春は私がともすれば神経衰弱になる季節であります。何となくいらいらと
落付かなかったり、黒くだまり込んで、半日も一日も考えこんだりします。桜が、その上へ、薄明の花の
帳をめぐらします。優雅な
和やかな、しかし、やはりうち
閉された重くるしさを感じます。日本の春の桜は人の
眉より上にみな咲きます。そして多くは高々と枝をかざして、そこにもここにもかしこにも人を待ちうけます
||時にはあまりうるさく
執拗に息づまるようななやましさをして桜は私の春の至るところに待ちうけます。こんな神経衰弱者の強迫観念や
憂鬱感は桜にとって
唯迷惑でありましょう。しかしそれらは
却って私が桜を多くめでるのあまり桜の美観が私の深処に
徹し過ぎての反動かもしれません。かりに桜のない春の国を私は想像して見ます、いかに単調でありましょう。あまり単調で気が
狂おう(

)そして日本の桜花の層が、
程よく、ほどほどにあしらう春のなま温い
風手は、
徒に人の
面にうちつけに触り
淫れよう。桜よ、咲け咲け、うるさいまでに咲き
満てよ。咲き
枝垂よかし。
だが、まだ私は、桜花に
就いての憂鬱感や強迫観念を語りやめようとするのではありません。
十年前、私は
或る出来事のために私の神経の一部分の
破綻を招いたことがありました。私の神経がそのために随分
傷んでしまいました。その春、私が連れて行かれたその
狂院に咲き満ちて
居た桜の花のおびただしさ、海か
密雲に対するように始め私は
茫漠として美感にうたれて居るだけでした。が、やがて
可憐な精神病患者が
遊歩するのを認めて一種
奇嬌な美の反映をその
満庭の桜から受け始めました。無意味ににやにや笑うもの、天を
仰いで
合掌するもの、
襦袢一つとなって、脱いだ着物を、うちかえしうちかえしては
眺むるもの、髪をといたり
束ねたりして小さな手鏡にうつし見るもの、
附き添いに、おとなしく手をとられて常人のごとく安らかに
芝生等の上を
歩むもの、すべて
老若の
男女を
合せて十人近い患者の
群が、今しも、
病房から
昼餉ののちの
暫時を
茲へ遊歩に解放されて居るのだと
分りました。桜花が、しっきりなしにそれらの上へ散りかかります。患者のうちのあるものは、うるさそうにそれを髪から払いのけ、あるものは手を振ってよけました。が多くは、細かい花びらが
頬を
掠めて胸に入っても、
一向無関心でありました。無関心が
一層あわれを誘いました。私は、診察の順番を待つ間
||一時間近く
||うかうかとその
場景に見入って
居りました。
先刻から、
殊に私の眼をひいた一人の四十前後の男の患者がありました。日露戦争の
出征軍歌を、くりかえしくりかえし歌っては、庭を
巡回して
居ました、その一回の起点が
丁度私達の立って見て居る
廊下の
堅牢な
硝子扉の前なのです。男は
其処へ来る
毎に直立して、硝子扉
越の私達を見上げ
莞爾としては
挙手の礼をしました。私達もだまって素直に礼を返してやりました。男はそれに満足しまた身を返して広い桜庭を円形に歩み出すのでありました。軍歌は、幅の広いバスで、しかもところどころひどくかすれるのです、それは気のふれたひとの声の特長だとあとで聞きましたが、まことに悲痛に
聞えました。男は日露戦争中負傷の際に気が狂って以来ずっと
茲の
病房の患者であるそうですが、病状は慢性な
代りに
挙措は極めて温和で安全であると聞きました。その
可憐な男が、私達の前の一回の起点へ来る
度に、一度は一度より増して桜の
花片を多く身に着けて来るのでした。とりわけ男の頭へ
沢山に散りかかって居る花片の間からところどころ延びた散髪に
交って立つ太い銀色の
白髪が午後の春陽に光って見えるのでありました。私はそれを見つけて見る見る
憂鬱になってしまいました。私に
附き添って居た者が気がついて私を診察室の方へ連れて
這入ろうとした時に、廊下の突き
当りの中庭を隔てた一棟の病房から、けたたましい狂女のあばれ
狂う物音が
聞[#ルビの「き」は底本では「きこ」]こえ始めました。茲にもたわわに咲きたわんだ桜の枝の重なる下
||その病房の一つの窓が真黒く口を開けて
居りました。そこからかすかに
覗われる井の中の
様な病房の奥に二人三人の人間の着物の
袖か
裾かが白くちらちらと動いて見えました
······私はあわてて目を
逸らしました。あわてた視線が
途惑って、
窓辺の桜に逸れました。私はぞっとしました。その桜の色の
悽愴なのに。
ずっと前の
或夜、私は友の家の離れの
茶室に
泊りました。私は夜中にふと目をさましました。戸の外を、桜
樹立がぐるりと囲む
······桜が
······しんしんと咲き静まった桜樹立が真夜中に
······棟を
圧して桜樹立が
······桜樹立がしんしんと
······私は、ぞっとして
夜具をかぶった。
私はあくる日の朝日がたけて、その部屋のまわりの桜樹立が明るくあたりにかがやくころ目をさました。私の体は夜具の底にかたく丸まり、じっくりと汗になって
居ました。