明治二十二三年比のことであった。詩人啄木の
碑で知られている函館の
立待岬から、
某夜二人の男女が投身した。男は山下忠助と云う海産問屋の
公子で、女はもと函館の
花柳界で知られていた水野
米と云う
常磐津の師匠であった。
男の死体はその翌日になって発見せられたが、女の死体はあがらなかった。あがらないのは女は死なないで逃げたがためであった。そして、何くわぬ顔をしていた米は、五稜郭に近い
某と云う網元の妾になった。その時網元の主人は、先妻を亡くしているうえに子供もないので、子供が生れたなら本妻になおすつもりをしていた。
そのうちに三年ばかり経って米が妊娠した。網元の主人は非常に喜んで、出産の日を待っていたが、米の妊娠は
真箇の妊娠でなくて、病名も判らない奇病であった。
そして、米の腹は日に日に大きくなって往った。主人は入費を
惜まないで、
市の名医と云う名医にかけたが、いずれも手のつけようがないと云って
匙を投げた。
それがために米は死んでしまった。主人は泣く泣く米の死体を火葬場に送った。その火葬場へは、米の弟の新吉と云うのも来ていたが、それは真箇の弟でなしに、米がまだ
歌妓をしていた時からの情夫で、土地の人から達磨の新公と
渾名せられている
浪爺であった。
やがて積みかさねた
薪の上へ米の死骸が置かれた。それと見て人びとは念仏を唱えた。同時に
隠坊が薪に火を点けた。
火は薪から薪に移って往った。気の弱い女たちは遠くの方へ往って、そこには男ばかりいた。隠坊は後から後からと薪を加えたが、米の死体はなかなか焼けなかった。そして、火力が強くなればなるだけ死体から水を吹出して、手足の方は焼けても胴体は依然としてそのままであった。
普通五六十本の薪があれば、完全に焼けることになっているが、もう予定の薪は
焚いてしまっても焼けないので、隠坊はがまんしきれなくなって、傍にあった漁師用の
手鍵を執って死体の腹へ打ちこんだ。と、大きな音がして腹が裂けるとともに、その中から大きな
蛸が出て来たが、それが猛烈な勢いで達磨の新公に飛びかかるなり、真黒い毒どくしい墨をぱっと吐いた。墨は新公の顔から胸のあたりを真黒にした。
新公は悶絶した。それと見て人びとは隠坊に加勢して、蛸を撲殺し、更めて薪を加えて蛸もいっしょに焼いたが、今度はすぐ焼けてしまった。
数日してのことであった。網元の主人が火鉢の傍でうつらうつらしていると、米の姿が見えて来て何か云ってしきりに謝った。主人ははっと思って眼を開けた。と、そこへ
彼の新公が悶死したと云う知らせが来た。
新公が悶死したことに
就いていろいろの噂が伝わった。それによると、米が海産問屋の公子と立待岬から投身したのは、新公が
為くんだ
演戯であった。米は茨城県の水戸の生れで、水泳の心得があるところから、投身すると見せかけてそのまま沖の方へ泳いで往った。そこには新公の小舟が待っていた。米といっしょに投身した海産問屋の公子も、多少水泳の心得があったのでこれも沈めないで体が浮いた。そして、浮いたひょうしに見ると、米が小舟を目がけて泳いでいるので、火のように
憤って追っかけて往った。すると新公と米は、舟板を執って男の顔と云わず頭と云わず、さんざんに撲りつけて沈めたと云うのであった。(伊藤晴雨氏談)