「桜はよく咲いたのう」
二十四五歳かとも見える若い侍が
主人の言葉の尾について、奴の一人がわめいた。
「まるで作り物のようでござりまする。七夕の
「はて、むずかしいことをいう奴じゃ」と、ほかの一人が大口をあいて笑った。「それよりもひと口に、祭の軒飾りのようじゃといえ。わはははは」
他愛もない冗談をいいながら、三人は高い石段を降り切って、大きい桜の下で客を呼んでいる煎茶の店に腰を卸した。茶店には二人の先客があった。二人ともに長い刀を一本打ち込んで、一人はこれ見よがしの
それには眼もくれないように、侍と奴どもは悠々と茶をのんでいた。
「おい、
「や、こりゃ熱いわ。
彼はさも堪らぬというように
「やあ、こいつ無礼な奴。何で我等の前に茶をぶちまけた」
「こう見たところが
相手も全くその積りであったらしい。鬼のような奴どもに
「売ろうが売るめえがこっちの勝手だ。買いたくなけりゃあ買わねえまでだ」
「一文奴の出しゃばる幕じゃあねえ。引っ込んでいろ。こっちはてめえ達を相手にするんじゃあねえ」
「
侍は編笠をはらりと
「
唐犬びたいのひと群れが最初からこの侍に向って喧嘩を売る下心があったことは、次の事実に
「仔細もなしに
彼の鑑定通り、この若い侍は
その矢先に青山播磨は
「白柄組の一人と知って喧嘩を売るからは、さてはおのれ等は
問われて、四郎兵衛は自分の名をいった。この時代の町奴の習いとして、その他の者共も
「やい、やい、こいつ等。素町人の分際で、歴々の御旗本衆に
「幸い今日は
四郎兵衛も負けずにいった。
「そんな嚇しを怖がって
相手に
「われわれが頭と頼む水野殿に敵対して、とかくに無礼を働く幡随長兵衛、いつかは懲らしてくりょうと存じておったに、その子分というおのれ等がわざと喧嘩をいどむからは、もはや容赦は相成らぬ。望みの通りに青山播磨が直々に相手になってくるるわ」
「いい覚悟だ。お逃げなさるな」と、四郎兵衛は又あざ笑った。
「何を馬鹿な」
播磨はもう烈火のようになった。彼は
「おお、
喧嘩のまん中へ邪魔な物を投げ出されて、町奴の群れも少し
「おお、
「赤坂の
男まさりといいそうな老女の
しかしそれは播磨と伯母との関係で、一方の相手には没交渉であった。四郎兵衛はもどかしそうにいった。
「お見受け申せば御大身の御後室様のようでござりますが、喧嘩のまん中へお越しなされて、何とかこのお
「差出た申分かは知りませぬが、この喧嘩はわたくしに預けては下さらぬか」と、真弓は静かにいった。「播磨はあとで厳しゅう叱ります。まあ
「さあ」と、四郎兵衛は少し考えていた。
「御不承知とあれば強いてとは申しますまい。さりながら
こういい切られて、四郎兵衛もいよいよ困った。たといそれが武家の女にもせよ、町奴の中でも人に知られた放駒の四郎兵衛ともあろう者が、女を相手に腕ずくの喧嘩も出来ない。勝ったところで手柄にもならない。白柄組を相手の喧嘩はもとより出たとこ勝負で、あながちに今日に限ったことでもない。ここはこの老女の顔を立てて素直に手を引いた方が結句
「では、お前様のお扱いに免じて、今日はこのまま帰りましょう」
「よく聞き分けて下された」と、真弓も
「まことに失礼をいたしました」
武家の老女と町奴の大哥分とは礼儀正しく会釈して別れた。四郎兵衛のあとについて、子分共も皆な立去ってしまった。人間の嵐の通り過ぎた後は
「これ、播磨」と、真弓は
何といわれても、播磨はこの伯母が苦手であった。所詮頭はあがらぬものと
そのうしろ影を見送って、今までうずくまっていた主人と奴とはほっとしたように顔を見合せた。そうして、一度に大きく笑い出した。
「お腰元の
やがて三十七、八であろうが年の割に老けて見えるらしい女が、番町の青山播磨の屋敷の台所口に立って、つつましやかに案内を求めると、下女のお
「おお、お菊さんの母御か。ようお
お仙がお菊を呼んで来る間、お菊の母は台所の
武を表とする青山の屋敷に、生ぬるい
台所働きのお仙も正直者であったが、腰元のお菊も
それからもう足かけ三年の月日は過ぎた。殿様も家来もみな喧嘩好きである。白柄組の旗本衆もたびたび
そうはいっても、母の身としてはまだ幾らかの不安が忍んでいた。白柄組の喧嘩沙汰は日増しに激しくなって来るらしく、ゆく先々でその
彼女は今もそんなことを繰返して考えながら、娘の懐かしい顔の見えるのを待っていると、やがて奥からお菊がいそいそと出て来た。
「
手を取るようにして自分の部屋へ連れて行こうとするのを、母はあわただしく断わった。
「いえ、いえ、ここの方が
こういって、母は娘の顔をしげしげ眺めていた。別に用があって来たのではない。母は娘の無事な顔をひと目見て帰ればそれでもう満足するのである。その母の眼にうつったお菊の顔は、細おもてのやや寂しいのを
「お前、別に変ることもござりませぬかえ」
と、お菊は母にきいた。
「仕合せとこの通り達者でいる。この春のはやり風も無事に逃れた」と、母は機嫌よく笑っていた。「して、殿様にもお変りはないかえ」
「殿様も御繁昌でござります。きょうも青山の御縁者へまいられまして、唯今お戻りなされました。そのお召替えをいたしているところへ、丁度お前が見えたので、逢いに来るのが遅くなりました」
「きょうは喧嘩もなされなんだか」
「奴殿の話では、きょうも山王下で町奴と何かの競り合があったとやらで、殿様お羽織の袖が少し切裂かれておりました」
「あぶないこと······」と、母は眉を
「喧嘩はいつものこと。滅多にお怪我などあろう
白柄組の屋敷奉公にだんだん
「でものう。喧嘩沙汰があまり続くうちには、いかにお強い殿様でも物のはずみで、どのような怪我あやまちもないとは限らぬ。又このようなことがお上に聞えたら殿様の御首尾もどうあろうかのう」
仔細らしく打傾けた母のひたいに太い皺の織り込まれたのを、お菊は少し嘲るようにほほえみながら眺めた。
「何の、お前が取越し苦労。殿様は白柄組の中でも指折りの剣術の名人、
家風がおのずと染みたのか、但しは主人の口真似か、お菊は
「世間では何というているか知りませぬが、殿様はお心の
「不自由には馴れているので、それは何とも思わぬが、わたしよりもお前の身の上が案じらるる。喧嘩好きの衆がしげしげ出這入りする御屋敷なら、内でもなん時どんな騒動が起らぬとも限るまい。そこらにうろうろと立廻って、そのそば杖を受けようかと······」
「はて、お前のようにもない。今こそこうしていれ、お前とてわたしとて腹からの町人の育ちではなし、そのように気が弱うては······」と、お菊は笑った。
娘に笑われても一言もない。この母子は町人の
勿論、母としては相当の理窟もあった。武家も武家によるので、喧嘩を商売にしているような主人に長く仕えているのは不安心だというのである。しかし彼女は顔を赤め合ってまでも、可愛い娘といがみ合おうとは思っていなかったので、娘に笑われてもおとなしく黙っていた。
そこへお仙が茶を汲んで来た。あとから用人の十太夫も出て来た。
「おお、お菊の母か。よう参ったの。まあ、茶でもまいれ」と、十太夫はにこにこしていた。
「何をいうにも男ばかりの屋敷内で、いや乱脈だ。女子共も定めて忙がしかろうが、お菊も精出して立働いてくるる。殊に殿様お気に入りで、お手廻りの御用はすべてお菊が勤めてくるるので手前共も大助かりだ。殿様は随分癇癖のはげしい方だが、お菊のすることは万事御機嫌がよい。ははははは」
お菊は耳たぶを紅くして
「お菊の母がまいったことを殿様にお耳に入れたら、これは少しだが土産に取らせろとあって、小判二枚を下された。ありがたく頂戴しろ」
小判二枚、この時代には大金である。
「よいか。お菊もよく見て置いて、後刻、殿様にお礼をいえ」
「ありがとうござります」
母と娘とは同時に礼をいった。それを聞いて十太夫は
「まあ、ゆるゆると話して行け」
彼は無雑作に奥へ行ってしまった。お仙は
「ほう、良い水······」と、お菊の母は帰り際に井戸側へ寄った。
「深いので困ります」と、お仙はいった。
「山の手の井戸の深いは名物でござります」と、母は井戸の底を
困るとはいうものの、御用のない時には奴達が手伝って汲んでくれるから、さのみ難儀でもないとお仙は話した。御座敷の庭先にももうひとつの井筒があって、それはここよりも浅く、水も更に清いのであるが、一々にお庭先までは廻って行かれないので、深いのを我慢してこの井戸を汲んでいると彼女はいった。
その話のうちにお菊が出て来た。彼女も母と
それから二日目の朝である。お菊がいつものように台所へ出て、お仙の手伝いをしていると、奴の権次が肩をすくめて外からはいって来た。
「お客来じゃ。お客来じゃ」
「お客来······」と、お菊は片付け物の手を休めた。「どなたでござりまする」
「いや、むずかしいお客様じゃ。殿様にも苦手、俺たちにも禁物、見付からぬように隠れているのが一の手じゃ」
そういううちに、権六もこそこそとはいって来た。大の奴どもがそれほどに煙たがっている相手は、女たちにも
「あの、小石川の伯母様かえ」
「それじゃ、それじゃ。あの伯母御は
いつもの事で、珍らしくないと思いながらも、鎌髭を食いそらした奴どもが怖い伯母御に縮み上っている、無邪気な子供らしい様子が堪らなくおかしいので、お仙は
お客の給仕は彼女の役目であるので、お菊はすぐに茶の支度にかかった。彼女が茶を立てて座敷へ運び出した時には、来客の真弓は主人の播磨と向い合って、何か打解けて話していた。奴どもが恐れているようなお叱言も、きょうは余り沢山に出ないらしいので、お菊も少し安心したが、彼女としてはまだほかに大きい不安が忍んでいた。
「ほほ、菊。相変らず美しいの」と、真弓はほほえみながら給仕の若い女を見返った。「主人が独身では、とかくに女子どもの世話が多かろう。もう少しの辛抱じゃ。頼みますぞ」
「はい」と、お菊はしとやかに手をついていた。もう少しの辛抱||それが彼女の耳には怪しく響いて、若い胸には浪を打った。
「用があれば呼びます。退ってくりゃれ」と、真弓は静かにいった。
お菊は再び会釈して起った。起つ時に主人の顔をちらりと見ると、播磨は何か迷惑らしい顔をして畳の目を眺めていた。苦手の伯母と差向いの場合に、彼が人質に取られたような寂しい顔をして黙っているのは例の癖であるが、取分けて迷惑らしいその顔色がきょうのお菊の注意をひいた。彼女は一旦縁側へ退り出たが、又ぬき足をして引返して、ひと間を隔てた隣りの座敷で
やがて茶をのんでしまった頃に、真弓の声が聞えた。小声ながらも凛としているので、遠いお菊の耳にもよく響いた。
「のう、播磨。この頃の不行跡、一々にやかましゅうはいうまい。きっと改むるに相違ないか」
「は」
播磨の返事は唯それだけであった。
「心もとない返事じゃのう。確かに誓うか、約束するか」と、真弓は重ねていった。「世の太平になれて、武道の詮議もおろそかになる。追従軽薄の惰弱者が武家にも町人にも多い。それは私とても浅ましいことに思うています。さりとて侍が町奴の真似をして、八百八町をあばれ歩くは、いたずらにお膝元を騒がすばかりで何の役にも立つまい。万一の時には公方様御旗の前で捨つる命を、
何さまこの伯母御ならば、白柄組の頭と仰ぐ水野十郎左衛門を向うに廻して、理を非にまげても自分の言い条をきっと押通すに相違あるまいと、お菊もひそかに想像した。しかし無暗にそんなことをされては、主人が恐らく迷惑するであろう。何といってこれに答えるかと、彼女は耳を引立てて聴いていると、果して播磨はあわててそれをさえぎった。
「いや、その儀には及びませぬ。伯母様が直々の御掛合などござりましては、水野殿も迷惑、手前も迷惑、その儀は平に御見合せを······」
「そりゃ私とても好むことではござりませぬ」と、真弓はいった。「そんならきっとあの衆の仲間入りをしませぬか。これから誓っておとなしゅうしますか」
「は」
それで話は少し途切れたかと思うと、伯母の声が又聞えた。それは今までと違って、いかにも親しみのある、優しい柔かい声であった。
「就いてはもうひとつの相談がある。お身が屋敷の内に落着かいで、とかくにそこらをのさばり歩く。それも所詮は我が家に控え綱がないからかと思います。お身ももう二十五で、人によっては二人三人の親になっているのもある年頃を、いつまで独身で過す気か。もう好いほどに相当の妻を迎えて、子孫繁栄のはかりごとをせねばなるまい。伯母は決して悪いことはいわぬ。この間もちょっと話した
お菊は襖を押倒すほどに身を寄せかけて、その一言一句をも聞き落すまいと耳を澄ましていた。
「名は
お菊は眼が
「折角でござりますが、飯田町の大久保殿は大身、所詮われわれ共の屋敷へは······」
「いや、その遠慮は要らぬことじゃ。大久保殿はあの通りの御仁、家柄の高下などを念に置かるる筈はない。殊にお身のこともよく知っておらるる。この伯母が頼みますとひと言いうたらきっと合点、それはわたしが受合います。どうじゃな」
この返事が一生の瀬戸である。お菊は息もしないでじっと聴いていると、播磨はすぐに返事をしなかった。伯母に督促されて、彼はこんなことを静かにいい出した。
「お言葉はよく判りましたが、余の儀とも違いまして、これは一生に一度のこと。喧嘩の相手ならば誰彼れを
「それも道理じゃ。今すぐにともいわれまい。よく分別した上で、あらためて返事を聞かしてくりゃれ。よいか」
「は」
お菊はほっとして、崩れるようにずるずるとそこへ小膝を突いた。そのはずみに
座敷の対話を終りまで聞き通さなかったのは残念であったが、播磨の返事でその成行きも大抵は推量された。伯母様から持出された縁談も今日はこのままでうやむやの中に済んでしまったらしい。しかしお菊は決して落着いてはいられなかった。小石川の伯母様が主人に妻帯を勧めるのは今日に始まったことではない。先月も一度その話のあったことをお菊は薄々知っていた。それがだんだんに切迫して来て、伯母様は今日もわざわざその相談のために早朝から出向いたらしい。何をいうにも相手が悪いので、主人はそれをきっぱりと断わることが出来るであろうか。普段から頭のあがらない伯母様の催促が二度三度と重なったら、その結果はどうであろうか。それを思うと、お菊は気が気でなかった。
彼女はふところ紙を出して、襟の汗を拭いた。汗がようよう収まると、入れ代って両の
お菊がこの屋敷へ奉公に来た明る年、彼女が十七の春の末、丁度今から一年ほど前のおぼろ月夜に、白柄組の友達が三、四人たずねて来て、いつものように小酒盛が始まった。その時には水野十郎左衛門も来た。水野は酌に立ったお菊がひどく気に入ったらしく、主人の前で彼女を褒めた。ほかの者共も口を揃えて褒めた。心にもない世辞や追従をいわないのを誇りとしている彼等が揃いも揃って褒める以上、それが主人に対する世辞でないことは判っていた。
客が帰って、座敷を片付けてしまうと、播磨はお菊に茶を所望した。それはもう四つ(午後十時)過ぎで、半分ほど咲きかかった軒の桜が
お菊は胸の奥に彫り付けられているその夜の夢を今更のように思い泛べた。若い主人と若い腰元との恋はそれからだんだんに深みへ沈んで行って、播磨はきっとお前を宿の妻にするとお菊に誓った。お菊もその約束を忘れなかった。彼女の母が不安を
台所ではお仙と奴との話し声がまだ聞えるので、お菊は急に起って懐ろ鏡を取出した。鏡にうつる泣顔を直して、彼女も台所へ出てゆくと、権次も権六も春の日に光る銀の毛抜で鎌髭を悠々と繕いながら、あがり框に大きい腰を列べていた。お菊の顔を見ると彼等はきいた。
「伯母御はまだ帰られぬか」
「お話はなかなか済みそうもござりませぬ」と、お菊はいった。「しかしいつものお叱言ではないようでござります」
「そりゃ珍しい」と、権次は笑った。「今年の梅雨はひと月早いかも知れぬぞ。しかしあの伯母御がお叱言のほかに何のお話があることかのう」
「もしや御縁談のことではあるまいか」と、お仙が口をいれた。
「うむ、そのような噂も聞いた」と、権六は気のないようにいった。「あの伯母御もよくよく世話焼きじゃと見えて、何の
「奥様をお持ちなさるまいか」と、お菊は探るようにきいた。
「そりゃお断わりに決まっているわ」と、権次もいった。
「飯田町の大久保様の娘御というのをお前達は御存知か」と、お菊は又きいた。
生ぬるい女子などを眼中に置いていない奴どもは、よその屋敷の娘などは知らないといった。しかし大久保は男の児のない家であるから、嫁にやるというのは二番娘であろう。妹娘は姉よりも器量がすぐれて好いという評判であるが、一度も見たことはないと彼等は話した。
「そのように美しいのかえ」と、お菊はふるえ声で念を押した。
「という噂だけのことじゃよ」
奴どもは身にしみて相手にもなってくれなかった。
伯母が帰るのを送り出して、播磨もすぐにどこかへ出て行った。権次も権六も供をして出た。
この頃の長い日はなかなか暮れなかった。一旦出たが最後、なん時戻って来るか判らないのがいつもの癖と知っていながら、お菊は今日に限って主人の戻りが待ち
世間からいえば、主人の播磨は手に負えない暴れ者であるかも知れない。伯母からいえば喧嘩好きの厄介者であるかも知れない。しかもお菊の眼から見れば、それが如何にもまことの男らしい竹を割ったように真直ぐな、微塵も
お菊は今もそう信じている。しかも彼女の心の底に暗い影を投げかけるのは、銘々の身分という悲しいむごい人間の
このむごい掟は主人と家来との間ばかりでない。親類縁者の間にもこの掟は動かない石となって横たわっていた。父なき時は伯父を父と思えとある。母なき時は伯母を母と思えとある。従って父もない、伯父もない、母もない、青山播磨のような一本立の人間に対しては、伯母が最も強い者であった。彼女が親の権利を真向にかざして圧しつけて来る時に、それを跳ね返すのは並大抵のことではない。殊に白柄組の申合せとして、第一に義理を重んぜよとある以上、その同盟者たる青山播磨は伯母の権利を
これを煎じつめて行くと、伯母は甥をおしつけて無理に婚姻を取結ばせる。主人は家来をおしつけて無理に恋を捨てさせる。こうした悲しい運命の落ちかかって来る日がないとは受合われない。お菊の取越し苦労はそれからそれへと強い根を張って来た。
「殿様はそんな
彼女は又思い直して、自分の狭い心を自分で嘲った。人間の掟も浮世の義理も、所詮は男の心ひとつである。頼む男の性根さえしっかりと極まっていれば、どんな嵐も恐れるには及ばない。男の梶のとり方ひとつで、どんな波風と闘ってもきっと向うの岸へ流れ寄ることが出来る。主人も家来も今更考えるには及ばない。青山播磨は詐りのない男である。自分は唯一心にその男の手に
お仙は自分の夏衣の縫い直しにかかっていたが、日永の針仕事に彼女も
主人の留守を承知していながら、彼女はその居間の方へふらふらと行って見たくなった。用人の詰めている部屋を覗くと、十太夫も小さい机に倚りかかって、半分は眠ったように白髪頭をかしげていた。お菊はぬき足をしてそこを通り過ぎて、主人の居間の縁先に立つと、軒の大きい桜もきのうにくらべると白い影が俄かに
その眼をそっと拭きながら、翻える花のゆくえをじっと見送ると、小さい吹雪は迷うように軽くなびいて、庭の井筒の上に吹き寄せられた。井筒のそばには一本の細い柳が水を覗くように立っていた。お菊は庭下駄を穿いて井筒のそばに寄った。そそけた島田の
殿様は小判二枚を母に下されたのである。母も驚いたが、自分も驚いた。帰る時に御門の外まで送ってゆくと、母は案外の下され物に何だが[#「何だが」はママ]不安を懐いているらしく、繰返してそれをほんとうに頂戴してもいいのであろうかと念を押すように自分にきいた。勿論、普通の奉公人の親に対しては格外の下され物である。母の怪しむのも無理はなかった。彼女は母に安心をあたえる為に、その不思議でない入訳を
泣いていいか、笑っていいか、今のお菊には見当が付かなくなった。それでも彼女の眼からは涙の雫が訳もなしに流れて落ちた。彼女は柳の青い枝に縋りながら、井筒の上で心ゆくばかり泣いていたかった。
「菊。何を致しておる。頭の物でも落したか」
不意に声をかけられて見返ると、主人の播磨は笑いながら縁先に突っ立っていた。
「お帰りでございましたか。一向に存じませんで······」と、お菊は袂で眼を拭きながら慌てて会釈した。
播磨は無言で招いた。招かれてお菊は縁先に戻ったが、その泣顔を覗かれるのを恐れるように彼女は白い襟もとを見せて、足もとに散る花を伏目に眺めていた。
「菊。泣いていたな。何を泣く。朋輩と喧嘩でも致したか。十太夫に叱られたか」
お菊は恥らうように黙っていた。
「隠すな。仔細をいえ。但しは井筒へ身でも投ぐる積りか」と、播磨は又笑った。
どこで飲んで来たのか、若い侍の
「泣きは致しませぬ」と、お菊は
「では、顔を向けて見せい。はは、見せられまい」と、播磨はなぶるように又いった。「正直にいわぬと暇をくれるぞ」
ぎょっとしてお菊は顔を上げた。暇をくれる||それが今の彼女には冗談として聞き流すことが出来なかった。抑え切れない
「はは、暇をくれる······それは戯れじゃ。腹を立てるな。それともほかに仔細があるか。仔細をいわねばこそ、こちらからもついなぶるようにもなる。腹を立つるほどなら仔細をいえ」
お菊は自分がどんな端下ない風情を男に見せたかと思うと、恥かしいのを通り越して急に悲しくなった。彼女は振袖に顔をうずめて縁に泣き伏した。
「はて、泣虫め。そのような弱虫が白柄組の侍の女房になれるか」
ここぞと思って、お菊は泣きながら
「侍の女房······この菊が侍の女房になれましょうか」
「いうまでもない。青山播磨も侍の端くれではないか。その妻ならば······」
「でも、小石川の伯母様が······」
「おお。知っているか」と、播磨は事もなげにいった。「いかに苦手の伯母御でも、こればかりは無理圧しつけもなるまいぞ。それでそちは泣いていたのか。はは、馬鹿な」
播磨は陰らない声で高く笑った。あまり手軽く打消されてしまったので、お菊も少し張合い抜けがしたように、泣き
「播磨を疑うな」
主人は腰元の手を取った。
それから又十日ほど経って、播磨は渋川の屋敷へ呼ばれた。それは縁談の返事の催促に相違ないとお菊は思った。彼女は小石川から帰った主人の顔色によってその模様を判断しようとあせったが、年の若い、しかも恋にくらんでいる彼女の陰った眼では、とても自分の男の顔から秘密を探り出すことは出来なかった。さりとて、妬みがましい
播磨を疑うな||この一句を杖と縋って、お菊は
「小石川の御屋敷へたびたびの御招きは何の御用でござりましょう」
お菊はそれとなしに十太夫にきくと、無頓着の用人も頭を傾けた。
「おれには判らぬ。いつものお叱言か、それとも奥方でも呼ばれる御相談か。大方そんなことであろうよ」
「奥様をお呼びなされましょうか」
「殿様ももう二十五、そんなことがないともいわれぬ」
「殿様がじかにそう仰せられましたか」
「いや、何にも聞かぬ」
用人でも若党でも奴でも、この屋敷の者は誰も初めから女のことなどを問題にしていない。奥様が来ようが来まいが、どうでも構わぬと澄ましているので、お菊は誰を相手にしてもこの問題の成行きを探り出すことは出来なかった。彼女は一人でいらいらしていた。色恋に対してそういう無頓着な人間ばかりが揃っているのは、主人と自分との秘密をつつむには都合が好かったが、なまじいに今までその秘密を包みおおせて来ただけに、この場合になってお菊は自分の味方を見付けることも出来なかった。女同士のお仙も相談相手にはならなかった。
あしたは
「暮六つからの会合の約束だ。支度を怠るな。かの
家来どもに申し付けて、播磨は午頃からどこへか出て行った。今日は女たちの忙がしい日である。十太夫も若党共も手伝って、大の男が袴の股立ちを取って酒や
「まずこれであらましは
「時刻はまだ早いが、例の大切の品を今のうちに取出しておこうか。お菊もお仙も一緒にまいれ」
二人の女は用人のあとに付いて、奥の土蔵へ行った。古い蔵は物置同様で、
武士の家で何故こんな器を大切にしているのか、その仔細はよく判っていないが、世に珍らしい品であるから大切にするという意味がだんだんに強められて来て、いつの代からかこの皿をことごとく割る時は家が亡びるという怖ろしい伝説さえも生まれて来た。
そんな面倒な宝物を迂濶に取出すは危険であるので、播磨の代になってからは滅多に用いた事もなかったが、どこでそれを聞き出したか、水野は今夜の会合に就いて主人の播磨にいった。
「貴公の家には稀代の高麗皿があるとか承る。あすの夜には是非一度拝見いたしたい」
「承知いたした」
播磨は快く承知して、今夜の料理を盛る器の中に彼の高麗皿十枚を加えろと十太夫にいい付けたのである。お菊もお仙も虫干の時に箱に入れられたその皿を取扱ったことはあるが、料理の膳に上せるのは今夜が初めてであった。その皿に就いて、かの怖ろしい伝説や、厳しい掟のあることは、かれ等もかねて承知していた。
「いうまでもないが、大切の品であるぞ。くれぐれも油断いたすな」
今も十太夫に念を押されて、二人の女は今更のようにおびえた。彼等は用心に用心を加えて、箱入りの皿を土蔵の奥からうやうやしく捧げ出して来ると、十太夫は箱の
「よい、よい。くどくも申すようだが、用心して取扱え。一枚でも割るはおろか、瑕をつけても大事になるぞ」
全くこれは大事である。命にもかかわる大事である。それを思うと、お菊もお仙も身の毛がよだつ程に怖ろしかった。二人はふるえる手先にその皿をうけ取って、座敷へいよいよ運び出すまでは元の箱へ大切に収めておくことにした。
「もう七つを過ぎた。殿様もやがてお帰りになろう。気の早いお客人はそろそろ押掛けてまいらりょうも知れぬ。お菊は奥へ行って、お座敷は
十太夫に指図されて、お菊はすぐに奥の座敷へ行った。薄く陰った日で、余り手入れをしない庭の若葉は、この頃だんだんに緑の影を盛り上げて、十畳二間を明け放した書院の縁先を暗くしていた。その薄暗い座敷の床の間には、お菊がけさ生けた山吹が黄い花をたわわに垂れていた。彼女はその枝振りを心ばかり
「これで手落ちはない。
独り言をいいながら彼女はうっとりと縁に立っていた。隣屋敷の沈んだ琴の音が若葉をくぐってゆるく流れて来るのを、彼女は聴くともなしに耳を傾けていたのであった。
琴のぬしをお菊は知っていた。それは隣屋敷の
お菊はいつまでも縁の柱に身を寄せて、引入れられるようにその唄と音色とに聞き
それはあの高麗焼の皿である。青山の家の宝物という十枚の皿である。お菊はその一枚を打砕いて、播磨の愛情の深さを測ろうと思いついた。ついした疎匆で大切のお皿を損じましたと、主人の前に手をついた時に、播磨は何というか、自分をどうするか。彼が真実自分を愛しているならば、たとい家の宝物を破損しても深くは
「いっそ疎匆の振りをして、あのお皿を一枚打ち
こう思いつきながら彼女はさすがにまた躊躇した。その皿が
男に愛情がない以上、自分はどの道生きてはいられないのである。男に真の愛情があれば、宝を損じても自分は確かに生きられるのである。お菊は命賭けで男の魂を探ろうと決心した。たとい一枚でも大切の宝をむざむざ打毀すのは
隣の琴の音はまだ続いていた。お菊は魔の
「あれッ」
お菊のただならない叫び声を聞き付けて、十太夫が台所へ出て来た時には、高麗皿の一枚が砕けていた。物に頓着しない十太夫も眼の色を変えて慌てた。お菊は疎匆で大切の皿を取落したといった。
「さっきもあれ程に申聞かせて置いたに、かような疎匆を
お菊は自分の部屋へ
「思いも寄らぬ
主人の顔を見ると、十太夫はすぐに訴えた。
「思いも寄らぬ椿事······。十太夫にも似合わぬ、何をうろたえておる」と、播磨は笑っていた。
「いや、わたくしもうろたえずにはおられませぬ。殿様。大切のお皿が一枚損じました」
播磨の顔色も
「何、大切の皿を損じた······」
「腰元の菊めがあやまちで、真っ二つに打割りました」
「菊を呼べ」
呼び出されてお菊は奥へ行った。彼女は割れた皿を
「菊。高麗皿はそちが割ったに相違ないか」
自分の疎匆に相違ないとお菊は尋常に申立てた。お家の宝を損じたのは自分が重々の不調法であるから、どのようなお仕置をうけてもお恨みとは存じませぬといった。
「まず以って神妙の覚悟だ」と、播磨はうなずいた。「青山の家に取っては先祖伝来大切の宝ではあるが、疎匆とあれば深く咎める訳にはまいるまい。以後はきっと慎めよ」
以後を慎むのはいうまでもない。大切の宝を破損した咎めは、唯これだけで済んでしまったのである。お菊は張りつめた気が一度にゆるんで、
「今夕の来客は水野殿を上客としてほかに七人、主人をあわせて丁度九人だ。皿は一枚欠けても差支えない」
「御客人の御都合はともあれ、折角十枚揃いましたる大切の御道具を一枚欠きましたる菊めの罪科、わたくしも共々にお
播磨の顔色はだんだんに解けて来た。いつまでも縁に平伏したままで、微かにおののかせているお菊が黒い鬢のうねりを、彼は灯の影にじっと見つめていたが、やがて薄い笑いをうかべて十太夫を見かえった。
「いや、いや、心配いたすな。たとい先祖伝来とは申せ、武具馬具のたぐいとは違うて、所詮は皿小鉢じゃ。わしはさのみに惜しいとは思わぬ。しかし、昔かたぎの親類縁者どもに聞かせると面倒だ。表向きはやはり十枚揃うてあることに致して置け。よいか」
「重ね重ねありがたい御意、委細承知仕りました。菊、あらためてお礼申せ」
お菊は無言で頭を下げた。彼女は胸が一杯に詰まって、もう何にもいうことが出来なかった。感激の涙が止め度もなしに
「御客人もやがて見えるであろう。十太夫は玄関に出迎いの支度をいたせ」と、播磨は用人を表へ追いやった。割れた皿と、それを割った若い女とが後に残った。
「飛んだ疎匆をいたしまして、何とも申訳がござりませぬ」と、お菊は初めて口を開いた。
その声の低く顫えているのは、彼女が疎匆を悔いているものと播磨は一図に解釈したので、彼は
「はて、くどくど申すな。一度詫びたらそれでよい。まことをいえば家重代の宝、家来があやまって砕く時は、手討にもするが家の掟だが、余人は知らず、そちを手討になると思うか。砕けた皿は人の目に立たぬように、その井戸の底へ沈めてしまえ」
「はい」
また湧いて出る涙を拭きながら、お菊は欠けた皿をとって庭に降りた。長い袂は柳の枝をゆるがせて、家の宝の一枚は水の底に沈められてしまった。
「実はさっき水野殿に行き逢うたら、腰元の菊はまだ無事に勤めているかと
「左様でござりましたか」
「水野殿はそちがきつい
機嫌の好い、いつものように美しい、陰りのない男の顔を見て、お菊は悲しいほどに嬉しかった。たとい疎匆にもせよ、家の宝を破損したという自分に対して、何のむずかしい叱言もいわないで、却って優しい言葉をかけてくれる||男の心があまりに判り過ぎて、お菊は勿体ないようにも思った。由ない惑いから大切の宝を打毀した自分の罪がいよいよ悔まれた。安心と後悔とが一つにもつれて、彼女は又そっと眼を拭いた。
縁伝いに
「殿様。菊めは重々
秘密は忽ち暴露された。お菊が皿を損じたのは疎匆でない。台所の柱に打付けて自分がわざと打割ったのである。それは下女のお仙が井戸のそばから遠目にたしかに見届けたというのであった。疎匆とあれば致し方もないが、大切のお宝をわざと打割ったとは余りに法外の仕方で、たとい殿様が御勘弁なさるといっても、自分が不承知である。その菊めはきっと吟味しなければならないと、十太夫は声を
播磨も案外に思った。お菊に限らず、この屋敷の内にそんな乱暴を働く者が住んでいようとは信じられないので、彼は自分の耳を疑いながら、ともかくも念のためにお菊にきいた。
「どうだ、菊。十太夫はあのように申しておるが、よもやそうではあるまいな。はっきりと申開きをいたせ」
この上にも男をあざむくのは、お菊の忍ばれないことであった。証人は単にお仙一人である。たとい彼女が何と訴えようとも、こちらが飽までも疎匆と主張している限りは、所詮水掛論に過ぎない。まして殿様はこちらの味方であるから、自分が強情を張り通せばきっと勝つのは知れている。しかも彼女はその詐りを再び繰返す勇気がなかった。男の誠心を十分に認めながら、自分は詐りを以ってこれに酬いるのは、余りに罪が深いと思った。彼女は素直に白状した。
「実は御用人様の仰しゃる通り、わたくしの心得違いから、わざとお皿を打割りました」
播磨は焼がねを掴ませられたように驚いた。故意に主家の宝を傷つくる、そんな不心得の人間が自分の屋敷の内に巣をくっていようとは、夢にも思っていなかったのに、それが自分のふところから見出されたのである。彼は腹を立てるよりも、ただ驚いて怪しんだ。
「さりとて菊めも気が狂うたとも思われぬ。これには何か仔細があろう。わしが直々に吟味する。そちはしばらく遠慮いたせ」
十太夫は又追いやられた。割れた皿はもう井の底に沈んでしまった。今度は皿を割った女と主人との差向いである。それでも播磨はやわらかに詮議した。
「これ、菊。そちは何と心得て、わざと大切の皿を割った。家の掟で、その皿を割れば手討になる。それを知りつつ自分の手でわざと打割ったには仔細があろう。つつまずいえ」
「この上は何をお隠し申しましょう。由ないわたくしの疑いから······」
「疑い······とは何の疑いだ」
「殿様のお心を疑いまして······」
いいかけてお菊は今更のように身をわななかせた。播磨は眼を据えて聴いていた。
「この間もお耳に入れました通り、小石川の伯母御様の御なこうどで、飯田町の御屋敷から奥様がお
「うむ。さてはこの播磨がそちを唯いっ時の花と眺めておるか。但しはいつまでも見捨てぬ心か。その本心を探ろうために、わざと家の宝を打割って、宝が大事か、そちが大事か、播磨が性根をたしかに見届けようと致したか。菊、しかと左様か」
「はい」
「それに相違ないか」と、播磨は念を押した。
「はい」
二度目の返事が切れないうちに、お菊はもう板縁の上に
「おのれ、それ程までにして我が心を試そうとは、あまりといえば憎い奴」
男の魂は
今夜は客来があるというので、お菊は新しい晴れ衣を着ていた。それは自分の名にちなんだ菊の花を、薄紫地へ白に黄に大きく染め出した振袖であったが、その袖も袂も男の強い力に掴みひしがれて、美しい菊の花もくだくるばかりに揉み苦茶になった。それを着ている女のからだも一緒に揉み苦茶になって、結い立ての
「その疑いももう晴れました。お
女の疑いは晴れたといっても、疑われた男の無念は晴れなかった。小石川の伯母が何といおうとも、決してほかの妻は迎えぬとあれほど誓ったのを何と聞いた。何が不足でこの播磨を
お菊も涙にむせびながら詫びた。殿様のお心に陰りのないことは、自分もふだんから知っている。それを知っていながらも、女のあさい心からつい疑ったのは重々の誤りであった。どうぞ堪忍してくれと、彼女も血を吐くような声で男に訴えた。
それでも播磨は堪忍することが出来なかった。女に疑われた、重代の宝を打割ってまでも試された||彼は男の一分を立てるために、どうしてもその女を殺さなければ我慢が出来なかった。彼は涙の眼をいからせて、女に最後の宣告をあたえた。
「今となっていかに詫びても、罪のない者を一旦疑うた罪は生涯消えぬぞ。さあ、覚悟してそれへ直れ」
お菊をそこへ突き放して、播磨は刀掛の刀を取りに行った。隣の琴の音はもう聞えなかった。
お菊が故意に皿を割ったのは事実であった。お仙は決して嘘をいったのではなかった。女の口軽にふとそれを十太夫に洩したのであったが、お仙も後でそれを悔んだ。自分が由ないことを口走った為に、万一お菊が手討に逢うようなことがあっては大変である。お菊の恨みは怖ろしい。彼女は落着いていられなくなって、そっと忍んで奥の様子をさぐると、お菊は主人に手ひどく
彼女は十太夫のところへ行って、お菊の取りなしを頼んだが、十太夫はその問題に就いてお菊にあまり同情をもっていないらしいので、お仙はいよいよ気をあせって、更に奴の権次と権六とに縋った。
お菊の罪は重々である。どんな仕置に逢っても仕方がない。しかし奴どもの眼から見ればたかが女子である。骨のないくらげの豆腐を料理しても何の
その訴訟のうちに、いかに大切な宝であるとしても、人間ひとりの命を一枚の皿と取換えようとするのは、あまりに無道の詮議であるというような意味を権次は洩した。
「播磨が今日の無念さは、おのれ等の知るところでない。いかに大切の宝であろうとも、人間一人の命を皿一枚に換えようとは思わぬ。皿が惜しさにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡ちがいだ。十太夫を呼べ」
播磨は十太夫を呼んで、更に四五枚の皿を持って来させた。そうして、その皿を刀の鍔に打当てて、ことごとく微塵に打砕いてしまった。
「播磨が皿を惜しむのでないことは、これでおのれ等にも合点がまいったであろう。菊を成敗するのはほかに仔細があって、おのれ等の知らぬことだ。しかし菊には覚悟のある筈。未練なしに庭へ出い」
「はい」
お菊は悪びれずに庭に降りた。潔白な男の誠を疑った自分の大きい罪を、彼女は十分に自覚していた。男がそれを免さないのも無理はないと思った。それと同時に、女が一生に一度の恋をして、その男に詐りのなかったことを確かに見極めた以上、自分は死んでも満足であると思った。彼女は取乱した姿をつくろって、土の上におとなしくひざまずくと、若葉を渡る冷たい風がそよそよと彼女のくだけた鬢を吹いて通って、座敷の燈火を瞬きさせた。お菊はその灯影に白いうなじを見せて、俯向いて手を合わせた。
播磨は刀をとって薄暗い庭に降りた。十太夫も奴共ももう黙って見物しているよりほかはなかった。血の匂いに馴らされている彼等も、さすがに若い女の悼ましい死を見るに堪えかねて、少しく伏目になっていると、やがて太刀音がはたと聞えた。つづいて主人の声がきこえた。
「女の死骸を片付けい」
三人が眼をあげると、お菊は右の肩先からうしろ
権次と権六はお菊の死骸を抱え起して井戸の中へ静かに沈めると、女を呑み込む水の音が暗い底に籠るように響いた。播磨はその置燈籠に灯を入れろといった。やがて燈籠が明るくなって、井の端の柳かげを薄白く照すと、播磨は静かに歩み寄って井筒の底を覗いた。彼は十太夫にいい付けて、自分の砕いた幾枚の皿も皆な井戸へ投げ込ませた。青山の家重代の宝も、播磨が一生の恋も、すべてこの井戸の深い底に葬られてしまった。
暮六つの鐘がひびいた。
「御客人はなぜ遅い」
播磨は座敷へ帰って眉を寄せた。十太夫も不安に思って門前まで見に出ると、門番の与次兵衛は彼に囁いた。自分が確かに見たのではないが、そこらで白柄組と町奴との喧嘩があるとかいう噂である。もしやそれが水野殿のひと群れではあるまいかとのことであった。聞き捨てにならないので、十太夫はすぐに奥へ引っ返して主人に報告すると、播磨は半分聞かないで起ち上った。
「よし。播磨がすぐに駈け付けて、憎い奴等を追い散らしてくれるわ」
彼は袴の股立ちを高く取った。なげしに掛けてある槍を卸すと、その黒い
これから思うさま暴れ狂って、人間の五人、三人を槍玉にあげなければ気が済まないように思っていた播磨は、忽ちに失望させられた。彼は屋敷の門を出て、まだ一町と駈けてゆかないうちに向うから水野のひと群れが来るのに出逢った。
「喧嘩は······」と、播磨は
「いや、何もない」と、先に立っている水野が笑いながら答えた。「きょうは一度も喧嘩はない。地獄の餓鬼も非時には有り付かれぬ。ははははは」
だんだん訊くと、それはこの群れではなく、ある侍が町人を捕えて何か無礼咎めをしていたのが、実際よりも大きい噂を伝えられたものと判ったので、播磨はいよいよ失望した。今は邪魔物の大身の槍を奴に担がせながら、水野を案内して屋敷へ帰る途中、いい知れない寂しさが
水野のほかに七人の客は座敷へ通された。賑かな酒宴は開かれた。その席にお菊の姿が見えないので、水野は主人にきいた。
「わしが贔屓の腰元は見えぬな」
「腰元······かの菊と申す腰元は、唯今手討にいたした」と、播磨は少し沈んだ声でいった。
「手討······。むごい仕置だな」と、水野も一文字の眉を少し皺めた。「どのような過ちをいたした」
高麗皿を打割った仔細を聞かされて、水野はいよいよ暗い顔をした。
「わしがその皿を見たいといった為に、女子一人を殺したか」
「殺しても仔細ござらぬ。罪のある者が殺さるるは人間の掟でござるよ」
播磨は俄かに大きい声を出して笑った。自分が打毀した皿の残りがまだ三四枚あるのを持出させて、彼は水野に見せた。
水野も褒めた。ほかの者共も褒めた。いくら褒められても、播磨は何とも感じなかった。彼はただ無暗に酒を飲んで、時々に大きな声で笑った。
「この間あるところでお身の伯母御に逢ったよ」と、水野はいった。「伯母御はお身の喧嘩好きを苦に病んでわしに意見してくれいと当て付けらしく申しておった。はははは。あの伯母御もなかなか曲者だ。言葉争いでは
「はは、なんの伯母御が······」と、播磨は気味の悪い顔をしてあざ笑った。「二口目には勘当の縁切のと嚇しても、もうその手では行かぬ。あたら男一匹がこれから何をして生くる身ぞ。八百八町をあばれ歩いて、毎日毎晩喧嘩商売······。このほかに播磨の仕事はござらぬ」
「つよいのう」と、水野も笑っていた。
客の帰ったあとで、播磨は残りの高麗皿を皆んな打砕いて、同じ井戸の底へ投げ込んでしまった。この皿がみんな損じる時には家がほろびる||こんなことを彼は何とも考えてなかった。
それから後の彼の気性はいよいよ暴くなった。恋と宝とを同時に失った彼は、もう喧嘩商売で生きてゆくよりほかに途がなかった。さなきだに喧嘩好きの彼は、血をなめた虎のようになって江戸中を暴れて歩いた。暴れ者をあつめた白柄組の中でも、彼の行動が取分けて眼に立った。時には頭の水野にすらも舌を巻かせることがあった。
飯田町の縁談などは無論に蹴散らしてしまった。渋川の伯母にも無論に勘当されてしまった。彼は二人の鬼奴を両のつばさにして、ゆく先々で喧嘩を買って歩いた。こうして足かけ五年を送る間に、彼の家は空屋敷のように荒れてしまった。
それには仔細があった。彼が腰元を手討にして井戸の底に沈めたという噂が、それからそれへと伝えられて、彼の屋敷には一種の怪異があるといい触らされた。雨の降る暗い夜には井筒の上に青い鬼火が燃えると伝えられた。菊の模様の振袖を着た若い腰元が悲しげな声で皿を数えるとも伝えられた。||下女のお仙は早々に暇を貰って在所へ逃げて帰った。番町の皿屋敷||この幽怪な屋敷の名が女どもの魂をおびえさせて、誰もこの屋敷へ奉公に来る者はなかった。若党の鉄之丞はその幽霊の影を見たというので、さすがの若者も肝を冷され病気になって、とうとうこの屋敷を逃げ出してしまった。もう一人の弥五郎は喧嘩で死んだ。門番の与次兵衛も幽霊を怖れて暇を取った。こうして男女の家来がだんだんに減っていくので、暗い屋敷のうちはいよいよ寂しくなった。誰も碌々に掃除する者もないので、座敷も庭も荒れるがままに捨てて置かれて、化物屋敷というには全くふさわしいような廃宅の姿になった。七百石の武家屋敷はおどろに生い茂る草原の底に沈んで見えた。
化物の噂などを主人の播磨は念にも置いていなかった。鉄之丞が幻の影を見たといった時に、彼は頭からその臆病を叱りつけた。弥五郎の死んだのを彼は惜しいとは思わないではなかったが、それよりも更に強い打撃を彼にあたえたのは、奴の権六を失ったことであった。権六も喧嘩で死んだ。彼は
この喧嘩は白柄組が
あとに残った侍は七、八人に過ぎなかったが、それでも必死になって戦った。町人にうしろを見せては一生の名折れであると、水野は歯がみをして憤ったが、どうしても頽れかかった勢を盛返すことは出来なかった。彼は生捕りになるのを恐れて、馬を早めて逃げた。最後まで踏み止まっていた播磨も遂に逃げた。権六の討死したのはこの時であった。権次は幸いに命を助かったが、左の足に深手を負ったのがもとで、とうとう
両の翼と頼んだ奴が、一人は死んだ。一人は不具になった。播磨は自分の影が急に
そのうちに白柄組のほろびる時節が来た。日本堤で旗本が町奴に襲われて、さんざんに追い散らされたという噂が江戸中に拡まったので、幕府でももう捨て置かれなくなった。白柄組の乱暴は近ごろ上役人の眼にも余って、何とか処置をしなければならないという評議まちまちであるところへ、
「白柄組ももう終りだ」
これは味方の口から一度に吐き出された嘆息の声であった。播磨はその悲哀を最も痛切に感じた。頭を失った白柄組が今までのように栄えよう筈がない。殊に今後は自分等に対する上の圧迫が非常に強くなって来て、手も足も出すことが出来なくなるのは判り切っている。水野を亡ぼしたのは自分等に対する一種の見せしめである。この厳重な仕置に懲らされて、白柄組は自然に消滅するよりほかはない。たとい切腹ほどでなくても、自分等も早晩なにかの咎めを蒙るかも知れない。閉門ぐらいは覚悟しなければなるまい。閉門は一時の事でさのみ恐れるにも足らないが、それらの有形無形の圧迫のために白柄組が滅亡する。その運命が播磨には悲しく感じられた。
白柄組の滅亡を悲しむ者は勿論彼一人ではあるまい。しかし他の者どもは白柄組を離れても立派に生きて行かれるのであるが、播磨は白柄組を離れて喧嘩商売をやめては、もう生きて行く途がないのである。恋を失った心の痛みを毎日毎晩の喧嘩で
二十七日に切腹した水野の葬式は二十九日の夕方に
「渋川の伯母御様お待ち兼ねでござりまする」と、十太夫は玄関に出て主人にいった。
久しく音信不通の伯母が今夜どうして突然にたずねて来たのかと怪しみながら、播磨は
「久しゅう逢いませぬ。月日は早いもの、もう足かけ五年になります」と、真弓は甥の顔を懐かしそうに眺めた。「苦労でもあるかして、顔も見違えるように
なまじいに優しくいわれるのが、今の播磨には辛かった。彼は破れた畳に手をついて無沙汰の詫びをいった。
「伯母様を始め、伊織助夫婦の衆の御安否をうかがいとうは存じながら、何分にも勘当の身の上で、おのずと
「勿論のこと。一旦勘当したお身を屋敷へ寄せることはなりませぬ。無沙汰はたがいでいうことはない。その伯母が今夜押掛けて来たのはほかでもない」と、いいかけて真弓はあたりを見廻した。「屋敷内もひどく荒れ果てましたな。成る程これでは化物屋敷、世間の噂に嘘はない。痩せても枯れても七百石の屋敷をこれほどに住み荒して······。いや、屋敷の荒れたのは作り替えもなる。心の荒れ果てたのは容易に作り替えはなるまい。というたら、この伯母が又叱りに来たかとも思おうが、今夜はもう何にもいいませぬ。伯母甥のよしみにたったひと言いいたいのは······。これ、播磨。このたびの水野殿の切腹、お身は何と思やるぞ。あれほどの激しい気性のお人でも、命はよくよく惜しいと見ゆる」
嘲るような口振りに、播磨は少しせいた。
「何、命が惜しいとは······」
「惜しければこそ日本堤から逃げたのではあるまいか。いや、そこを逃げただけならば、まだしも言訳は立つ。万一その場で斬り死して、
こういわれると、播磨も行き詰まった。水野は命を惜しむ
「水野殿は格別、伯母の心にかかるは甥の殿の身の上じゃ。勘当しても甥は可愛い。今までのことはともかくも、この上に恥を重ねぬ分別が肝要と、わたしが知慧を貸しに来ました。白柄組の頭と頼む水野殿が亡びた以上、お身達とても安穏では済むまい。何かの御咎めのないうちに、いっそ見事に腹を切りゃれ」
播磨はやはり黙って聴いていた。
雨はまだ
書いてしまって、彼は暗い庭を見た。濡れた柳は長い髪を垂れた女のように、井筒の上に低く
見るから冷たそうな青い火がちろちろと揺れると共に、若い女の姿がまぼろしのように浮きあがった。頽れた島田のおくれ毛が白い顔に振りかぶって、菊の模様の振袖を着ている女||それがお菊であることを播磨はすぐに知った。世間に伝えられる皿屋敷の幽霊を彼は今夜初めて見たのであった。
「菊」と、彼は縁先へ出て声をかけた。
鬼火は又消えたが、お菊の立姿はまだそこに迷っていた。播磨は再び呼んだ。
「菊。顔を見せい」
幽霊は静かに顔をあげた。それは生きている時とちっとも変わらないお菊の美しい顔であった。怨みも妬みも呪いも知らないような、美しい清らかな顔であった。播磨は思わずほほえまれた。
「菊。播磨も今行くぞ」
女の顔にも薄い笑みが浮んだようにも見えたが、今ひとしきり強く吹き寄せた風に
お菊の魂は自分を怨んでいない。こう思うと、播磨は
「播磨は今夜切腹する。十太夫は介錯の役目滞りなく致した上で、この一通を支配頭屋敷へ持参いたせ。青山の家滅亡はいうまでもない。その方どもはあとの始末を済ませた上で、思い思いに然るべき主取りせい」
主人は形見として幾らかの金をやったが、権次は辞退した。自分はもう生き甲斐のない不具である。今まで青山の奴と世間に
どちらも無理のない願いと見て、播磨は二つながらそれを許した。三人は型ばかりの
春を送る雨の音は井筒の柳の上にひとしお強くひびいた。十太夫は