昭和九年三月二十一日の
函館の大火は、その日の午後六時から翌朝の七時まで燃えつづけて、焼失家屋二万四千戸、死傷者三千人を出したが、その時火に追われた市民は、猛火の中をくぐって安全な場所から場所へと
[#「場所へと」は底本では「場戸へと」]逃げ廻った。しかし、風速三十メートルの烈風に
煽られた猛火の中では、どうすることもできなかった。
山から海へ、避難民は続々としておしかけたが、そこでもまた猛火に包まれて焼死する者、
或は海に入って
溺死する者など、その惨状は全く眼のあてられないものがあった。
そのうちでも最も
烈しかったのは、函館市の東南になった大森浜であった。従ってここには、多くの哀話とともに
鬼魅悪い話が残っている。
深夜の海岸には、どこからともなくむせぶような、泣くような声が聞えて来る。青い
鬼火が、そこにもここにもふわふわと浮んで、それが烈しい
勢で町の方に飛んだり、焼け残った樹木の枝や電柱にあたってばらばらとくだけた。
警官の一人が巡廻していると、眼の前へ髪をふり乱した女が出て来たが、その女は生れてまもない
嬰児を負い、両手に幼い小供の手を
曳いていた。女は
蒼白い顔を星の光にちらつかせながら、小供の手をぐいぐいと曳いた。
「おう、あついか、あついか」
女の足は早くなった。
「もうすこしじゃ、あついか、もうすこしじゃ」
その時
背の
嬰児がひいひいと云うようにないた。
「おう、おう、おう」
女は
狂人のようになっていた。
「あついか、おう、あついか、もうすこしの、しんぼうじゃ」
女はそのまま海の方へ往ったが、みるみるその姿は海の中へ消えて往った。
これもやはり函館の大火が生んだ怪談である。某運転手が自動車をあやつって深夜の海岸を走っていた。そこは根崎海岸のドライブ道で、道幅もかなり広いし、それに
障碍物がないので、運転手はいい気もちになってスピードを出していた。
と、その車の前にふらふらと飛びだして来たものがあった。運転手ははっとして、機械的にブレーキをかけた。車はその怪しい物の数
間てまえでやっと
停った。そこにはヘッドライトの燈に照らされて
角巻をした
壮い女がいた。女は何者かに追われてでもいるように非常にあわてていた。
「助けてッ」
女は
蒼白い顔に髪をふり乱していた。
「助けてッ」
女の声がまた聞えた。それを見ると運転手は捨てておけないのでいきなり
扉を開けた。
「どうした、どうした」
運転手はそのまま女の傍へ往った。運転手は女を車へ乗せて女を追っている
悪漢の手から救おうとした。運転手は
怒鳴った。
「さあ、車だ」
それとともに女をつかまえようとすると、女の姿は煙のように海のほうへ消えて往った。