「もし/\、
其處へ
行らつしやりますお
方。」
······と
呼ぶ。
呼ばれた
坂上は、
此の
聲を
聞くと、
外套の
襟から
先づ
悚然とした。
······誰に
似て
可厭な、
何時覺えのある
可忌しい
調子と
云ふのではない。が、
辿りかゝつた
其のたら/\
上りの
長い
坂の、
下から
丁ど
中央と
思ふ
處で、
靄のむら/\と、
動かない
渦の
中を、
見え
隱れに、
浮いつ
沈みつする
體で、
跫音も
聞えぬばかり
||四谷の
通りから
穴の
横町へ
續く、
坂の
上から、しよな/\
下りて
來て、
擦違つたと
思ふ、と
其の
聲。
何の
約束もなく、
思ひも
懸けず
行逢つたのに、ト
見ながら
行過ぎるうち、
其れなり
何事も
無しには
分れまい。
呼ぶか、
留めるか、
屹と
口を
利くに
違ひない、と
坂上は
不思議にも
然う
思つた。
尤も
其は、
或機會に
五位鷺が
闇夜を
叫ぶ、
鴉が
啼く、と
同じ
意味で、
聞くものは、
其處に
自分一人でも、
鳥は
誰に
向つて
呼ぶのか
分らない。けれども、
可厭な、
可忌しい
聲を
聞かずには
濟むまい、と
思ふと
案の
定······ 來て、
其の
行逢つたものは、
一ならびに
並んだ三
人づれで、どれも
悄乎とした
按摩である。
中に
挾まれたのは、
弱々と、
首の
白い、
髮の
濃い、
中年増と
思ふ
婦で、
兩の
肩がげつそり
痩せて、
襟に
引合せた
袖の
影が
||痩せた
胸を
雙の
乳房まで
染み
通るか、と
薄暗く、
裾をかけて、
帶の
色と
同じやうに
||黒く
映して、ぴた/\ぴた/\と
草履穿か、
地とすれ/\の
褄を
見た。
先に
立つたのは
鼠であらう、
夜目には
此の
靄を
織つてなやした、
被布のやうなものを、ぐたりと
着て、
縁なしの
帽子らしい、ぬいと、のはうづに
高い、
坊主頭其のまゝと
云ふのを
被つた、
脊のひよろりとしたのが、
胴を
畝らして
······通る。
後なる
一人は、
中脊の
細い
男で、
眞中の、
其の
盲目婦の
髮の
影にも
隱れさうに、
帶に
體を
附着けて
行違つたのであるから、
形、
恰好、
孰れも
判然としない
中に、
此の三
人目のが
就中朧に
見えた。
此の
癖、もし/\、と
云つた、
······聲を
聞くと、
一番あとの
按摩が
呼留めた
事が、
何うしてか
直ぐに
知れた
······「
私かい。」
と
直ぐに
答へて、
坂上は
其のまゝ
立留まつて、
振向いた
······ひやりと
肩から
窘みながら、
矢庭に
吠える
犬に、(
畜生、)とて
擬勢を
示す
意氣組である。
「はあ、お
前樣で。」
と
沈んで
云ふ。
果せる
哉、
殿の
痩按摩で、
恁う
口をきく
時、
靄を
漕ぐ、
杖を
櫂に、
斜めに
握つて、
坂の二三
歩低い
處に、
伸上るらしく
仰向いて
居た。
先の
二人、
頭の
長いのと、
何かに
黒髮を
結んだのは、
芝居の
樂屋の
鬘臺に、
髷をのせて、
倒に
釣した
風情で、
前後になぞへに
並んで、
向うむきに
立つて、
同伴者の、
然うして
立淀んだのを
待つらしい。
坂上は
外套の
袖を
捻ぢて、
踵を
横ざまに
踏みながら、
中折の
庇から、
對手の
眉間を
透かし
視つつ、
「
私に
用か。」
「
一寸······お
話しが
······ありまして
······」と
落着いたのか、
息だはしいのか、
冬の
夜ふけをなまぬるい。
「
用事は
何です。」
はじめ、
靄の
中を、
此の三
人が
來て
通りすがつた
時、
長いのと
短いのと、
野墓に
朽ちた
塔婆が二
本、
根本にすがれた
尾花の
白い
穗を
縋らせたまゝ、
土ながら、
凩の
餘波に、ふは/\
吹き
送られて
來たかと
思つた。
漸つと、
其の(
思つた)が
消えて、まざ/\と
恁うしてものを
言交はせば、
武藏野の
丘の
横穴めいた、
山の
手場末の
寂びた
町を、
搜り/\に
稼いで
歩行くのが、
誘ひ
合はせて、
年を
越す
蚊のやうに、
細い
笛の
音で、やがて
木賃宿の
行燈の
中へ
消えるのであらうと、
合點して、
坂上も
稍もの
言ひが
穩かに
成つたのである。
按摩は
其仰向いて
打傾いた、
耳の
痒いのを
掻きさうな
手つきで、
右手に
持添へた
杖の
尖を、
輕く、コト/\コト/\と
彈きながら、
「
用と
云うて、
別に、
此と
云うてありませぬ。ありませぬ、けれども、お
前樣今から、
何處へ
行かれます。
何處へ、
何處へ、
何處へ?」
······と
些と
嘲けるやうに、
小鼻で
調子を
取つた
聞き
方をする。
「
構ひなさんな。」
無理な
首尾の、
婦に
忍ぶ
夜であつた
······ 坂上は
憤然として、
「
何處へ
行つても
可いではないか。」
「
可うない、
其が
可うない、お
前樣、」と
押附けに
言つた
聲に、
振切つては
衝と
足の
出ぬ
力が
籠る。
「
何故惡いんだね。」
と、
却つて
坂下へ
小戻りにつか/\と
近づいたが、
餘り
傍へ
寄ると、
靄が、ねば/\として
顏へ
着きさうで、
不氣味で
控へた。
「もう
遲い!」
と
急に
幅のある
強い
聲。
按摩は
其の
時、がつくりと
差俯向く。
立ち
窘んだ
體だつた、
長頭の
先達盲人は、
此の
時、のろりと
身動きして、
横に
崖の
方へ
顏を
向けた。
次の
婦は、
腰から
其の
影を
地へ
吸込まれさうに、
悄乎と
腰をなやして
踞む
······鬢のはづれへ、ひよろりと
杖の
尖が
抽けて
青い。
三
人が
根をおろしたらしく
見て
取ると、
坂上も、
急には
踏出せさうもなく、
足が
地に
附着いたが、
前途を
急ぐ
胸は、はツ/\と、
毒氣を
掴んで
口から
吹込まれさうに
躍つて、
血を
動かしては、ぐつと
膨れ、
肉をわなゝかしては、げつそり
挫げる。
坂の
其の
兩方は、
見上げて
峰の
如き
高臺のなだれた
崖で、
······時に
長頭が
面を
向けた
方は、
空に一二
軒、
長屋立が
恰も
峠茶屋と
云ふ
形に、
霜よ、と
靄のたゝまり
積んだ、
枯草の
上に、
灯の
影もなく
鎖さるゝ。
で、
此のものどもの
寄つた
方は、
木の
根ぐるみ
地壓への
杭も
露顯に、
泥の
崩れた
切立てで、
上には
樹立が
參差と
骨を
繋ぐ。
其の
枝の
所々、
濁つた
月影のやうな
可厭な
色の
靄が
搦んで、
星もない
······山深く
谷川の
流に
望んだ
思ひの、
暗夜の
四谷の
谷の
底、
時刻は
丁ど一
時頃。
激しく
動くは
胸ばかり
······づん/\と
陰氣な
空から、
身體を
壓附けられるやうで、
「
遲いのが、
何で
惡い。」
とものいひも
重く
成る。
「
然う
言はれる、
申される
······」
と
杖を
持つた
手の
甲を、
丁と
敲き、
「
如何にも、もし、それが
惡い
······」
「
行つては
不可いと
云ふのかね。」と、
心がかりな
今夜の
逢ふ
瀬の、
辻占にもと
裏問へば
······「
惡いと
云うたりとて、お
前樣氣一つで
行かるれば、それまでの
事ではあれど、
先づお
留め
申したい。
これは、
私一人か
······ 其處に
居る
人も。」
と
云つて、
杖をまつすぐに
持直すと、むかうで
長頭が、
一つ
幽な
咳。
「
行くなつたつて、
行かなけりや
成らない
所だつたら
何うします。」
と
坂上の
呼吸はあせつた
······「
親が
大病だか、
友だちが
急病だか、
知れたもんですか。
······君たちのやうに
言つちや、
何か、
然も
怪しい
所へでも
出掛けるやうだね。」
「へゝゝ、」
と
杖の
尖に
頬をすりつける
如く
傾がつて、
可厭に
笑ひ、
「
其が
分ればこそ
申すのなり、あの
人も
言へと
言ひます
······當てますか、
私が。
······知つても
大事ない。
明けて
爾々とお
言ひなされ。お
前樣は
婦に
逢ひに
行く、」
「
············」
「な、
然も、
先方は、
義理、
首尾で、
差當つては
間の
惡い
處を、お
前樣が
突詰めて、
斷つて、
垣も
塀も、
押倒し
突破る、
······其の
力で、
胸を
掻
るやうにあせるから、
婦も
切つて、
身にも
生命にも
代へて
逢はうと
云ふ。
其へ
行く
······お
前樣、
其の
途中でありませう。
通りがかりから、
行逢うて、
恁うやつて
擦違うたまでの
跫音で、よう
知れました。とぼ/\した、
上の
空なので
丁と
分る
······ 霧もかゝり、
霜もおりる
······月も
曇れば
星も
暗し、
此の
大空にも
迷ひはある。
迷ひも、
其は
穩かなれども、
胸の
塞り
呼吸が
閉る、もやくやなあとの、
電、はたゝがみを
御覽ぜい。
人間の
思ひ、
何事も
不思議はない。
私が
心に
思較べた
······身に
引較べればこそ、
此の
掌を
······」
と
云ふ、
己が
面へ、
掌を
蓋する
如くに、
「
······掌を
見るとやら
申す
通り、
見えぬ
目にも
知れました。」
あとの
二人とも、
此の
時言合はせた
體に、
上と
下で、
衣ものの
襞
まで、
頷いたのが
朧に
分つた。
坂上は、
氣拔けのした
状に、
大息を
吻と
吐いて、
「
辻で
賣卜をする
人たちか。
私も
氣が
急いだので、
何か
失禮を
言つたかも
知れない
······ 先方は
足袋跣足で、
或家を
出て、
||些と
遠いが、これから
行く
所に、
森のある
中に
隱れて
待つた
切、
一人で
身動きも
出來ないで
居るんです。
其の
事は、
私が
今まで
居た
所へ、
當人から
懸けた、
符牒ばかりの
電話で
知れて、
實際、
氣も
顛倒して
急ぐんです。
行かないで
何うしますか、
行つては
惡いんですか。」
「われら
考へたも
其の
通り
······いや、
男らしく、よう
申されました。さて、いづれもお
最惜しいが、あゝ、
危い
事かな。」
と
杖を
引緊めるやうに、
胸へ
取つて
兩手をかけた。
痩按摩は
熟と
案じて、
「
先づお
聞き
申すが、
唯今、
此の
坂の
此の、われらが
片寄つて
路傍に
立ちました
······此の
崖下に、づら/\となぞへに
並びました
瓦斯燈は、
幾基が
所燈が
點いて、
幾基が
所消えて
居ります。
一寸、
御覽ぜ、
一寸御覽ぜ。」
と
言ひ/\、がく/\と
項を
掉つて
首を
垂れる。
言に
引向けられたやうに、三
人の
並んだ
背後を
拾つて、
坂下から、
上の
町へ、トづらりと
視ると
······坂上は
今夜はじめて
此の
路を
通るのではない。
······片側へ
並べて
崖添ひに、
凡そ一
間おきぐらゐに、
間を
籠めて、
一二三堂と
云ふ、
界隈の
活動寫眞の
手で
建てた、
道路安全の
瓦斯燈がすく/\ある。
しろ/″\と
霜柱のやうに
冷たく
並んで、
硝子火屋は、
崖の
巖穴に
一ツ
一ツ
窓を
開けた
風情に
見えて、ばつたり、
燈が
消えたあとを、
目の
屆く、どれも
是も、
靄を
噛んで、
吸ひ
溜め
吸ひ
溜め、
透間を
覗いて
切れ/″\に
灰色の
息を
吹出す。
かと
思へば、
目の
前に
近いのは、あらう
事か、
鬼の
首を
古綿で
面形に
取つた
形に、
靄がむら/\と
瓦斯燈の
其の
消えたあとに
蟠つて、
怪しく
土蜘蛛の
形を
顯し、
同じ
透間から
吹く
息も、これは
可恐しい
絲を
手繰つて、
天へ
投掛け、
地に
敷き
展べ、
宙に
綾取る。や、
然う
思へば、
靄のねば/\は、
這個の
振舞か。
「
大抵、
皆消えて
居ります
筈で。」
と
按摩は、
坂上が
然うして、きよろ/\と
瓦斯燈を

す
内に、
先んじて
又云つた。
「すつかり
消えて
居る。あゝ、」と
尚ほ
一倍、
夜の
更けたのが
身に
染みた。
「な、
消えて
居りませう
······けれども、お
前樣から、
坂の
上の
方へ
算へまして、
其の
何臺目かの
瓦斯が
一つ、まだ
燈が
點いて
居らねばなりませぬ。
······見えますか。」
「
見える
······」
と
答へた、
如何にも一
臺、
薄ぼんやりと、
灯が
亂れて、
靄へ
流れさうに
點いて
居る。
「しかし、
何本めだか
一寸分らない。」
「
餘り
遠い
所ではありませぬ。
人通りのない、
故道松並木の
五位鷺は、
人の
居處から五
本目の
枝に
留ります、
道中定り。
······其の
灯の
消殘りましたのは、お
前樣から、
上へ五
本目と
存じます。
私が
間違つた
事を
言ひますれば、
其處に
居ます
師匠、
沙汰をします
筈。
點つて
立つて
居ります
上は、
決して
相違ないと
存じます。
數を
取つて
御覽ぜ、
御覽ぜ
······一つ、」と
杖の
尖をカタ/\と
二つ
鳴らす。
「
一い
······」
「
二ツ、」と
三ツ、
杖の
尖をコト/\コト。
「
三い
······四う
······確に五
本目······」
「でありませうな。」
「
何うしたと
云ふんです。」
「お
前樣、
此の
暗夜に、われらの
形、
崖の
樣子、
消えた
瓦斯燈の
見えますのも、
皆其の
一つの
影なので。
然もない
事には、
鼻を
撮まれたとて
分りませぬが。」
成程、
覺束ない、ものの
形も、
唯一ツ
其の
燈の
影なのである
······心着くと、
便りない
色ながら、
其の
力には、
揃つて
消えた
街燈が、
時々ぎら/\と
光りさへする
||靄が
息を
吐いて
瞬く
中に、
||坂上の
姿もふら/\として、
「
一體、
其が
何うしたんです。」
「
然れば
······其の五
基目に
一ツ
殘りました
灯の
下に、
何か
見えはいたしませぬか。」
「
何が、」
と
云ふのも
聲が
震ふ、
坂上は
又慄然とした。
「
何か、
居はいたしませぬか。」
「
何にも、
何にも
居らん。」
「
居りませぬか。」
「
居ない。」
「
居ないが
定に
成りませぬ。お
前樣が
其處までお
運びなさりますれば、
必ず
出ます。
······それ
故に、お
留め
申すのでありまして、まあ、お
聞きなさりまし。」
と
捻向いて、
痩按摩は
腰を
屈めながら、
丁ど
足許に一
基あつた
······瓦斯燈の
根を、
其處に
轉がつた、ごろた
石なりにカチ/\と
杖で
鳴らした。が
音も
響かず、
靄に
沈む。
「
先づ
······最う
一ツ
念のために
申さうに
······われらが
居ります
此なる
瓦斯燈、
唯た
今、お
前樣を
呼留めましたなり、
一歩とて
後へも
前へも
動きませぬ
······此は
坂下からはじめまして、
立ちました
瓦斯燈の、十九
基めに
相違ありませぬ。
間違へば、
師匠沙汰をなされます。
さて、三
年前、
······日は
違ひます。なれども、
同じ
此の
霜月の
夜さり、
丁ど
同じ
今の
時刻、
私にもお
前樣と
同じ
事がありました。
······ 其の
頃は、
決して
其の、
恁やうな
盲目ではありませなんだ。」
と
云ふ、まともに
坂上に
對して、
向直つたけれども、
俯向いたなりで
顏は
上げぬ。
「よう
似た、お
前樣と
同じ
事で、
然る
婦にあひゞきに
參るので、
此處を、
此の
坂を、
矢張り、
向つて
下から、うか/\と
上りかけたのでありました。
時に
擦違つたものが、これだけは、
些と
樣子が
違ひまして、
按摩一人だけが
見えました。」
其の
時、
件の、
長頭は、くるりと
眞背後にむかうを
向いた、
歩行出すか、と
思ふと
······熟と
其のまゝ。
婦は、と
見ると、
其は、
夥間の
話を
聞くらしく、
踞んだなりに、くるりと
此方に
向直つた、
帶も
膝も、くな/\と
疊まれさうなが、
咽喉のあたりは
白かつた。
按摩の
聲は
判然して、
「で、
其で
矢張り、お
前樣に
私がしましたやうに、
背後から
呼留めまして、
瓦斯の五
基目も、
足もとの十九の
數も、お
前樣に
今われらが
言うた
通りの
事を
申します。
私はこゝで、
其の
通りを、
最う
一度申しますばかりの
事。
何で、
約束した
其の
婦に
逢ひに
行つては
成らぬのかと
||今のお
前樣の
通りを、
又其の
時私が
尋ねますと、
彼の
盲人が
申すには、」
其の
盲人は、こゝに
先達の
其の
長頭である
事は、
自から
坂上の
胸に
響く。
「
上へ五
本めの、
一つ
消え
殘つた
瓦斯燈の
所に、
怪しいものの
姿が
見える
······其は、
凡て
人間の
影を
捉る、
影を
掴む、
影法師を
啖ふ
魔ものぢや。
彼めに
影を
吸はるれば、
人間は
形痩せ、
嘗めらるれば
氣衰へ、
蹂躙らるれば
身を
惱み、
吹消さるゝと
命が
失せる。
凡そ、
月と
日とともに、
影法師のある
所、
件の
魔もの
附絡はずと
云ふ
事なうて、
且つ
吸ひ、
且つ
嘗め、
蹂躙る。が、いづれ
其の
人の
生命に
及ぶには
間があらう。
其もつて
大事ぢやに、
可恐しいは、
今あるやうな
燈の
場合。
一口くわつと
遣つて、」
と
云つた。
按摩の
唇は
尖つたな!
「
立所に
影を
啖ふ、
啖はるれば、それまでぢや、
生命にも
及びかねぬ。
必ず
此の
坂を
通らるゝな
······ と
恁う
言ひます。
私も
血氣で、
何を
言ふ。
第一、
其魔ものとはどんなものか、と
突懸つて
訊きますと、
其の
盲人ニヤリともせず、
眞實な
顏をしまして、
然れば、
然れば
先づ、
守宮が
冠を
被つたやうな、
白犬が
胴伸びして、
頭に
山伏の
兜巾を
頂いたやうなものぢや、と
性の
知れぬ
事を
言ふ。
いや、
聞くよりは
見るが
疾い。さあ、
生命を
取られて
遣らう、と
元來、あたまから
眞とは
思ひませぬなり。づか/\、
其の、
······其處の
其の五
基めの
瓦斯燈の
處まで
小砂利を
蹴つて
參りますと、
道理な
事、
何の
仔細もありませぬ。
處に、
右の
盲人、カツ/\と
杖を
鳴らして、
刎上つて、
飛んで
參り、これは
無體な
事をなされる。
······強い
元氣ぢや。
私が
言うて
聞かす
事を
眞とは
思はぬ
汝に、
言託けるのは
無駄ぢやらうが、ありやうは、
右の
魔ものは、さしあたり
汝の
影を、
掴まうとするではない。
今夜······汝が
逢ひに
行く
······其の
婦の
影を
捉らうと、
豫てつけ
狙うて
居るによつて、
嚴い
用心、
深い
謹愼をしますやう、
汝を
通じて、
其の
心づけがしたかつたのぢや。
と
恁う
又言ふのでありました。」
「まざ/\と
譫言吐く
······私の
婦知つたりや、と
問ひますと、
其を
知らいで
何をする
······今日も
晩方、
私が
相長屋の
女房が
見て
來て
話した。
谷町の
湯屋で
逢うたげな。
······よう
湯の
煙で
溶けなんだ、
白雪を
撫でてふつくりした、
其は、
其は、
綺麗な
膚を
緋で
緊めて、
淡い
淺葱の
紐で
結へた、
乳の
下する/\
辷るやうな
長襦袢。
小春時の
一枚小袖、
藍と
紺の
小辨慶、
黒繻子の
帶に、
又緋の
扱帶······髷に
水色の
絞りの
手絡。
艷の
雫のしたゝる
鬢に、ほんのりとした
耳のあたり、
頸許の
美しさ。
婦同士も
見惚れたげで、
前へ

り、
背後で
視め、
姿見に
透かして、
裸身のまゝ、つけまはいて、
黒子が
一つ、
左の
乳の、
白いつけ
際に、ほつりとある
事まで、よう
知つたと
云ふ
話。
何と、
此の
婦に
相違あるまい、
汝が
逢ひに
行く
其の
婦は
······ と
又其の
盲人が
云ふのであります。」
聞くうちに、
坂上は、ぶる/\と
身震ひした。
其は、
其處に、
此の
話をする
按摩の
背後に
跪い
居て、
折から
面を
背けた
婦が、
衣服も、
帶も、まさしく、
歴然と、
其の
言葉通りに
目に
映つたためばかりではない。
|| 足袋跣足で
出たと
云ふ、
今夜は、もしや、あの
友染に
······あの
裾模樣、と
思ふけれども、
不斷見馴れて
氣に
染みついた、
其の
黒繻子に、
小辨慶。
坂上は
血の
冷えるあとを
赫と
成る。
「
何うでありませう。お
前樣。
此から
逢ひにおいでなさらうと
云ふ、
其の
婦の
方は、
裾模樣に、
錦の
帶、
緋縮緬の
蹴出しでも。
······其の
黒繻子に、
小辨慶の
藍と
紺、
膚の
白さも
可いとして、
乳房の
黒子まで
言ひ
當てられました、
私が
其の
時の
心持、
憚りながら
御推量下さりまし。
こゝな
四谷の
谷底に、
酷い
事、
帶紐取つて、あか
裸で
倒されてでも
居りますのが、
目に
見えるやうに
思はれました。
で、
右の
其の
盲人は、
例の
魔ものは、
其の
婦の
影を、
嘗めう、
吸はう、
捉へよう、
蹂躙らう、
取啖はうとつけ

す
||此の
儀を
汝から
託けて、
氣を
注けるやう
言ひなさい、と
申したのを、よくも
聞かずに、
黒雲を
捲いて、
飛んで
行き、
電のやうに、
鐵の
門、
石の
唐戸にも、
遮らせず、
眞赤な
胸の
炎で
包んで、
弱い
婦に
逢ひました。
影を
取る、
影を
吸ふ、
影を
嘗める、
魔ものに
逢つた。
此の
坂しか/″\の
瓦斯燈のあかりで
見て
來た。
······ 婦の
家は、つい
此の
居まはりでありました。
|| 夜も
晝も
附
すぞ、それ、
影が
薄いわ、
用心せい、とお
前樣。
可哀氣に、
苦勞で
氣やみに
煩つて、
帶をしめてもゆるむほど、
細々と
成つて
居るものを、
鐵槌で
打つやうに、がん/\と、あたまへ
響くまで
申しましたわ。
他人に、
膚を
見せたと
思ふ
妬みから、
||婦が
膝に
突俯して、
震へる
聲の
下で、
途中、どんなものに
逢つて
誰に
聞いた
話だ、と
右の
影を
捉る
魔について
尋ねました
時、
||おのれ、
胸に
問へ!なぞと
云うて、
盲人から
聞いた
事は
言はずに
了つたのでありました。
此が
飛んでもない
心得違ひ。
其の
盲人こそ、
其の
婦に
思ひを
懸けて、
影のやうに
附絡うて、それこそ、
婦の
家の
居まはりの
瓦斯燈のあかりで
見れば、
守宮か、と
思ふ
形體で、
裏板塀、
木戸、
垣根に、いつも
目を
赤く、
面を
蒼く、
唇を
白く
附着いて、
出入りを
附狙つて
居たとの
事。
はじめから、
威したものが
盲人と
知れれば、
婦も
然までは
呪詛れずに
濟んだのでありませう。」
「
今度、
······其の
次······段々に
婦に
逢ふ
事が
少くなりました。
兎角むかうで、
私を
避けるやうにするのであります。
······殺して
死なう、と
逆上するうち、
段々委しく
聞きますと、
其の
婦が、
不思議に
人に
逢ふのを
嫌ふ。
妙に
姿を
隱したがるのは、
此の、
私ばかりには
限らぬ
樣子。
終には
猫又が
化けた、
妾のやうに、
日の
目を
厭うて、
夜も
晝も、
戸障子雨戸を
閉めた
上を、二
重三
重に
屏風で
圍うて、
一室どころに
閉籠つた
切、と
言ひます
······ 漸との
思ひ、
念力で、
其の
婦を
見ました
時は、
絹絲も、むれて、ほろ/\と
切れて
消えさうに、なよ/\として、
唯うつむいて
居たのであります。
顏を
上げさした
······ト
目が、
潰れました。へい、いえ、
其の
婦の
兩眼で。
聞きますると、
私に、
件の
影を
捉る
魔ものの
話を
聞いてからは、
瞬く
間さへ、
瞳に
着いて、
我と
我が
影が
目前を
離れぬ。
臺所を
出れば
引窓から、
縁に
立てば
沓脱へ、
見返れば
障子へ、
壁へ、
屏風へかけて
映ります。
映ると
其の
影を、
魔が
來て、
吸ひさうで、
嘗めさうで、
踏みさうで、
揉みさうで、
絡みさうで、
寢さうで
成らぬ。
月の
影、
日の
影、
燈の
影、
雪、
花の
朧々のあかりにも、
見て
影のない
隙はなし
······影あれば
其の
不氣味さ、
可厭さ、
可恐しさ、
可忌しさに
堪兼ねる。
所詮が
嵩じて、
眞暗がり。
我が
掌は
見えいでも、
歴々と、
影は
映る、
燈を
消しても
同じ
事で。
次第に、
床の
間の
柱、
天井裏、
鴨居、
障子の
棧、
疊のへり。
場所、
所を
變へつゝ、
彼の
守宮の
形で、
天窓にすぽりと
何か
被つた、あだ
白い、
胴の
長い、
四足で
畝るものが、ぴつたりと
附着いたり、ことりと
圓くなつたり、
長々と
這ふのが
見えたり
······やがて、
闇の
中、
枕の
下にも
居るやうに
成りました。
見る
毎に、あツと
聲を
上げて、
追へば、
其の
疾い
事、ちよろ/\と
走つて
消えて、すぐに、のろりと
顯れる。
見まい、
見まいの
氣が
逆上つて、ものの
見えるは
目のあるため、と
何とか
申す
藥を、
枕をかいもの、
仰向けに、
髮を
縛つた
目の
中へ
點滴らして、
其の
兩眼を、
盲にした、と
云ふのであります。
心も
暗夜の
手を
取合つて、
爾時はじめて、
影を
捉る
魔ものの
話は、
坂の
途中で、
一人の
盲人に
聞かされた
事を
申して、
其の
脊恰好、
年ごろを
言ひますと、
婦は、はツと、はじめて
目の
覺めたやうに
成つて、さめ/″\と
泣出しました。
思ひの
叶はぬ
意趣返しに、
何と!
右の
其の
横戀慕の
盲人に、
呪詛はれたに
相違ありませぬ。
頬の
肉を
引掴んで、
口惜涙、
無念の
涙、
慚愧の
涙も
詮ずれば、たゞ/\
最惜しさの
涙の
果は、おなじ
思ひを
一所にしようと、
私これ
又此の
通り、
兩眼を
我と
我手に、
······これは
針でズブリと
突いたのでありまする。
三世、
一娑婆、
因果と
約束が
繋つたと、いづれも
發起仕り、
懺悔をいたし、
五欲を
離れて、
唯今では、
其なる
盲人ともろともに、
三人一所に、
杖を
引連れて、
晝は
面が
恥かしい、
夜とあれば
通ります
······ 路すがら
行逢ひました。
御迷惑か
存ぜぬが、
靄の
袖の
擦合うた
御縁とて、ぴつたり
胸に
當る
事がありましたにより、お
心着け
申上げます
······お
聞入れ、お
取棄て、ともお
心次第。
此の
上は、さて、
何も
存ぜぬ。
然やうなれば、お
暇を
申受けます。」
言の
下より、
其處に、
話の
途中から、さめ/″\と
泣いて
居た
婦は、
悄然として、しかも、すらりと
立つた。
とぼ/\とした
後姿で、
長頭から
三つの
姿、
消えたる
瓦斯に、
幻や、
杖の
影。
婦が、
白い
優しい
片手で
立つ
時、
眼を
拭いた
布が
姿を
偲ぶ
······其の
紅絹ばかり、ちら/\と
······蝶のやうに
靄を
縫ひ
······
●表記について
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