O君は語る。
大正の初年から某商会の満洲支店詰を勤めていた堀部君が足かけ十年振りで内地へ帰って来て、彼が満洲で遭遇した雪女の不思議な話を聞かせてくれた。
この出来事の舞台は
一月の末で、おとといはここでもかなりの雪が降った。きょうは朝から陰って
日は暮れかかる、雪は降って来る。これから満洲の田舎路を日本の里数で約三里も歩かせられては
「これから劉の家までは大変だ。どこかそこらに泊めてもらうことは出来まいか。」
供のシナ人は堀部君の店に長く奉公して、
「
「宿屋は勿論あるまいよ。だが、どこかの家で泊めてくれるだろう。どんな
「よろしい、判りました。」
二人はだんだんに烈しくなって来る粉雪のなかを衝いて、
「泊めてくれる
綺麗でも穢くても大抵のことは我慢する覚悟で、堀部君は彼に誘われて行くと、それは石の井戸を前にした家で、ここらとしてはまず見苦しくない外構えであった。外套の雪を払いながら、堀部君は
李太郎が先に立って案内すると、母屋からは五十五、六にもなろうかと思われる老人が出て来て、こころよく二人を迎えた。なるほど親切な人物らしいと、堀部君もまず喜んで内へ誘い入れられた。家のうちは
老人は自分がこの家の主人であると言った。この頃はここらに悪い感冒がはやって、自分の妻も二人の雇人もみな病床に倒れているので
「それにしても何か食わしてもらいたい。李太郎、お前も手伝ってなにか温かいものを
「よろしい、よろしい。」
李太郎も老人に頼んで、
老人が堀部君を歓待したのは
「やれ、ありがたい。これで生き返った。」
ほっと息をついて元の部屋へ戻ると、李太郎は竈の下の燃えさしを持って来て、寝床の
「
堀部君はしきりに礼を言いながら、炉のあたたまる間、テーブルの前に腰をおろすと、老人も来ていろいろの話をはじめた。ここの家は主人夫婦と、ことし十三になる娘と、別棟に住んでいる雇人二人と、現在のところでは一家内あわせて五人暮らしであるのに、その三人が枕に就いているので、働くものは老人と小娘に過ぎない。仕事のない冬の季節であるからいいようなものの、ほかの季節であったらどうすることも出来ないと、老人は顔を陰らせながら話した。それを気の毒そうに聞いているうちに、外の吹雪はいよいよ暴れて来たらしく、窓の戸をゆする風の音がすさまじく聞えた。
ここらの農家では夜も灯をともさないのが習いで、ふだんならば火縄を吊るしておくに過ぎないのであるが、今夜は客への
その慌て加減があまりに烈しいので、堀部君も少しあっけに取られていると、老人はなにか低い声で口早にいっているらしかったが、それぎり暫くは出て来なかった。
「どうしたんだろう。病人でも悪くなったのか。」と、堀部君は李太郎に言った。「お前そっと
ひとの内房を窺うというのは甚だよろしくないことであるので、李太郎は少し
「病人、悪くなったのではありません。」と、李太郎は説明した。
しかし彼の顔色も少し穏かでないのが、堀部君の注意をひいた。
「じゃ、どうしたんだ。」
「雪の
「なんだ、雪の姑娘というのは······。」
雪の姑娘||日本でいえば、雪女とか雪女郎とかいう意味であるらしい。堀部君は不思議そうに相手の顔を見つめていると、李太郎は小声で答えた。
「雪の娘||
「幽霊か。」と、堀部君もいよいよ
「化け物、出ることあります。」と、李太郎は又ささやいた。「ここの家、三年前にも娘を取られました。」
「娘を取る······。その化け物が······。おかしいな。ほんとうかい。」
「嘘ありません。」
なるほど嘘でもないらしい。死んだ者のように黙っている老人の蒼い顔には、強い強い恐怖の色が浮かんでいた。堀部君もしばらく黙って考えていた。
雪の娘||幾年か満洲に住んでいる堀部君も、かつてそんな話を聞いたことはなかったが、今夜はじめてその説明を李太郎の口から聞かされた。
今から三百年ほどの昔であろう。
この悲惨な出来事があって以来、大雪のふる夜には、妖麗な白い女の姿が吹雪の中へまぼろしのように現われて、それに出逢うものは命を
「ふうむ、どうも不思議だね。」と、堀部君はその奇怪な説明に耳をかたむけた。「じゃあ、ここの家ではかつて娘を取られたことがあるんだね。」
「そうです。」と、李太郎が怖ろしそうに言った。「姉も十三で取られました。妹もことし十三になります。また取られるかも知れません。」
「だって、その雪女はここの家ばかり狙うわけじゃあるまい。近所にも若い娘はたくさんいるだろう。」
「しかし美しい娘、たくさんありません。ここの家の娘、たいそう美しい。わたくし今、見て来ました。」
「そうすると、美しい娘ばかり狙うのか。」
「美しい娘、雪の姑娘に妬まれます。」
「けしからんね。」と、堀部君は蝋燭の火を見つめながら言った。「美しい娘ばかり狙うというのは、まるで我れわれのような幽霊だ。」
李太郎はにっこりともしなかった。彼もこの奇怪な伝説に対して、すこぶる根強い迷信をもっているらしいので、堀部君はおかしくなって来た。
「で、昔からその白い女の正体をたしかに見届けた者はないんだね。」
「いいえ、見た者たくさんあります。あの雪の中に······。」と、李太郎は見えない表を指さした。「白い影のようなものが迷っています。そばへ近寄ったものはみな死にます。」
「それ以上のことは判らないんだね。で、その影のようなものは、戸が閉めてあっても、すうとはいって来るのか。」
「はいって来るときには、怖ろしい音がして戸がこわれます。戸を閉めて防ぐこと出来ません。」
「そうか。」と、堀部君は思わず声を立てて笑い出した。
日本語の判らない老人は、びっくりしたように客の笑い顔をみあげた。李太郎も眼をみはって堀部君の顔を見つめていた。
「ここらにも馬賊はいるだろう。」と、堀部君は訊いた。
「
「それだよ。きっとそれだよ。」と、堀部君はやはり笑いながら言った。「馬賊にも限るまいが、とにかくに泥坊の仕業だよ。むかしからそんな伝説のあるのを利用して、白い女に化けて来るんだよ。つまり幽霊の真似をして方々の若い娘をさらって行くのさ。その行くえの判らないというのは、どこか遠いところへ連れて行って、淫売婦か何かに売り飛ばしてしまうからだろう。美しい娘にかぎってさらわれるというのが論より証拠だ。ねえ、そうじゃないか。」
「そうでありましょうか。」と、李太郎はまだ不得心らしい眼色を見せていた。
「お前からここの主人によく話してやれよ。それは渾河に投げ込まれた女の幽霊でもなんでもない。たしかに人間の仕業に相違ない。たしかに泥坊の仕業で、幽霊のふりをして若い娘をさらって行くのだと······。いや、まったくそれに相違ないよ。昔は本当に幽霊が出たかも知れないが、中華民国の今日にそんなものが出るはずがない。幽霊がはいって来るときに、戸がこわれるというのも一つの証拠だ。何かの道具で叩きこわしてはいって来るのさ、ねえ、そうじゃあないか。ほんとうの幽霊ならば何処かの
あっぱれ相手の
「おい。そのことをここの主人に話して、早く安心させてやれよ。可哀そうに顔の色を変えて心配しているじゃないか。」
叱られて、李太郎はさからわなかった。彼は主人の老人にむかって小声で話しかけた。堀部君もひと通りのシナ語には通じていたので、彼が正直に自分の意見を取次いでいるらしいのに満足して、黙って聞く人の顔色を窺っていると、老人は苦笑いをしてしずかにその
「まだ判らないのか。馬鹿だな。」
堀部君は舌打ちした。今度は直接に自分から懇々と言い聞かせたが、老人は暗い顔をしてただ薄笑いをしているばかりで、どうしても、その意見を素直には受け入れないらしいので、堀部君もいよいよ
「もう勝手にするがいい。いくら言って聞かせても判らないんだから仕方がない。こんな人間だから大事の娘がさらって行かれるんだ。ばかばかしい。」
こっちの機嫌が悪いらしいので、老人は気の毒そうに黙ってしまった。李太郎も手持ち不沙汰のような形でうつむいていた。
「李太郎。もう寝ようよ。雪女でも出て来るといけないから。」と、堀部君は言いだした。
「寝る、よろしい。」
李太郎もすぐに賛成した。老人は挨拶して、自分の部屋の方へ帰った。寝床のむしろを探ってみると、煖炉は丁度いい加減に暖まっているので、堀部君は靴をぬいで寝床へ上がって毛織りの膝掛けを着てごろ寝をしてしまった。李太郎はもう半分以上も燃えてしまった蝋燭の火を細い火縄に移して、それからその蝋燭を吹き消した。火縄は
疲れている堀部君は暖かい寝床の上でいい心持に寝てしまったが、自分の頭の上にある窓の戸を強くゆするような音におどろかされて眼を醒ました。部屋のうちは真っ暗で、細い火縄の火が秋の蛍のように微かに消え残っているばかりである。むこう側の寝床の上には、李太郎が
床の上に起き直って、堀部君はマッチをすって、懐中時計を照らしてみると、今夜はもう十二時に近かった。ついでに巻煙草をすいつけて、その一本をすい終った頃に、烈しい吹雪はまたどっと吹き寄せて来て、窓の戸を吹き破られるかと思うように、がたがたとあおられた。宵の話を思い出して、かの雪女が
「なぜだろう。」
自分は有名の寝坊で、いつも
寝しずまった村の上に吹雪は小やみもなしに暴れ狂っていた。夜がふけて煖炉の火もだんだん衰えたらしく、堀部君は何だかぞくぞくして来たので、探りながら寝床を
その一
暗いなかで耳を澄ますと、それは細かい雪の触れる音らしいので、堀部君は自分の神経過敏を笑った。しかもその音は続けてきこえるので、堀部君はなんだか気になってならなかった。さっきから吹きつけている雪の音は、こんなに静かな柔かいものではない。気のせいか、何者かが戸の外へ忍んで来て内を窺っているらしくも思われるので、堀部君はぬき足をして入口の戸のそばへ忍んで行った。戸に耳を押し付けてじっと聞き澄ますと、それは雪の音ではない。どうも何者かがそこに
「おい、起きろ、起きろ。李太郎。」
「あい、あい。」と、李太郎は寝ぼけ声で答えたが、やはりすぐには起き上がりそうもなかった。
「李太郎、早く起きろよ。」と、堀部君はじれて揺り起した。「雪女が来た。」
「あなた、嘘あります。」
「嘘じゃない、早く起きてくれ。」
「ほんとうありますか。」ど、李太郎はあわてて飛び起きた。
「どうも戸の外に何かいるらしい。僕も一緒に行くから、戸をあけてみろ。」
「いけません、いけません。」と、李太郎は制した。「あなた、見ることよろしくない。隠れている、よろしい。」
暗がりで顔は見えないが、その声がひどくふるえているので、かれが異常の恐怖におそわれているらしいのが知られた。堀部君はその肩のあたりを引っ掴んで、寝床から引きずりおろした。
「弱虫め。僕が一緒に行くから大丈夫だ。早くしろ。」
李太郎は探りながら靴をはいて、堀部君に引っ張られて出た。入口の戸は左右へ開くようになっていて、まん中には鍵がかけてあった。そこへ来て、また
どちらから吹いて来る風か知らないが、空も土もただ真っ白な中で、そこにもここにも白い渦が大きい浪のように巻き上がって狂っている。そのほかにはなんの影も見えないので、堀部君は案に相違した。なんにも居ないらしいのに安心して、李太郎は思い切ってその扉を大きく明けると、氷のように寒い風が吹雪と共に狭い土間へ流れ込んで来たので、ふたりは思わず身をすくめる途端に、李太郎は小声であっと言った。そうして、力いっぱいに堀部君の腕をつかんだ。
「あ、あれ、ごらんなさい。」
彼が指さす方角には、白馬が
その影は二人のあいだをするりと摺りぬけて、李太郎のあけた扉の隙間から表へふらふらと出ていった。
「あ、
「ここの
あまりの怖ろしさに李太郎はもう口がきけないらしかった。しかしそれが家の娘であるらしいことは容易に想像されたので、堀部君はピストルを持ったままで雪のなかへ追って出ると、娘の白い影は吹雪の渦に呑まれて
「早く主人に知らせろ。」
李太郎に言い捨てて、堀部君は強情に雪のなかを追って行くと、門のあたりで娘の白い影がまたあらわれた。と思うと、それは浪にさらわれた人のように、雪けむりに巻き込まれて門の外へ投げやられたらしく見えた。門は幸いに低いので、堀部君は半分夢中でそれを乗り越えて、表の往来まで追って出ると、娘の影は大きい
「姑娘、姑娘。」と、堀部君は大きい声で呼んだ。「
どこへ行く、などと呼びかけても、娘の影は見返りもしなかった。それは風に吹きやられる木の葉のように、
それでも姑娘を呼びつづけて七、八
もう諦めて引っ返して来ると、内には李太郎が蝋燭をとぼして、恐怖に満ちた眼色をしてぼんやりと突っ立っていた。
「姑娘はどうした。」と、堀部君はからだの雪を払いながら訊いた。
「姑娘、おりません。」
堀部君はさらに右の方の部屋をたずねると、主人の老人は寝床から這い落ちたらしい妻を抱えて、土間の上に泣き倒れていた。娘らしい者の姿は見えなかった。
話はこれぎりである。堀部君はあくる朝そこを発って、雪の晴れたのを幸いに、三里ほどの路をたどって劉の家をたずねると、その一家でもゆうべの話をきいて、みな顔色を変えていたそうである。ここらの者はすべて雪女の伝説を信じているらしいということであった。もし堀部君に探偵趣味があり、時間の余裕があったらば、進んでその秘密を探り究めることが出来たかも知れなかったが、不幸にして彼はそれだけの事実をわたしに報告してくれたに過ぎなかった。