者は我を見て
今日し
語らく、
汝が
眉目ぞこは
兆惡しく
日曇る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、
疾風、
襲はぬさきに
遁れよと。
噫遁れよと、
嫋やげる君がほとりを、
緑牧、
草野の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の
綰の波を、
||こを
如何に君は聞き
判きたまふらむ。
眼をし
閉れば打續く
沙のはてを
黄昏に
頸垂れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ
獸かととがめたまはめ、
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に
一色の物憂き姿、
||よしさらば、
香の
渦輪、
彩の嵐に。
薄曇りたる空の日や、日も
柔らぎぬ、
木犀の若葉の蔭のかけ
椅子に
靠れてあれば物なべておぼめきわたれ、
夢のうちの歌の
調と
暢びらかに。
獨かここに我はしも、ひとりか胸の
浪を
趁ふ
||常世の島の島が根に
翅やすめむ海の鳥、遠き潮路の
浪枕うつらうつらの我ならむ。
半ひらけるわが心、半閉ぢたる
眼を誘ひ、げに
初夏の
芍藥の、
薔薇の、
罌粟の
美し花舞ひてぞ過ぐる、
艶だちてしなゆる色の
連彈に
たゆらに浮ぶ幻よ
||蒸して匂へる
蘂の星、こは戀の花、
吉祥の君。
時ぞともなく
暗うなる
生の

、
||こはいかに、
四方のさまもけすさまじ、
こはまた
如何に我胸の罪の泉を
何ものか
頸さしのべひた吸ひぬ。
善しと匂へる
花瓣は
徒に
凋みて、
惡しき
果は
熟えて
墜ちたりおのづから
わが
掌底に、
生温きその
香をかげば
唇のいや
堪ふまじき渇きかな。
聞け、物の音、
||飛び
過がふ
蝗の
羽音か、
むらむらと
大沼の底を
沸きのぼる
毒の
水泡の水の
面に
彈く響か、
あるはまた
疫のさやぎ、野の犬の
淫の宮に叫ぶにか、噫、仰ぎ見よ、
微かなる心の星や、
靈の日の
蝕。
淀み流れぬわが胸に
憂ひ惱みの
浮藻こそひろごりわたれ
黝ずみて、
いつもいぶせき
黄昏の影をやどせる
池水に映るは暗き
古宮か。
石の
階頽れ落ち、
水際に寂びぬ、
沈みたる
快樂を誰かまた
讃めむ、
かつてたどりし
佳人の
足の
音の歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。
花の思ひをさながらの
祷の言葉、
額づきし
面わのかげの
滅えがてに
この世ならざる
縁こそ不思議のちから、
追憶の遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき
名殘の光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。
文目もわかぬ
夜の
室に濃き愁ひもて
釀みにたる酒にしあれば、唇に
そのささやきを日もすがら
味ひ知りぬ、
わが君よ、絶間もあらぬ
誄辭。
何の痛みか柔かきこの
醉にしも
まさらむや、嘆き思ふは何なると
占問ひますな、夢の夢、君がみ
苑に
ありもせば、こは
蜉蝣のかげのかげ。
見おこせたまへ
盞を、げに
美はしき
おん
眼こそ
翅うるめる
乙鳥、
透影にして浮び
添ひ映り
徹りぬ、
いみじさよ、濁れる酒も今はとて
輝き
出づれ、うらうへに、
靈の
欲りする
蠱の露。
||いざ諸共に
乾してあらなむ。
咽び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗の
帳しなめきかかげ、かがやかに、
或日は
映る君が
面、
媚の野にさく
阿芙蓉の
萎え
嬌めけるその匂ひ。
魂をも
蕩らす
私語に誘はれつつも、
われはまた君を
擁きて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、
||君が
腕に、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
また或宵は君見えず、
生絹の
衣の
衣ずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、
茉莉花の
夜の
一室の
香のかげに
まじれる君が
微笑はわが身の
痍を
もとめ來て
沁みて
薫りぬ、
貴にしみらに。
熟えて落ちたる
果かと、
噫見よ、空に
日は
搖ぎ、濃くも
腐れし
光明は
喘ぎ黄ばみて
灣の中に
滴り、
波に
溶け、波は
咽びぬたゆたげに。
磯回のすゑの
圓石はかくれてぞ吸ふ、
飽き足らひ
耀き
倦める
夕潮を、
石の
額は物うげの
瑪瑙のおもひ、
かくてこそ
暫時を深く照らしぬれ。
風にもあらず、浪の音、それにもあらで、
天地は一つ
吐息のかげに滿ち、
沙の限り
彩もなく暮れてゆくなり。
たづきなさ
||わが魂は
埋れぬ、
こゝに朽ちゆく
夜の海の
香をかぎて、
寂靜の黒き
眞珠の夢を護らむ。
晝の
思の織り出でし
紋のひときれ、
歡樂の
緯に、苦悶の
經の絲、
縒れて亂るる
條の色、あるは叫びぬ、
あるはまた
醉ひ
痴れてこそ
眩めけ。
今、
夜の膝、やすらひの
燈の
下に、
卷き返し、その織りざまをつくづくと
見れば
朧に
危げに、
眠れる
獸、
倦める鳥
||物の
象の
異やうに。
裁ちて縫はさむかこの
巾を、
宴のをりの
身の
飾、ふさはじそれも、
終の日の
棺衣の
料、それもはた物狂ほしや。
生にはあはれ死の
衣、死にはよ
生の
空
の匂ひをとめて、
現なく、
夢はゆらぎぬ、柔かき
火影の波に。
寄せては返す浪もなく、ただ
平らかに
和みたる海にも
潮の
滿干あり、
げにその如く
騷だたぬ常の心を
朝夕に
思は溢れ、また沈む。
黄みゆく
木草の薫り
淡々と
野の原に、
將た
水の
面にただよひわたる
秋の日は、清げの尼のおこなひや、
懴悔の
壇の
香の
爐に
信の心の
香木の
膸の
膏を

き
燻ゆし、
きらびやかなる
打敷は夢の
解衣、
過ぎし日の
被衣の
遺物、
||靜やかに
垂れて音なき
繍の花、また
襞ごとに、
ときめきし胸の
名殘の波のかげ、
搖めきぬとぞ見るひまを聲は
直泣く
||看經の、
噫、秋の聲、歡樂と
悔と
念珠と幻と、いづれをわかず、
ひとつらに長き
恨の節細く、
雲の
翳にあともなく
滅えてはゆけど、
窮みなき
輪廻の
業のわづらひは
落葉の
下に、草の根に、潜みも入るや、
||その
夕、愁の雨は
梵行の
亂れを痛みさめざめと
繁にそそぎぬ。
ゆるやかにただ事もなく流れゆく
大河の水の薄濁り
||邃き思ひを
夢みつつ
塵に
同じて
惑はざる
智識のすがたこれなめり、
鈍しや、われら
面澁る
唖の
羊の
輩は
堤の上をとみかうみわづらひ
歩く。
しかすがに聲なき聲の
力足り、
眞晝かがよふ
法を
布く流を見れば、
經藏の
螺鈿の
凾の
蓋をとり、
悲願の手もて
智慧の日の影にひもどく
卷々の祕密の文字の
飜れ散る、
||げに晴れ渡る空の
下、河の
面の
紺青に
黄金の光
燦めくよ、
かかる折こそ
汚れたる身も世も
薫れ、
時さらず、
癡れがましさや、
醜草の
毒になやみて
眩き、あさり
食みぬる
貪の心を悔いてうち
喘ぎ、
深くも吸へる
河水の柔かきかな、
母の
乳、甘くふくめる悲みは
醉のここちにいつとなく
沁み入りにけり。
源は遠き
苦行の山を出で、
平等海にそそぎゆく
久遠の姿、
たゆみなく、音なく移る
流には
解けては結ぶ
無我の渦、
思議の
外なる
深海の眞珠をさぐる船の帆ぞ
今照りわたる、
||智なき身にもひらくる
心眼の
華のしまらくかがやきて、
さてこそ沈め、靜かなる
大河の胸に。
甕の水濁りて古し、
このゆふべ、
覆へしぬる、
甕の水、
惜しげなき
逸りごころに。
音
鈍し、水はあへなく、
あざれたる
溝に這ひ寄り、
音鈍し、
呟やける「夢」のくちばみ。
去ねよ、わが古きは去ねよ、
水甕の濁き底濁り、
去ねよ、わが
||噫、なべて
澱めるおもひ。
耀きぬ雲の
夕映、
いやはての甕の雫に、
耀きぬ、
||わがこころかくて驚く。
「戀」なりや、雫の珠は、
げに清し、ふるびぬにほひ、
「戀」なりや、
珠は、あな、闇きに沈む。
夜となりき、嘆くも
果敢な、
空しかる甕を
抱きて、
夜となりき、
あやなくもこころぞ渇く。
日射しの
緑ぞここちよき。
あやしや
並みたち
樹蔭路。
よろこび
あふるる、それか、君、
彼方を、
虚空を夏の雲。
あかしや
枝さすひまびまを
まろがり
耀く雲の色。
君、われ、
二人が樹蔭路、
緑の
匂ひここちよき。
軟風あふぎて、あかしやの
葉は皆
たゆげに
飜り、
さゆらぐ
日影の
朱の
斑、
ふとこそ
みだるれわが思。
君はも
白帆の
澪入りや、
わが身に
あだなる戀の
杙。
軟風あふぎて
澪逸れぬ、
いづくへ
君ゆく、あな、うたて。
思ひに
みだるる時の間を
夏雲
重げに崩れぬる
緑か、
朱か、君、あかしやの
樹かげに
あやしき胸の
汚染。
喘ぎて上るなだら坂||わが世の坂の中路や、
並樹の落葉熱き日に燒けて乾きて、時ならで
痛み衰へ、たゆらかに梢離れて散り敷きぬ。
落葉を見れば、
片焦げて

び赤らめるその
面、
端に殘れる緑にも蟲づき病める瘡の痕、
黒斑歪みて慘ましく鮮明にこそ捺されたれ。
また折々は風の呼息、吹くとしもなく辻卷きて、
燒け爛れたる路の砂、惱の骸の葉とともに、
燃ゆる死滅の灰を揚ぐ、噫、わりなげの悲苦の遊戲。
一群毎に埃がち憩ふに堪へぬ惡草は
渇をとめぬ鹽海の水にも似たり。ひとむきに
心焦られて上りゆく路はなだらに盡きもせず。
夢の萎への逸樂は、今、貴人の車にぞ
搖られながらに眠りゆく、その車なる紋章は
倦じ眩めくわが眼にも由緒ありげなる謎の花。
身も魂も頽をれぬ、いでこのままに常闇の
餌食とならばなかなかに心安かるこの日かな、
惱盡きせぬなだら坂、路こそあらめ涯もなし。
人は今地に俯してためらひゆけり、
疎ましや、
頸垂るる影を、
軟風掻撫づるひと
吹に、桑の葉おもふ
蠶かと、人は皆
頭もたげぬ。
何處より風は落つ、身も
戰かれ、
我しらず
面かへし空を仰げば、
常に飢ゑ、

きがたき心の惱み、
物の慾、重たげにひきまとひぬる。
地は荒れて、見よ、ここに「
饑饉」の
足穗、
うつぶせる「人」を
誰が
利鎌の富と
世の秋に刈り入るる、
噫、さもあれや、
畏るるはそれならで
天のおとづれ。
たまさかに仰ぎ見る空の光の
樂の海、浮ぶ日の影のまばゆさ、
戰ける身はかくて
信なき瞳
射ぬかれて、更にまた
憧れまどふ。
何處へか吹きわたり
去にける風ぞ、
人は皆いぶせくも
面を伏せて、
盲ひたる
魚かとぞ
喘げる中を
安からぬわが
思、思を
食みぬ。
失ひし翼をば
何處に得べき、
あくがるる甲斐もなきこの世のさだめ、
わが
靈は痛ましき夢になぐさむ、
わが靈は、あな、朽つる
肉の
香に。
現こそ
白けたれ、
香油の
艶も
失せ、物なべて
呆けて立てば、
夢映すわが心、鏡に似てし
性さへも、
痴けたる
空虚に病みぬ。
在るがまま、
便きなき、在るを忍びて、
文もなし、曲もなし、唯あらはなり、
臥房なき人の
生や
裸形の「痛み」、
さあれ身に惱みなし、涙も
涸れて。
追想よ、ここにして追想ならじ、
燈火の
滅えにたる過去の
火盞と
煤びたり、そのかみの物はかなさを、
悦びを、などかまた照らし出づべき。
眼のあたり佗しげの
徑の
壞れ、
悲みの
雨そそぎ洗ひさらして、
土の
膚すさめるを、まひろき空は、
さりげなき
無情さに晴れ渡りぬる。
狼尾草ここかしこ、光射かへす。
貝の殼、
陶ものの
小瓶の碎け
||あるは藍、あるは
丹に描ける花の
幾片は、朽ちもせで、路のほとりに。
靈燻ゆる海の色、
宴のゑまひ、
皆ここに
空の名や、噫、望なし、
匂ひなし、この
現われを
囚へて、
日は
檻の外よりぞ
酷くも臨む。
人の世はいつしか
たそがれぬ、花さき
香に滿ちし世も、今、
たそがれぬ靜かに。
滅えがてに、見はてぬ
夢の影、裾ひく
薄靄の眼のうち
あなうつろなるさま。
人の世の
燈火、
ほのぐらき
樹の間を、
わびしらに嘆くか、
燈火の
美鳥。
母の鳥
||天なる
日のゆくへ慕ひて
泣きいさち嘆かふ
聲のうらがなしさ。
燈火のうま鳥、
うらぶれの
細音に
かずかずの
念の
珠をこそ聞け、今。
闇墜ちぬ、にほひも
はた色もひとつの
音に添ひぬ、燈火
遠ながき笛の
音······向日葵の
蘂の粉の
黄金にまみれ、
あな、夕まぐれ、
朽ちはつる草びらや、
草びらは唯わびしらに。
この夕、雲
明き空には夏の
あな、
榮もあれ、
薄ぐらき物かげを
草びらは終りの
寢所。
誓願は
向日葵に
||菩提の東、
あな、
涅槃の西、
宿縁は草びらに、
草びらは靜かに
默す。
向日葵は蘂の粉の黄金の雨の
あな、涙もて
朽ちはてて
壞れゆく
草びらの胸を掩ひぬ。
椶櫚の葉音に暮れてゆく夏の夕暮、
たゆまるる椶櫚のはたはた、
裂葉よ、あはれ莖長く葉末は折れて垂れ顫へ、
天に捧げし掌、||絶入の悶え。
さもこそあらめ、淨念の信士その人、
孤獨なる祈誓に喘ぎ、
胸に籠めたる幻を雲に痛みて、地のほめき||
そをだに香の燻ゆるかと頼めるけはひ。
偉なるかな空の宵、天の廣葉は
圓かにて、呼息ざし深く、
物皆かげに搖めきて暗うなる間を明星や、
見よ、永劫の嚴の苑、光のにほひ。
ここにては、噫、晝の濤、夜の潮と
捲きかへるこころの鹹さ、
信の涙か、憧憬の孤寂の闇の椶櫚の花
幹を傳ひてほろほろと根にぞこぼるる。
紺瑠璃の
潮滿ちに、
渚の
縁さへも
ひびわれむばかりや。
風は
和ぎ、
浪は伏す
深海、
天津日は
輝きぬ、まどかに。
いづこをか
もとめゆく、この時、
船の帆よ、
徐に、
彼方へ。
幸か、船、
帆章は
判たね、
||生もはた
死の如し、この時。
あまりにも
足らひたり、
海原、
靜けさは
嵐にも似たりや。
天津日は
うるほひて、日の
暈、
暈の
環を
虹もこそ
彩なせ。
紺瑠璃の
潮熟みて浸しぬ、
素胎には
あらぬ海、なじかは
······素胎には
あらぬ海、
不祥の
兒や
生るる、
||虹の色かつ
滅ゆ。
幸か船、
帆じるしは
判たね、
いづこをか
もとめゆく、この時。
光のとばりぎぬ
ゆららに風わたる。
まひろく、はた青き
皐月の空のもと。
いのちの
一雫めぐみぬ、わが胸の
階、かぎろひを
きざめるそのほとり。
めぐみぬ、花さきぬ、
耀よふ玉の
苑、
かすかに花くんじ、
かすかにくづれゆく。

はゆるやかに
うつりて、
階を
垂れ曳く
丈の髮、

ぞ夢みぬる。
さもあれ戀の、
嗚呼、
みなしご
||わが
魂は
いのちの花かげに
痛みて聲もなし。
薄ぐもる夏の日なかは
愛欲の
念にうるみ
底もゆるをみなの
眼ざし、
むかひゐてこころぞ惱む。
何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
執ふかきちからは、やをら、
重き世をまろがし移す。
窓の
外につづく草土手、
きりぎりす氣まぐれに鳴き、
それも今、はたと聲絶え、
薄ぐもる日は蒸し淀む。
ややありて
茅が根を
疾く
青蜥蜴走りすがへば、
ほろほろに乾ける土は
ひとしきり崖をすべりぬ。
なまぐさきにほひは、池の
上ぬるむ
面よりわたり、
山梔の花は
墜ちたり、
||朽ちてゆく「時」のなきがら。
何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
眼のあたり融けてこそゆけ
夏の雲、
||空は汗ばむ。
柔らかき苔に嘆かふ
石だたみ、今眞ひるどき、
たもとほる清らの秋や、
しめやげる
精舍のさかひ。
並び立つ
樅の
高樹は、
智識めく影のふかみに
鈍びくゆる紫ごろも、
合掌の姿をまねぶ。
しめやげる精舍のさかひ、
||石だたみ音もかすかに
飜る落葉は、夢に
すすり泣く
愁のしづく。
かぎりなき秋のにほひや、
白蝋のほそき
焔と
わがこころ、今し、
靡かひ、
ふと花の色にゆらめく。
花の色
||芙蓉の
萎へ、
衰への
眉目の
沈默を。
寂の露しみらに
薫ず、
かにかくに薄きまぼろし。
しめやげる精舍に秋は
しのび入り
滅え入るけはひ、
ほの暗きかげに
燦めく
金色のみ
龕の光。
傳へ聞く彼の切支丹、古の惱もかくや||
影深き胸の黄昏、密室の戸は鎖しもせめ、
戰ける想の奧に「我」ありて伏して沈めば、
魂は光うすれて塵と灰「心」を塞ぐ。
懼しき「疑」は、噫、自の身にこそ宿れ、
他し人責めも來なくに空しかる影の戲わざ、
こは何ぞ、「畏怖」の黨群れ寄せて我を圍むか。
脅す假裝ひに松明の焔つづきぬ。
聖麻利亞、かくも弱かる罪人に信の潮の
甦り、かつめぐり來て、「肉」の渚にあふれ、
俯伏に干潟をわぶる貝の葉の空虚の我も
敷浪の法喜傳へて御惠に何日かは遇はむ。
さもあれや、わが「性欲」の里正は窺ひ寄りて、
禁制の外法の者と執ねくも罵り逼り、
ひた強ひに蹈繪の型を蹈めよとぞ、あな淺ましや、
我ならで叫びぬ、『神よ此身をば磔にも架けね』と。
硫黄沸く煙に咽び、われとわが座より轉びて、
火の山の地獄の谷をさながらの苦惱に疲れ、
死せて又生くと思ひぬ、||夢なりき、夜の神壇、
蝋の火を點して念ず、假名文の御經の祕密。
待たるるは高き洩るる啓示の聲の耀き、||
信のみぞ其證人、罪深き内心ながら
われは待つ、天主の姫が讃頌の聲朗かに、
事果て、『汝を恕す』と宣はむその一言を。
陰濕の「
嘆」の窓をしも、かく
うち
塞ぎ眞白にひたと塗り
籠め、
そが上に垂れぬる
氈の
紋織、
||朱碧まじらひ匂ふ
眩ゆさ。
これを見る
見惚けに心
惑ひて、
誰を、
噫、
請ずる
一室なるらむ、
われとわが
願を、望を、さては
客人を思ひも出でず、この宵。
唯念ず、しづかにはた
圓やかに
白蝋を
黄金の臺に
點して、
その
焔いく重の輪をしめぐらし
燃えすわる夜すがら、われは
寢ねじと。
徒然の
慰さに愛の
一曲奏でむとためらふ思ひのひまを、
忍び寄る影あり、
誰そや、
||畏怖に
わが脈の
漏刻くだちゆくなり。
長き夜を
盲の「
嘆」かすかに
今もなほ
花文の
氈をゆすりて、
呼息づかひ
喘げば盛りし
燭の
火影さへ、
益なや、しめり
靡きぬ。
癡れにたる夢なり、こころづくしの
この
一室、あだなる「
悔」の
蝙蝠氣疎げにはためく
羽音をりをり
音なふや、
噫などおびゆる
魂ぞ。
やはらかき
寂びに輝く
壁の
面、わが
追憶の
靈の宮、
榮に飽きたる
箔おきも
褪せてはここに
金粉の
塵に音なき
滅の
香や、
執のにほひや、
幾代々は影とうすれて
去にし日の吐息かすけく、
すずろかに
燻ゆる命の
夢のみぞ
永劫に
往き
來ひ、
ささやきぬ、はた嘆かひぬ。
あやしうも光に沈む
わが胸のこの壁の
面、
惱ましく
鈍びては見ゆれ、
倦じたる影の深みを
幻は浮びぞ迷ふ、
||つややかに、今、
緑青の
牧の
氈、また
紺瑠璃の
彩も濃き花の
甘寢よ、
更にわが思ひのたくみ、
われとわが
宿世をしのぶ
醉ごこち、
痴れのまどひか、
眼のあたり
牲の
仔羊、
朱の
斑の
痛と、はたや
愛欲の甘き疲れの
紫の
汚染とまじらふ
業のかげ、
輪廻の
千歳、
束の間に
過がひて消ゆれ、
幾たびか
憧がれかはる
肉村の
懴悔の夢に
朽ち入るは
梵音どよむ
西天の
涅槃の教
||埋れしわが
追憶や。
わづらへる胸のうつろを
煩惱の色こそ通へ、
物なべて
化現のしるし、
默の華、
寂の
妙香、
さながらに痕もとどめぬ
空相の
摩尼のまぼろし。
底の底、夢のふかみを
あざれたる
泥の
香孕み、
わが
思ふとこそ浮べ。
浮
のおもひは夢の
大淀のおもてにむすび、
ゆららかにゑがく渦の輪。
滯る
銹の緑に
濃き夢はとろろぎわたり、
呼息づまるあたりのけはひ。
涯もなく、限も知らぬ
しづけさや、
||聲さへ朽ちぬ、
あなや、この物うきおそれ。
浮
はめぐりめぐりぬ、
大淀のおもてに
鈍びて
たゆまるる渦の輪のかげ。
物うげの夢の深みに
魂の
失せゆくひまを、
浮
のおもひは
破れぬ。
朽ちにたる聲張りあげて
わがおもひ叫ぶとすれど、
空し、ただあざれしにほひ。
涯もなきこの靜けさや、
めくるめくおそはれごこち、
涯もなき夢のとろろぎ。
なべてのうへに灰いろの
靄こそ
默せ、日の
終、
その灰いろに
彩といふ
彩の
喘ぎを聞くごとし。
冷たく重き冬の靄、
あな、わびしらや、戀も世も
宴も人もひと色に、
信も迷も身も
靈も。
死の林かとあらはなる
木立の枝のふしぶしは
痛みぬ、風に
||悔の音、
執着の靄灰色に。
過ぎ去りし日の過ぎもかね、
忘れがてなるわが
思、
朧のかげのゆきかひに
をののかれぬる冬の靄。
迷ひぬ、ふかき「にるばな」に、
たわやの髮は身を捲きぬ、
たゆげの
夜を
煩惱は
狎れてむつみぬ、「にるばな」に。
壁にゑがける
執の花
||閨の
一室の濃きにほひ、
奇しき花びら、花しべに、
火影も、
嫉し、たはれたる。
夢の
私語、たわやげる
瑪瑙の
甘寢、「にるばな」よ、
艶も
貴なる敷皮に
嫋びしなゆるあえかさや。
愛欲の
蔓まつはれる
窓の夜あけを
梵音に
祕密の
鸚鵡警めぬ、
||ああ「にるばな」よ、
曉の星。
鏡は曇る、
薫香に
まじる
一室の
呼息ごもり、
鏡は晴れぬ、影と影、
覺めし
素膚にわれ迷ふ。
日は嘆きわぶ、人知れず、
日は荒れはてし花園に、
||花の幻、
陽炎や、
あをじろみたる
昨のかげ。
日は
直泣きぬ、花園に、
||種子のみだれの
穎割葉、
またいとほしむ、
何草の
かたみともなき穎割葉。
廢れ
荒みしただなかに
生ひたつ歌のうすみどり、
ああ、
穎割葉、
百の種子
ひとつにまじる
香の雫。
斑葉の蔓に
罌粟の花、
醉のしびれの
盞を
われから
賞でむ
忍冬||種子のみだれを、日は嘆く。
沙は
燬けぬ、
蹠のやや痛きかな、
渚べの慣れし
巖かげに身を
避けて、
磯草の
斑に敷皮の
黄金をおもひ、
いざここに限りなき世の夢を見む。
藍や
海原、
白銀や風のかがやき、
||眼路の涯絶えて
翳らふものもなく、
ひろき潮に浮び來て帆ぞ照りわたる
遠の船、さながら
幸の
盞と。
なべての人も我もまた絶えず愁へて
渚べを
美し
醉ならぬ
癡れ惑ひ、
どよもし返す浪の音、海の胸なる
言の
葉に暗き思ひを
溺らしぬ。
今日や夢みむ、
幽玄の
象をしばし、
心やすし、愁ひは
私に這ひ出でて、
海知らぬ國、
荒山の
彼方の森に、
人住まぬ
眞洞覓めて行きぬらむ。
さもあらばあれ
如何せむ、心しらへの
益なさを
嘲み顏なる
薫習や、
劫初の朝の森の
香はなほも殘りて
染みぬらし、わが
素膚なる
肉に。
更にたどれば神の
苑、
噫そこにしも
晶玉は活きていみじく歌ひけめ、
木の葉
囁き苔
薫じ、われも
和毛の
おん惠み、深き日影に
臥しけめ。
なべては
壞れ亂されき、人と生れて、
爭ひて、海の
邊に下り來ぬ、
なべては
破れし
榮の屑、(顧みなせそ)
人は皆ここに
劃られ、あくがれぬ。
大和田の原、天の原、
二重の
帷徒らにこの
彩もなき世をつつみ、
風の光の
白銀に、潮の藍に、
永劫は
經緯にこそ織られたれ。
||幽玄の夢さもあらめ、待つに甲斐なき
現し世に救ひの船は通ひ來ず、
(帆は照せども)、身は疲れ、崩れ崩るる
浪頭、
蠱の羽とぞ飜る。
虚の
靈は涯知らぬ淵に浮びて、
身はあはれ
響動す海の渚べに、
||またも此時わが愁、森を出でたる
獸かと
跫音忍びかへり來ぬ。
ひき
潮ゆるやかに、
見よ、ひきゆくけはひ、
堀江に船もなし、
船人、船歌も。
濁れる
鈍の
水脈くろずむひき
潮に、
堀江のわびしらや、
そこれる
水脈のかげ。
さびしき
河岸の上
うごめく
海蛆の
あな、身もはかなげに
怖ぢつつ夢みぬる。
慕はし、海の
香の、
||風こそ通へ、今、
曇りてなよらかに
こもりぬ、海の
香は。
濁れる堀江川
くろずむ
水脈のはて、
入海たひらかに
かがやく
遠渚。
かなたよ、海の姫、
鴎か舞ひもせむ、
身はただ
海蛆の
怖ぢつつ
醉ひしれぬ。
ひき
潮いやそこり
黒泥の
水脈の底、
堀江に船も來ず、
ましてや
水手の歌。
大鋸をひくひびきはゆるく
ひとすぢに呟やくがごと、
しかはあれ、またねぶたげに。
いや蒸しに夏のゆふべは、
風の
呼息暑さの淀を
練りかへすたゆらの浪や。
河岸にたつ
材小屋のうちら、
大鋸をひく鈍きひびきは
疲れぬる惱みの齒がみ。
うら、おもて、
材小屋の戸口、
||生あをき水の
香と、はた
あからめる埃のにほひ。
幅びろの
大鋸はうごきぬ、
鈍き音、
||あやし
獸の
なきがらを
沙に
摩るか。
はらはらと血のしたたりの
おがの屑あたりに散れば、
材の
香こそ深くもかをれ。
大鋸はまたゆるく動きぬ、
夕雲の照りかへしにぞ
小屋ぬちはしばし燃えたる。
大鋸ひきや、こむら、ひかがみ、
肩の
肉、
腕の筋と、
まへうしろ、のび、ふくだみて、
素膚みな汗に
浸れる
このをりよ、
材の
香のかげに
われは聽く、
蝮のにほひを。
夜の闇這ひ寄るがまま、
大鋸ひきは大鋸をたたきて、
たはけたる歌の
濁ごゑ。
夜も日もわかず一室は、げに畏しき電働機の
聲の唸りの噴泉よ、越歴幾の森の木深けさや、
うちに靈獸潜みゐて青き炎を牙に齒めば、
ここに「不思議」の色身は夢幻の衣を擲ちぬ。
かの底知れぬ海淵も、この現實の祕密には
深きを比べ難からむ、彼は眠りて寢おびれて、
唯惡相の魚にのみ暗き心を悸かし、
これは調和の核心に萬法の根を誘ふなる。
舊きは廢れ街衢、また新しく榮ゆべき
花の都の片成りに成りも果てざる土の塊、
塵に塗るる草原の、その眞中に畏しき
大電働機の響こそ日も夜もわかね、絶間なく。
船より揚げし花崗石河岸の沙に堆し、
いづれ大厦の礎や、彼方を見れば斷え續く
煉瓦の穹窿。人はこの紛雜の裡に埋れて
(願はあれど名はあらず)、力と技に勵みたり。
嗚呼、想界に新なる生を享くる人もまた
胸に轟く心王の烈しき聲にむちうたれ、
築き上ぐべき柱には奇しき望の實相を
深く刻みて、譽なき汗に額をうるほさむ。
さあれ車の鐵の輪、軸に黄金のさし油
注げば空を疾く截りて大音震ふ電働機や、
その勢の渦卷の奧所に聽けよ靜寂を、||
活ける響の瑠璃の石、これや「眞」の金剛座。
奇しくもあるかな、蝋石の壁に這ひゆく導線は
越歴幾の脈の幾螺旋、新なる代に新なる
生命傳ふる原動の、その力こそ淨妙華、
法音開く光明の香ぞ人に逼り來る。
靜かに眠りて、寢魂の夜の宮にも事あらで、
いと爽らかに青みたる晨に寤め、見かへれば、
傴僂に似たる「昨」の日は過ぎゆく「時」の杖に縋り、
何方去にけむ、思ひ屈して惱みし我も心解けぬ。
零れし
種子の
奇しきかな、
我生荒める

にだに
惠み齎らす「信樂」の朝の一つや、何物も
これには代へじ、「慈悲」の御手は祕むれど、銀の衡、
金の秤目、その極の星にかかれる身の錘。
實に靜まれる日の朝け、曾て覺えぬ悦に
痩屈み冷えしわが胸は、雪消に濕り、冬過ぎて、
地の照斑と蒲公英の花、芽ぐむ外の面のつつましき
春さながらの若萌にきざす祈誓ぞほのかなる。
何とはなしに自ら耳を澄せば遠方に
浪どよみ風の戰めける音をし尋むる心地して、
憧がれわたる窓近く小鳥轉じてまぎれむと
惧るる隙に聞きわきぬ、過去遠々の代をここに。
かくて浮ぶるわが「宿世」、瞳徹れる手弱女の
頸をめぐる珠飾、譬へばそれが、鳴響き、
瑠璃はささやく紅玉に、(さあれ苦の緒の一聯)、
緑に將や紫に、愛の、欣求の、信の顆。
げにこの朝の不思議さを翌の夕にうち惑ひ、
わが身をさへに疑はば、惡風さらに劫の火を
誘ひて行手塞ぎなば、如何はすべき、弛まるる
腕は渇く唇に淨水掬ぶ力なくば。
あるは曲れる「癡」の角にいと鈍ましき「慾」の牛、
牧場に足らふ安穩の命に倦みて、すずろかに
埓のくづれを踰えゆかば、星も照らさぬ夜の道、
後世の善所を誰かまた鞭うち揮ひ指ししめす。
あるは木強の本性に潜む蠻夷の幾群の
集ふやとばかり、われとわが拓かぬ森の下蔭に
思ひ惑ふや、襲ひ來る彼の殘逆の矛槍を
血ぬらぬ前に淨めなむ心しらへのありや、否。
悲願の尊者、諸菩薩よ、ただ三界に流浪する
魂を憐み御心にかけさせたまへ、ゆくりなく
煩惱盡きし朝に遇ひて、今日を捨身の首途や、
遍路の旅に覺王の利生をわれに垂れたまへ。
汗あゆる日も
夕なり、
空には深き
榮映の
褪せゆくさまのはかなさは
沙に
塗るる
彩の波、
||色うち沈む「西」の
湫や、
黄なる牛か、雲群れぬ、
角にかけたる
金環倦じくづるる
音のたゆげ。
ここには森の木の
樹立、
暗き緑に紫の
たそがれの
塵降りかかり、
塵は
遽かに
生を得て、
こは
九萬疋の闇の羽、
微かにふめき、蔭に蒸し、
葉うらを
繞り、枝々を
流れてぞゆく「
夜」の巣に。
夏の夕暮、いぶせさや、
不淨のほめき、
濕熱に
釀す
瘟疫、
瘧病の、
噫、こは森か、こぶかげに
將た音もなきさまながら、
闇にこもれる幹と枝、
尖葉、廣葉、しほたれ葉、
噫、こは森か、「惡」の
祕所。
火照の
天の
最後の
光
咀ひて、
斑猫は
世をば
惑はす
妖法の
尼にたぐへるそのけはひ、
靜かに浮び消え去りぬ、
彼方、道なき
通の奧、
生あるものの
胤を
食む
蛇纒ふ「肉」の
廳。
黄泉路とばかり、「惡」の
祕所、
蔓草
絡むただなかに、
なべては
腐れ朽ちゆけど、
樹の幹を
沸く
脂の膸
薫陸とこそ、この時よ、
滴り
凝りて、
穢れたる
身よりさながら
淨念の
泌み出づるごと薫るなれ。
物皆さあれ
文もなく
暮れなむとする
夜の
門、
黒白の
斑の
翅うち
はためきめぐる
蛾、
見る眼も
迫かれ、安からぬ
思ひもともにはためきぬ、
かくて
不定の世もここに
闇の境にはためきぬ。
皐月を
溝の
穢れ水
かぐろみ蒸して
沸きそふや、
小舍、
廢屋のかたかげに
草どくだみは(花白き
單瓣ぞ
四片)、朝ゆふべ、
朽木を出でて日に
障る
羽蟻の
骸の墓どころ、
暗きにほひにしたしみぬ。
いかなる罪の
凶會日に
結びそめたる種ならむ、
花どくだみや、
統譜の
系をたださば、こは
刹利、
須陀羅にあらぬさまかたち、
||花の四
片は
白蓮華、
葉はまろらかに、さはあれど
色のおもてぞ濁りたる。
穢れて
臭き
醜草の、
その
類葉のひとつには
誰が教へけむ、去りあへぬ
怨嫉の鬼根に
纒ひ、
生ひかはる芽を
咀ふにか、
これや
曼陀羅に織り入れて、
淨土をしめす
實相の
花ともなさむ
本來の性。
噫、
眇目の
陰陽師、
古りし「
烏」にまかせなむ、
過去にうけにしどくだみの
占に知らるる
業の
象。
正眼に見れば、道を得て、
ひとり罪負ふ
法類や
花には
蘂ぞ輝ける、
闇きを照らす火の匂ひ。
寶鐸のこゑ曇りたる
皐月にこもり、刻々の
「死」は物かげに降り
濺ぎ、
膿わく溝の
穢れ水、
朽木を出でて日に
障る
羽蟻は
骸を、どくだみの
(
單瓣四片の
白蓮華)、
花に足らへる
奧津城に。
よろこびぬ、
倦みぬ、
爭ひぬ、厭きぬ。
生命の根白く
死の
實こそにほへ。
眠なり、つえぬ、
墮ちぬまを吸ひぬ。
ここよりは
路もなし、
やすし、はた
路の
岐も。
蒼白き
啜泣き、
聲
罅くゑまひの
狹霧。
魂と魂あひ寄るや、
寂寞の、あはれ、
晶玉。
死はなべて
價のきはみ、
得難しや、されど
終には。
人々よ、
奧津城の冷たき
碣を、
われを、いざ、
蹈みて立て。
烏許の
輩、
盲ひたり、
躓かめ、
將來遠く
つづきたる
階の、われも
一段。
肉は、靈は、
二つのちから、
生は、死はよ、
眞砥の
堅石、
研きいづれ、
摩尼の
金剛。
あざれし肉
「神」の
牲。
虚しき
靈「
蝮」の
智。
肉の肉を
われは今おぼゆ。
覺めよ、「人」は
靈の靈。
ゆをびぬる
日南のかをり、
かかる日を冬もこそゆけ、
柔らげる物かげの雪、
枝ゆらぐ垣のいちじゆく。
かかる日を、
噫、かかる日を
待ちわびぬ、わびしきわが世、
寂寞の胸の
日南を
ゆをびぬる思ひのかをり。
幽かにも
水沼の
遠を
水禽の
羽音の
調。
ひときほひ、嵐はまたも
青空の淵にすさべば
その
面は
氷の泡だちて
銀の色に
燦めく。
冬はいま
終のいぶきか、
常盤木は深くをめきぬ、
いちじゆくの枝はたゆらに
音無の夢のさゆらぎ。
かくて後、時の靜けさ、
かかる日を冬もこそゆけ、
春の
酵母||雪のしたみに
かぐはしの思ひは
沸きぬ。
しかすがに
水沼のあなた、
水禽の
羽音のわかれ。
遠方の
樹立に、あはれ、
皐月雨煙れる奧に、薄き日は
射すともなしに
漲りて
緑に浮び
霑へる
黄金のいぶき。
わが道は雨の中なり、
汗ばめる額を吹きて
軟風は
蒸しぬ、
||心の惱ましさ、
雨に濡れたる
礫みち、色蒼白く。
熟々と
彼方を見れば
金蓮の光を刻む
精舍かと、
夢も明るき森つづき、
||さあれ、ここは長坂の下りぞ暗き。
わが道は
溝に沿ひたり、
その溝を水は濁りぬ、をりをりは
泥に
塗れし
素足して
賤しきものの
過がひゆく
醉ひしれざまや。
ここにこそ
幽鬱はあれ、
かたへなる蔭に
一樹の
橡若葉、
廣葉はひとり曇りなく、
雨も緑に、さと
濺ぎ、たたと
滴る。
雲は今たゆらにわたる、
ああ
皐月、
||雲の
麝香よ、
麥の
香もあたりに
薫ず、
麥の香の
波折のたゆた。
日は
醉ひぬ、緑は蒸しぬ、
ゆをびかに野はうるみたり、
揚雲雀||阿剌吉のみ
魂、
軟風や
輕き舞ぎぬ。
見よ、
瑞枝、若葉のゆらぎ、
ゆらめける梢のひまを
青空や
孔雀の
尾羽、
||數の珠、
瑠璃のつらなみ。
皐月野の胸のときめき
||節ゆるきにほひの歌ぞ
日に蒸して、緑に
醉ひて、
たよたよと傳ひゆきぬる。
ささやきて
去にける影や、
盞にしたみし酒は
(飮みさしぬ)、あはれ惱まし、
澁りたる
愁に濁る。
ささやきて
去にける影や、
おとづれも今はた絶えぬ、
ほど過ぎて風もあらぬに
ひえびえと
膚粟だつ。
うらがれの園にしとれる
石づくゑ、
琢ける
面の
薄鈍み曇るわびしさ、
||「
歡樂」は待てどかへらず。
雲は、見よ、空のわづらひ、
吹き棄つる命のかたみ
||「
悲」の
螺かとばかり
晝の月、
痕こそ痛め。
かくてまた薄らぎ弱る
日のひそみ、風のおとろへ、
黄に
默す
公孫樹の、はたや
灰ばめる
楊の落葉。
一叢の
薔薇は、かしこ、
凋みゆく花の
褪色、
くづをるる埋れこころぞ
土の
香の
寂れは咽ぶ。
空だのめ、何をかは待つ、
||いつしかに
日和かはりて
雨もよひ、やや蒸しぬれば、
秋は今ふとき
呼息しぬ。
わりなくも聲になやめる
盞の
玻璃の嘆きと
うつろへる
薔薇の歌と、
かかる日を
名殘のしらべ。
華やかに夕日は、かしこ、
矛杉を、
檜のつらなみを、
華やかに映しいでたる。
(見よ、空の
遠、
夕暮かけて雲すきぬ。)
なからより上を木の幹、
叢葉こずゑ、ふとあからかに、
なからより
樹のもと暗く。
(今、空のうへ
冬をなやらふ風のおと。)
夢なりや、木々のいただき、
仰ふぐ
眼に瞳ぞ歌ふ、
夢なりや、夢のかがやき。
(雲と風とは
春を迎ふる夕あらび。)
わが脚は冷たき
地に
うゑられぬ、をぐらき惱み、
わが脚は重し、たゆたし。
|| 冷たき
地は
遁れもえせぬ「死」の
獄。
かぐよへるめぐみのかげに
冥をぬく「おもひ」の
上枝、
かぐよへる
天のみすがたや。
|| めぐみのかげは
闇の
絃彈く
序のしらべ。
歡喜のまぢかしや、わが
望の
苑、光の
流、
歡喜の
朝をまため。
|| まぢかしや、それ
夜は
荒ぶとも、
喘ぐとも。
うつつなる春に遇ひなば
甲の黄や、乙の紫、
うつつなる夢にわが身も、
|| あはれ身はまた
魂の
常磐にしたしまむ。
翌となり、今日のうれひを
琴のすみれ、
箜篌のもくれん、
翌となりて興じいでなば、
|| さらばこころは
いかが
燻らむ、
追憶に。
闇おちぬ、今はた空し、
世や、われや、ただひとつらに、
闇おちぬ、闇のくるめき、
|| かくて望の
緒をこそまどへ、絶えにきと。
やまうどは微かに
呻く、わなわなと
胸にはむすぶ
雙の手や、
をみなよ、その手を
······やまうどは寢がへるけはひ。
やまうどの枕を暗く寂しげに
燈火くもる
夜の
室、
をみなよ、照らしぬ
······やまうどは汗す、額に。
やまうどは何をかもとむ、
呼息づかひ
いと苦しげに呟やける、
をみなよ、聞け、問へ
······やまうどの唇
褪せぬ。
やまうどの
眼は
轉び沈み入り、
さしめぐらしき惱ましさ、
をみなよ、靜かに
······やまうどに
夜の
氣熟みぬ。
やまうどは
落居ぬ
眠り、
蟀谷の
脈びよめきて、また
弛ぶ、
をみなよ、あな、あな
······やまうどの
面ほほゑむ。
やまうどをこの束の間に、(その人の
妻たる
三年)、いかに見る、
をみなよ、畏れな
······やまうどの夢は
罅きぬ。
やまうどの枕をかへよ、
舊りぬるも
なほ新たなる布ありや、
をみなよ、いづくに
······やまうどに
燈火滅えぬ。
『火はいづこぞ』と
女の
童、
||『見よ、
伽藍ぞ』と子の母は、
||父は『いぶかし、この
夜に』と。
(鐘は鳴り出づ、
梵音に、
|| 紅蓮のひびき。)
『伽藍のやねに火ぞあそぶ、
ああ鳩の火か、
焔か』と、
つくづく見入る
女の
童。
(鐘は叫びぬ、梵音に、
|| 無明のあらし。)
『火は火を呼びぬ、今、
垂木、
今また
棟木、
||末世の火、
見よ』と父いふ、『皆火なり。』
(鐘はとどろく、梵音に、
|| 苦熱のいたみ。)
『火はいかにして
莊嚴の
伽藍を燒く』と子の母は、
||父は『いぶかし
誰が
業』と。
(鐘は嘆きぬ、梵音に、
|| 癡毒のといき。)
『
焔は流れ、火は湧きぬ、
ああ鳩の巣』と
女の
童、
||父は『燒くるか、人の巣』と。
(鐘はふるへぬ、梵音に
|| 壞劫のなやみ。)
『焔の
獅子座火に
宣らす
如來の
金口われ聞く』と、
走りすがひて叫ぶ人。
(鐘はわななく、梵音に、
|| 虚妄のもだえ。)
『火は内よりぞ、佛燈は、
末法の世か、佛殿を
燒く』と、
罵り
謗る人。
(鐘はすさみぬ、梵音に、
||
嵐のいぶき。)
『
鐘樓に火こそ移りたれ、
今か、今か』と、狂ふ人、
||『鐘の
音燃ゆ』と女の童。
(鐘は絶え入る。梵音に、
|| 無間のおそれ。)
『母よ、明日よりいづこにて
あそばむ』と、また女の童、
||母は『
猛火も沈みぬ』と。
(鐘は殘りぬ、梵音に、
|| 欲流のしめり。)
『父よ、わが鳩燒け失せぬ、
火こそ
嫉め』と女の童、
||父は『遁れぬ、後追へ』と。
(鐘はにほひぬ、梵音に、
|| 出離のもだし。)
いと
小さき窓
晝も
夜も絶えずひらきて、
劃られし
水の
面の
たゆたひをのみ
倦じたるこころにしめす。
淀める沼か、
大河か、はたや入江か、
水の
面の
一片を、
何は知らねど、
絶間なくながめ入りぬる。
蒼白く照る
波の
文、文は
撓みて
流れ去り、また
疊む
數のすがたは
一々に祕密の
意。
しかはあなれど
何事もわれは
解し得ず、
晝は見て、夜想ふ、
その限りなさ、
いつまでか斯くてあるべき。
わが
魂を
解き
放て、見るは
崇高き
天ならず、
地ならず、
ただたゆたへる
水の
面、昨日も今日も。
世をば照らさむ
不思議はも耀き出でねと
待ちければ、こはいかに、
わが魂か、
白鵠は水に映りぬ。
哀しき鳥よ、
牲よ、知らずや、波は、
今、
溶けし
焔なり、
白き
翅も
たちまちに燒け
失せなんず。
聞け、高らかに
聲
顫へ、『父、子、み
靈に
み榮のあれよ』とぞ
讃めし
聖詠、
臨終なる鳥の惱みに。
わが身はかかる
ありさまに眼をしとづれば、
まだ響く、『みさかえ』と、
||窓の
外を、そと、
見やる時、こは
天あらめ。
夕の空か
水の
面、こは
天ならめ、
浮べたる榮光に
星は耀く、
しかすがにうら寂しさよ。
われと
嘲みて
何ものかわれに
叛きぬ、
暗き
室、
小さき窓、
倦みて夢みし
信の夢、
||それも
空なり。
(妻をさきだてし人のもとに)
「おもひで」よ、
淨き油を
汝が手なる
火盞に注ぎ捧げもち、淨き焔の
あがる時、
噫、亡き人の面影を
夫の君のため、母を呼ぶ
愛し
兒のため、
ありし世のにほひをひきて照らし出で、
かへらぬ
魂をいとどしく
悼める窓の
小暗さに慰め人と添へかしな、
慈眼の
主はこれをこそ
稱へもすらめ。
「おもひで」よ、なほ
隈もなく、
汝が胸の
こころの
奧所ひらくべき
黄金の鍵を、
悲みにとこしへ朽ちぬしるしありと、
音も
爽かにかがやかに捧げまつりね。
眞晝時とぞなりにける、あるかなきかの
軟風もいぶき絶えぬる
日盛や、
野のかたを見やればひとつ鐘のかげ、
うねりつづける生垣の圍ひの
隙を
軒低き
鄙の
家白くかつ照りつ、
壁を背に
盲の
漢子凭りかかり、
その
面をば振りかへし日にぞあてたる。
停り
足掻く旅の馬、土蹴る音は
緩やかに堅し、輝く光こそ
歌ふらめ、歌あひのしじま長きかな、
眞晝は脚を休めつつ、ひとつところに、
かにかくに
過ひ去ぬべきさまもなく、
濃き空の色はかなたにうち
澱み、
暑さはたゆき夢
載せて重げに蒸しぬ。
ロセチ白耳義旅中の吟
深き眞晝を
弗拉曼の
鄙の路のべ、
いつきたる
小き
龕の
傍へ過ぎ
窺へば
懸け
聯ねたる畫の中に、
聖母は御子の寢すがたを
擁きたまへり
羊を飼へる
少女らは羊さし
措き、
晴れし日の
謝恩やここにひざまづく、
はたや日の夕もここにひざまづく、
悲しき
宿世泣きなむも、はたまたここに。
夜も更けしをり、同じ路、同じ
龕の
かたへ過ぎ、見ればみ
燈ほのめきて
如法の闇の寂しさを
耀き映す、
かくも命の
温み冷え、疑ひ胸に
燻る時、「信」のひかりをひたぶるに
頼め、その影、あるは
滅え、あるは照らさで。
ロセチ白耳義旅中の吟
泥沙坡とよ、
巴比崙よ、花の都に住みぬとも、
よしやまた
酌む
杯は
甘しとて、
苦しとて、
絶間あらせず、命の酒うちしたみ、
命の葉もぞ散りゆかむ、
一葉一葉に。
朝毎に
百千の薔薇は咲きもせめ、
げにや、さもあれ、
昨日の薔薇の影いづこ、
初夏月は薔薇をこそ咲かせもすらめ、ヤムシイド、
カイコバアドの
尊らのみ命をすら惜しまじを。
逝くものは逝かしめよ、カイコバアドの
大尊、
カイコスル
彦、何はあれ、
丈夫ツアルもルスツムも誇らば誇れ、
ハチム王
宴ひらけよ
||そも何ぞ。
畑につづける
牧草の野を、いざ共に
その野こえ
行手沙原、そこにしも、
王は、
穢多はの
差別なし、
||金の座に
安居したまへマアムウド。
歌の
一卷樹のもとに、
美酒の
壺、
糧の山、さては
汝が
いつも歌ひてあらばとよその
沙原に、
そや、沙原もまたの天國。
賢し教に
智慧の
種子播きそめしより
われとわが手もておふしぬ、さていかに、
收穫どきの
足穗はと問はばかくのみ
||『水の
如われは來ぬ、風の如われぞ
逝く。』
オマアカイアム
さ
蠅よ、あはれ、
わがこころなき手もて、今、
汝が夏の
戲れを
うるさきものに打拂ふ。
あらぬか、われや
汝に似たるさ蠅の身、
あらぬか、汝、さらばまた
われにも似たる人のさま。
われも舞ひ、飮み、
かつは歌へども、
終の日や、
差別をおかぬ闇の手の
うち拂ふらむ、わが翼。
思ひわかつぞ
げにも命なる、力なる、
思ひなきこそ
文目なき
死にはあるなれ、かくもあらば、
さらばわが身は
世にも
幸あるさ蠅かな、
生くといひ、
將た死ぬといふ、
その
孰れともあらばあれ。
||ブレエク
『
怪魚をば見き』と、奧の浦、
奧の
舟人、
||『怪魚をか』と、
武邊の君はほほゑみぬ。
『怪魚をばかつて霧がくれ
見き』と、寂しうものうげに
舵の
柄を
執る
老の
水手。
武邊の君はほほゑみぬ、
水手またいふ、『その
面美女の
眉目濃く薫りぬ』と。
水手はまたいふ、『人魚とは
げにそれならめ、まさめにて
見しはひとたび、また遇はず。』
船はゆらぎて、奧の浦、
霧はまよひて、光なき
入日惱める秋の海。
『げにかかりき』と、
老の
水手、
『その日もかくは蒼白く
海は物さび
呼息づきぬ。
『
舷ふるへわななきて、
波のうねうね霜じみの
色に
鈍みき、そのをりに
||』
武邊の君はほほゑみぬ、
水手の
翁は
舵とりて、
また呟ける、『そのをりに
||』
武邊の君は眼を放ち
海を見やれば、老が手に
馴れたる舵の
軋む音。
船はこの時脚重く、
波間に沈み朽ち入りて
ゆくかのさまにたじろぎぬ。
水手の翁もほほゑみぬ、
凶の時なり、奧の浦、
ああ人も人、船も船。
昔の夢ぞほほゑめる。
||『そのをりなりき、たちまちに
波は燃えぬ』と、老の水手。
つぎてまたいふ、『海にほひ、
波は華さき、まどかにも
夕日の
臺[#ルビの「うてな」は底本では「うなて」]かがやきぬ。
『波は相寄りまた歌ふ、
焔の絹につつみたる
珠のささやく歌の聲。
『そのをりなりき、
眼のあたり
人魚うかびぬ、波は燃え、
波は華さき、波うたふ。
『
黄金の
鱗藍ぞめの
潮にひたりて、その
面人魚は美女の
眉目薫る。』
昔の夢ぞかへりたる、
||凶の時なり、奧の浦、
ああ時も時、海も海。
『
瞳子は
瑠璃』と、老の水手、
『
胸乳眞白に、濡髮を
かきあぐる手のしなやかさ。
||『武邊の殿よ、かかりき』と、
言へば
諾き、『見しはそも
||』
殿はほほゑみ、『
何處ぞ』と。
『殿よ、ここぞ』と、老の水手
眼をみひらけば、霧の墓、
ただ灰色の海の
面。
昔の夢はあざわらふ、
||『何處』と問へば『ここ』と指す
手こそわななけ老の水手。
船は今しも帆を垂れぬ、
人
囚はれぬ、霧の海、
ただ灰色の
帷のみ。
『げにかかりき』と、
老の
水手、
『船も
狹霧も
海原も、
胸のとどろき、今日もまた
||』
またいふ、『あなや、渦まきて、
霧は狹霧を呑み去りぬ、
殿よ、
沒日は波を
焚く。』
武邊の君は身じろがず、
帆は、
||老の水手『見じ』とただ
||帆は
紅に染りたり。
『あな見じ』とこそ老の水手、
||人魚うかびぬ、たちまちに
武邊の君が
眼のあたり。
二つに波はわかれ散り、
人魚うかびぬ、身にこむる
薫も深し波がくれ。
人魚の聲は
雲雀ぶえ、
||波は
戲れ歌ひ寄る
黒髮ながき
魚の肩。
人魚の
笑はえしれざる
海の
青淵、その淵の
蠱の
眞珠の
透影か。
人魚は深くほほゑみぬ、
||戀の
深淵人をひき、
人を
滅すほほゑまひ。
武邊の君は
怪魚を、きと
睨まへたちぬ、
笑の勝、
||入日は紅く帆を染めぬ。
武邊の君は船の
舳に、
血は氷りたり、
||海の
面は
波ことごとく燃ゆる波。
武邊の君は
半弓に
矢をば
番ひつ、放つ矢に
手ごたへありき、怪魚の聲。
ああ海の面、波は皆
をののき氷り、船の舳に
武邊の君が血は燃えぬ。
痛手に細る聲の冴え、
人魚は沈む束の間も
猶ほほゑみぬ、
||戀の魚。
むくいは強し、眼に見えぬ
影の返し矢、われならで、
武邊の君は『あ』と叫ぶ。
人魚ぞ沈むその面に
武邊の君は
亡妻の
ほほゑみをこそ
眼のあたり。
亡妻の
笑、
怪魚の眼と
怪魚の唇、
||悔もはた
今はおよばじ波の下。
昔の夢はひらめきて
闇に消え去り、日も沈み、
波は荒れたち狂ひたつ。
暴風のしまき、夜の海、
||水手の翁はさびしげに
『船には
泊つる港あり。』
泊つる港に船は泊つ、
さあれすさまじ夢のあと、
人のこころの巣やいづこ。
武邊の君はその日より
こころ漂ひ二日經て、
またたどり來ぬ奧の浦。
領主の
館の
太刀試合、
また夜の
宴、名のほまれ、
武邊の君は棄て去りぬ。
二日を過ぎしその夕、
武邊の君はそそりたつ
巖のうへにただひとり。
巖の
下に荒波は
渦まきどよみ、ながめ入る
おもひくるめく
瑠璃の夢。
帆かげも見えず、この夕、
霧はあつまり、光なき
入日たゆたふ奧の浦。
武邊の君に幻の
象うかびぬ、亡妻の
面わのゑまひ、
||怪魚の聲。
『幻の
界ぞ
眞なる』
||武邊の君はかく聞きぬ、
痛手にほそる聲の冴え。
ああ、くるめきぬ、眼もあはれ、
心もあはれ、青淵に
まきかへりたる渦の波。
武邊の君は身を棄てて
淵に躍らす束の間を、
『父よ』と風に呼ぶ聲す。
武邊の君の身はあはれ
ゑまひの渦に、幻の
波のくるめき、夢の泡。
『父よ』と呼びぬ、奧の浦、
水手の翁はその聲を、
眠らで聞きぬ夜もすがら。
水手の翁は曉に
奧の浦べを『父』と呼ぶ
姫のすがたにをののきぬ。
『姫よ、
怪魚かと
魂消えぬ、
は、は』と寂しう老の水手、
『姫よ、さいつ日わが船に
||』
『父は人魚のあやかしに
||』、
姫は嘆きぬ、『父はその
面わのゑみに
誘かれき』と。
『姫よ、武邊の君が矢に
人魚は沈み、夜の海、
あらしの船』と老の水手。
姫は嘆きぬ、『名のほまれ、
領主の
館の太刀試合、
父は
辭みてあくがれき。』
『姫よ、甲斐なき人の世』と
老は呟く、姫はまた
『父は
怪魚棲む海の底。』
ああ
幾十度、『父』と呼ぶ
姫が
聲ねに力なく、
海はどよもす
荒磯べ。
姫は『母よ』と、聲ほそう、
『母よ』と呼べば、時も時、
日はさしいづる奧の浦。
黄金の
鱗波がくれ、
高波白くたち騷ぎ、
姫を渚に慕ひ寄る。
三たび人魚を
眼のあたり、
水手の翁は『三度ぞ』と、
姫をまもりてたじろげば、
渚かがやく
引波の
跡に人魚は身を伏せて、
悲み惱む聲の冴え。
姫は人魚をそと見やる、
人魚は父の
亡骸を
雙の
腕にかき
擁き、
眞白き胸の血のしづく、
武邊の君が射むけたる
矢鏃のあとの血の痛手。
人魚はやをらかなしげに
面をあげぬ、悲しめど
猶ほほゑめる戀の魚。
人魚は遂に絶え入りぬ、
姫はすずろに
亡父の
むくろに縋り泣き沈む。
渚どよもす高波は
ふたたび寄せ
來、老の水手、
『あなや』と叫ぶ
隙もなく、
武邊の君が
亡骸も、
姫も、人魚も、幻の
波にくるめく海の底。
水手の翁はその日より
海には出でず、『まさめにて
三度人魚を見き』とのみ。
(明治四十一年一月刊)