鏑木清方画伯の夫人が
産褥熱で入院した時の話である。
その夫人が入院した時は夜で、しかもひどく遅かった。夫人はその時吊台で病院に運ばれたが、その途中吊台の
被の
隙から外の方を見ると、
寒詣りらしい
白衣の一面に
卍を書いた行者らしい男が、手にした
提灯をぶらぶらさせながら後になり前になりして歩いていた。そして、目的の病院へ
著いたが、玄関の扉が
締っているので、しかたなく死体を出入する非常口から入った。
それから二三日してのことであった。夜半
比、何かのひょうしに眼を覚ました夫人が、やるともなしに天井の方へ眼をやったところで、そこに小紋の衣服を
著て髪をふり乱した老婆がいて、それが折釘のような
頸をさしのべて夫人の顔をぎろりと見た。夫人はびっくりしたが、すぐ、かかる際に取るべき
伝説に気が注いた。
(
此奴に負けてはたいへんだ)
と思ったので、きっと唇を噛んで老婆の顔を
睨みかえしたが、一所懸命であるから
数瞬もしなかった。と、老婆が
忌いましそうに舌打ちをして、
「おまえさんは、剛情な女だね」
と云ったかと思うと、後すさりして隅の方へ往くなり、消えて見えなくなった。そこへどたどた
跫音がして、
受持の看護婦が飛びこんで来たが、看護婦は呼吸をはずませながら、
「何か変ったことはありませんでしたか」
と云った。夫人が、
「べつに、なにも」
と云うと、看護婦ははじめてほっとしたような顔をして、
「今、奥さんの室から
何人か出て往ったような気配がしますから、不思議に思ってますと、この次の次の病室にいる患者さんが、ふいに天井へ指をさして、何か来た、何か来たと云いながら、呼吸を引きとりました」
と云った。それを聞くと気丈な夫人も思わずぞっとした。