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竈の中の顔

田中貢太郎




※(ローマ数字1、1-13-21)


「今日も負かしてやろうか」

 相場三左衛門あいばさんざえもんはそう云ってから、碁盤ごばんを中にしてじぶんと向いあっている温泉宿ゆやど主翁ていしゅの顔を見て笑った。

昨日さくじつは、あまり口惜くやしゅうございましたから、ねむらず工夫くふうしました、今日はそう負けはいたしません」

 主翁ていしゅは淋しそうに笑って手にした石をおろしはじめた。

「そうか、それは油断をせられないな、小敵しょうてきと見てあなどることなかれ、か」

 三左衛門はあっちこっちに石を置いている主翁の指端ゆびさきふるえを見ていた。それは主翁の神経的な癖であった。

「今日はそうは負けませんよ」

 主翁はひどく碁が好きであったが、それは所謂いわゆ下手へた横好よこずきで、四もくも五目も置かなければならなかった。それでも三左衛門は湯治とうじの間の隙潰ひまつぶしにその主翁を対手あいてにしていた。

「それでは負けないように願おうかな」

 三左衛門は江戸を出てこの箱根の山中さんちゅうへ来てからもう二十日はつかあまりになっていた。

「それでは、今日は勝ちましょうか」

 二人のおろす石の響きが思いだしたように響いていた。それは初夏の明るい日で開け放した障子しょうじの外はすぐ山路やまみちになっていて、そこをあがりおりする人の影が時とすると雲霧くもぎりのようにうっすらした影をいた。

「お客さんが来たのじゃないか」

 三左衛門は人の影とも鳥の影とも判らないものが映ったように思ったので注意した。

「お客さんは来るには来ましたが、このお客さんが悪いお客さんで、困っております」

 主翁は碁に夢中になっている。

「悪いお客なら、断らなくちゃならないな」

 三左衛門は笑いながら縁側えんがわの方へちょと眼をやった。色の蒼白あおじろせた僧がそこに立っていた。

「これは、旅僧たびそう

 三左衛門はちょと会釈えしゃくした。

「ちょっとのぞかしてもらいます、私もいたって碁が好きでな」

 僧も三左衛門に会釈を返した。その声に主翁がはじめて気がいた。

「や、これはお坊さんだな、まあ、どうかお掛けなさい」

「ちょっと覗かしてもらいます」

 僧は黒い破れた法衣ころもを着ていた。彼はかぶっている菅笠すげがさひもき解き縁側に腰をかけて、ななめに碁盤の上を覗き込んだ。

「さあ、それでは往こうかな」

 三左衛門は控えていた石をおろした。

「それでは、私もまいりましょうか、ここか、ここにしよう」

 主翁はもう僧のことも忘れてしまったように石をおろしだした。

「それでは、私はここにする」

 三左衛門のおちついた声にまじって、主翁のきょときょとした声が聞えた。

「またいけない、これとこれがつながった、お客さん、また負けました、もう駄目です」

 主翁ていしゅはがっかりしたように云った。三左衛門の笑い声が起った。

「今日は負けるはずじゃなかったが、どうした」

「どうも」

 主翁は右の耳際みみぎわを軽くいてからその眼を僧の方へやった。

「お坊さん、どうだね、私はどうも駄目だ」

「私も好きだが、どうも下手でな」

「同じ対手あいてより、ちがった対手が面白いものじゃ、ひとつやったらどうだな」

 僧はいやでないと云う顔をした。で、三左衛門が云った。

「ひとつ願いましょうか」

「とてもお対手になりますまいが」

 僧はそう云い云い縁側へあがって胡坐あぐらをかくようにした。

「そこは板の上だ、どうかこちらへ」

 三左衛門は僧を畳の上へあげようとした。僧はかしらって応じなかった。

「私は、石の上や板の上に慣れておる」

 そこで三左衛門は碁盤を前へ出して、一方のあし敷居しきいの上に載せるようにした。

「私とあなたとは、どうも互角ごかくのようだ、私がせんで往こう」

 僧は主翁の出した碁笥ごけに手をやった。

「私が先で往こう」

 三左衛門のことばうちに僧はもう石をおろした。

「それはいかん、私が先で往く」

「まあ、今度はこれで願いましょう」

 二人は石をおろしはじめた。三左衛門もゆったりとしておれば僧もゆったりとしていて、ただ石の音が丁丁ちょうちょうと響くばかりであった。

 そのうちに黒白こくびゃくの石が碁盤の上にいっぱいになった。三左衛門はじぶんの負けたことを知った。

「私が負けた、二三もくは負けたようだ」

 三左衛門はそれでも対手あいてが好いので面白かった。

「うんと多くて、二目でしょうよ」

 僧が云った。吟味ぎんみの結果は僧が云ったように三左衛門が二目の負けとなっていた。

「今度は私が先で往く」

 三左衛門がさきに石をおろしはじめた。僧は三左衛門の云うままになって後から石をおろした。勝負の結果は僧が二目の負けとなった。三左衛門は面白くてたまらなかった。

「今度は私がまたせんだ」

 僧がさきに石をおろした。

「これは面白い」

 主翁ていしゅも己のことのようにして喜んだ。


※(ローマ数字2、1-13-22)


 三左衛門と僧は夕方まで石を持っていたが、一勝一敗、先手せんてになる者が勝ち後手ごてになる者が負けて、はなはだしい懸隔けんかくがなかったので非常に面白かった。碁が終って僧が帰ろうとすると三左衛門が云った。

貴殿あなたは、どこか、このあたりのお寺に御逗留ごとうりゅうになっておりますか」

 三左衛門は僧を帰すのが惜しいような気がしていた。

「私は、この山の上にあんむすんでおりますよ」

 僧はって菅笠すげがさかしらに載せていた。

「では、またお対手あいてが願えますな、なんなら明日あすあたり、またお対手が願えますまいか」

「まいりましょう、私は碁と聞くとたまらない、明日も明後日あさっても、気が向いたら、毎日でも来てお対手をしましょう」

「それはかたじけない、私は退屈で毎日困っておるところじゃで」

「では、た明日お目にかかります」

 僧はそのまま簷下のきしたを離れてみちへおり、夕陽ゆうひの光の中を鳥の飛ぶように坂上さかうえの方へ登って往った。

「あんなお坊さんが、このあたりにおったか、なあ」

 主翁は気がかなかったと云うようにした。

「お前さんは気が注かなかったのか」

 三左衛門はもう温泉のことを考えていた。

「今日まで気が注きませんでした、さあ、どこにおりましょう、このあたりは、あんなお坊さんが好く往来ゆききしますから」そう云って主翁は何か思いだしたように、「そのお坊さんの中には、いろんなお坊さんがありますから、うっかりお坊さんと知己しりあいになってはいけませんが、あのお坊さんなら大丈夫でございましょう」

「何か坊主について、かわった話でもあるかな」

「へえ、おかしな話がありますよ、この山の中に、怪しいお坊さんがいて、そのお坊さんのことを云う者があると、そのお坊さんに生命いのちられると云いますが、それがどんなことやら、べつに何人だれが生命を奪られたと云う者もなければ、そのお坊さんを見たと云う者もないが、そんな噂をする者がありますよ」

「そうかな、まあ、まあ、怪しい坊主でも、碁が上手ならいな」

 翌日になるとの僧がまた来た。心待こころまちに待っていた三左衛門はすぐ碁盤を出して、まずじぶんせんでやってみた。先でやってみると昨日きのうのように勝った。そして、後手ごてでやるときっと負けた。僧はその日も夕方まで三左衛門の対手あいてをして帰って往った。

 僧はそれから毎日のように来た。三左衛門は何時いつも僧ばかりに来て貰ってもすまないように思うし、それにその僧がどんな生活をしているかそれも見たいので、己の方からも一度僧のもとへ往こうと思って某日あるひそれを云ってみた。

「何時も私の方へばかり来ていただいてはすまない、ぶらぶら遊びかたがた、私も一度うかがいたいと思うておるが」

「私のあんは、山の中のおおかみきつねのおる処で、べつに眺望も何もない、いやな処だから、どうか来るのはよしてくだされ」

「御迷惑ならなんだが、一度私からも伺わないとすまないから」

「いや、その御心配は無用にしてくだされ、私の処は、とても人の来る処じゃないから、折角せっかくだがそれはお断りしておきます」

「そうですかな」

 三左衛門は話を碁の方へ持って往った。

「では、また一つ願いましょうかな」

 僧は十日ばかりも続けて来たが、某日あるひ用事でも出来たのか待っていても来なかった。三左衛門は主翁ていしゅ対手あいてにして碁を打つ気もしないので、江戸かられて来ている若党わかとうともに伴れて戸外そとへ遊びに出た。

 初夏の山の中は嫩葉わかばに飾られて、見おろすみちの右側の谷底には銀のような水が黒い岩にからまって見えた。杜鵑ほととぎすの鳴くのが谷の方で聞えていた。三左衛門はどこか眺望のい処はないかと思って、本道ほんどうから折れて小さな峰の方へこみちを登って往った。

 こまだけであろう頂上の禿げた大きな山の姿が頭の上にあった。その山のいただきの処には蒼白あおじろい雲が流れていた。

 こみちは杉やひのきの林の中へ入った。大きな山の姿も空の色ももう見えなかった。檜の枝には女蘿さるおがせがかかって、霧しぶきのようなものが四辺あたりめて冷たかった。

 岩の多い雑木林ぞうきばやしとなって、径は小さな谷川の流れへ出た。

「旦那様、あんな処に小屋がありますよ」

 すぐうしろを歩いていた若党が云うので、三左衛門はふり返った。若党は谷のむこうの遥か上の方へ指をやっていた。

「どこだ」

「あすこでございます」

 馬のたて髪のように黒い木の枝をかぶった岩があって、その下の処に小さな小屋のようなものが見えていた。

「なるほど小屋だ」三左衛門はそう云ってから、ふと僧のことを思いだした。「あんな処におるかも判らないぞ」

「どなたでございます」

「毎日、俺の処へ碁を打ちに来るお坊主さ」

「あのお坊さんは、お寺にはおりませんか」

「寺にはいない、あんにおるそうだ、ついするとあすこかも判らない、往ってみようか、山番の小屋だったところで、いじゃないか、どうせ腹こなしだ」

 三左衛門はみちに注意した。岩がいしだたみを敷いたようになっていて前岸むこうわたるにはぞうさもなかった。二人はその岩を伝って往った。

 雑木ぞうきと岩の間に人の通ったこみちのような処があったり、そうかと思ってそれを往ってみると、荊棘いばらかずらがそれをふさいでいたりした。二人は時どき立ち止まって足場を考えてからあがって往った。

 岩陰にある小屋が眼の前に来た。三左衛門は一呼吸ひといき入れてから小屋の口へ往った。

「もし、もし、しょうしょう、うかがいます」

「どなた」

 中から声がして顔を出した者があった。それは旅僧たびそうであった。

「あれほどお断りしてあったのに、来られたならしかたがない、まあ、おあがりくだされ」

 僧はいやな顔をして云った。三左衛門は僧がじぶんが往くと云った時に断ったことばを思いだして、来なければ良かったと思った。

「いや、わざわざ参ったのではござらんが、今日は、貴殿あなたが見えられないし、退屈でたまらないから、若党をれて、眺望のい処へ参ろうと思い、この下の谷の処まで来るとこのあんが眼にき、貴殿きでんのことを思いだして、ついこうした処におられるかと思って、立ち寄った次第だ」

「じゃ、まあ、まあ、おあがりくだされ、お茶でもさしあげよう」

 僧が引込ひきこんだので三左衛門はそこへ草履ぞうりを脱いであがった。庵の内にはわらを敷いて見附みつけ仏間ぶつまを設けてあったが、それは扉を締めてあった。左側には二つのかまどがあって、それには茶釜と鍋がけてあった。

 竈の前へ往って僧が坐ったので、三左衛門もそこへ往って僧と向きあって坐った。

「どうもお勤めの邪魔をして気の毒じゃ、すぐおいとまをいたそう」

 三左衛門は僧の人の来るのを嫌うのは、勤行ごんぎょうの邪魔になるから嫌うのだと思った。

「いや、勤めの邪魔と云うことはないが、すこし理由わけがあってな、まあ、お茶でも沸かそう」

 僧はいかつい親しみのない眼をしていた。

「お茶は沸かさなくても、別に飲みたくもないから、よろしゅうござる」

 三左衛門はそう云ってから、ちらと茶釜の方へ眼をやった。茶釜の下の竈の下から人間の顔がすうと出て来た。それは色の蒼醒あおざめた恐ろしい顔であった。三左衛門はびっくりしたが、剛胆ごうたんな男であったから何も云わずに僧の顔を見た。僧は怪しいその顔を見つけたのか眼をいからしてその方をにらんだところであった。と、その顔は消えるように引込んでしまった。

「あ、木の自由な処におると、かえって油断して、木をきらした、ちょと枝をって来る、待ってくだされ」

 僧はそのままって出て往った。三左衛門は傍に置いてある刀を引寄せて、竈の下を中心にあんの内を注意していたが、こんな処に長くいるのは不吉であるから早く帰ろうと思いだした。そして、帰るには逃げるようにして帰るのは武士の恥であるから、立派に布施ふせも置いて帰ろう、しかし、正面から僧の前へ出しては、た何とか難癖なんくせをつけて押し返されないとも限らないので、布施は今の内に出して置いて、僧が帰り次第に帰ろうと思った。三左衛門は竈の下を見ながら考えた。

(仏壇の中が好い)

 彼は仏壇の中へ布施を入れて置こうと思いだした。彼は懐中かいちゅう紙入かみいれを探って銭を出し、それを鼻紙はながみくるんだ。

源吉げんきち

 三左衛門はり返って入口の石に腰をかけている若党を呼んだ。

「へい」

 若党は起って来た。

「これを、あの仏壇の中へ入れてくれ」

「へい」

 若党はあがって来た。三左衛門から紙包かみづつみを受けとって仏壇の前へ往き、うやうやしく扉に手をかけて開けたが、何かに驚いてあとへ飛び退すさった。

「エッ、く、く」

 三左衛門もかまどの下のことがあっているので、また何かあったのだろうと思った。

「どうした」

「首がございます、生首なまくびが」

「そうか」

 三左衛門はって往った。怪しい黒ずんだ風変りな仏像の前に、前方向むこうむきにした男髷おとこまげの首がえてあった。

「よし、その包みを持って来い」

 三左衛門は若党の手から紙包をって、それを仏像と首との間に置いた。仏像は眼のぎらぎら光る三面六臂さんめんろっぴの奇怪なものであった。

「よし、あっちへ往って、なにくわない顔で待っておれ」

 三左衛門は扉を締めて元の処へ往って坐った。それといっしょに若党は入口の石の処へ往って腰をかけていた。

「やれ、やれ、木の中におって、木をきらしたぞ」

 僧は枯枝かれえだ小腋こわきにして帰って来た。

「これは、どうも、御厄介ごやっかいをかけますな」

 三左衛門は平気な顔をして云ったがすこしの油断もしなかった。

「木の中におって木をきらすとは、けしからんことじゃ」

 僧はこう云って枯枝をかまどの下へ入れはじめた。三左衛門は竈の下へ眼をやった。さっきの顔がまたにゅうと出て来た。僧はいきなりこぶしをこしらえてそれを打とうとするようにした。と、顔は引込んでしまった。僧はそれを見ると傍の火打石を執って火を出し、それを竈の下へ移した。

「今まで火があった釜だで、すぐ沸く」

「どうか、もうすぐおいとまをするから、おかまいないように」

 三左衛門は僧に怪しいそぶりがあれば、一打ひとうちにしようと僧のそぶりに眼を放さなかった。

「石があるなら、ひと手位は願えますが」

 僧は温泉宿で云うようにおちついた声で云った。

「そうだな、石があると願えますな」

 三左衛門はそれでも油断をしなかった。

「さあ、お茶が沸いた」

 僧はそう云ってどこからか二つの茶碗を持って来て茶柄杓ちゃびしゃくを持った。

「では、一杯いただいてから、すぐお暇をしよう」

「まあ、まあ、そう急がなくても」

「いや、みちが面倒だから、すぐお暇をします」

「そうかな」

 僧は茶をんで一つの茶碗を三左衛門の前へ置き、一つの茶碗を入口の方へ持って往った。三左衛門は僧の眼が無くなると茶碗の茶を藁の間にこぼしてしまった。

「おともの方、あなたにも茶をあげよう」

 僧の声とともに若党の声がしていた。三左衛門は刀を持ってちあがった。そこへ僧が引返して来た。

「ひどく御厄介をかけたが、これでおいとまします、また明日あすでもおひまがあれば、手合せを願います」

「それではお帰りかな、じゃ、また明日でも伺おう」

 三左衛門は僧をうしろにしないようにと用心して草履ぞうり穿いた。若党は揉手もみでをして立っていた。


※(ローマ数字3、1-13-23)


 三左衛門はうしろを用心してあんを離れて山をおりた。

「旦那様、あなた様は、あのお茶を召しあがりましたか」

 若党がうしろから呼吸いきをせかせかさせながら聞いた。

「お前はどうした」

「私は捨てました」

「そうか、捨ててよかった、あんな処の茶なんか、決して飲むのじゃない、俺も飲むふりをして、捨ててしまった」

 三左衛門は若党をうながして走るように山をおりて温泉宿ゆやどへ帰ったが、どうも不審でたまらないのですぐ宿の主翁ていしゅを呼んだ。

「今日は、えらい目にうた、主翁、お前は、あの毎日碁を打ちに来る坊主を、んと思う」

「何か御覧になりましたか」

「見たとも、あの庵へ通りかかって、たいへんなものを見たぞ」

 主翁は急に何か思いだしたように手をあげて押えるようにした。

「お客さん、待ってくださいませ、それを云ってはなりません、それが恐ろしい坊主じゃ、それをあなたが人に話すと、生命いのちがありません、そのことじゃ、それを云ってはなりません、早く私のうちを出て、今晩は、そっとどこかへお泊りになって、お江戸の方へお帰りになるがよろしゅうございます、私は人に聞いております、早くお帰りなさいませ」

 主翁は顔の色が変って声もふるえていた。

「しかし、おかしいじゃないか、ぜんたいありゃなんだろう」

 三左衛門は不思議でたまらなかった。

「そ、それを云ってはなりません、あなたはきっと不思議な目にお逢いなされたでしょう、何もおっしゃらずに、すぐここをおちになるがよろしゅうございます、決して何人たれにも云ってはなりません、そのことを云うと、生命いのちにかかわります」

「それにしてもおかしいじゃないか」

「ま、ま、もう、そんなことを云っては、駄目だめでございます、私は決して嘘を申しません、早く早く」

 三左衛門も主翁ていしゅの云うことははっきり判らないが、不思議だらけのことを見ているので、何か事情があるだろうと思って、江戸へ帰ることにして払いもそこそこにして出発した。

 もう日が暮れていた。三左衛門主従はその晩は山のふもとへ宿をとり、翌晩は藤沢ふじさわあたりに泊り、その翌日金沢へまで帰ってみると、宿しゅくの入口に江戸のやしきから来た家臣が二三人待っていた。

「お前達は何しに来た」

 三左衛門は不審そうにいた。

「旦那様が、今日、江戸へお帰りになると云うことでしたから、お迎えにあがりました」

 三左衛門は不思議でたまらなかった。

わしが帰ることをどうして知った」

昨日きのう、四十位のお坊さんが来て、門番の衆に、こちらの旦那様は、箱根から急にお帰りになってるから、明日あすはおやしきへお帰りになる、わしは頼まれてそれを知らせに来たと申しますから、急にお迎えにあがりました」

「なに四十位のお坊さん」

「黒い破れた法衣ころもを着たお坊様ぼうさんでございます」

 三左衛門はもう何も云わなかった。そして、夜になって江戸の邸へ帰った。江戸の邸へは親類や友人達が来て帰国のいわいをするために待っていた。

 三左衛門が上へあがると皆が前へ集まって来た。その時四つになる三左衛門の可愛がっていた末の男の子が縁側に出て立っていたが、不意に大きな声をたてたので三左衛門が驚いて出た。男の子の首の無い体が縁側に倒れていた。






底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社

   2003(平成15)年10月22日初版発行

底本の親本:「日本怪談全集」改造社

   1934(昭和9)年

入力:Hiroshi_O

校正:noriko saito

2010年11月13日作成

青空文庫作成ファイル:

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