大正十二年九月一日、高橋秀臣君は埼玉県下へ遊説に往っていたが、突如として起った大震災の騒ぎに、翌二日
倉皇として神田錦町の自宅へ帰ったが、
四辺は一面の焼野原。やっとのことで家族の行方を捜し当たが、家族は着のみ着のままで、家財道具などは何一つ持ち出していなかった。無論家宝として高橋君の
愛玩措かざる
光広作千匹猿の
鍔もどこへ往ったか判らなかった。
高橋君は人手に渡ったものか、それとも焼けたものか、人手に渡っていてくれるなら、元へ返らないものでもないが、焼けただれてはどうにもならないと、時おり思いだしては惜しがっていた。ところで翌年の九月になって
生面の人が尋ねて来て、彼の千匹猿の鍔を出すとともに、その鍔にからまる因縁話をして、名も告げずに帰って往った。高橋君はその因縁話を次の様に話した。
「不思議な男は青い顔をしながらこう云うのです。私の友人が震災の翌日、丸の内の
路傍でこれを拾ったが、あまり珍らしいので持っていると、それからと云うものは、毎晩のように、幾百とも知れぬ猿が
枕頭へ来て、きゃっきゃっと鳴いて立ち騒ぐ夢を見るので、ついに神経衰弱になり、私に預かってくれと云うので、何気なく預かりますと、今度は私が、毎晩猿の夢を見てうなされますので、これはてっきり、鍔の祟りだろうから、早速持主に返そうと云うことになり、
共箱の蓋によって
貴下の名を手がかりに、人に聞きあわしてお届けにあがりましたと云って、名も告げないで、消えるように往ってしまったよ」