明治七年四月のこと、神奈川県多摩郡下仙川村
浅尾兼五郎の家へ
妖怪が出ると云う噂がたった。
それも一度や二度のことでなく、前年の五月から怪しい事が続くと云うので、県庁でも捨て置けずとあって、兼五郎の家へ人をやって
取調さしたが、原因も判らず相変らず怪しい事が起った。そこで、県警察部でも兼五郎を召喚して、これ
亦峻烈な取調をしたが、兼五郎の
所為でないから、どうすることもできなかった。
某日のことであった。兼五郎の
細君が台所で飯を
焚いていると、突然釜がふわりふわりと天井の方へあがりはじめた。これには女房も蒼くなって、
「ああ、もしもし、そのお釜をお取りあげになることだけは、どうぞおゆるしくださいまし、どうぞお返しを願います。この通りでございます」
と云って、台所の羽目板へ額をつけて歎願した。すると釜はひょこひょことおりて来て、
原の
竈へかかった。
また
某時、来客があったので、兼五郎は奥座敷へ通して
対手になっていると、
俄に膝の下がむずむずして来た。何だろうと思って手をやってみると、古
草履が一つにょきりと出た。これはと驚いて起ちあがると、また一つ飛びだした。
又某時、庭の方でがらがらと云うような大きな音がしたので、見ると庭の片隅に立てかけてあった竹竿が二本、人の歩くように並んでのそりのそりと歩いていた。家の者が驚いて見ているとどこからともなしに越後
縮の浴衣と
洋傘が飛んで来た。と、竹竿の一つはその浴衣を
著、一つは洋傘をさして歩いた。
又某日のこと、兼五郎は隣家の下駄屋から
鍬を借りて来て、使用した後で縁先へ立てかけて置くと、間もなく下駄屋の主人が取りに来たので、返そうと思って縁先へ往ってみると、置いたばかりの鍬がもうなかった。どこへ往ったろうと思って、
血眼になって捜していると、突然その鍬や
[#「その鍬や」はママ]縁の下からひょこりと頭を出した。
「おや、こんな
処に」
兼五郎は腰を
屈めて取ろうとすると、鍬は
忽ち引込んでしまった。
暫くして又頭を出したので取ろうとすると、又ひょいと引込んで往って取れなかった。そして、その
中にとうとうどこへか往ってしまった。
ところが、兼五郎の家に唖娘がいて、そんな時の紛失物の所在を
能く知っているので、その時前へ来た唖娘に手真似で訊ねたところで、唖娘は畑の前方へ指をさした。そこで往って見ると、果して鍬が草むらの中から出て来た。
又某時、兼五郎の家へ近所の女が来て、台所口で兼五郎の女房と話していると、突然
裾がまくれあがった。近所の女は悲鳴をあげて両手で裾をしっかと押えたが、着物はますますまくれあがっておりなかった。
その他、茶碗が宙乗りをしたり、砥石が屋根から落ちて来たり、怪事は次から次へと尽きなかった。
隣村の伊太郎と云う血気
盛の
壮佼が、
某夜酒をひっかけて怪物の探検に来たが、その途中どこからともなく
礫が飛んで来て、眉間に当って負傷したので蒼くなって逃げ帰った。
こうして怪異は毎日のように続いたが、その怪異の起る前には、きっと唖娘が姿を隠すのであった。