一
天下の
勢力を一
門にあつめて、いばっていた
平家も、とうとう
源氏のためにほろぼされて、
安徳天皇を
奉じて、
壇ノ
浦のもくずときえてからというもの、この壇ノ浦いったいには、いろいろのふしぎなことがおこり、
奇怪なものが、あらわれるようになりました。
海岸に、はいまわっている
かにで、そのこうらが、いかにもうらみをのんだ
無念そうなひとの顔の形をしたものが、ぞろぞろとでるようになりました。これは
戦いにやぶれて、海のそこに
沈んだ人びとが、
残念のあまり、そういう
かにに、生まれかわってきたのだろうと、人びとはいいました。それで、これを「平家がに」とよび、いまでも、あのへんへいけば、このかにが、たくさん見られます。
それからまた、月のないくらい
夜には、この壇ノ浦の
浜辺や海の上に、
数しれぬ
鬼火、
||めろめろとした
青い
火が音もなくとびまわり、すこし風のある夜は、波の上から、
源氏と
平家とが
戦ったときの、なんともいわれない
戦争の物音が聞えてきました。また、そうした夜など、舟でこの海をわたろうとすると、いくつもの黒い
影が波の上にうかびあがり、舟のまわりにあつまってきてその舟をしずめようとしました。
土地の人びとは、もう夜になると海をわたることはもちろん、
海岸へ出ることさえできなくなりました。しかし、それではこまるというので、みんなよって
相談をして、
壇ノ
浦の近くの
赤間ガ
関(今の
下関)に
安徳天皇のみささぎと
平家一門の
墓をつくりました。それからそのそばに、あみだ寺をたてて、
徳の高い
坊さんを、そこにすまわせ、
朝に
夕にお
経をあげていただいて、海の
底にしずんだ人びとの
霊をなぐさめました。
それからというもの、
青い
鬼火も、戦争の
物音も、舟をしずめる黒い
影も、あらわれなくなりました。しかしまだときどき、ふしぎなことがおこりました。平家の人びとの
霊は、まだじゅうぶんには、なぐさめられなかったとみえます。つぎの
物語はこのふしぎなことのひとつであります。
二
そのころ
赤間ガ
関に、
法一という
びわ法師がいました。この法師は生まれつきめくらでしたので、子どものときから、びわをならい、十二、三
才のころには
師匠に
負けないようになりました。そして、いまでは
天才びわ
法師としてだれでもその名を知っているようになりました。
さて、多くのびわ
歌の中で、この法師がいちばんとくいだったのは、
壇ノ
浦合戦の一
曲でありました。ひとたび法師がびわをひきだし、その歌をうたいはじめると、なんともいえないあわれさ、
悲しさがひびきわたり、
鬼でさえも
泣かずにはいられないほどでありました。
この法師は、だれひとり身よりもなく、また、ひどく
貧乏でした。いかに、びわの
名人とはいえ、そのころは、まだそれでくらしをたてるわけにはいきませんでした。すると、平家の
墓のそばにあるあみだ
寺の
坊さんが、それをきいて、たいへん
同情をし、またじぶんはびわも
好きだったので、この法師をお寺へひきとり、くらしには、なに
不自由のないようにしてやりました。法師はひじょうによろこびました。そして、しずかな夜などは、とくいの
壇ノ
浦合戦を
歌っては坊さんをなぐさめていました。
それは
春の
宵でありました。坊さんは
法事へいってるすでした。法師はじぶんの
寝間の前の、えんがわへでて、
好きなびわをひきながら、坊さんの帰りを待っていました。が、坊さんは夜がふけてもなかなか帰ってきませんでした。法師は見えない目を空にむけ、なんとはなし、もの思いにふけっていました。と、やがて
裏門に近づく人の
足音がして、だれか門をくぐると、
裏庭を
通って法師の方へ近づいて来ました。坊さんの足音にしては、すこしへんだと思いながら、耳をかたむけていると、とつぜん、ふとい声で、ちょうど
武士が、けらいを
呼ぶように、
「
法一。」
と、よびかけました。法師はぎょっとして、すぐ
返事もできずにいると、かさねて、さらにふとい声で、
「法一。」
「はい
······わたしは、めくらでございます。およびになるのは、どなたでしょうか。」
法師は、やっとそう
答えることができました。
「いや、おどろくにはおよばぬ。」
と、声の
主は、すこしやさしい
調子になり、
「わしは
使いのものじゃ。わしのご
主君は、それは
高貴なお
方ではあるが、多くの、りっぱなおともをおつれになり、いま
赤間ガ
関に、おとどまりになっていられる。さて、ご
主君は、そのほうの
びわの
名声をおききになり、
今夜はぜひ、そのほうの、とくいの
壇ノ
浦の一
曲をきいて、むかしをしのぼうとされている。されば、これより、わしといっしょにおいでくだされたい。」
この
当時は、
武士のことばに、そうむやみにそむくわけにはいきませんでしたので、法一はなんとなく
気味悪く思いながらも、びわをかかえて、その
案内者に手をひかれて寺をでかけました。案内するひとの手は、まるで
鉄のように、かたく
冷たく、そして大またに、ずしりずしりと歩いていきます。そのようすから
察すると、そのひとは、いかめしいよろいかぶとを身につけた、
戦場の
武士のように思われました。
やがて、その武士はたちどまりました。そこは、大きなりっぱなご門の前のように思われました。しかし、このあたりには、それほどに大きな、りっぱなご門は、あみだ
寺の
山門よりほかにはないはずだが、と
法師はひとり思いました。
「
開門。」
武士は、こう
高らかにいいました。と、中でかんぬきをはずす音がして、大きなとびらはしずかに開かれました。武士は法師の手をとって、中へはいりました。しっとりとした庭を、しばらくいくと、またおごそかな、りっぱな大げんかんと思われる前に、たちどまりました。武士はそこで、また高らかにいいました。
「ただいま、びわ
法師、法一をつれてまいりました。」
大げんかんのうちでは、ふすまをあける音、大戸をあける音がして、やがて、やさしい女たちの話し声が聞えてきました。その声で
察すると、その女たちは、この
高貴なおやしきの、
召使いであることがわかりました。その召使いの女のひとりが、法師の手をやわらかにとると、こちらへと、大げんかんのうちへ
案内しました。それから、すべるようにみがきこんだ、長いろうかをいくまがりかして、かぞえきれないほどの、
部屋べやの前をすぎて、やがて
大広間へ案内されました。そこには、かなりおおぜいの人びとが
息をひそめて、いならんでいることが、そのけはいでわかりました。やわらかな
衣ずれの音が、
森の木のすれあうように聞えました。
法師は、大広間の
床の
間と、はんたいがわと思われるところに、ふっくらとしたざぶとんの上にすわらせられました。法師はきちんとすわり、持って来たびわをひきよせると、耳もとで
老女らしい声がしました。
「
平家の
物語||壇ノ
浦を
弾じてください。」
三
法師はしずかに
びわをとりあげました。大広間のうちは、水をうったように
しんとなりました。はじめは小川のせせらぎのように、かすかにかすかに
鳴りだし、ついで
谷川の岩にくだける水音のようにひびきだして、法師のあわれにも、ほがらかな声が、もれはじめました。その声は一だんごとに力を
増し、泣くがように、むせぶがようにひびきわたりました。その声につれて
弾ずるびわの音は、また
縦横につき進む
軍船の音、
矢のとびかうひびき、
甲胄の音、つるぎの
鳴り、
軍勢のわめき声、
大浪のうなり、
壇ノ
浦合戦そのままのありさまをあらわしました。法師はもはやわれを
忘れて歌っていました。
「なんという
名手でしょう
······ひろい国じゅうにも、これにまさるものはありますまい。」
「まことに、わたしも生まれてはじめて聞きます。」
そういうささやき声が、そちこちから聞えました。
法師は、ますます声をはりあげ、ますます、たくみにびわをひきました。
平家一
門の
運命も、いよいよきわまり、
安徳天皇をいただいた
二位尼が
水底ふかく
沈むだんになると、いままで水をうつたようにしんとしていた
広間には、いっせいに悲しげな
苦しげな声が上がりました。その声は、だんだんと高まって、はては大声で泣きさけぶ声さえ、聞えてきました。
法師はなんともいえない気持にうたれながら、しずかに一
曲をひきおわりました。
広間の人びとの声は、それでもまだしばらくのあいだ、なげき悲しみつづけていましたが、いつか流れがたえるようにきえていくと、こんどはまた、恐ろしいほどのふかいふかい
沈黙と、
静寂が広間いっぱいにこもりました。
しばらくしました。と、さっきの
老女の声が、また法師の耳もとでしました。
「かねて聞いてはいましたが、そなたのびわには、こころから
感服しました。ご
主君も、ことのほかおよろこびになりました。お
礼に、なにかよいものをおあげしたいが、
旅のことで、なにもなくお気のどくです。けれどこれからあと六日の
滞在ちゅう、毎夜来て、こよいの物語を聞かしてくだされば、ありがたいことです。あすの晩も、おなじ
時刻に
使いのものをあげますから、どうぞおいでくださいまし。なお、
念のためもうしそえますが、ご
主君は、ただいま、おしのびの旅をなされていられるのですから、このことは、どのようなことがあっても、いっさいひみつに、だれひとりにも話さぬよう、くれぐれもおたのみもうします。」
まもなく
法師は、また女の手に
案内され、大げんかんへ来ました。そこには前の
武士が待っていて、法師をあみだ
寺までおくって来てくれました。
四
法師が寺へ帰ったのは、夜あけ近くでありました。お
坊さんも、夜おそく帰って来ましたので、法師はもう、寝ていることと思い、法師の
部屋へ見にもいかなかったのでした。それで法師のその夜のことは、だれもしらずにしまいました。もちろん法師は、なにも話しませんでした。
つぎの夜でありました。法師はれいのとおり、
寝間の前の、えんがわにいると、
昨夜のとおり、
重い足音が
裏門からはいって来て、法師をつれていきました。大げんかんの前、
召使いの
案内、長いろうか、大広間、そして、しんといならぶ人びとの前、そこで法師は昨夜とおなじように、
壇ノ
浦の
物語をひきました。そうして、人びとは、またも泣き、むせび、悲しみました。法師は深い
感激にうたれて、寺へ帰って来ました。
すると、寺ではめくらの法師が、だれの
案内もなしに寺をぬけだしていることを知りました。
つぎの朝、法師はお坊さんの前へよばれて、やさしくいいきかされました。
「えらく
心配しましたぞ。めくらがひとり
出をするのは、わけても夜中にでるのは、なによりあぶないことじゃ。どういうわけで、出ていくのか。わしは
寺男にさんざんさがさせたのじゃ。いったいどこへいきなさるのだね。」
「これは
申し上げられませぬ。てまえのかってな
用事をたしにでかけたのです。どうもほかの
時刻では、つごうがわるいものですから。」
法師はただそう答えました。
お坊さんは、法師のようすがあまりへんなので、これはすこしあやしい、もしかしたら
悪霊にでもとりつかれたのかもしれない、と思って、それ
以上は、ききただそうとしませんでした。そのかわり、ひとりの寺男に、ひそかに法師のようすを見はらせることにして、もし夜中にそとへでていくようなことがあったら、あとをつけろといいつけておきました。
すると、はたしてその夜も、法師は
びわを持って、寺をひとり出ていきました。寺男はちょうちんに
灯をいれて、そのあとをつけていきました。その夜は、雨もよいの
陰気なくらい
晩でありました。しかし、めくらの法師は、まるで目あきのようにさっさと歩き、いつか
年よりの寺男をあとに、くらがりの中へきえてしまいました。寺男は、そのように早く歩く法師を、ふしぎにも気味悪くも思いました。
寺男は法師がたちよりそうな家を、一けん一けんさがしまわりました。が、どこにもいませんでした。寺男はこまって、ひとり、ぼつぼつ
浜辺づたいに寺の方へ帰ってきました。と、おどろいたことには、
狂ったようにかき
鳴らすびわの音が、どこからか聞えてくるではありませんか。しかも、そのびわの音は、まちがいなく法師のひくものでありました。
寺男は、ただ
意外に思いながら、音のするほうへ近づいていきました。いったところは
平家一
門の
墓場でありました。いつか雨は
降りだしていました。
一寸先見えぬ
闇夜、寺男は、
両足が、がくがくふるえましたが、
勇気をつけて、びわの
音のする
墓場の中へはいっていきました。そして、ちょうちんの
灯をたよりに、法師をさがしました。するとこれはまた
意外のことに、法師がただひとり、
安徳天皇のみささぎの前にたん
座して、われを忘れたように、
一心ふらんに、
びわを
弾じ、
壇ノ
浦合戦の
曲を
吟じているのでありました。そうして、法師の
左右には、
数しれぬ
青い
灯、
鬼火がめらめらと、もえていたのでありました。寺男は、こんなに多いさかんな鬼火を、生まれてはじめて見るのでありました。寺男は一時は声もでないほどにおどろきましたが、やっと、心をおちつけて、
「法一さん、法一さん、あなたは、なにかにばかされていますよ。しっかりしなさい。」
と、耳もとでいいました。
しかし、法師は、寺男のことばをききいれるどころか、ますます
一心に、ますます高らかな声で、
吟じつづけています。
「法一さん、法一さん、どうなされたんです。こんなところで、なんのまねをしているんです?」
すると、法師は
怒ったように
寺男を
制して、
「しずかになさい。だまっていてくれ。
高貴な
方々の前だ、ご
無礼にあたるぞ。」
寺男は、これには、あっけにとられるばかりでした。もう、しようがないので、寺男は力ずくで法師をひきたて、その手をしっかりにぎって、むりやりに、寺へひっぱってきました。
寺の
坊さんは、びしょぬれになっている法師の着物をきかえさせ、あたたかいものを
食べさせて、できるだけ心をおちつかせました。なにかに心をうばわれたようになっていた法師は、そこでようやくわれにかえりました。そして、お坊さんや寺男が、じぶんのために、どんなに
心配をし、
骨をおったかをしり、たいへんすまないように思い、そこで、なにもかも、お坊さんにうちあけてしまいました。
お坊さんはそれをきくと、
「法一さん、それは、おまえのふしぎなほどに、たくみな
びわの
腕まえが、おまえをそういうところへみちびいたのじゃ。
芸ごとの
奥に
達すると、そういうことがあるもので、これはおまえの
芸道のためには、よろこばしいことじゃが、しかし、あぶないところじゃった。
昨夜、おまえは
平家の
墓場の前で、雨にぬれて、すわっていたそうじゃ。おまえは、なにかまぼろしを見て、そうしていたのじゃろうが、いつまでも、そうしていたら、平家の
亡者の中へひきこまれ、ついには
八つざきにされてしまうところじゃった。もう、どこへもいってはならぬぞ。わしは、
今夜も
法事で、るすをするが、おまえが
使いのものに、つれていかれないように、今夜は、おまえのからだを、よくまもっておかねばならぬわい。」
そこで、法師をはだかにして、ありがたい、はんにゃしんきょうの
経文を、
頭から
胸、
胴から
背、
手から
足、はては、
足のうらまで一
面に
墨くろぐろと
書きつけました。そしてまた、着物をきせて、お
坊さんは、
「わしは、まもなくでかけるが、おまえはいつものえんがわにすわっていなされ。やがて、れいの
武士が来て、おまえの名をよぶだろうが、おまえは、どんなことがあっても、だんじて
返事をしてはならぬ。
万一返事をしたなら、おまえのからだは、ひきさかれてしまうのだ。また人のたすけをよんでもならぬぞ。だれもたすけることはできぬのだからな。そうして、おまえがりっぱに、わしのいいつけをまもりおおせたなら、もう、おまえのからだから、
危険なことは
消えさってしまう。おまえはもう、おそろしいまぼろしを、見ないようになるのじゃ。」
と、ねんごろにいってきかせました。
五
法一は、いいつけられたとおりに、えんがわにすわっていました。と、いつもの
時刻がきて、いつもの武士が、
裏門からはいって来ました。
「法一。」
しかし、法一は
息を
殺していました。
「法一。」
二どめの声は、おどすように聞えました。が、法師はかたく口をむすんでいました。
「法一。
······こりゃへんじがないぞ。いないのか。」
と、武士は、えんがわへよって来ました。
「おや、ここにびわだけある。が、法一はいない。へんじのないのもむりはない。が、耳だけがあるぞ。
使いに来たしょうこに、これを持っていこう。」
こう
武士はつぶやくと、法師のりょう耳は、いきなり
鉄棒のような
指先で、ひきちぎられました。けれど法師は、声もだせませんでした。
武士は、それでいってしまいました。
夜がふけて、お
坊さんは帰って来ました。そして法師が、りょう耳から流れでる血の中にすわっているのを見つけました。
しかし法師は身動きひとつせず、きちんとすわっています。お坊さんは、びっくりしながら、
「法一、このありさまはどうしたのじゃ?」
と、さけびました。
法師はそこで、はじめてわれにかえり、今夜のできごとを話しました。
「ああ、そうじゃったか。いや、それはわしの
手落ちじゃった。おまえの耳ばかりへは、
経文を書くのを
忘れたのじゃ。これはあいすまぬ。が、できたことはしかたがない。このうえは、早く
傷をなおすことじゃ。それだけのさいなんで、
命びろいをしたと思えば、あきらめがつく。もう、これでおまえのからだから、
悪霊がきえさったのじゃから、
安心するがよい。」
お
坊さんは、そういいました。
それから、この
法師には、「
耳なし
法一」というあだ名がつき、びわの
名手として、ますます
名声が高くなりました。
(昭2・6)