六七年前、菱山と机を並べて仏蘭西語を学んでゐた頃、彼は強度の神経衰弱のやうであつた。眼は濁り、鋭かつた。身体はいつもふらついてゐた。終日読み耽り、考へ耽り、書き疲れて、街頭へ出たものらしい。友達の顔さへ見れば暴風の激しさで語り、その全身の動きと共に論じだしたが、私達に殆んど一語を挿む時間さへ与へなかつた。話の大部はヴァレリイに初まり、ヴァレリイに終つた。
読書は
それは、純一無垢、多感極まりない少年にのみ許された唯一の至高な場合であつて、あの頃、菱山はその至高な少年であつた。
我々は結局二人の少年であり得ない。そして私は、私も嘗て一人の少年であつたが、菱山のやうな無類の激しさで一先人に血と肉を、その宿命を賭けるほどの、生死を通した読書の機会は遂ひに持たずに少年を終つた。私は今も落莫として己れの影を見失ひ、我れを見凝める厳粛な純情を暗闇の幕の彼方へ
菱山はヴァレリイを見凝めることに於て自らを見凝め、読書が、同時に、激しい創造への其の同じ力となるのであつた。それ故、菱山はヴァレリイの中に育ちながら、遂ひにヴァレリイの亡霊となることはなかつた。彼は自らの血肉の道を歩きつづけ、血肉の詩を綴つてゐた。世に稀な天賦によらなければ、このことは出来ない。
至高な少年は、その独特の方法で、その独特の生き方で、彼なりに今成人した。彼の近頃の詩は私を打つこと甚しい。
我々の精神史の中では、絶対の拒否の中にも宇宙が育ち、現実を、生を、虚無と死へ還元したときに、生の最頂点を一線にひた走る自我の歴史が初まる。宿命の宇宙が初まる。菱山は此の宿命の宇宙に住み、濾過されてきた実体を、観念を、そして自らの宿命を彫り刻み、綴り合はしてゐる。
先日、疲労しきつた私は、力を
「お母さん、足袋をはく方がいいかしら? その方がいいね」
彼は一人で頷きながら、私の前で足袋をはいた。
「お母さん、傘を持つてゆく方がいいかしら? あゝ、その方がいいね」
彼は又頷きながら傘をだいじに小脇に抱えて出てきたが、一向天候なぞ気にかけずに、スタ/\歩きだした。雨の降りさうもない静かな黄昏であつた。
レストランへはいると、酒の呑めない菱山は、突然女給を呼び寄せて私のためにビールを命じた。
「僕は少年のころ神経衰弱でね、燈台のある漁村へ保養に行つてゐたのだが······」
彼は語りだした。
「燈台の硝子は
菱山は傷ましい顔に、宿命の瞳を氷らせて私を見た。
現実をひとたび虚無と死へ還元し、さうして出発した火花のやうな頂点を縫ふ彼の精神史、それは彼の宿命的な詩の方法であるが、彼の現実も、矢張り愚かな候鳥となつて、ひた走り、熱狂し、死と共に自らの宇宙を終るほかに方法はないのであらう。その思ひは、また私にも強い。私は生活に疲れても、熱狂に疲れる時はないであらう。私の熱狂は白熱する太陽となつて狂ひ輝くことはあつても、停止する不可能となつて低迷することを好まない。
私は、近頃とみに此の思ひが強いのであるが、私の小説の中に一片の詩があつてさへ甚しく気に入らない。それにも拘らず、この気持は心の奥にまだ錬りきれずにゐるのであらう、机に向ふと、やはり愚劣な詩情を小説の中へしるしてゐることが多いのである。嘗て或る詩人的小説家は、「ボードレエルの一行に
ある夜、私は酔ひ痴れてゐた。
「チエホフの桜の園は、結局に於て尨大な詩ではないか。いはゆる詩は人間のアニマルを描いてゐない。アニマルを描きつくして顕れた大いなる詩の前では、いはゆる詩は無意味ではないか」
菱山はその夜疲れきつてゐた。私の惨酷な言葉に彼は泣きさうであつた。
「友よ、詩の終るところに小説がある。併し、小説の終るところにも詩があるのだ」
彼の言葉は正しい。彼の詩は絶対の極点を貫き走つてゐるのだから。そして私は彼の詩をこよなきものに愛誦してゐる。わが友は日本の生んだ最も偉大な詩人の一人となるであらう。このことは、もはや私の確信となつた。
菱山は成人し、そしてヴァレリイを征服した。彼は今度、ヴァレリイの「海辺の墓」を出版したが、此れはいはば、至高な少年の成人記念碑となるのであらう。そして、いま菱山はヴァレリイを海辺の墓へ埋葬してしまつた。
この稿を書いてゐる明日、その勤め先の税関の帰路に、菱山は僕の家へ田園の黄昏を仰ぎにくるのだといふ。この詩人は、僕の住む辺鄙な村の大きな夕暮が好きなのだ。希はくは、純情な詩人のために、明日うるはしき黄昏であれ。だが私は、空を仰ぐ静かな心を失ひ忘れて、もはや年月を過ぎてしまつた。