「ああそうですか、バキチをご
存じなんですか。」
「知ってますとも、知ってますよ。」
「バキチをご存じなんですか。
小学校でご
一緒ですか、中学校でご一緒ですか。いいやあいつは中学校なんど入りやしない。やっぱり小学校ですか。」「
兵隊で一緒です。」
「ああ兵隊で、そうですか、あいつも
一等卒でさね、どうやってるかご存じですか。」「さあ知りません。隊で分れたきりですから。」
「ああ、そうですか、そいじゃ私のほうがやっぱり
詳しく知ってます。この間まで
馬喰をやってましたがね。今ごろは何をしているか
全く
困ったもんですよ。」
「どうして馬喰をやめたでしょう。」
「だめでさあ、わっしもずいぶん目をかけました。でもどうしてもだめなんです。あいつは隊をさがってからもとの
大工にならないで
巡査を
志願したのです。」「そして
巡査をやったんですか。」
「それぁやりました。けれども間もなくやめたんです。」
「どうしてやめたんだろうなあ、何でも
隊に来る前は、大工でとにかく
暮していたと
云うんですが。」
「それゃうそでさあ大工もほんのちょっとです。
土方をやめてなったんです。その土方もまたちょっとです。それから前は知りません。土方ばかりじゃありません、
飴屋もやったて
云いますよ。」
「巡査をどうしてやめたんです。」「あんな巡査じゃだめでさあ、あのお
神明さんの池ね、あすこに
鯉が
居るでしょう、県の
規則で
誰にもとらせないんです。ところが、やっぱり夜のうちに、こっそり行くものがあるんです。それぁきっとよく
捕れるんでしょう。バキチはそれをきいたのです。
毎晩お神明さんの、
杉のうしろにかくれていて、来るやつを見ていたそうです、そしていよいよ
網を入れて鯉が十
疋もとれたとき、誰だっこらって出るんでしょう、魚も網も
置いたまま
一目散に
逃げるでしょうバキチは
笑ってそいつを
持って
警察の
小使室へ帰るんです。」「
変だねえ、なるほどねえ。」「何でも五回か六回かそんなことがあったそうです。そしたらある日
署長のとこへ
差出人の名の書いてない変な手紙が行ったんです。署長が見たら今のことでしょう、けれども
署長は
笑ってました。なぜって
巡査なんてものは
実際月給も
僅かですしね、くらしに
困るものなんです。」「なるほどねえ、そりゃそうだねえ。」
「ところがねえ、
次が大へんなんですよ、
耕牧舎の
飼牛がね、
結核にかかっていたんですがある日とうとう
死んだんです。ところが
病気のけだものは死んだら
棄てなくちゃいけないでしょう。けれども何せ売れば二、三百にはなるんです。
誰だって
惜しいとは思います。耕牧舎でもこっそりそれを売っているらしいというんです。行って見て来いってうわけでバキチが
剣をがちゃつかせ、耕牧舎へやって来たでしょう。耕牧舎でもじっさい
困ってしまったのです。バキチが入って行きましたらいきなり一
疋の牛を
叩いてあばれさせました。牛もびっくりしましたね、いきなり外に
飛び出してバキチに
突いてかかったんです。
バキチはすっかりまごついて
一目散に
警察へ
遁げて帰ったんです。そして署長のところへ行って耕牧舎では牛の
皮だけはいで肉と
骨はたしかに土に
埋めていましたって
報告したんです。ところがそれが知れたでしょう。
町のものもみんな
笑いました。署長もすっかり
怒ってしまいある朝
役所へ出るとすぐいきなりバキチを
呼び出して
斯う
申し
渡したと
云います。バキチ、きさまもだめなやつだ、よくよくだめなやつなんだ。もう少し
見所があると思ったのに牛につっかかれたくらいで
職務も
忘れて
遁げるなんてもう
今日限り
免官だ。すぐ
服をぬげ。と来たでしょう。バキチのほうでももう
大抵巡査があきていたんです。へえ、そうですか、やめましょう。
永々お
世話になりましたって
斯う
云うんです。そしてすぐ服をぬいだはいいんですが
実はみじめなもんでした。
着物もシャツとずぼんだけ、もちろん
財布もありません。
小使室から出されては
寝む家さえないんです。その昼間のうちはシャツとズボン下だけで頭をかかえて一日小使室に
居ましたが夜になってからとうとう
警部補にたたき出されてしまいました。バキチはすっかり
悄気切ってぶらぶら町を歩きまわってとうとう夜中の十二時にタスケの
厩にもぐり
込んだって云うんです。
馬もびっくりしましたぁね、(おいどいつだい、何の用だい。)おどおどしながらはね
起きて
身構えをして
斯うバキチに
訊いたってんです。
(
誰でもないよ、バキチだよ、もと巡査だよ、知らんかい。)バキチが
横木の下の
所で
腹這いのまま云いました。(さあ、知らないよ、バキチだなんて。おれは
一向知らないよ。)と馬が云いました。」「馬がそう云ったんですか。」「馬がそう云ったそうですよ。わっしゃ馬から聞きやした。(おい、
情けないこと云うじゃないか、おいらはひどく
餓えてんだ。ちっとオートでも
振る
舞えよ。)ところがタスケの馬も馬でさあ、
面白がってオペラのようにふしをつけて(なかなかやれないわたしのオート。)だなんてやったもんです。バキチもそこはのんきです。やっぱりふしをつけながら、(お
呉れよ、お呉れよ、お前のオートわたしにお呉れよ。)とうなっていました。そこへ
丁度わたしが通りかかりました。おい、おい、バキチ、あんまりみっともないざまはよせよ。一体馬を
盗もうってのか。
それとも
宿がなくなって今夜
一晩とめてもらいたいと
云うのか。バキチが頭を
掻きやした。いやどっちもだ、けれども馬を盗むよりとまるよりまず
第一に、おれは何かが食いたいんだ。(以下原稿空白)