霞ガ
浦といえば、みなさんはごぞんじでしょうね。
茨城県の南の方にある、
周囲百四十四キロほどの
湖で、日本第二の広さをもったものであります。
日本第一の
近江のびわ
湖は、そのぐるりがほとんど山ですが、霞ガ浦は
関東平野のまんなかにあるので、山らしい山は、七、八
里はなれた北の方に
筑波山が
紫の色を見せているだけで、あとはどこを見まわしても、なだらかな
丘がほんのり、うす紫に見えているばかりであります。
ですから、この
湖の
景色は、
平凡といえば平凡ですが、びわ
湖のように、夏、ぐるりの山の上に
夕立雲がわいたり、冬、銀色の雪が
光ったりすると、少しすごいような景色になるのとはちがって、春夏秋冬、いつもおだやかな感じにつつまれています。びわ湖を、
厳格なおとうさんとすれば、霞ガ浦は、やさしいおかあさんのようだともいえるでしょう。この湖の
周囲には、
土浦、
石岡、
潮来、
江戸崎などという町々のほかに、たくさんの
百姓村が、一里おき二里おきにならんでいます。大むかし、人間は波のおだやかな海岸とか、川の岸とか、湖のまわりなどに一番さきすんだものですから、このおかあさんのようなやさしい霞ガ浦のまわりには、もちろんずっと大むかしから人がすんでいたのです。いまでも、方々から
貝塚がほりだされたり、矢の根石やいろんな
石器が
発見されたりするのでも、それがわかります。
それで、百姓村でもずいぶんふるい
歴史をもった村があり、
何十
代つづいたかわからないような百姓家が、方々に残っているわけです。
林太郎の村も、このふるい歴史をもった村のひとつでした。湖の南の岸の丘の上にあって、
戸数は五十
戸ばかりでした。また林太郎の家も何十代つづいたかわからないという
旧家で、村の一番北のはずれに、霞ガ浦を見下して、大きなわら屋根をかぶっていました。
しかし、旧家というのは名ばかりで、いまでは、
屋敷まわりの大きな杉林はきりはらわれ、
米倉はとりこわされ、馬もいないうまやと、屋根に草がぼうぼうにはえた
納屋があるきりの、
貧乏な
百姓となっていました。同じ村の百姓も年々貧乏になっていきましたが、林太郎の家は村一番の旧家であるうえに、むかしは「
名主」というのをつとめ、十年前ごろまでは村の、「
総代」というのをやっていただけ、その貧乏がひじょうにめだつのでした。
林太郎のおじいさんは、それを年中
苦にしていて、
「せめて子どもでも大ぜいいたら、にぎやかでいいのだが、林太郎ひとりきりだから、よけいに家の中がめいるばかりだ。」
といっていました。林太郎はことし十一
才で、小学校の五年生になっていましたが、弟も妹もなく、まったくの一
粒っ子なのでした。あとは、おとうさんとおかあさんとおじいさんの三人きりでしたから、がらんとした広い暗い家の中にいると、人はどこにいるかわからないほどで、まったく
陰気だったのです。
さて、ひとりっ子というものは、わがままっ子のきかんぼうが
育つものですが、林太郎はどっちかといえば、いくじなしの
泣き
虫子にそだちました。おじいさんがかわいがりすぎたせいだ、とおとうさんはよくいいましたが、そうばかりではなく、あんまり
陰気な家の中にそだったためかもしれません。とにかく林太郎は、ちょっとしたことにもすぐめそめそとなきだすのでした。
それにもうひとつ
困ったことは林太郎はからだのわりに頭でっかちで、それで口の悪い村の子どもらから、「ごろっこ」というあだ名をつけられていることでした。「ごろっこ」とはかわずの子という
意味で、あの頭でっかちの「おたまじゃくし」のことです。村の子どもらは、なにかというと、
「やあい、ごろっこめ。」
とはやしたてるのです。すると林太郎は、すぐべそ口になり、くやしそうになきだすのでした。
「頭がでかい子は、えらい人になるんだぞ。なくことはない。」
おじいさんは、林太郎がなきながら家へかえってくるのを見ると、そういってその頭をなでるのでした。またおかあさんは、夜、林太郎をだいてねるたびに、その頭を
平手でなでながら、
「林太郎は、学校がよくできるので、みんながやっかんであんな悪口をいうのだよ。子どもの頭は大きい方がいいんだぞ。みんなの頭は小さすぎるんだぞ。」
と、やさしくいってきかせるのでした。
実際、林太郎は学校の
成績がよく、いままでに三番とさがったことはなかったのです。ただ、頭が重いため、運動がへたで、ことにかけっくらになると、いつもびりっかすでした。で、おとうさんはよくこういうのです。
「学校なぞはできなくてもいいから、かけっくらで一番になれ。いつまでたっても
ごろっこじゃ、百姓にもなれやしない。」
そういわれると、林太郎はまたくやしそうになきだします。するとおとうさんはまた、
「またなきやがる。
乞食の子にくれてやるぞ。」
と、どなりました。
おじいさんとおかあさんは、頭が大きいのをほめてくれるのに、おとうさんだけは、いつもそんなふうにいっては、つらくあたるので、林太郎はおとうさんをこわがって少しもなつきませんでした。もの心がついてから、一度だっておとうさんにおんぶしたり、だかさったり、夜、いっしょにねたりしたことはなかったのです。
そのうえ、林太郎にはどうしてもおとうさんになじめないわけがありました。それはおとうさんが、ときどき夜おそく、お
酒によっぱらい、
人相まで変わってかえってきて、一晩中おかあさんをいじめてなかすことでした。林太郎はこわいので、ふとんの中に頭をひっこめ、かめの子のようにちぢまっているのですが、それでもおとうさんのあらあらしい声がきこえるのです。
ふだんでもこわい声をだすおとうさんですから、よっぱらってだす、そのあらあらしい声には、なにかこわい
動物のほえ声みたいなところがあります。それが林太郎には
憎らしくて憎らしくてなりませんでした。それにまたおかあさんをわけもなくいじめるのですから、たまらなかったのです。けれど、どうかすると、おとうさんはそのあらあらしい声の中で、「林太郎をどうする。」とか、「こうする。」とかいうことがありました。林太郎はふとんの中でそのことをきくと、からだ中、ぞくっとしました。それは、やっぱり
自分の頭のことについていっているのだと、ひとりぎめにきめてしまうからでした。つまり自分は、「ごろっこ」のように頭でっかちなので、それがおとうさんとおかあさんとのあらそいのたねになるのだというふうに考えるからでした。
これには林太郎はすっかりまいって、ひとり頭をかかえてべそ口をしているばかりでした。そうして小さな胸の中で、おかあさんにすまない、といっているばかりでした。
それは、夏のはじめで、
田植えのすんだ
頃のある夜でした。林太郎は、右どなりの家のおきぬさんという
娘につれられて、湖のふちへほたるをとりにいったのでした。
おきぬさんは、林太郎からみれば、もう「およめさん」になれそうな娘さんでしたので、ねえちゃん、ねえちゃんとよんでいました。おきぬさんもまた林太郎を弟のようにかわいがってくれるので、このひとだけには、おかあさんにもいえないことがいえるような気がしていました。
林太郎は、おきぬねえちゃんの手につかまって、たんぼのあぜ道を
湖の方へ歩いていきました。月がでていましたが、かすみにつつまれてほの白く見えているだけでした。いくほどにかすみはだんだん深くなりました。そして湖の岸の
土手までいくと、
湖面はまるで
夢を見ているように、とろんとかすんでいました。「
霞ガ
浦」という名はこういうところからでたのにちがいありません。まったくかすみにつつまれた霞ガ浦ほど、なごやかなやさしい自然はないでしょう。
林太郎はなんだかもの
悲しくなりました。夢のようなかすみの中にいるせいか、それともおきぬねえちゃんに手をひかれているせいか、どっちだかそれはわかりませんが、なんだかひとりでになきたくなってきたのです。うす
浅黄色のかすみの中に、ほたるがいくつもほの青い光の
尾をひいて、高く低くとんでいましたが、林太郎はそれをつかまえようともしません。ばかりか、ほたるのその青い光までが、目にかなしくうつるのです。
「林太郎ちゃん、どうしたの。」
おきぬねえちゃんが、ふと林太郎の顔をのぞいてそういいました。
「
············。」
林太郎は、なんとも答えず顔をふせてしまいました。
「こんなとこ歩いてるの、おもしろくないの。じゃかえろうか。」
「
······ううん、かえりたくないよ。」
林太郎はやっと
鼻声で答えました。
「そんなら元気をだして、ほたるをとりなよ。そら、すぐそこを、すいすいととんでるじゃないか。」
「
······ねえちゃん、おれ、おれ
······死にたいんだ。」
「
······なあに?」
「おれ、死にたいんだよ。」
「林太郎ちゃん、なにいってるのさ。夢を見てるんじゃない!」
「だっておれ、あたまでっかちだろう。それでみんなが笑うだろう。それでおとっつあんも、おっかさんをいじめるんだもの
······」
林太郎は、大きなおでこの下の小さな顔をいかにも思いあまったというふうにして、そういうのでした。そのようすが、おきぬねえちゃんにはちょっとおかしくもなったので、
「林太郎ちゃんは、おばかさんだわねえ。」
といって、林太郎の
肩をだいてやりました。と、林太郎はおきぬねえちゃんのからだへ、大きなおでこをおしつけて、うーん、うーんとむせびながら、
「おとっつあんは、おれのほんとのおとっつあんじゃないだろう。そうだい。だからおれのごろっこ頭が気に入らないで、あんなにおっかさんをいじめるんだろう。だからおら死にたいんだ。」
と、いうのでした。
林太郎のおとうさんは、きのうの
晩も
酒によってきて、林太郎のことをいっては、この家をでていけ、と、おっかさんをいじめたのでした。それがいま、林太郎の頭の中にありありと
浮かんでいるのでした。これにはおきぬねえちゃんも
困って、
「林太郎のおとっつあんはほんとのおとっつあんなのよ。ちがうのはおっかさんの方なのよ。だから林太郎ちゃんが頭でっかちだからといって、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけはないのよ。」
と、いってきかせました。
すると、これがまた林太郎をひじょうにびっくりさせました。林太郎はこわい顔でおきぬねえちゃんをにらみつけながら、きゅうに大きな声で、
「そんなことないや、そんなことないや! おっかさん、おれのおっかさんだい。」
とさけびたてました。
これにはおきぬねえちゃんもはっとしました。悪いことをいったと思いなおして、
「ええ、うそよ、うそよ。そんなことないの。ほんとにそんなことないの。」
と強くうちけして、
「だからまま親なんていうのはみんなうそなのよ。おとっつあんもおっかさんもほんとの親なのよ。だから、林太郎ちゃんの頭でっかちのことで、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけもないの。ただ、どこの家にもいろんな
心配ごとがあるものだろう。それでおとっつあんとおっかさんがいいあいするんだろうけど、そんなこと子どもは知らないふりをしていればいいのよ。」
と、しみじみいいきかせました。
林太郎は、こんどは
怒りもせず、またなきもまず、ただだまりこんでしまいました。林太郎には、自分が考えていることがほんとうなのか、おきぬねえちゃんのいったことがほんとうなのか、わからなくなったのでした。
それから三日ほどした
朝のことでした。おとうさんは
野らへ
仕事にでかけ、おじいさんは湖の岸へ、「のっこみぶな」というのをつりにでかけたあとで、おっかさんはひとりでよそいきの
着物にきかえ、ふろしきづつみ一つをもって、
「林太郎、おっかさんはむこうの家へいってくるから、おとなしく待っといで。」
と下をむいたままいいました。
むこうの家というのは、おっかさんのお
里のことでした。林太郎の家の
裏手の
丘から北の方を見ると、霞ガ浦が
入江になっていて、そのむこうに一つの村があり、その村におっかさんのお
里があるので、それで「むこうの家」といっているのでした。
おかあさんはいままでその「むこうの家」へかえるときは、かならず林太郎をつれていきました。だのにきょうにかぎってそんなことをいいだしたものですから、林太郎の
顔色はみるみる変わりました。
「おれもいくよ、おれもいくよ。」
林太郎はおかあさんの手にぶらさがってそういいました。
「きょうはつれていけないの。」
おかあさんはそっぽをむいていいます。
「なんでよ、なんでよ?」
「おとっつあんにしかられるから。」
そういうと、おかあさんはいきなり
土間へおり、
裏庭へでていきました。林太郎はもう
夢中になり、はだしのままおっかさんの後をおいかけました。そうして、ひきつったような声でなきさけびだしました。
おかあさんもそれには
困りました。おかあさんはかきの木につかまって考えていました。そして林太郎になにかいいそうにしましたが、それもいわないで、ただ、
「そんならつれていこ。」
とだけいって、林太郎の手をとりました。
おかあさんのお里の村までは、
丘づたいに
入江をぐるりと
回っていけば、二
里あまりありましたが、舟でまっすぐに入江を横ぎっていけば、十四、五
丁しかありません。それに湖の岸にすむ人たちは、女でも子どもでも船をこぐことはじょうずですから、おかあさんもお
里へかえるときは、いつも自分で船をこいでいきました。船は、このへんで「さっぱ船」という小さな船で、田植えをするときなどなくてならないものですから、どこの家でも一つぐらいは持っていたのです。
おかあさんは、そのさっぱ船のまん中へ林太郎をのせると、竹ざおをとってするするとおしだしました。その日はいかにも
初夏らしいお天気で、丘の上の
新緑はほんのりかすみ、空も水もふっくらとふくらみ、かわずはねむそうにないて、なんともいえないいい気持でした。
しかしおかあさんはだまりこくって、さおをあやつっています。林太郎はぼんやりとゆくての村の方を見ていましたが、その頭の中ではこんなことを考えていました。
「やっぱりおれの頭がでっかちなので、なにか困ったことが
起ったんだな。」
まもなくおっかさんのお里のおうちが見えてきました。
若葉がふっくらとしげった木々のあいだに、大きなわら屋根が見え、それから
米倉の白い
壁が見えてきました。その白い壁は朝の日をうけて、あたたかそうに
光っていました。
おっかさんはそれが見えてくると、いつもにこにこして
元気よく船をおしだすのでしたが、きょうはその方を見ようともしません。下をむいたまま、たいぎそうにさおをあやつっているばかりでした。
林太郎は悲しくなりました。それで、ふなべりから手をのばして、
水面に白く
咲いているすいれんの花をむしってはすて、むしってはすてて、
泣きそうになるのをがまんしていました。
やがて船は、米倉の下の
岸へつきました。水ぎわにあそんでいた、たくさんのあひるどもが、があがあなきながら
泳ぎにげました。
おっかさんは林太郎の手をとって丘へ上がると、今わたってきた入江の方へ見返ってため
息をつきました。それから米倉の前を通って
母屋の庭へはいっていきました。
母屋の
縁には、おっかさんのおっかさん、つまり林太郎にとってはおばあさんがめがねをかけて
針仕事をしていましたが、林太郎たちの
姿を見ると、めがねをはずしながら、
「おやおや、よくきた。林太郎もよくきたな。」
と、よろこんで、にこにこしながらいいました。
「きょうはおまえのうちは仕事が
休みかい。林太郎も学校がお休みかい?」
と、聞きました。
けれどもその日は、林太郎のうちでは仕事が休みでもなかったし、林太郎は学校がお休みでもなかったので、ふたりともなんとも
答えませんでした。
おっかさんは、持ってきたふろしきづつみを
縁の上へおくと、おばあさんのそばへ腰をかけて、ひくい声でなにか話しだしました。話しているうちにおっかさんの顔はだんだんうつむいてきました。おばあさんは、うんうんといいながら聞いていましたが、やがておばあさんの顔も下をむいてしまいました。
林太郎は、
自分が聞いては悪いことを話しているのだ、と思いました。自分のあたまでっかちのことを話しているのだな、とも思いました。それで、おっかさんのそばをそろそろとはなれて、
米倉の方へとぼとぼと歩いてきました。
「
林太郎や、遠くへいくんじゃないよ。」
と、おっかさんがうしろから声をかけました。
「うん。」
と林太郎はふりむきもしないで答えて、さっきおっかさんとのってきた船がつないである
水際の方へおりていきました。そこにはさっきのあひるどもが、やっぱりがあがあなきながら、いかにもおもしろそうに
泳ぎまわっていました。林太郎はそれをぼんやり見ながら、自分はとうとうひとりぼっちになってしまったような気持になりました。
すると、後の方で、おん、おん、おんというなにかのなき声がしました。ふりむいてみると、小さなまっ白なむく犬がいました。ひつじのようにむくむくした、毛ののびた前足を前へつっぱり、くりくりした
茶色の
目をきょとんとあけて、わん、わんというよりは、おん、おんというような声でほえたてています。
犬の
大好きな林太郎は、いままでなきそうにしていた顔をきゅうに明かるくいきいきとさして、その
場にしゃがみながら
片手をさしだし、ちょっちょっと
舌をならしてよびました。が、むく犬はかえってあとしざりしながら、おん、おんとほえたてます。林太郎はそれをつかまえてやろうと思い、立ち上がっていきました。と、むく犬はこんどはむこうをむいてばらんばらんとにげだしました。あんまりきゅうにかけだしたので、前へのめってころんとひとつもんどりをうって、それからあわてておき上がり、またかけだしました。
子犬というものはみんなあたまでっかちなものですが、そのむく犬はわけてもでっかち頭に見えました。それできゅうにかけだしたりするとのめるのでしょう。林太郎はおかしくなって、
「やあい、でっかちあたまあ
······」
と、どなってやりました。しかしそれは、自分が村の子どもらからしょっちゅういわれていることでした。林太郎はへんな
気持になりました。そしてそのむく犬がとてもなつかしくなりました。自分のきょうだい
分のような気がしてきました。
それから林太郎は、なんとかしてそのむく犬を手なずけようと考えました。口をとんがらしてへたな
口笛をふいてみたり、なにかたべるものをくれるように見せかけたり、いっしょに遊ぼうというように道ばたの草の上にねころんで見せたりしました。むく犬は、もうにげようとはしませんが、でっかち頭をくるくるまわしたりして、おどけるようなまねをしながらも、なかなかそばへよってきませんでした。
「おまえの名はなんちゅうんだい? 名なしの犬ころかい? 白いからしろだろう。そうだ、おれが名をつけてやるよ。しろ
公とつけてやるよ。
······しろ公や、こっちへこいよ。おれのでしにしてやるよ。でしでいやなら、
弟にしてやるよ。」
しろ公はにこっと
笑ったように林太郎には見えました。それから前足をちょいとあげて、ぼく、うれしいな、というようなようすもしました。が、それでも、そばへはよってきません。
と、
母屋のお
庭からおっかさんが、
「林太郎や、おひるだよお
······」
とよびました。林太郎は
残念そうにその場をひきあげました。
林太郎は、いろりのある
台所で、おばあさんとおっかさんのあいだにすわって、おひるのごはんをたべていました。すると、さっきのしろ公が、いつのまにかそこの
土間へきていて、みんながごはんをたべているのを、さもうらやましそうに、しっぽをふりながら見上げていました。林太郎はびっくりしてよろこび、
「やあ、しろ公だ、しろ公だ。」
と、のび上がっていいました。
「おやおや。」
と、おばあさんもしろ公を見下ろして、
「林太郎のうちのかい?」
「ううん、さっき、ひとりであそんでいたから、おれの弟にしてやったんだよ。」
「それじゃ、野ら犬かな?」
「野ら犬であるもんか。しろ公というなまえがついてるんだもの。」
「あの犬が、自分でそういったのかい?」
「
······うん、そういった
······」
おばあさんは、
「ああ、そうかよ。」
と、それから声をあげて
笑って、
「それじゃ、なにかたべさしてやろうかな。」
「うん。おれ、くわしてやるよ。」
やがて林太郎は、おばあさんが、ねこのおわんへもってくれた
汁かけ
飯をもって、土間へおりていきました。しろ公はよっぽどおなかがすいているとみえて、もうにげだすどころか、小さなしっぽをふりちぎりそうにうちふりながら、がつがつとくいつきました。
それから林太郎としろ公はすっかり
仲よしになりました。しろ公はまったくの弟になったように、林太郎のいくところはどこへでもついてきました。林太郎はもう、ひとりぼっちになってしまったような気持を、きれいに
忘れてしまいました。
林太郎はしろ公をつれて、
母家のまわりをかけまわりました。米倉のまわりもかけまわりました。入江のふちの道もいったりきたりしました。ときどきだきあげてやると、しろ公はあんまりよろこびすぎて、おしっこをもらしたりします。草の上へねころんでふざけると、しろ公は
夢中になりすぎて、林太郎の手や足に
歯あとがのこるほどかみつきます。そんなとき、
「しろ公のばか。気をつけろよ。」
そういってかるく頭をぶってやると、しろ公は目をしょぼしょぼさせて、ごめんね、とでもいうように林太郎の手の
甲をしゃりしゃりなめたりします。
林太郎はどうしていいかわからないほど、しろ公がかわいくなりました。
そのうちに、
晩春のながい日もくれかけました。けれど林太郎は、それも知らずにしろ公と遊んでいると、おっかさんがそこへでてきて、
「林太郎、もううちへかえりなよ。」
と、いいました。
「おっかさんもいっしょにかえるんだろ?」
「おっかさんはきょうはかえれないよ。そのかわり
友さんをつけてやるから、いいだろう。」
友さんというのは、おばあさんのうちの
作男でした。
「友さんでは、いやだ、いやだ。」
「そんなこといわないで、きょうだけおとなしくかえっておくれ。でないとおかっさんが困るから。」
「
·········」
「それじゃ、そのしろ公もいっしょにつれていきな。林太郎にはしろ公という弟ができたんだもの、もうさびしかないだろう。」
「
·········」
林太郎はしろ公をだきながら、
指のつめをかんでいるばかりです。おっかさんは大きなため
息をついて、
「困ったなあ。」
と、また、うつむいてしまいました。
林太郎は、うわ目でおっかさんのようすをしげしげと見ていましたが、なにか
決心したように、
「そんじゃ、あしたきっと、おっかさんもかえってくる?」
「あした
······」
と、おっかさんはちょっといいつまったが、
「そう、あした、かえるよ。」
と、小さなこえでいいました。
林太郎はそれがまた気になりましたが、とうとう、
「じゃ、おれきょうかえるよ。」
と、答えました。
林太郎は、しろ公をつれ、作男の友さんに船をおしてもらって自分のうちへかえりました。そしてその夜は、しろ公の
寝床を土間のすみへわらでつくってやって、自分はおじいさんといっしょにねました。
つぎの朝はいつもより早く
起きだして、しろ公をつれて家の
裏の丘の上へのぼり、入江の方を見ていました。が、おっかさんはかえってきませんでした。林太郎は日がくれるまで、
何度となくその丘へきてみましたが、やっぱりだめでした。
そうしてつぎの日も、またそのつぎの日もおっかさんはかえってきません。林太郎はおじいさんに、なぜおっかさんはかえらないのか、と一日に三度も四度も聞いてみましたが、おじいさんは
「そのうちに、帰るで、おとなしくしてるだよ。」
というばかりでした。
夜になるとしろ公も、ひとりでねるのはさびしいというように、くんくんなきたてます。すると林太郎もたまらなくさびしくなって、おじいさんの胸へ顔をおしつけて、しくしくなきました。おとっつあんはときどき、
「林太郎はこっちへきてねるんだぞ。」
と、いいましたが、林太郎はそんなことはいつも聞えないふりをしていました。
ある夜、林太郎は、おじいさんとねながら、とうとういいだしました。
「おじいさんよ。おれ、あたまでっかちだから、それでおとっつあんはおっかさんをおん出しちまったんだろう?」
「ばか。おまえがあたまでっかちだって、おっかさんの
罪ではないんだよ。」
「そんじゃ、おれが悪いんだろう。
······そんじゃ、おれ
······死んじまえばいいんだろう。」
「こら、なにをいうだ。」とおじいさんは林太郎をまじまじと
見守っていましたが、「よしよし、おじいさんがおっかさんをつれてきてやるから、もう
余計なことを考えるでないぞ。」と林太郎を胸の中へだきこみました。
つぎの日おじいさんは、「さっぱ船」にのって、「むこうの家」へでかけていきました。そして夕方、
暗くなってからやっぱりひとりでかえってきて、
「おっかさんはからだが少し悪いでな、なおったらすぐかえるといってたよ。」
と、いいました。
だが、それから半月たってもひと月たってもおっかさんの方からはなんの音さたもありませんでした。
そのうちに夏休みがきました。しろ公は、つれてきたときより三
倍も大きくなり、夜はよく家の
番をし、
昼間は林太郎のいうことをよく聞いて、いっしょにふざけながら遊んでもおしっこをもらしたり、手や足をひどくかむようなことはしなくなりました。
それに、しろ公はひじょうにりこうで、林太郎が夕方などさびしそうにしていたりすると、ぴったりと林太郎のそばにすりついて、はなれませんでした。それはまったく林太郎のきょうだいのようでした。
それで林太郎もいつか、このしろ公といっしょなら、ひとりではできないこともできるような気がしてきました。そして林太郎は、ある日、ひとりではできないことを、しろ公といっしょにりっぱにしてしまいました。それは、しろ公を、
例の「さっぱ船」にのせ、自分が船をこいで、とうとうおっかさんのお
里まで、
入江を
渡ってしまったのです。
お里のおばあさんもそれにはびっくりして、
「まあ、林太郎は、ほんとうにひとりで船をこいできたのかい。」
と、なんべんも聞きました。
林太郎は、さすがに少し顔色も変わっていましたが、元気よく、
「おれ、ひとりじゃないよ。しろ公とふたりだよ。」と答えて、「おっかさんをむかいにきたんだよ。おっかさんはどこにいるの?」と、聞きました。
おばあさんは、これは
困ったことになったぞ、という顔をしていましたが、
「おっかさんはな、まだからだがよくならないので、
土浦の
病院へいってるのだよ。よくなって
退院したら、じき林太郎のとこへかえしてやるから、きょうはがまんして帰っておくれ。」
と、やさしくいいきかせました。
林太郎は、くちびるをくいしばって聞いていましたが、
「うん。」
と、ひとこと答えたきりでした。
さてその日、林太郎はしろ公をつれて、土浦の病院までおっかさんをたずねていこうと
決心しました。土浦までは霞ガ浦のふちをぐるりと
回って、五里ちかくあります。おとなは
自転車で一日に
往復しましたが、やっと十一
才の林太郎が、それも小さな足でぽつぽつ歩いて、まだ一度も歩いたことのない道をいこうというのですから、それはずいぶんの
冒険でした。が、林太郎はおっかさんに会いたい
一心から、もうあぶないことも
恐いことも忘れてしまったのでした。
林太郎はしろ公をつれ、土浦へむかって歩きだしました。左手は、
松林や
雑木林がつづいています。そこには、ひぐらし、みんみん、あぶらぜみなどがにぎやかにないています。右手は青々としたたんぼで、風がわたるたびに青い波がながれます。たんぼのむこうは霞ガ浦で、それは、いかにも夏の湖らしくきらきらと光っています。
林太郎は、生まれてはじめて歩く道ですが、そういう
景色をながめながら歩いていると、そんなにさびしいとも
感じませんでした。それに、土浦へいきさえすれば、おっかさんにあえると
信じてもいるので。
ただ林太郎にとって少し困ったことは、しろ公をおともにつれてきたのに、しろ公はおともらしく
神妙にしてついてこないことでした。しろ公もはじめて歩く道なので、いつものように横道へそれたり、見えなくなるほど先の方へ走っていったりはしませんが、道ばたにたっていつまでもくんくん、鼻をならしていたり、
電信柱があるごとに、その
根元へおしっこをかけたり、ほかの犬の姿をみつけると遠くからにらめていたり、ちっともおちついていないのです。林太郎は、
「しろ公、ばか。」
「しろ公、げんこつくわせるぞ。」
「しろ公、おとなしく歩かねえと、おっかさんのとこへつれてってやらねえぞ。」
などと、しょっちゅうどなりつけながら歩いていました。
そのうちに、きらきら
光っていた
霞ガ
浦がだんだんうすむらさきに
煙ってきました。丘の上でなきしきっていたせみの声もいつしかしずまり、かなかなのこえだけ、小さなかねをたたくように聞えて、あたりは夕もやにつつまれてきました。気がついてみると、あんなにさわぎまわっていたしろ公も、林太郎の足元にすりつくようにして、とぼとぼと歩いています。
林太郎はきゅうに
心細くなりました。
「もう、どのくらい歩いたろうな。土浦はまだかしら。」
そう思ってゆくてをみると、白い道が夕もやの中へきえて、その
先の
空には二つ三つ、
黄ろい星が光りだしているばかり。ときどきすれちがう人もなんだか
気味が悪く、うしろからだしぬけに自転車が走りぬけたりすると林太郎はぎょっとしました。そこで林太郎は、こんどはやさしい声でしろ公へ話しかけました。
「しろ公、くたびれたかい。」
「しろ公、おなかがすいたかい。」
「しろ公、おっかさんのとこへいったら、うんとうまいものをくわしてやるよ。」
そうして林太郎としろ公は、どのくらいの道を歩いたろうか。ふと目を上げるとはるか右手のほうに、たくさんの
電灯が、まるで野原
一面にさきみだれた花のようにきれいにともっているのが見えました。
「ああ、
土浦だ、土浦だ!」
林太郎はとび上がってよろこび、
「やいしろ公、おっかさんのいる町がめえるじゃねえか。」
けれどしろ公はやっぱりとぼとぼと歩いています。林太郎はそのしろ公を
両手で高くさしあげて、
「それ見ろよ。あれだよ。すてきだろう。」
林太郎はすっかり元気づき、
走るように歩きだしました。
だが、町の
灯はすぐそこに見えていながらなかなか遠いのです。林太郎が近づいていけばいくほど、町のほうで遠くへにげていくようにも見えます。それで林太郎は、はあはあいいながら
夢中で進んでいきました。そしてやっと町の入口へついたときは、足は
棒のようになり、頭はぽうーっとなっていました。しろ公もすっかりまいったとみえ、しっぽをおなかの下へまきこみ、ひょろひょろ歩いています。
この町の
灯を遠くから見ながらくるときは、林太郎の目にはこの町がおとぎ話の
竜宮のように美しいところに思われたのでした。が、きてみるとそれどころか、小さな店がごちゃごちゃとならんで、いやなにおいがして、むし
暑くて、どこにも美しいところがありません。それに、人をふきとばしそうなサイレンをならしている
自動車、
往来いっぱいになってがたがた
走ってくる
乗合自動車、うるさくベルをならしながらとびまわる
自転車などで、うかうかと歩いてもいられません。林太郎はしろ公といっしょに
幾度となく
往来のすみっこにたち止まっては、
「まったく、やんなっちゃうなあ。」
と、ひとりごとをいいました。
しかしそんなことをしていたら、いつまで歩いていてもおっかさんに会うことなどできません。林太郎はある
荒物屋の
店先へ立ち、学校でならったていねいな
言葉で聞きました。
「土浦の病院はどこですか。」
「土浦の病院? それだけじゃ、わかんねえよ。」
荒物屋のことばはらんぼうです。
「土浦の病院だよ。」
「このでっかちあたま、土浦には、病院がいくつもあるんだからな、その名前を聞いてこい。」
林太郎はおずおずとその店先をさりました。林太郎は、この町へきて「土浦の病院」とさえいえばすぐわかり、それでまたおっかさんにも会えるものとばかり思ってきたのです。林太郎は困ったなと思いました。が、ひょっとしたらあの荒物屋はなんにも知らないのかもしれないと思いなおしました。で、またしばらく歩くと、ある
乾物屋の前へたって、
「土浦の病院はどこでしょうか。」
と、聞きました。
「へえ?」と、乾物屋のおかみさんは笑いながら、「おまえさん、どこからきたの。」
「
······」林太郎はそれには答えず、「おれのおっかさんのいる病院だよ。」
「おや。犬ころとふたありで、おっかさんに会いにきたのかね。だけど土浦の病院だけじゃわからないよ。なんという病院だえ?」
と、おかみさんはやさしくいいます。
そういわれると林太郎はなんだか少し悲しくなり、きゅうにおろおろ声で、
「土浦の病院というんだよ。そんな病院ないのけ?」
「なるほど、それじゃ、土浦病院のことだろう。それならね、これをまっすぐにいってつきあたったら、右へまがっていくと、
左側にあるのがそうだよ。りっぱな
西洋館だからすぐわかるよ。」
林太郎は、ああよかったと思いました。それでそのおかみさんへぼうしをぬいでていねいにおじぎをして、教わったとおりの道を歩いていきました。
町はだんだんとにぎやかになり、ならんでいる店もりっぱになり、ある店には、赤や青の電灯が、つばきの花を糸へさしたようにならべてあって、
蓄音機が大きな声で歌をうたっています。林太郎もその前ではしばらく立ち止まって、
「やっぱり
竜宮みたいなところもあるなあ。」と
感心したりしました。
病院はすぐわかりました。林太郎はおそるおそるその
玄関へはいって、まっ白な
円い
天井に大きな電灯がともっている下に立ち、
「こんちは、
······こんちは
······。」
と、いいました。すると
受付とかいてあるところの窓があいて、
「もう夜だからこんばんはというもんだよ。」という声がして、白い
服をきた
若い女が顔をだし、「なあに、くすりをとりにきたの。」
「ううん、おれのおっかさんいるけ?」
「ほっほほ。おれのおっかさんて、おまえさんなんという名?」
「林太郎
······。」
「やな子、林太郎じゃわかんないよ。なに林太郎というの?」
「
川並林太郎というの。」
「川並
······? おまえさんのおっかさんだね。」
「うん。」
「そんなお方、うちには
入院していないわ。」
「うそだあ。いるっていったよ。」
「だっていないんだもの。うそなんかいやしないよ。」
「
······ほんとにいないの。」
林太郎はうらめしそうににらみました。
「おまえさん、病院をまちがえたんだろ。この前を左へいくと、むこう
側にもひとつ病院があるから、そこへいってごらん。」
林太郎は、しおしおとそこをでて、教わった、つぎの病院へいってみました。が、そこにもおっかさんはいませんでした。林太郎はそこでもまたべつの病院を教わって、また、そこへいってみましたが、やっぱりおなじことでした。そこでは、
「病院の名も知らずに歩いたってわかりっこないから、おうちへおかえり、でっかちあたまさん。」
と、いわれました。
林太郎はもう顔も上げられないほど悲しくなりました。それでただもう足のむいた方へ歩いていきました。町の灯がちかちか光って見えます。
涙が目の中にいっぱいたまっているのでそう見えるのですが、林太郎はそんなことは気がつきません。ただ町中がなんとなく
恐ろしく見えてきて、早くちかちか光る灯のないところへ出たいと思いながら歩いていました。
そのうちやっと暗い通りへでました。それをどこまでもいくと、
広い
原っぱへでました。そこは
霞ガ
浦のふちで、
一面に
夏草がはえしげっています。夏草には
夜露がしっとりとおりています。林太郎はその草の露をふみながら、またあてどもなく歩いていきました。
「しろ公、どこへいったらいいんだよ?」
林太郎は、いつか足元にすりついて歩いているしろ公へ、そう話しかけていました。
「なあ、しろ公、おっかさんは、どこにいるんだよ?」
「なあ、しろ公、たのむからおまえが
探してきてくれよ。」
「しろ公、おらなんだか気が遠くなってきたよ。」
「しろ公、
夢みたいだなあ。」
そういっていたかと思うと、林太郎は草の上にふらりとすわってしまいました。そこは
湖の
岸で、すぐ下は水です。林太郎はそこにすわったまましばらくはふらふらしていましたが、やがてずるずるとすべって、もう少しで水の中へすべりこむところを、そこに一カ所ちょっとしたくぼみがあり、林太郎のからだはその中へぐあいよくすぽりとはまりました。
林太郎はそこで、虫のようにまるくなって
眠ってしまったのです。かわいそうに林太郎は、おっかさんのお
里を出てから、水一てき飲まずに五里ちかくの道を歩きつづけ、この町へきてもなにひとつたべずに、あっちこっちの病院をたずね
回ったので、もうからだも頭もへとへとに
疲れてこんなところにゆきだおれてしまったのです。
しろ公も林太郎とおなじように
飲まず食わずですから、もう少しでへたばりそうになっていました。が、林太郎がそんなにたおれてしまったのをみると、これは
兄貴の
一大事とわかったらしく、しっかりと
両耳をたてて、林太郎のそばにきちんとすわっていました。
主人のためには
命をすてて主人の
危険を
救う犬がよくありますが、しろ公もまたそういう
忠実な犬にちがいありません。といってしろ公は、そこにゆきだおれてしまった林太郎をどうして
救うのでしょうか。
こちらは林太郎のおとっつあんです。おとっつあんはその日がくれても林太郎の姿が見えないので、これはてっきりおっかさんのお里へいったにちがいないと思い、さっぱ船にのってお里へいってみました。と、林太郎はおひるすぎにきはきたが、すぐ家へかえっていったとおばあさんのはなしです。
「それじゃ、どこへいったろう?」
「ひょっとしたら、おっかさんに会いたい
一心で、
土浦までいったかもしれないぞ。」
「でも、あんな子どもがひとりでいけるだろうか。」
「いやいやいったかもしれぬ。そういえばきょうの林太郎はいつもと
違って、くちびるをくいしばってなにか
決心したような顔で、このうちを出ていったからな。」
「しろ公もいっしょだったか。」
「ああ、いっしょだった。」
「そんならやっぱりいったかもしれねえ。よし、じゃこれから
迎いにいってくる。」
「ああすぐいっておくれ。それからひとつ頼みがあるが。」
と、おばあさんは目をしょぼしょぼさしていいます。
「どんなことでしょう?」
「ほかでもないが、林太郎はじぶんの頭がでっかちなので、そのためにおっかさんはおまえさんの家から
追い出されたのだと、思っているのだから、な。それをよく考えてやっとくれよ。」
「ああ、よくわかりました。すみません。」
おとっつあんはそこで、その
家の自転車を
借り、それにのって、もうチェーンがきれるほどペタルをふんで
土浦へ走っていきました。で、わずか一時間ばかりで町へはいると、林太郎のおかあさんが
入院している病院へ、息せききってはいっていきました。
林太郎さんのおっかさんは、もう
病気もよくなり、少しは外へもでられるようになっていましたので、おとっつあんがたずねたというしらせをうけると、ひとりで
玄関へでていきました。おとっつあんはまず、
「林太郎がきているかね。」
と、聞きました。
「林太郎が? きていませんが
······」
「きていない。ああそれじゃまい
子になっているのだ。」
「どうしたのです?」
おっかさんも
顔色をかえました。おとっつあんは手みじかに、
実はこれこれだと、林太郎がいなくなったわけを話しました。するとおっかさんはもう
涙声になり、
「林太郎はわたしの子ではないのに、わたしをほんとの親のようにしたってくれるのです。あんないい子をまい子にしてしまってはたいへんです。わたしもいっしょにさがしますから。」
と、外へ出ようとします。
「いや、おまえは
病人だからむりをしないでおくれ。わしがひとりでさがす。きっとさがしだしておまえのところへつれてくるから、気をもまないで
待っていておくれ。」
おとっつあんはそういいおいて、また自転車にとびのり、町の中へ
走りだしました。
それからおとっつあんは、
無我夢中で町中を走りました。が、どこにもそれらしい姿が見えないと、町はずれを、東へも南へも、北へも西へもでてみました。だが、それでも見あたりません。
おとっつあんはもう気がくるいそうになりました。それで、まっくらな原っぱへ出たりすると、大きな声をだして、
「林太郎やあー
······林太郎やあー
······。」
と、どなりました。
そのうちに夜はふけてきました。おとっつあんはもう声もかれはてて、林太郎をよぶこともできなくなりました。
そうして、あるまっくらな道をよろよろと
走っているときでした。どこからか一ぴきの白い犬が走りよってきたかと思うと、おとっつあんの足へかみつくようにしてほえたてるのです。見るとそれはしろ公ではありませんか。おとっつあんは
自転車から飛びおり、
「ああ、しろ公だ、しろ公だ。林太郎はどこにいるのだ?」
と、しろ公をだいてさけびました。するとしろ公は、
悲しいような、うれしいような声で、くうーんくうーんとなきながら、
自分のからだをおとっつあんの胸へすりつけて、それからまっくらな道を走りだしました。
「ああ、そっちか。ありがとう、しろ公。ありがとう、しろ公。」
おとっつあんはいいながら、自転車でその後についていきました。
しろ公は、そのようにして、林太郎がゆきだおれている
湖の
岸へ、おとっつあんをりっぱに
案内したのです。おとっつあんは、
倒れている林太郎をだきあげると、
「林太郎やあ
······林太郎やあ
······。」
声かぎりよびました。林太郎はその声でやっと目をあけました。そして、おとっつあんだと知ると、
「おれ、もう死んじゃうんだよ。」
と、いいました。
「ばかなことをいうでねえ。」と、おとっつあんは林太郎のからだをゆすぶり、「おとっつあんが
迎いにきただ。もう、だいじょうぶだからしっかりするんだぞ。」
「おれ、おとっつあんなんぞいらない。おっかさんだ、おっかさんだ
······」
「だから、おっかさんとこへつれていくだ。それで、あしたは、おっかさんと林太郎とおとっつあんと三人で、うちへ帰るだから、しっかりするんだぞ。」
「そんじゃ、おっかさんの病院わかったの?」
「ああわかったとも。おっかさんも林太郎のくるのを
一生けんめいに
待ってるだ。」
「そんじゃ、おとっつあん、もう、おっかさんをいじめねえかよ。」
「だれがいじめるもんか。林太郎がしろ公をかわいがるようにかわいがってやるだ。」
「おれが頭でっかちでも?」
「林太郎の頭も、もうはあでっかちじゃねえだ。それ、しろ公だって、犬ころのときでっかちあたまだったが、いまはそうじゃねえだろう。林太郎もしろ公とおんなじよ。」
おとっつあんは林太郎を草の上へ立たせ、その前へしゃがんで、
「さあ、おんぶしなよ。おっかさんとこへいくだ。」
「待ってよ、おとっつあん。」
「どうするだ。」
「おとっつあんはばかだなあ。しろ公を忘れてるよ。」
「ああそうか。」と、おとっつあんはしろ公の頭をなでて、
「しろ公、ありがとうよ。われのおかげで林太郎は
助かったぞ。林太郎のおっかさんもおとっつあんも助かったぞ。」
しろ公もうれしそうにしっぽをふっています。林太郎は、しろ公の前へしゃがんで、
「それ、しろ公、おんぶしなよ。」
「なるほど、そうか、そうか。」
おとっつあんはそこで、しろ公をだき上げて林太郎の背中へのせ、その林太郎をおんぶして、そうして自転車へのり、ちょうど
曲馬団の
曲芸師のようなかっこうで、元気よくおっかさんのところへ走りだしました。
(昭10・2〜4)