「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
西の山地から
吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの
上着をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。
「おれは内地の
農林学校の
助手だよ、だから
標本を
集めに来たんだい。」私はだんだん雲の
消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、
威張ってそう
云いましたらもうその風は海の青い
暗い
波の上に行っていていまの
返事も聞かないようあとからあとから
別の風が来て
勝手に
叫んで行きました。
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、しらべに来たの、何かしらべに来たの。」もう
相手にならないと思いながら私はだまって海の方を見ていましたら風は
親切にまた叫ぶのでした。
「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」私はそこでとうとうまた言ってしまいました。
「そんなにどんどん行っちまわないでせっかくひとへ
物を
訊いたらしばらく
返事を
待っていたらいいじゃないか。」けれどもそれもまた風がみんな一語ずつ切れ切れに
持って行ってしまいました。もうほんとうにだめなやつだ、はなしにもなんにもなったもんじゃない、と私がぷいっと歩き出そうとしたときでした。
向うの海が
孔雀石いろと
暗い
藍いろと
縞になっているその
堺のあたりでどうもすきとおった風どもが波のために少しゆれながらぐるっと
集って私からとって行ったきれぎれの
語を
丁度ぼろぼろになった地図を組み合せる時のように
息をこらしてじっと見つめながらいろいろにはぎ合せているのをちらっと私は見ました。
また私はそこから風どもが
送ってよこした
安心のような
気持も
感じて
受け
取りました。そしたら丁度あしもとの
砂に小さな白い
貝殻に
円い小さな
孔があいて
落ちているのを見ました。つめたがいにやられたのだな朝からこんないい
標本がとれるならひるすぎは
十字狐だってとれるにちがいないと私は思いながらそれを
拾って
雑嚢に入れたのでした。そしたら
俄かに
波の音が強くなってそれは
斯う
云ったように聞こえました。「
貝殻なんぞ何にするんだ。そんな小さな貝殻なんど何にするんだ、何にするんだ。」
「おれは学校の
助手だからさ。」私はついまたつりこまれてどなりました。するとすぐ私の足もとから引いて行った
潮水はまた
巻き
返して波になってさっとしぶきをあげながらまた
叫びました。「何にするんだ、何にするんだ、
貝殻なんぞ何にするんだ。」私はむっとしてしまいました。
「あんまり
訳がわからないな、ものと
云うものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁいけないもんじゃないんだよ。そんなことおれよりおまえたちがもっとよくわかってそうなもんじゃないか。」
すると
波はすこしたじろいだようにからっぽな音をたててからぶつぶつ
呟くように答えました。「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしなけぁ
済まないものと思ってたんだ。」
私はどきっとして顔を赤くしてあたりを見まわしました。
ほんとうにその
返事は
謙遜な
申し
訳けのような
調子でしたけれども私はまるで立っても
居てもいられないように思いました。
そしてそれっきり
浪はもう
別のことばで何べんも
巻いて来ては
砂をたててさびしく
濁り、砂を
滑らかな
鏡のようにして引いて行っては一きれの
海藻をただよわせたのです。
そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに
座って
乾いて
飛んで来る砂やはまなすのいい
匂を
送って来る風のきれぎれのものがたりを
聴いているとほんとうに
不思議な
気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字の
厚い何
冊もの
百科辞典にあるようなしっかりしたつかまえどこのあるものかそれとも風や
波といっしょに
次から次と
移って
消えて行くものかそれも私にはわかりません。ただそこから風や
草穂のいい
性質があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。
*
タネリが
指をくわいてはだしで
小屋を出たときタネリのおっかさんは前の草はらで
乾かした
鮭の
皮を
継ぎ合せて
上着をこさえていたのです。「おれ海へ行って
孔石をひろって来るよ。」とタネリが
云いましたらおっかさんは太い
縫糸を
歯でぷつっと切ってそのきれはしをぺっと
吐いて云いました。
「ひとりで
浜へ行ってもいいけれど、あすこにはくらげがたくさん
落ちている。
寒天みたいなすきとおしてそらも見えるようなものがたくさん落ちているからそれをひろってはいけないよ。それからそれで
物をすかして見てはいけないよ。おまえの
眼は
悪いものを見ないようにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを
消すから。おまえの兄さんもいつかひどい
眼にあったから。」「そんなものおれとらない。」タネリは
云いながら黒く
熟したこけももの間の小さなみちを
砂はまに下りて来ました。
波がちょうど
減いたとこでしたから
磨かれたきれいな石は
一列にならんでいました。「こんならもう
穴石はいくらでもある。それよりあのおっ
母の云ったおかしなものを見てやろう。」タネリはにがにが
笑いながらはだしでそのぬれた砂をふんで行きました。すると、ちゃんとあったのです。砂の一とこが
円くぽとっとぬれたように見えてそこに
指をあててみますとにくにく寒天のようなつめたいものでした。そして何だか指がしびれたようでした。びっくりしてタネリは指を引っ
込めましたけれども、どうももうそれをつまみあげてみたくてたまらなくなりました。
拾ってしまいさえしなければいいだろうと思ってそれをすばやくつまみ上げましたら砂がすこしついて来ました。砂をあらってやろうと思ってタネリは
潮水の来るとこまで下りて行って
待っていました。間もなく
浪がどぼんと鳴ってそれからすうっと白い
泡をひろげながら潮水がやって来ました。タネリはすばやくそれを
洗いましたらほんとうにきれいな
硝子のようになって日に光りました。タネリはまたおっかさんのことばを思い出してもう
棄ててしまおうとしてあたりを見まわしましたら南の
岬はいちめんうすい
紫いろのやなぎらんの花でちょっと
燃えているように見えその
向うにはとど
松の黒い
緑がきれいに
綴られて何とも
云えず
立派でした。あんなきれいなとこをこのめがねですかして見たらほんとうにもうどんなに
不思議に見えるだろうと思いますとタネリはもう
居てもたってもいられなくなりました。思わずくらげをぷらんと手でぶら下げてそっちをすかして見ましたらさあどうでしょう、いままでの明るい青いそらががらんとしたまっくらな
穴のようなものに
変ってしまってその
底で黄いろな火がどんどん
燃えているようでした。さあ
大変と思ってタネリが
急いで
眼をはなしましたがもうそのときはいけませんでした。そらがすっかり
赤味を
帯びた
鉛いろに
変ってい海の水はまるで
鏡のように
気味わるくしずまりました。
おまけに
水平線の上のむくむくした雲の
向うから鉛いろの空のこっちから口のむくれた三
疋の大きな白犬に
横っちょにまたがって黄いろの
髪をばさばささせ大きな口をあけたり立てたりし
歯をがちがち鳴らす
恐ろしいばけものがだんだんせり出して
昇って来ました。もうタネリは小さくなって
恐れ入っていましたらそらはすっかり明るくなりそのギリヤークの
犬神は水平線まですっかりせり出し間もなく海に犬の足がちらちら
映りながらこっちの方へやって来たのです。
「おっかさん、おっかさん。おっかさん。」タネリは
陸の方へ
遁げながら一生けん
命叫びました。すると犬神はまるでこわい顔をして口をぱくぱくうごかしました。もうまるでタネリは食われてしまったように思ったのです。「
小僧、来い。いまおれのとこのちょうざめの家に
下男がなくて
困っているとこだ。ごち
走してやるから来い。」
云ったかと思うとタネリはもうしっかり
犬神に
両足をつかまれてちょぼんと立ち、
陸地はずんずんうしろの方へ行ってしまって自分は青いくらい
波の上を走って行くのでした。その遠ざかって行く陸地に小さな人の
影が五つ六つうごき一人は両手を高くあげてまるで
気違いのように
叫びながら
渚をかけまわっているのでした。
「おっかさん。もうさよなら。」タネリも高く
叫びました。すると犬神はぎゅっとタネリの足を強く
握って「ほざくな小僧、いるかの子がびっくりしてるじゃないか。」と云ったかと思うとぽっとあたりが青ぐらくなりました。「ああおいらはもういるかの子なんぞの
機嫌を考えなければならないようになったのか。」タネリはほんとうに
涙をこぼしました。
そのときいきなりタネリは犬神の手から
砂へ
投げつけられました。
肩をひどく
打ってタネリが
起きあがって見ましたらそこはもう海の
底で上の方は青く明くただ一とこお日さまのあるところらしく白くぼんやり光っていました。
「おい、ちょうざめ、いいものをやるぞ。出て来い。」犬神は一つの
穴に
向って叫びました。
タネリは小さくなってしゃがんでいました。気がついて見るとほんとうにタネリは大きな一ぴきの
蟹に
変っていたのです。それは自分の
両手をひろげて見ると
両側に八本になって
延びることでわかりました。「ああなさけない。おっかさんの
云うことを聞かないもんだからとうとうこんなことになってしまった。」タネリは
辛い
塩水の中でぼろぼろ
涙をこぼしました。
犬神はおかしそうに口をまげてにやにや
笑ってまた云いました。「ちょうざめ、どうしたい。」するとごほごほいやなせきをする音がしてそれから「どうもきのこにあてられてね。」ととても
苦しそうな声がしました。「そうか。そいつは気の
毒だ。
実はね、おまえのとこに
下男がなかったもんだから
今日一人
見附けて来てやったんだ。蟹にしておいたがね、ぴしぴし
遠慮なく
使うがいい。おい。きさまこの
穴にはいって行け。」タネリはこわくてもうぶるぶるふるえながらそのまっ
暗な
孔の中へはい
込んで行きましたら、ほんとうに
情けないと思いながらはい込んで行きましたら犬神はうしろから
砂を
吹きつけて
追い込むようにしました。にわかにがらんと明るくなりました。そこは広い室であかりもつき砂がきれいにならされていましたがその上にそれはもうとても
恐ろしいちょうざめが
鉢巻をして
寝ていました。(こいつのつらはまるで黒と白の
棘だらけだ。こんなやつに
使われるなんて、使われるなんてほんとうにこわい。)タネリはぶるぶるしながら入口にとまっていました。するとちょうざめがううと一つうなりました。タネリはどきっとしてはねあがろうとしたくらいです。「うう、お前かい、
今度の下男は。おれはいま
病気でね、どうも
苦しくていけないんだ。(以下原稿空白)