一
わたしはこれから邦原君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古い兜が不思議に唯ひとつ助かった。
それも邦原君自身や家族の者が取出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねて来て、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからお届け申しますと言って、かの兜を置いて帰った。そのときあたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受取って、彼女の姓名をも聞き洩らしたというのである。何分にもあの混雑の際であるから、それも
いずれその内には判るだろうと、邦原君も深く気にも留めずにいたのであるが、その届け
甚だよくない想像であるが、門前に落ちている
以下は邦原君の談話を紹介するのであるから、その兜について心あたりのある人は邦原君のところまで知らせてやってもらいたい。それによって、彼は今後その兜に対する取扱い方をすこしく変更することになるかも知れないのである。
まずその兜が邦原家に伝わった由来を語らなければならない。文久二年といえば、今から六十余年のむかしである。江戸の末期であるから、世の中はひどく騒々しい。将軍家のお膝元という江戸も
前にもいう通り、今夜は八月十二日で、月のひかりは冴え渡っているので、その男の姿はあざやかに照らし出された。かれは
男はあっと驚いたが、もう振り返ってみる余裕もないので、半分は夢中で半
兜をかぶった男は、大きい
兜をかぶっているので、誰だかよく判らない。他の中間も出てきて、まずその兜を取ってみると、彼はこの屋敷へも出入りをする金兵衛という道具屋であった。金兵衛は
「金兵衛。どうした。」
「やられました。」と、金兵衛は倒れたままで
「喧嘩か、辻斬りか。」と、ひとりの中間が
「辻斬りです、辻斬りです。もういけません。水をください。」と、金兵衛はまた唸った。
水をのませて介抱して、だんだん
「おい、金兵衛。しっかりしろ。おまえは狐にでも化かされたのじゃあねえか。」と、中間らは笑い出した。
「いいえ、斬られました。確かに切られたんです。」と、金兵衛は自分の頭をおさえながら言った。「兜の天辺から
「馬鹿をいえ。おまえの頭はどうもなっていないじゃあねえか。」
押し問答の末に、更にその兜をあらためると、成程その天辺に薄い太刀疵のあとが残っているらしいが、鉢その物がよほど堅固に出来ていたのか、あるいは斬った者の腕が
「まったく
それが奥にもきこえて、隠居の勘十郎も、主人の勘次郎も出て来た。
金兵衛はその日、
それでも彼は武士である。一面には金兵衛のばかばかしさを笑いながらも、勘十郎はその兜を見たくなった。斬った者の腕前は知らないが、ともかくも鉢の天辺から撃ちおろして、兜にも人にも
刀剣については相当の鑑定眼を持っている彼も、兜についてはなんにも判らなかったが、それが可なりに古い物で、鉢の
「どうぞお買いください。これをかぶっていた為にあぶなく真っ二つにされるところでした。こんな
その代金は追って受取ることにして、彼はその兜を置いて帰った。
二
兜の
それはまずそれとして、その明くる朝、本郷の追分に近い路ばたに、ひとりの侍が腹を切って死んでいるのを発見した。年のころは三十五、六で、見苦しからぬ
「その侍はきっとわたしを斬った奴ですよ。場所がちょうど同じところだから、わたしを斬ったあとで自分も切腹したんでしょう。」
「お前のような
金兵衛はしきりにその侍であることを主張していたが、彼もその相手の人相や風俗を見届けてはいないのであるから、しょせんは水かけ論に終るのほかはなかった。しかし彼の主張がまんざら根拠のないことでもないという証拠の一つとして、その侍の刀の刃がよほど
どういう身分の人か知らないが、辻斬りでもするほどの男がまさかにそれだけのことで自殺しようとは思われないので、万一それが金兵衛の兜を斬った侍であったとしても、その自殺には他の事情がひそんでいなければならないと認められたが、その身許は結局不明に終ったということであった。
いずれにしても、それは邦原家に取って何のかかり合いもない出来事であったが、その兜について更に新しい出来事が起った。
それからふた月ほどを過ぎた十月のなかばに、兜が突然に紛失したのである。それは小春日和のうららかに晴れた日の
その当時の邦原家は隠居とその妻のお国と、当主の勘次郎との三人で、勘次郎はまだ独身であった。ほかには中間二人と下女ひとりで、中間らはいずれも主人の供をして出ていたのであるから、家に残っているのはお国と下女だけで、かれらは台所で何か立ち働いていた為に、座敷の方にそんなことの起っているのを、ちっとも知らなかったというのである。
盗んだ者については、なんの手がかりもない。しいて疑えば、日ごろ邦原家へ出入りをして、その兜を見せられた者の一人が、
「どうも普通の賊ではない。」と、勘十郎は言った。
床の間には箱入りの刀剣類も置いてあったのに、賊はそれらに眼をかけず、
それにつけても、かの兜の出所をよく
「けさ下谷へ行って聞きますと、あの兜はことしの五月、なんでも雨のびしょびしょ降る夕方に、二十七、八の女が売りに来たんだそうです。わたしの店では武具を扱わないから、ほかの店へ持って行ってくれと一旦は断わったそうですが、幾らでもいいから引取ってくれと
それだけのことでは、その
「御隠居さま、一大事でございます。」
茶の間の縁側に出て、鉢植えの梅をいじくっていた勘十郎は、内へ引っ返して火鉢の前に坐った。
「ひどく慌てているな。例の兜のゆくえでも知れたのか。」
「知れました。」と、金兵衛は息をはずませながら答えた。「どうも驚きました。まったく驚きました。あの兜には何か
「祟っている······。」
「わたくしと同商売の善吉という奴が、ゆうべ下谷の坂本の通りでやられました。」と、金兵衛は顔をしかめながら話した。「善吉は下谷金杉に小さい店を持っているんですが、それが坂本二丁目の往来で斬られたんです。こいつはわたくしと違って、うしろ
「死んだのか。」と、勘十郎も顔をしかめた。
「死にました。なにしろ倒れているのを往来の者が見付けたんですから、どうして殺されたのか判りませんが、時節柄のことですからやっぱり辻斬りでしょう。ふだんから正直な奴でしたが、可哀そうなことをしましたよ。それはまあ災難としても、ここに不思議な事というのは、その善吉も兜をかかえて死んでいたんです。」
「おまえはその兜を見たか。」
「たしかに例の兜です。」と、金兵衛は一種の恐怖にとらわれているようにささやいた。「同商売ですから、わたくしも取りあえず悔みに行って、その兜というのを見せられて実にぎょっとしました。死人に口無しですから、一体その兜をどこから手に入れて、引っかかえて来たのか判らないというんですが、わたくしといい、善吉といい、その兜を持っている者が続いてやられるというのは、どうも不思議じゃあありませんか。考えてみると、わたくしなぞは運がよかったんですね。兜をかぶっていたのが仕合せで、善吉のように引っかかえていたら、やっぱり真っ二つにされてしまったかも知れないところでした。」
それが兜の祟りと言い得るかどうかは疑問であるが、ともかくも邦原家から盗み出されたかの兜がどこかを転々して善吉の手に渡って、それを持ち帰る途中で彼も何者にか斬られたというのは事実である。但しその兜を奪い取る目的で彼を殺したものならば、兜が彼の手に残っているはずはない。その兜と辻斬りとは別になんの係合いもないことで、単に偶然のまわり合せに過ぎないらしく思われるので、勘十郎はその理屈を説明して聞かせたが、金兵衛はまだほんとうに呑み込めないらしかった。
その兜には何かの祟りがあって、それを持っている者はみな何かの禍いを受けるのであろうと、彼はあくまでも主張していた。
「それでは、最初お前にその兜を売った御成道の道具屋はどうした。」と、勘十郎はなじるように訊いた。
「それが今になると思い当ることがあるんです。御成道の道具屋の女房はこの七月に
「それは暑さに
「暑さにあたって死ぬというのが、やっぱり何かの祟りですよ。」
金兵衛はなんでもそれを兜の祟りに
「そこで旦那。どうなさいます。その兜を又お引取りになりますか。むこうでは売るに相違ありませんが······。」と、金兵衛は訊いた。
「さあ。」と、勘十郎もかんがえていた。「まあ、よそうよ。」
「わたくしもそう思っていました。あんな兜はもうお引取りにならない方が無事でございますよ。第一、それを持って来る途中で、わたくしが又どんな目に逢うか判りませんからね。」
言うだけのことをいって、彼は早々に帰った。
三
下谷の坂本通りで善吉を斬ったのは何者であるか、このごろ流行る辻斬りであろうというだけのことで、遂にその手がかりを
それから四年目の慶応二年に、隠居の勘十郎は世を去って、相続人の勘次郎が名実ともに邦原家の
その翌年は慶応四年すなわち明治元年で、勘次郎は二十三歳の春をむかえた。この春から夏へかけて、江戸に何事が起ったかは、改めて説明するまでもあるまい。勘次郎は老いたる母と若い妻と幼い娘とを
五月十五日の午後、勘次郎は
持っている物でさえも、なるべくは打捨てて身軽になろうとする今の場合に、重い兜を拾ってどうする気であったか。
箕輪のあたりまで落ちのびて、彼は又かんがえた。雨が降っているものの、夏の日はまだなかなか暮れない。
「彰義隊の者だ。日の暮れるまで隠してくれ。」
この場合、
「失礼ながらおひもじくはございませんか。」と、女は訊いた。
朝からのたたかいで勘次郎は腹がすいているので、その言うがままに飯を食わせてもらうことになった。
「ここの
「はい。娘と二人ぎりでございます。」と、女はつつましやかに答えた。その眼の下に小さい
「なんの商売をしている。」
「ひと仕事などを致しております。」
飯を食うと、朝からの疲れが出て、勘次郎は思わずうとうとと眠ってしまった。やがて眼がさめると、日はもう暮れ切って、池の
「もうよい時分だ。そろそろ出掛けよう。」
起きて身支度をすると、いつの間に用意してくれたのか、
「これは少しだが、世話になった礼だ。受取ってくれ」
「いえ、そんな御心配では恐れ入ります。」と、女はかたく辞退した。「いろいろ失礼なことを申上げるようでございますが、旦那さまはこれから御遠方へいらっしゃるのですから、一枚の小判でもお大切でございます。どうぞこれはお納めなすって下さいまし。」
「いや、そのほかにも多少の用意はあるから、心配しないで取ってくれ。」
彼は無理にその金を押付けようとすると、女はすこしく
「それでは甚だ勝手がましゅうございますが、お金の代りにおねだり申したい物がございますが······。」
「大小は格別、そめほかの物ならばなんでも望め。」
「あのお兜をいただきたいのでございます。」
言われて、勘次郎は気がついた。彼は拾って来たかの兜を縁側に置いたままで、今まで忘れていたのであった。
「ああ、あれか。あれは途中で拾って来たのだ。」
「どこでお拾いなさいました。」
「根岸の路ばたに落ちていたのだ。どういう
かれは正直にこう言ったが、落武者の身で拾い物をして来たなどとあっては、いかにも卑しい浅ましい料簡のように思われて、この親子にさげすまれるのも残念であると、彼はまた正直にその理由を説明した。
「その兜は一度わたしの家にあった物だ。それがどうしてか往来に落ちていたので、つい拾って来たのだが、あんなものを持ち歩いていられるものではない。欲しければ置いて行くぞ。」
「ありがとうございます。」
兜は兜、金は金であるから、ぜひ受取ってくれと、勘次郎はかの小判を押付けたが、親子はどうしても受取らないので、彼はとうとうその金を自分のふところに納めて出た。出るときにも親子はいろいろの世話をしてくれて、暗い表まで送って来て別れた。
上野の四方を取りまいた官軍は、三河島の口だけをあけて置いたので、彰義隊の大部分はその方面から落ちのびたが、三河島へゆくことを知らなかった者は、出口出口をふさがれて再び江戸へ引っ返すのほかはなかった。勘次郎も逃げ路をうしなって、さらに小塚原から浅草の方へ引っ返した。それからさらに本所へまわって、自分の
彼がまだ小学校に勤めている当時、箕輪の円通寺に参詣した。その寺に彰義隊の戦死者を葬ってあるのは、誰も知ることである。そのついでにかの親子をたずねて、先年の礼を述べようと思って、いささかの手土産をたずさえてゆくと、その家はもう空家になっているので、近所について聞合せると、その家にはお道おかねという親子が久しく住んでいたが、上野の戦いの翌年の夏、ふたりは奥の六畳の間で
その話を聞かされて、勘次郎はぎょっとした。そうして、その兜はどうしたかと訊くと、かれらの家には別にこれぞという親類もないので、近所の者がその家財を売って葬式をすませた。兜もそのときに古道具屋に売り払われてしまったとの事であった。かれらの墓もやはり円通寺にあるので、勘次郎は彰義隊の墓と共に拝んで帰った。その以来、彼は彰義隊の墓へまいるときには、かならずかの親子の小さい墓へも
憲法発布の明治二十二年には、勘次郎ももう四十四歳になっていた。その当時かれは築地に住んでいたので、夏の宵に銀座通りを散歩すると、夜みせの古道具屋で一つの古い兜を発見した。彼は言い値でその兜を買って帰った。あまりにいろいろの因縁がからんでいるので、彼はそれを見すごすに忍びないような気がしたからであった。
かれはその兜を形見として明治の末年に世を去った。相続者たる邦原君もその来歴を知っているので、そのままに保存して置いたのである。勿論、その兜が邦原家に復帰して以来、別に変ったこともなかった。道具屋の金兵衛は明治以後どうしているか判らなかった。
ところが、先年の震災にあたって、前にいったような、やや不思議な事件が
もう一つ、かの女の特徴ともいうべきは、左の眼の下に小さい痣のあることで、女中は確かにそれを認めたというのである。邦原君の父が箕輪で宿をかりた家の母らしい女も、左の眼の下に小さい痣があった。しかしその女はもう五十年前に自殺してしまった筈で、たとい生きていたとしても非常の老人になっていなければならない。それとも一種の遺伝で、この兜に因縁のあるものは皆その眼の下に痣を持っているのかも知れない。
その以来、邦原君の
「万一かれが五十年前の人であるならば、僕は一生たずねても再び逢えないかも知れない。」
邦原君もこの頃はこんな怪談じみた事を言い出すようになった。どうかその届け主を早く見付け出して、彼の迷いをさましてやりたいものである。