むかし
印度のある国に、一人の王子がありました。国王からは
大事に
育てられ、国民からは
慕われて、ゆくゆくは
立派な王様になられるに
違いないと、
皆から
望みをかけられていました。
ところが、この王子に一つの
癖がありました。それは、むやみに高い所へあがるということでした。
庭で
遊んでいると、大きな
庭石の上に
登って
喜んでいますし、
室の中にいると、
机や
卓子の上に
座りこんでいます。そういう
癖がひどくなると、しまいには、
後庭の大きな木によじ
登ったり、
城壁の上に
登ったりするようになりました。国王や
家来たちは
心配しまして、もし高いところから
落ちて
怪我でもされるとたいへんだというので、いろいろいってきかせましたが、王子は平気でした。ある時なんかは、
城の中に
飼ってある
象の
背中に
乗って、
裏門から町へでて行こうとまでしました。その
象がまた、
平素はごく
荒っぽいのに、その時ばかりは、王子を
背にのせたまま、おとなしくのそりのそりと歩いているのではありませんか。
国王はひどく
心配しまして、なにか
面白い
遊びごとをすすめて、王子の気を
散らさせるにかぎると思いました。それで、多くの
学者たちが集って、いろんな
面白い
遊びごとを考えだしては王子に
勧めました。すると王子はこう
答えました。
「高いところからまわりを見おろすのが一番
面白い。世の中にこれほど
面白いことはない」
どうにも
仕方がありませんでした。それで
皆は
相談して、その
癖が
止むまでしばらくの
間、王子を広い
庭に
閉じこめることになりました。
庭には木も石もなく、ただ
平らな
地面が高い
壁に取り
巻かれてるきりでした。王子は朝から夕方まで、この
庭の中に
閉じこめられまして、どこを見ても、自分があがれるような高いものは、なに一つありませんでした。そして、とうてい
登れないほどの高い
壁が四方にあるだけ、なおさらつまらなくなりました。いろんな
遊びごとを
皆から
勧められても、王子は見
向きもしませんでした。
芝生の上に
寝ころんで、ぼんやり日を
過しました。
ある日も、王子は
芝生の上に
寝ころんで、
向うの高い
壁をぼんやり
眺めていました。
壁の
向うには、青々とした山の
頂が
覗いていました。その山の上には白い
雲が
浮んでいて、さらにその上
遠くに、大空が
円くかぶさっていました。
「あの
壁の上にあがったら
······、あの山にあがったら
······、あの
雲にあがったら
······、そしてあの空の
天井の上に
······」
王子は一人で
空想にふけりながら、大空を
眺めてるうちに、いつか、うっとりした
気持になって、うつらうつら
眠りかけました。
誰かが自分を
呼ぶようなので、王子はふと
眼を
開きました。見ると、すぐ前に一人の
老人が立っていました。
真黒な
帽子をかぶり、
真黒な
服をつけ、
真黒な
靴をはき、手に
曲りくねった
杖を
持っていました。
顔には
真白な
髯が
生えて、その
間から大きな
眼が光っていました。
王子が
眼を
覚したのを見て、
老人はハハハと
声高く
笑いました。王子は
恐れもしないで
尋ねました。
「お前は
誰だ?」
老人はまた
笑っていいました。
「
誰でもいい。お前をためしにきた者だ。
······わしがお前を高いところへつれて行ってやろう。わしと一
緒にくるがいい」
「
本当に高い所へつれていってくれるのか、
僕が
望むだけ高いところへ?」
「うむ、どんな高いところへでも
連れていってやる。そのかわり、また下へおりようといっても、それはわしは知らない。それでよかったらわしと一
緒にくるがいい」
「行こう」
そういって王子は立ちあがりました。
「しかし、下へおりたくなったからといっても、もうわしは
助けてやらないよ」と
老人はいいました。
「高いところへあがれさえすれば、下へなんかはおりなくてもよい」と王子は
答えました。
「それでは行こう」
老人は王子の手を取って、
杖を
一振り
振ったかと思うと、二人はもう高い
壁の上にあがっていました。王子はびっくりしました。この
老人は
魔法使いに
違いない、と思いました。しかし
恐がることがあるものか、と思いなおしました。見ると、自分が今まで
居た
庭や
城外の町などはずっと、下の方に見おろされました。
往き
来してる人間が、
豆粒のように小さく見えました。王子は
嬉しくてたまりませんでした。そして、
城の高い
塔を
指して
老人にいいました。
「こんどはあの
塔の上に行こう」
老人が
杖を
振ると、二人は一番高い
塔の
屋根にあがりました。王子はまだこんな高いところへあがったことがありませんでした。
足下には、広い
城が
玩具のように小さくなって、
一足に
跨げそうでした。
庭や
森や
城壁や
堀などが、
一目に見て取れて、
練兵場の
兵士たちが、
蟻の
行列くらいにしか思われませんでした。
城のまわりには、小石を
並べたような町
並が、
遠くまで
続いていました。その
末は広々とした
野になって、一
面に、ぼうと
霞んでいました。王子はただうっとりと
眺めていました。
「まだ高いところへあがりたいか」と
老人はいいました。
王子は
我に
返って
老人の
顔を見あげました。それから、
向うの高い山の
頂を
指しました。
「あの山の上へ行こう」
老人が
杖を
振ると、二人は
宙を
飛んで、すぐにその高い山の上にきました。王子はそこの
岩の上に立って
眺めました。
城や町はもうひとつの
点ぐらいにしか見えませんでした。
土饅頭ぐらいな、なだらかな
丘が
起伏して、その
先は広い
平らな野となり、
緑の
毛氈をひろげたような中に、森や林が
黒い
点を
落していて、日の光りに
輝いてる
一筋の大河が、
帯のようにうねっていました。
「もうこれきりにしようか」と
老人がいいました。
王子はまた
夢からさめたような
気持で、
老人の
顔を
眺めました。それから、うしろの方の一番高い山の
頂を
指しました。
「あの山の上へ行こう」
老人が
杖を
振ると、二人はまた
宙を
飛んでその山の上へ行きました。
王子はびっくりしました。その山が一番高いのかと思っていましたのに、きてみると、さらに高い山が
向うに
聳えています。王子はいいました。
「あの山の上へ行こう」
老人と王子とはまたその山の
頂へ行きました。すると、さらに高い山がまた
向うにでてきました。もう下の方を見
廻しても、
積み
重った山や
遠い野が少し見えるきりで、初めのような
美しい
景色は
眼にはいりませんでした。
薄黒い
雲がすぐ前を
飛んで行きました。
「あの山の上へ行こう」と王子は
向うの高い山を
指していいました。
「
望むならつれていってもいい」と
老人は
答えました。
「しかし
帰りはお前一人だぞ。
城の
庭へおろしてくれといっても、わしは知らないが、それでもいいのか」
王子は少し心
細くなってきましたが、それでも
構わないと
答えました。そして二人は
向うの山の上へ行きました。もう、なんにも見えませんでした。
薄黒い
雲が
足下に一
面にひろがっていて、
遠くの下の方で
雷が
鳴るような音がしていました。
雲よりも高い山だったのでした。それでも、
向うにはさらに高い山がつき立っていました。
「あの山へ行こう」と王子はいいました。
王子はただ高いところへあがって行くことよりほかには、なにも考えてはいませんでした。この
老人に
負けてなるものか、どんな高いところへでもあがってやる、という気でいっぱいになっていました。そして二、三度高い方の山へと、
老人につれられてあがってゆきました。
ある山の上にくると、
老人はそこにとんと
杖をついていいました。
「お前の
強情なのにはわしも
呆れた。これが世界で一番高い山だ。もう世界中でこれより高いところはない。ここまでくればお前も
本望だろう。これからまた下へおりて行くがいい。はじめからの
約束だから、わしはもう知らない。これでお
別れだ」
王子が
眼をあげて見ると、もう
老人の
姿は
消えてしまっていました。王子はぼんやりあたりを見
廻しました。
頭の上には、
澄みきった大空と
太陽とがあるばかりでした。立っているところは、つき立った岩の上で、
眼もくらむほど下の方に、
白雲と
黒雲とが
湧き立って、なにも見えませんでした。
冷たい風が
吹きつけてきて、今にも
大嵐になりそうでした。王子は
腕を
組んで、
岩の上に
座りました。いつまでもじっと
我慢していました。しかし、そのうちに、だんだん
恐しくなってきました。風が
激しくなり、
足下の
雲がむくむくと
湧き立って、
遙か下の方に
雷の音まで
響きました。王子はそっと下の方を
覗いてみました。
屏風のようにつき立った
断崖で、
匐いおりて行くなどということはとうていできませんでした。
王子は立ちあがりました。そして考えました。
「あの
老人に
助けを
求めたくはない。なあに、
命がけでおりてみせる。
僕が
死ぬか、それとも、うち
勝つかだ」
王子は石を一つ
拾って、それを力まかせに
投げてみました。石は
遙か下の方の
雲に
巻きこまれたまま、なんの
響きも
返しませんでした。
「よしッ!」
と王子はいいました。
そして、
岩の上から
真逆さまに、むくむくとしてる
雲のなかをめがけて、力一ぱいに
飛びおりました。
···························································· 王子は、はっとして
我に
返りました。
見ると、自分は
城の
庭の
芝生の上に
寝ころんでるのでした。からだ中
汗ぐっしょりになって
胸が高く
動悸していました。
しかし、いくら考えてみても、さっきまでのことが
夢であるかまたは
本当であるか、どうもはっきりしませんでした。
本当だとするには、あまり
不思議きわまることでしたし、
夢だとするには、あまりはっきりしすぎていました。
「どちらでも
構うものか」と王子は考えました。そしてまたこう考えました。「高いところへあがるには、まず
第一に、また下へおりられるような
道をこしらえておかなければいけない」
王子はそのことを国王へ話しました。
国王はたいへん
喜んで、それからは王子を自由にさせました。
王子はやはり高いところへあがるのがすきでしたが、ちゃんとその
下り
道をこしらえてからあがるので、少しも
危いことはありませんでした。
···························································· この王子は
後に、世界で一番
強い、一番
賢い王様になりました。
なぜなら、どんな高いところへあがっても平気なほどしっかりした
気象でしたから、一番
強かったのですし、またちゃんと
下り
道をこしらえておくほど
用心深かったから、一番
賢いのでした。
そして王子は一生のあいだ、あの
黒い
着物の
白髯の
老人を、自分の
守護神として
祭りました。