今も
恁う
云ふのがある。
安政の
頃本所南割下水に
住んで、
祿高千
石を
領した
大御番役、
服部式部の
邸へ、
同じ
本所林町家主惣兵衞店、
傳平の
請人で、
中間に
住込んだ、
上州瓜井戸うまれの
千助と
云ふ、
年二十二三の
兄で、
色の
生白いのがあつた。
小利口にきび/\と
立
る、
朝は
六つ
前から
起きて、
氣輕身輕は
足輕相應、くる/\とよく
働く
上、
早く
江戸の
水に
染みて
早速に
情婦を
一つと
云ふ
了簡から、
些と
高い
鼻柱から
手足の
爪まで、
磨くこと
洗ふこと、一
日十
度に
及んだと
云ふ。
心状のほどは
知らず、
中間風情には
可惜男振の、
少いものが、
身綺麗で、
勞力を
惜まず
働くから、これは
然もありさうな
事で、
上下擧つて
通りがよく、
千助、
千助と
大した
評判。
分けて
最初、
其のめがねで
召抱へた
服部家の
用人、
關戸團右衞門の
贔屓と、
目の
掛けやうは
一通りでなかつた。
其の
頼母しいのと、
當人自慢の
生白い
處へ、
先づ
足駄をひつくりかへしたのは、
門内、
團右衞門とは
隣合はせの
當家の
家老、
山田宇兵衞召使ひの、
葛西の
飯炊。
續いて
引掛つたのが、
同じ
家の
子守兒で
二人、三
人目は、
部屋頭何とか
云ふ
爺の
女房であつた。
いや、
勇んだの
候の、
瓜井戸の
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、451-2]は、べたりだが、
江戸ものはころりと
來るわ、で、
葛西に、
栗橋、
北千住の
鰌鯰を、
白魚の
氣に
成つて、
頤を
撫でた。
當人、
女にかけては
其のつもりで
居る
日の
下開山、
木の
下藤吉、
一番鎗、
一番乘、
一番首の
功名をして
遣つた
了簡。
此の
勢に
乘じて、
立所に
一國一城の
主と
志して
狙をつけたのは、あらう
事か、
用人團右衞門の
御新姐、おくみと
云ふ
年は
漸う
二十と
聞く、
如何にも、
一國一城に
較へつべき
至つて
美しいのであつた。
が、
此はさすがに、
井戸端で
名のり
懸けるわけには
行かない。さりとて
用人の
若御新姐、さして
深窓のと
云ふではないから、
隨分臺所口、
庭前では、
朝に、
夕に、
其の
下がひの
褄の、
媚かしいのさへ、ちら/\
見られる。
「
千助や」
と
優しい
聲も
時々聞くのであるし、
手から
手へ
直接に、つかひの
用の、うけ
渡もするほどなので、
御馳走は
目の
前に
唯お
預けだと、
肝膽を
絞つて
悶えて
居た。
其の
年押詰つて
師走の
幾日かは、
當邸の
御前、
服部式部どの
誕生日で、
邸中とり/″\
其の
支度に
急がしく、
何となく
祭が
近づいたやうにさゞめき
立つ。
其の一
日前の
暮方に、
千助は、
團右衞門方の
切戸口から、
庭前へ

つた。
座敷に
御新姐が
居る
事を、
豫め
知つての
上。
落葉掃く
樣子をして、
箒を
持つて
技折戸から。
一寸言添へる
事がある、
此の
節、
千助は
柔かな
下帶などを
心掛け、
淺葱の
襦袢をたしなんで
薄化粧などをする。
尤も
今でこそあれ、
其の
時分中間が、
顏に
仙女香を
塗らうとは
誰も
思ひがけないから、
然うと
知つたものはない。
其の
上、ぞつこん
思ひこがれる
御新姐お
組が、
優しい
風流のあるのを
窺つて、
居
りの
夜店で
表紙の
破れた
御存じの
歌の
本を
漁つて
來て、
何となく
人に
見せるやうに
捻くつて
居たのであつた。
時に
御新姐は
日が
短い
時分の
事、
縁の
端近へ
出て、
御前の
誕生日には
夫が
着換へて
出ようと
云ふ、
紋服を、
又然うでもない、しつけの
絲一筋も
間違はぬやう、
箪笥から
出して、
目を
通して、
更めて
疊直して
居た
處。
「えゝ、
御新姐樣、
續きまして
結構なお
天氣にござります。」
「おや、
千助かい、お
精が
出ます。
今度は
又格別お
忙しからう、
御苦勞だね。」
「
何う
仕りまして、
數なりませぬものも
陰ながらお
喜び
申して
居ります。」
「あゝ、おめでたいね、お
客さまが
濟むと、
毎年ね、お
前がたも
夜あかしで
遊ぶんだよ。まあ、
其を
樂みにしてお
働きよ。」
ともの
優しく、
柔かな
言に
附入つて、
「もし、
其につきまして、」
と
沓脱の
傍へ
蹲つて、
揉手をしながら、
圖々しい
男で、ずツと
顏を
突出した。
「
何とも
恐多い
事ではござりますが、
御新姐樣に
一つお
願があつて
罷出ましてござります、へい。
外の
事でもござりませんが、
手前は
當年はじめての
御奉公にござりますが、
承りますれば、
大殿樣御誕生のお
祝儀の
晩、お
客樣が
御立歸りに
成りますると、
手前ども
一統にも、お
部屋で
御酒を
下さりまするとか。」
「あゝ、
無禮講と
申すのだよ。たんとお
遊び、そしてお
前、
屹と
何かおありだらう、
隱藝でもお
出しだと
可いね。」
と
云つて
莞爾した。
千助、
頸許からぞく/\しながら、
「
滅相な、
隱藝など、へゝゝ、
就きましてでござります。
其の
無禮講と
申す
事で、
從前にも
向後も、
他なりません
此のお
邸、
決して、
然やうな
事はござりますまいが、
羽目をはづして
醉ひますると、
得て
間違の
起りやすいものでござります。
其處を
以ちまして、
手前の
了簡で、
何と、
今年は
一つ、
趣をかへて、お
酒を
頂戴しながら、
各々國々の
話、
土地所の
物語と
云ふのをしめやかにしようではあるまいか。と、
申出ました
處、
部屋頭が
第一番。いづれも
當御邸の
御家風で、おとなしい、
實體なものばかり、
一人も
異存はござりません。
處で
發頭人の
手前、
出來ませぬまでも、
皮切をいたしませぬと
相成りませんので。
國許にござります、
其の
話につきまして、
其を
饒舌りますのに、
實にこまりますことには、
事柄の
續の
中に、
歌が
一つござります。
部屋がしらは
風流人で、かむりづけ、ものはづくしなどと
云ふのを
遣ります。
川柳に、(
歌一つあつて
話にけつまづき)と
云ふのがあると、
何時かも
笑つて
居りました、
成程其の
通りと
感心しましたのが、
今度は
身の
上で、
歌があつて
蹴躓きまして、
部屋がしらに
笑はれますのが、
手前口惜しいと
存じまして、へい。」
と
然も/\
若氣に
思込んだやうな
顏色をして
云つた。
川柳を
口吟んで、かむりづけを
樂む
其の
結構な
部屋がしらの
女房を
怪しからぬ。
「
少々ばかり
小遣の
中から
恁やうなものを、」
と
懷中から
半分ばかり
紺土佐の
表紙の
薄汚れたのを
出して
見せる。
「おや、
歌の、お
見せな。」
と
云ふ
瞳が、
疊みかけた
夫の
禮服の
紋を
離れて、
千助が
懷中の
本に
移つた。
「
否、お
恥かしい、お
目を
掛けるやうなのではござりません、それに
夜店で
買ひましたので、
御新姐樣、お
手に
觸れましては
汚うござります。」
と
引込ませる、と
水のでばなと
云ふのでも、お
組はさすがに
武家の
女房、
中間の
膚に
着いたものを
無理に
見ようとはしなかつた。
「
然うかい。でも、お
前、
優しいお
心掛だね。」
と
云ふ、
宗桂が
歩のあしらひより、
番太郎の
桂馬の
方が、
豪さうに
見える
習で、お
組は
感心したらしかつた。
然もさうずと
千助が
益々附入る。
「えゝ、さぐり
讀みに
搜しましても、どれが
何だか
分りません。
其に、あゝ、
何とかの
端本か、と
部屋頭が
本の
名を
存じて
居りますから、
中の
歌も、
此から
引出しましたのでは、
先刻承知とやらでござりませう。
其では
種あかしの
手品同樣、
慰みになりません。お
願と
申しましたは
爰の
事。お
新姐樣、
一つ
何うぞ
何でもお
教へなさつて
遣はさりまし。」
お
組が、ついうつかりと
乘せられて、
「
私にもよくは
分らないけれど、あの、
何う
云ふ
事を
申すのだえ、
歌の
心はえ。」
「へい、
話の
次第でござりまして、
其が
其の
戀でござります。」
と
初心らしく
故と
俯向いて
赤く
成つた。お
組も、ほんのりと、
色を
染めた、が、
庭の
木の
葉の
夕榮である。
「
戀の
心はどんなのだえ。
思うて
逢ふとか、
逢はないとか、
忍ぶ、
待つ、いろ/\あるわねえ。」
「えゝ、
申兼ねましたが、
其が
其の、
些と
道なりませぬ、
目上のお
方に、
身も
心もうちこんで
迷ひました、と
云ふのは、
對手が
庄屋どのの、
其の、」と
口早に
云ひたした。
お
組は
何の
氣も
附かない
樣子で、
「お
待ち、」
と
少々俯向いて、
考へるやうに、
歌袖を
膝へ
置いた
姿は、
亦類なく
美しい。
「
恁ういたしたら
何うであらうね、
思ふこと
關路の
暗のむら
雲を、
晴らしてしばしさせよ
月影。
分つたかい、
一寸いま
思出せないから、
然うしてお
置きな、
又氣が
附いたら
申さうから。」
千助は
目を
瞑つて、
如何にも
感に
堪へたらしく、
「
思ふこと
關路の
暗の、
むら
雲を
晴らしてしばしさせよ
月影。
御新姐樣、
此の
上の
御無理は、
助けると
思召しまして、
其のお
歌を
一寸お
認め
下さいまし、お
使の
口上と
違ひまして、つい
馴れませぬ
事は
下根のものに
忘れがちにござります、よく
拜見して
覺えますやうに。」
と、しをらしく
言つたので、
何心なく
其の
言に
從つた。お
組は、しかけた
用の
忙しい
折から、
冬の
日は
早や
暮れかゝる、ついありあはせた
躾の
紅筆で、
懷紙へ、
圓髷の
鬢艷やかに、もみぢを
流す
······うるはしかりし
水莖のあと。
さて
祝の
夜、
中間ども
一座の
酒宴。
成程千助の
仕組んだ
通り、いづれも
持寄りで、
國々の
話をはじめた。
千助の
順に
杯が

つて
來た
時、
自分國許の
事に
擬へて、
仔細あつて、
世を
忍ぶ
若ものが
庄屋の
屋敷に
奉公して、
其の
妻と
不義をする
段、
手に
取るやうに
饒舌つて、
「
實は、
此は、
御用人の
御新姐樣に。」
と
紅筆の
戀歌、
移香の
芬とする
懷紙を
恭しく
擴げて、
人々へ
思入十分に
見せびらかした。
自分で
許す
色男が、
思をかけて
屆かぬ
婦を、かうして
人に
誇る
術は。
●表記について
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