鐘の
聲も
響いて
來ぬ、
風のひつそりした
夜ながら、
時刻も
丁ど
丑滿と
云ふのである。
······此の
月から、
桂の
葉がこぼれ/\、
石を
伐るやうな
斧が
入つて、もつと
虧け、もつと
虧けると、やがて
二十六夜の
月に
成らう、
······二十日ばかりの
月を、
暑さに一
枚しめ
殘した
表二階の
雨戸の
隙間から
覗くと、
大空ばかりは
雲が
走つて、
白々と、
音のない
波かと
寄せて、
通りを
一ツ
隔てた、
向うの
邸の
板塀越に、
裏葉の
飜つて
早や
秋の
見ゆる、
櫻の
樹の
梢を、ぱつと
照らして、
薄明るく
掛るか、と
思へば、
颯と
墨のやうに
曇つて、
月の
面を
遮るや
否や、むら/\と
亂れて
走る
······ ト
火入れに
燻べた、一
把三
錢がお
定りの、あの、
萌黄色の
蚊遣香の
細い
煙は、
脈々として、そして、
空行く
雲とは
反對の
方へ
靡く。
其の
小机に、
茫乎と
頬杖を
支いて、
待人の
當もなし、
爲う
事ござなく、と
煙草をふかりと
吹かすと、
「おらは
呑氣だ。」と
煙が
輪に
成る。
「
此方は
忙がしい。」
と
蚊遣香は、
小刻を
打つて
畝つて、せつせと
燻る。
が、
前なる
縁の
障子に
掛けた、十
燭と
云ふ
電燈の
明の
屆かない、
昔の
行燈だと
裏通りに
當る、
背中のあたり
暗い
所で、
蚊がブーンと
鳴く
······其の、
陰氣に、
沈んで、
殺氣を
帶びた
樣子は、
煙にかいふいて
遁ぐるにあらず、
落着き
澄まして、
人を
刺さむと、
鋭き
嘴を
鳴らすのである。
で、
立騰り、
煽り
亂れる
蚊遣の
勢を、ものの
數ともしない
工合は、
自若として
火山の
燒石を
獨り
歩行く、
脚の
赤い
蟻のやう、と
譬喩を
思ふも、あゝ、
蒸熱くて
夜が
寢られぬ。
些との
風もがなで、
明放した
背後の
肱掛窓を
振向いて、
袖で
其のブーンと
鳴くのを
拂ひながら、
此の
二階住の
主人唯吉が、六
疊やがて
半ばに
蔓る、
自分の
影法師越しに
透かして
視る、
雲ゆきの
忙しい
下に、
樹立も
屋根も
靜まりかへつて、
町の
夜更けは
山家の
景色。
建續く
家は、なぞへに
向うへ
遠山の
尾を
曳いて、
其方此方の、
庭、
背戸、
空地は、
飛々の
谷とも
思はれるのに、
涼しさは
氣勢もなし。
「
暑い。」
と
自棄に
突立つて、
胴體ドタンと
投出すばかり、
四枚を
兩方へ
引ずり
開けた、
肱かけ
窓へ、
拗ねるやうに
突掛つて、
「やツ、」と
一ツ、
棄鉢な
掛聲に
及んで、
其の
敷居へ
馬乘りに
打跨がつて、
太息をほツと
吐く
······ 風入れの
此の
窓も、
正西を
受けて、
夕日のほとぼりは
激しくとも、
波にも
氷にも
成れとて
觸ると、
爪下の
廂屋根は、さすがに
夜露に
冷いのであつた。
爾時、
唯吉がひやりとしたのは
|| 此の
廂はづれに、
階下の
住居の八
疊の
縁前、
二坪に
足らぬ
明取りの
小庭の
竹垣を
一ツ
隔てたばかり、
裏に
附着いた一
軒、
二階家の
二階の
同じ
肱掛窓が、
南を
受けて、
此方とは
向を
異へて、つい
目と
鼻の
間にある
······其處に
居て、
人が
一人、
燈も
置かず、
暗い
中から、
此方の
二階を、
恁う、
窓越しに
透かすやうにして
涼むらしい
姿が
見えた
事である。
||「や、」
たしかに、
其家は
空屋の
筈。
唯さへ、
思ひ
掛けない
人影であるのに、
又其の
影が、
星のない
外面の、
雨氣を
帶びた、
雲に
染んで、
屋根づたひに
茫と
來て、
此方を
引包むやうに
思はれる。
が、
激しい、
強い、
鋭いほどの
氣勢はなかつた。
闇に
咲く
花の、たとへば
面影はほのかに
白く、あはれに
優しくありながら、
葉の
姿の、
寂しく、
陰氣に、
黒いのが、ありとしも
見えぬ
雲がくれの
淀んだ
月に、
朦朧と
取留めなく
影を
投げた
風情に
見える。
雨夜の
橘の
其には
似ないが、
弱い、
細りした、
花か、
空燻か、
何やら
薫が、たよりなげに
屋根に
漾うて、
何うやら
其の
人は
女性らしい。
「
婦人だと
尚ほ
變だ。」
唯吉は、
襟許から、
手足、
身體中、
柳の
葉で、さら/\と
擽られたやうに、
他愛なく、むず/\したので、ぶる/\と
肩を
搖つて、
「
此は
暑い。」
と
呟くのを
機會に、
跨いだ
敷居の
腰を
外すと、
窓に
肱を、
横ざまに、
胸を
投掛けて
居直つた。
爾時だつたが、
「え、え、」と、
小さな
咳を、
彼方の
其の
二階でしたのが、
何故か
耳許へ
朗らかに
高く
響いた。
其が、
言を
番へた、
豫て
約束の
暗號ででもあつた
如く、
唯吉は
思はず
顏を
上げて、
其の
姿を
見た。
肩を
細く、
片袖をなよ/\と
胸につけた、
風通しの
南へ
背を
向けた
背後姿の、
腰のあたりまで
仄に
見える、
敷居に
掛けた
半身で
帶と
髮のみ
艷やかに
黒い。
浴衣は
白地の
中形で、
模樣は、
薄月の
空を
行交ふ、
||又少し
明るく
成つたが
||雲に
紛るゝやうであつたが、つい
傍の
戸袋に
風流に
絡まり
掛つた
蔦かづらが
其のまゝに
染まつたらしい。
······そして、
肩越しに
此方を
見向いた、
薄手の、
中だかに、すつと
鼻筋の
通つた
横顏。
······唯吉を
見越した
端に、
心持、
會釋に
下げた
頸の
色が、
鬢を
透かして
白い
事!
······美しさは
其のみ
成らず、
片袖に
手まさぐつた
團扇が、
恰も
月を
招いた
如く、
弱く
光つて
薄りと、
腋明をこぼれた
膚に
透る。
褄はづれさへ
偲ばるゝ、
姿は
小造りらしいのが、
腰掛けた
背はすらりと
高い。
髮は、ふさ/\とあるのを
櫛卷なんどに
束ねたらしい
······でないと、
肱かけ
窓の、
然うした
處は、
高い
髷なら
鴨居にも
支へよう、
其が、やがて二三
寸、
灯のない
暗がりに、
水際立つまで、
同じ
黒さが、くツきりと
間をおいて、
柳は
露に
濡れつゝ
濃かつた。
恁う、
唯吉が、
見るも
思ふも
瞬く
間で、
「
暑うござんす
事······」
と
其の
人の
聲。
此方は
喫驚して
默つて
視める。
「
貴方でもお
涼みでいらつしやいますか。」
と
直ぐに
續けて、
落着いた
優しい
聲なり。
何を
疑つて
見た
處で、
其のものの
言ひぶりが、
別に
人があつて、
婦と
對向ひで
居る
樣子には
思はれないので、
「えゝん。」
とつけたらしい
咳を、
唯吉も
一つして、
「
何うです
······此のお
暑さは。」と
思切つて、
言受けする。
「
酷うござんすのね。」
と
大分心易い
言ひ
方である。
「お
話に
成りません。
······彼岸も
近い、
殘暑もドン
詰りと
云ふ
處へ
來て、まあ、
何うしたつて
云ふんでせうな。」
言ひ
交はすのも
窓と
窓の、
屋根越なれば、
唯吉は
上の
空で、
「はて、
何だらう、
誰だらう
······」
「でも、
最うお
涼しく
成りませう
······此がおなごりかも
知れません。」
と
靜な
聲で、
慰めるやうに
窓から
云つたが、
其の
一言から
冷たくなりさうに、
妙に
身に
染みて、
唯吉は
寂しく
聞いた。
蟲の
聲も
頻に
聞える。
其の
蟋蟀と、
婦の
聲を
沈んで
聞いて、
陰氣らしく、
「
其だと
結構です
······でないと
遣切れません。
何うか
願ひたいもんでございます。」
と
言ふうちに、フト
其の(おなごり)と
云つたのが
氣に
成つて、
此だと
前方の
言葉通り、
何うやら
何かがおなごりに
成りさうだ、と
思つて
默つた。
少時人の
住まない、
裏家の
庭で、
此の
折から
又颯と
雲ながら
月の
宿つた、
小草の
露を、
搖こぼしさうな
蟲の
聲。
「まあ!
······」
と
敷居に、
其の
袖も
帶も
靡くと、ひら/\と
團扇が
動いて、やゝ
花やかな、そして
清しい
聲して、
「
御挨拶もしませんで
······何うしたら
可いでせう
······何て
失禮なんでせうね、
貴方、
御免なさいまし。」
「いゝや、
手前こそ。」
と
待受けたやうに、
猶豫はず
答へた
······「
暑さに
變りはないんです、お
互樣。」と
唯吉は、
道理らしいが、
何がお
互樣なのか、
相應はない
事を
云ふ。
「お
宅では、
皆さんおやすみでございますか。」
「
如何ですか、
寢られはしますまい。が、
蚊帳へは
疾くに
引込みました。
······お
宅は?」
と
云つて、
唯吉は
屋根越に、また
透かすやうにしたのである。
「
············」
婦は
一寸言淀んで、
「あの
······實は、
貴方をお
見掛け
申しましたから、
其の
事をお
願ひ
申したいと
存じまして、それだもんですから、つい、まだお
知己でもございませんのに、
二階の
窓から
濟みませんねえ。」
「
何、
貴女、
男同士だ、と
何うかすると、
御近所づから、
町内では
錢湯の
中で、
素裸で
初對面の
挨拶をする
事がありますよ
······」
「ほゝ。」
と
唇に
團扇を
當てて、それなり、たをやかに
打傾く。
唯吉も
引入れられたやうに
笑ひながら、
「
串戲ぢやありません、
眞個です。
······ですから
二階同士結構ですとも。
······そして、
私に
······とおつしやつて、
貴女、
何でございます
······御遠慮は
要りません。」
「はあ
······」
「
何でございます。」
「では、お
頼まれなすつて
下さいますの。」
「
承りませう。」
と
云つたが、
窓に
掛けた
肱が
浮いて、
唯吉の
聲が
稍々忙しかつた。
「
貴方、
可厭だとおつしやると、
私、
怨むんですよ。」
「えゝ。」
と、
一つあとへ
呼吸を
引いた
時、
雲が
沈んで、
蟋蟀の
聲、
幻に
濃く
成んぬ。
「
······可厭な
蟲が
鳴きます
事······」
と
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、590-12]、
獨言のやうに、
且つ
何かの
前兆を
豫め
知つたやうに
女が
言ふ。
「
可厭な
蟲が
鳴きます?
······」と
唯吉は
釣込まれて、つい
饒舌つた。
が、
其處に、
又此處に、
遠近に、
草あれば、
石あれば、
露に
喞く
蟲の
音に、
未だ
嘗て
可厭な、と
思ふはなかつたのである。
「
貴女、
蟋蟀がお
嫌ひですか。」
と、うら
問ひつゝ、
妙な
事を
云ふぞと
思ふと、うつかりして
居たのが、また
悚然とする
······ 雲が
衝と
離れると、
月の
影が、
對うの
窓際の
煤けた
戸袋を
一間、
美人の
袖を
其處に
縫留めた
蜘蛛の
巣に、
露を
貫いたが
見ゆるまで、
颯と
薄紙の
靄を
透して、
明かに
照らし
出す、と
見る
間に、
曇つて、また
闇くなり
行く
中に、もの
越は、
蟲の
音よりも
澄んで
聞えた。
「
否、つゞれさせぢやありません。
蟋蟀は、
私は
大すきなんです。まあ、
鳴きますわね
······可愛い、
優しい、あはれな
聲を、
誰が、
貴方、
殿方だつて
······お
可厭ではないでせう。
私のやうなものでも、
義理にも、
嫌ひだなんて
言はれませんもの。」
「ですが、
可厭な
蟲が
鳴いてる、と
唯今伺ひましたから。」
「あの、お
聞きなさいまし
······一寸······まだ
外に
鳴いて
居る
蟲がござんせう。」
「はあ、」
と
唯吉は、
恰もいひつけられたやうに、
敷居に
掛けた
手の
上へ、
横ざまに
耳を
着けたが、
可厭な、と
云ふは
何の
聲か、
其は
聞かない
方が
望ましかつた。
「
遠くに
梟でも
啼いて
居ますか。」
「
貴方、
蟲ですよ。」
「
成程、
蟲と
梟では
大分見當が
違ひました。
······續いて
餘り
暑いので、
餘程茫として
居るやうです。
失禮、
可厭なものツて、
何が
鳴きます。」
「あの、きり/\きり/\、
褄させ、てふ、
肩させ、と
鳴きます
中に、
草ですと、
其の
底のやうな
處に、
露が
白玉を
刻んで
拵へました、
寮の
枝折戸の
銀の
鈴に、
芥子ほどな
水鷄が
音づれますやうに、ちん、ちん
······と
幽に、そして
冴えて
鳴くのがありませう。」
「あゝ
······近頃聞いて
覺えました
······鉦たゝきだ、
鉦たゝきですね。や、あの
聲がお
嫌ひですかい。」
「
否、」
と
壓へる、
聲が
沈んで、
「
聲が
嫌ひなのではありません。
不厭などころではないんですが、
名を
思ふと、
私は
悚然とします
······」
と
言つた。
其の
氣を
受けたか、
唯吉は
一息に
身體中總毛立つた。
「だつて、
其だつて、」
と
力が
籠つて、
「
可哀さうな、
氣の
毒らしい、あの、しをらしい、
可愛い
蟲が、
何にも
知つた
事ではないんですけれど、でも
私、
鉦たゝきだと
思ひますだけでも、
氷で
殺して、
一筋づゝ、
此の
髮の
毛を
引拔かれますやうに
······骨身に
應へるやうなんです
······蟲には
濟まないと
存じながら
······眞個に
因果なんですわねえ。」
と
染々言ふ。
唯吉は
敷居越に
乘出しながら、
「
何か
知りませんが、
堪らないほど
可厭なお
心持らしく
伺はれますね
······では、
大抵分りました
······手前にお
頼みと
云ふのは、あの
······ちん、ちんの
聞えないやうに、
蟲を
捕へて
打棄るか、
何うにかしてくれろ、と
云ふんでせう
······と
其奴は
一寸困りましたな。
其方の
······貴女のお
庭に、ちよろ/\
流れます
遣水のふちが、
此の
頃は
大分茂りました、
露草の
青いんだの、
蓼の
花の
眞赤なんだの、
美しくよく
咲きます
······其の
中で
鳴いて
居るらしいんですがね。
······ 蟋蟀でさへ、
其の
蟲は、
宛然夕顏の
種が
一つこぼれたくらゐ
小くつて、なか/\
見着かりませんし、
······何うして
掴まりつこはないさうです
······貴女がなさいますやうに、
雪洞を
點けて
探しました
處で、
第一、
形だつて
目に
留るんぢや、ありますまい。」
と
唯吉もこゝで
打解けたらしく
然う
云つた。
今は、
容子だけでも
疑ふ
處はない
······去年春の
半ば
頃から、
横町が
門口の、
其の
數寄づくりの
裏家に
住んだ
美人である。
其の
年の
夏が
土用に
入つて、
間もなく
······仔細あつて
······其家には
居なくなつた
筈だと
思ふ。
庭は
唯垣一重、
二階は
屋根續きと
云つても
可い、
差配も
一つ
差配ながら、
前通りと
横町で、
引越蕎麥のおつき
合の
中には
入つて
居らぬから、
内の
樣子は
一寸分らぬ。
殊に
其の
家は、
風通しも
可、
室取りも
可、
造作、
建具の
如きも、こゝらに
軒を
並べた
貸家とは
趣が
違つて、
其に
家賃もかつかうだと
聞くのに
······不思議に
越して
來るものが
居着かない。
入るか、と
思ふと
出る、
塞がつたと
思へば
空く。
半月、
一月、
三月、ものの
半年も
住馴れたのは
殆どあるまい
······處で
氣を
着けるでもなく、
唯吉が
二階から
見知越な、
時々の
其の
家の
主も、
誰が
何時のだか
目紛らしいほど、ごつちやに
成つて、
髯やら
前垂やら
判然と
區別が
着かぬ。
其の
中に、
今も
忘れないのは、
今夜口を
利いて
居る
此の
美人であつた。
······ 唯吉が
雇つておく、お
媼さんの
説では、
何うも
人の
妾、かくし
妻であらうと
云つた
······其が
引越して
來た
當時、
女主人と
云ふにつけて、
其の
庭の
片隅に
植わつた
一本の
柳の
樹、これが
散ると
屋根、もの
干越に、
蓑を
着て
渡りたい
銀河のやうに
隅田川が
見えるのに、
葉が
茂る
頃は
燕の
羽ほどの
帆も、ために
遮られて、
唯吉の
二階から
隱れて
行く。
······對手が
百日紅だと
燒討にも
及ぶ
處、
柳だけに
不平も
言へぬが、
口惜くない
事はなかつた
||其さへ、
何となく
床しいのに、
此の
邊にしては
可なり
廣い、
其の
庭に
石燈籠が
据つたあたりへ、
巴を
崩したやうな、たゝきの
流を
拵へて、
水をちよろ/\と
走らした
······其も、
女主人の、もの
數寄で
······ 兩方のふちを
挾んで、
雜草を
植込んだのが、やがて、
蚊帳つり
草になり、
露草になり、
紅蓼になつて、
夏のはじめから、
朝露、
夕露、
······夜は
姿が
隱れても、
月に
俤の
色を
宿して、
蟲の
聲さへ、
薄りと
淺葱に、
朱鷺に、
其の
草の
花を
綾に
織つた。
······「
今度裏の
二階家へ
越して
來た
人は、
玉川さんと
云ふのだらう。」
お
媼さんが、
其の
時······「おや、
御存じの
方で
在らつしやいますか。」
「
知るものかね、けれども
然うだらうと
思ふのさ。
當推量だがね。」
「
今度、お
門札を
覗いて
見ませうでございます。」
「いや
······見ない
方が
可い、
違ふと
不可いから、そして、
名はお
京さんと
云ふんだ
······」
「お
京さま
······」
「
何うだい、
然う
極めておかうぢやないか。」
「
面白い
事をおつしやいます
······ひよつとかして
當りますかも
知れません。
貴方、
然ういたしますと、
何う
云ふか
御縁がおあんなさいますかも
知れませんよ。」
「
先づ、
大丈夫、
女難はないとさ。」
こんな
事からお
媼さんも、
去年······其の
當座、かりに
玉川として
置く
······其家の
出入りに
氣を
着けたやうだつたが、
主人か、
旦那か
知らず、
通つて
來るのが、
謹深く
温ましやかな
人物らしくて、あからさまな
夏に
成つても、一
度も
姿を
見なかつたと
云ふ。
第一、
二階の
其窓にも、
階下の
縁先にも、とり/″\に
風情を
添へる、
岐阜提灯と、
鐵燈籠、
簾と
葭簀の
涼しい
色。
何うかすると
石の
手水鉢が、
柳の
影に
青いのに、
清らかな
掛手拭が
眞白にほのめくばかり、
廊下づたひの
氣勢はしても、
人目には
唯軒の
荵。
「
裏の
美しいのは、
旦那樣、
······坊主の
持ものでござります
······」
道理こそ、
出入りを
人に
隱して
形を
見せぬと、
一晩お
媼さんが
注進顏で、
功らしく
言つた
事を
覺えて
居る。
······ 臺所の
狹い
張出しで、お
媼さんは
日が
暮れてから
自分で
行水を
使つた。が、
蒸暑い
夜で、
糊澤山な
浴衣を
抱きながら、
涼んで
居ると、
例の
柳の
葉越に
影が
射す、
五日ばかりの
月に
電燈は
點けないが、
二階を
見透の
表の
縁に、
鐵燈籠の
燈ばかり
一つ、
峰の
堂でも
見るやうに、
何となく
浮世から
離れた
樣子で、
滅多に
顏を
見せない
其の
女主人が、でも、
端近へは
出ないで、
座敷の
中ほどに
一人で
居た。
其の
樣子が、
餘所から
歸宅つて、
暑さの
餘り、
二階へ
遁げて
涼むらしい
······「
羅も
脱いで、
帶も
解いて、
水のやうなお
襦袢ばかりで、がつかりしたやうに、
持つた
團扇も
動かさないで、くの
字なりに
背後へ
片手支いて
居なさる
處······何うもお
色の
白い
事······乳の
邊は
其の
團扇で、
隱れましたが、
細りした
二の
腕の
透いた
下に、ちらりと
結び
目が
見えました
······扱帶の
端ではござりません
······確かに
帶でござりますね、
月も
最う
餘程らしうござります
······成程人目に
立ちませう。
此で
以て、あの
方が、
一寸も
庭へも
出なさらない
譯も
分りました、おみもちでござりますよ。」
と
其の
時お
媼さん
拔衣紋で、
自分の
下腹を
壓へて
言つた。
「
其が
何うして、
坊主の
持ものだと
知れたんだらう。」
「
處が
旦那樣、
別嬪さんが、
然うやつて、
手足も
白々と
座敷の
中に
涼んで
居なさいます、
其の
周圍を、ぐる/\と
······床の
間から
次の
室の
簀戸の
方、
裏から
表二階の
方と、
横肥りにふとつた、
帷子か
何でござりますか、ぶわ/\した
衣ものを
着ました
坊さんが、
輪をかいて

つて
居ります。
其の
影法師が、
鐵燈籠の
幽な
明りで、
別嬪さんの、しどけない
姿の
上へ、
眞黒に
成つて、
押かぶさつて
見えました。そんな
處へ
誰が
他人を
寄せるものでございます。
······まはりを

つて
居た
肥つた
坊さんは、
確に、
御亭主か、
旦那に
違ひないのでございますよ。」
「はてな
······其が
又、
何だつて、
蜘蛛の
巣でも
掛けるやうに、
變に
周圍を

るんだ。」
「
其は
貴方、
横から
見たり、
縱から
見たり、
種々にして
樂みますのでございます。
妾などと
申しますものは、
然うしたものでございますとさ。」
「いや、
恐れるぜ。」
と
其なり
濟む。
日は
經ち、
月はかはつたが、
暑さが
續く。
分けて
雨催ひで
風の
死んだ、
羽蟲の
夥しい
夜であつた。
······一
度線を
曳いて
窓へ
出して、ねばり
着いた
蟲の
數を、
扱くほど、はたきに
掛けて
拂ひ
棄てたが、もとへ
据ゑると、
見る/\うちに
堆いまで、
電燈のほやが
黒く
成つて、ばら/\と
落ちて、むら/\と
立ち、むず/\
這ふ。
餘り
煩くつて、パチンと
捻つて、
燈を
消した。
曇つた
空の
星もなし、
眞黒な
二階の
裏の
子窓で、
||こゝに
今居るやうに
||唯吉が、ぐつたりして
溜息を
吐いて、
大川の
水を
遮る
······葉の
動かない
裏家の
背戸の、
其の
一本柳を、
熟々凝視めて
居た
事があつた。
其處へ
病上りと
云ふ
風采、
中形の
浴衣の
清らかな
白地も、
夜の
草葉に
曇る
······なよ/\とした
博多の
伊達卷の
姿で、つひぞない
事、
庭へ
出て
來た。
其の
時美人が
雪洞を
手に
取つて
居たのである。
ほつれた
圓髷に、
黄金の
平打の
簪を、
照々と
左插。くツきりとした
頸脚を
長く
此方へ
見せた
後姿で、
遣水のちよろ/\と
燈影に
搖れて
走る
縁を、すら/\
薄彩に
刺繍の、
數寄づくりの
淺茅生の
草を
分けつゝ
歩行ふ、
素足の
褄はづれにちらめくのが。
白々と
露に
輕く
······柳の
絮の
散る
風情。
植ゑ
添へたのが
何時か
伸びて、
丁度咲出た
桔梗の
花が、
浴衣の
袖を
左右に
分れて、すらりと
映つて二三
輪、
色にも
出れば
影をも
宿して、
雪洞の
動くまゝ、
靜かな
庭下駄に
靡いて、十
歩に
足らぬそゞろ
歩行も、
山路を
遠く、
遙々と
辿るとばかり
視め
遣る
······ 間もなかつた。
さつと
音して、
柳の
地摺りに
枝垂れた
葉が、
裾から
渦を
卷いて
黒み
渡つて、
搖れると
思ふと、
湯氣に
蒸したやうな
生暖い
風が
流れるやうに、ぬら/\と
吹掛つて、
哄と
草も
樹も
煽つて
鳴つたが、
裾、
袂を、はつと
亂すと、お
納戸の
其の
扱帶で
留めた、
前褄を
絞るばかり、
淺葱縮緬の
蹴出が
搦んで、
踏出す
白脛を、
草の
葉の
尖で
危く
留めて
······と、
吹倒されさうに
撓々と
成つて、
胸を
反らしながら、
袖で
雪洞の
灯をぴつたり
伏せたが、フツと
消えるや、よろ/\として、
崩折れる
状に、
縁側へ、
退りかゝるのを、
空なぐれに
煽つた
簾が、ばたりと
音して、
卷込むが
如く
姿を
掻消す。
其の
雪洞の
消えた
拍子に、
晃乎と
唯吉の
目に
留つたのは、
鬢を
拔けて
草に
落ちた
金簪で
······濕やかな
露の
中に、
尾を
曳くばかり、
幽な
螢の
影を
殘したが、ぼう/\と
吹亂れる
可厭な
風に、
幻のやうな
蒸暑い
庭に、
恰も
曠野の
如く
瞰下されて、やがて
消えても
瞳に
殘つた、
簪の
蒼い
光は、
柔かな
胸を
離れて
行方も
知れぬ、
······其の
人の
人魂のやうに
見えたのであつた。
······同じ
夜の
寢る
時分、
「
裏家では、
今夜、お
産のやうでございます
······」
と
云つた、お
媼さんは、あとじさりに
蚊帳へ
潛つた。
風は
凪んでも
雨にも
成らず
······激しい
暑さに
寢られなかつた、
唯吉は
曉方に
成つてうと/\するまで、
垣根一重の
隔てながら、
産聲と
云ふものも
聞かなかつたのである。
「お
可哀相に
······あの
方は、
昨晩、
釣臺で、
病院へお
入りなすつたさうでございます。」
「やあ。
産が
重かつたか。」
「
嬰兒は
死んで
出ましたとも
申しますが、
如何でございますか、
何にしろお
氣の
毒でございますねえ。」
二月ばかり
經つと、
婆やが
一人、
留守をしたのが
引越したツ
切、
何とも、
其れぎり
樣子を
聞かずに
過ごす。
生死は
知らぬが、
······いま
唯吉が、
屋根越に、
窓と
窓とに
相對して、もの
云ふは
即ち
其の
婦人なのである。
······「まあ、」
と
美人は、
團扇を
敷居に
返して、ふいと
打消すらしく、
其の
時云ふやう。
どんなに
私が
厚顏しうござんしたつて、
貴方に
蟲を
捕つて、
棄てて
下さいなんぞと、そんな
事が
申されますものですか。
あの
······」
派手な
聲ながら、
姿ばかりは
愼ましさうに、
「そんな
事ではありません。お
願ひと
申しますのは
······」
今は
其の
頼みと
云ふのを
聞かないわけには
行かなく
成つた
|······聞かう、と
唯吉は
胸を
轟かす。
「
何うぞ、
貴方、
私が
今夜此處に
居りました
事を、
誰にも
仰有らないで
下さいまし。
······唯それだけでございます。」
と
輕く
言ふ。
餘り
仔細のない
事を、
聞いて
飽氣なく
思ふほど、
唯吉は
尚氣に
掛る
······昔から
語繼ぎ
言傳へる
例によると、
誰にも
言ふ
勿と
頼まるゝ、
其の
當人が
······實は
見ては
成らない
姿である
場合が
多い。
「はあ、
誰にもですね。」
自分の
見たのは、と
云ふ
心を
唯吉は
裏問ひかける。
「
否、それまででもないんです
······誰にもと
言ひますうちにも、
差配さんへは、
分けて
内證になすつて
下さいまし。」
「
可うござんすとも
······が、
何うしてです。」
と
問返すうちにも、
一層、
妙な
夢路を
辿る
心持のしたのは、
其の
差配と
云ふのは、こゝに三
軒、
鼎に
成つて、
例の
柳の
樹を
境に、
同じくたゞ
垣一重隔つるのみ。で、
······形の
如き
禿頭が、
蚊帳に
北向きにでも
寢て
居ると、
分けて
其は
平屋であるため、
二人は
丁度夢枕に
立つて、
高い
所で、
雲の
中に
言を
交はして
居るやうな
形に
成るから。
······「
御存じの
通り、」
と、
差配の
棟の
上の
其ためか、
婦人は
聲を
密めたが、
電車の
軋も
響かぬ
夜更。
柳に
渡る
風もなし、
寂然として、よく
聞える
······たゞ
空走る
雲ばかり、
月の
前を
騷がしい、が、
最初から
一ツ
一ツ、
朗な
聲が
耳に
響くのであつた。
「
此處は
空屋に
成つて
居ります
······昨年住んで
居ましたつて
最う
何の
縁もありませんものが、
夜中、
斷りもなしに
入つて
參りましたんですもの。
知れましては
申譯がありません
······ つい、あの、
通りがかりに
貸家札を
見ましたものですから、
誰方もおいでなさらないと
思ひますと、
何ですか
可懷くつて、」
と
向を
替へて、
團扇を
提げて、すらりと
立つた。
美人は
庭を
差覗く
······横顏は
尚ほ、くつきりと、
鬢の
毛は
艷増したが、
生憎草は
暗かつた。
「
御尤です
······あんなに
丹精をなさいましたから
······でも、お
引越しなすつたあとでは、
水道を
留めたから、
遣水は
涸れました。しかし、
草は
其のまゝです
······近頃までに、四五
度、
越して
來た
人がありましたけれども、
何う
云ふものか
住着きませんから、
別に
手入れもしないので、
貴女のおもの
好のまゝに
殘つて
居ます、
······秋口には、
去年は、
龍膽も
咲きましたよ。
······露草は
今盛りです
······桔梗も
澤山に
殖えました
······ 月夜なんざ、
露にも
色が
染るやうに
綺麗です
······お
庇を
被つて、いゝ
保養をしますのは、
手前ども。
お
禮心に、
燈を
點けておともをしませう
······町を

つて、
門までお
迎ひに
參つても
可うござんす
······庭へ
出て
御覽なさいませんか。
尤も、
雪洞と
云ふ、
樣子の
可い
處は
持合はせがありません。」
とうつかり
喋舌る。
「まあ、よくお
覺えなすつて
在らつしやるわね。」
「
忘れませんもの。」
「
後生ですから、」
と
衝と
戸袋へ、
立身で
斜めに
近づいて、
「あの
時の
事はお
忘れなすつて
下さいまし
······思出しても
慄然とするんでございますから
······」
「うつかりして、
此方から
透見をされた、とお
思ひですか。」
「
否、
可厭な
風が
吹いたんです
······そして、
其の
晩、
可恐い、
氣味の
惡い
坊さんに、
忌々しい
鉦を
叩かれましたから
······」
唯吉は、
思はず、
乘かゝつて
居た
胸を
引く。
婦人の
手が
白く
戸袋の
端に
見えた
······近く、
此方を
差覗くよ。
「あの
······實は
貴方が、
繪を
遊ばすつて
事を
存じて
居りましたものですから、
······お
恥かしうござんすわね
······」
と
一寸言淀む。
唯吉は
浮世繪を
描くのである。
「
私は
其の
節、
身重なんでございましたの
······ですから、
淺ましい
處を、お
目に
掛けますのが
情なくつて、つい、
引籠つてばかり
居ました
所、
何ですか、あの
晩は
心持が、
多時庭へも
出られなからうと
思はれましたので、
密と
露の
中を、
花に
觸つて
歩行いて
見たんでございます。
生暖い、
風に
當つて、
目が、ぐら/\としましたつけ
······産所へ
倒れて
了ひました。
嬰兒は
死んで
生れたんです。
其も
唯、
苦しいので、
何ですか
夢中でしたが、
今でも
覺えて
居りますのは、
其時、
錐を、
貴方、
身節へ
揉込まれるやうに、
手足、
胸、
腹へも、ぶる/\と
響きましたのは、カン/\!と
刻んで
鳴らす
鉦の
音だつたんです。
丁ど
後産の
少し
前だと、
後に
聞いたんでございますが、
參合はせました、
私ども
主人が、あゝ、
可厭な
音をさせる
······折の
惡い、
······産婦の
私にも
聞かせともなし、
早く
退いて
貰はうと、
框の
障子を
開けました。
······ 鉦を
叩くものは、
此の
貴方、
私どもの
門に
立つて
居たんですつて、」
「
其の
横町の
······」
「はあ、」
「
何です
······鉦を
叩くものは?」
「
肥つた
坊主でござんしたつて、」
「えゝ?」
すると
······其の
婦人の
主人と
云ふのは
······二階座敷の
火のない
中を、
媚かしい
人の
周圍を、ふら/\とまはり
繞つた
影法師とは
違ふらしい。
「
忌々しいではありませんか。
主人が
見ますと、
格子戸の
外に、
黒で、
卍をおいた
薄暗い
提灯が
一つ
······尤も
一方には、
朱で
何かかいてあつたさうですけれど、
其は
見えずに、
卍が
出て
······黄色黒い、あだ
汚れた、だゞつ
廣い、
無地の
行衣見たやうなものに、
鼠の
腰衣で、ずんぐり
横肥りに、ぶよ/\と
皮がたるんで、
水氣のありさうな、
蒼い
顏のむくんだ
坊主が、
······あの、
居たんですつて
||そして、
框へ
出た
主人を
見ますと、
鉦をたゝき
止めて、
朦とした
卍の
影に
立つて
居ました。
(
何だ?
······)
主人も、
容體の
惡い
病人で、
氣が
上ずつて
居て
突掛るやうに
申したさうです。
(
騷々しい!
······急病人があるんだ、
去つて
下さい。)
然うしますと、
坊さんが、
蒼黄色に、
鼠色の
身體を
搖つて、
唾を
一杯溜めたやうな、ねば/\とした
聲で、
(
其の
病人があるので

るいの
······)
コンと
一つ
敲いて
見せて、
(
藥賣りぢやに
買ひないな、
可え
所へ
來たでや。)
ツて、ニヤリと
茶色の
齒を
見せて
笑つたさうです
······(
可い
所とは
何だ
無禮な、
急病人があると
云ふのに、)
と
極めつけますとね。
······(お
身樣が
赫と
成つたで、はて、
病人の
症も
知れた
······血が
上るのでや
······)
と
頷いて、
合點々々をするんですつて、」
唯吉は、こゝで
聞くさへ
堪へられぬばかりに
思ふ。
「
不埒な
奴です
······何ものです。」
「まあ、お
聞きなさいまし
······」
「
主人は、むら/\と
氣が
苛れて、
早く
追退けようより、
何より、
(
何だ、
何だ、お
前は。)
と
急込むのが
前に
立つ。
(
弘法大師······)
カーンと
又鉦を
叩いて、
(
御夢想の
藥ぢやに
······何の
病疾も
速かに
治るで、
買ひないな
······丁ど、
來合はせたは、あなた
樣お
導きぢや
······仇には
思はれますな。)
(
要らないよ。)
(
爲に
成らぬが、)
と、
額に
蜘蛛のやうな
皺を
寄せて、
上目で、じろりと
見ましたつて、
(お
導きで
來合はせた
藥を
買はいでは、
病人が
心許ない。お
頂きなされぬと、
後悔をされうが。)
(
死んでも
構はん、
早々と
歸れ。)
(
斃ちても
可えか
······はあ、)
と
呆れたやうに
大きな
口を
開けると、
卍を
頬張つたらしい、
上顎一杯、
眞黒に
見えたさうです。
(
是非に
及ばん
事の。)
カン/\と
鉦を
叩きながら、
提灯の
燈を
含みましたやうに、
鼠の
腰衣をふは/\と
薄明るく
膨らまして、
行掛けに、
鼻の
下を
伸ばして、
足を
爪立つて、
伸上つて、
見返つて、
其れなり
町の
角を
切れましたつて。
(
是非に
及ばぬ
······)
可厭な
辻占でしたわねえ。」
と
俯向いて
一寸言が
途絶え
······「やがて、
其の
後から、
私は
身體を
載せられて、
釣臺で
門を
出ました。
大橋邊の、
病院に
參ります
途中······私は
顏を
見られるのが
辛うござんしたから、」
ともの
思ふ
状に
雲を
見た。
雲は、はツ/\と、
月が
自分で
吐出すやうに、むら/\と
白く
且つ
黒い。
「お
星樣一ツ
見えないほど、
掻卷を
引被つて、
眞暗に
成つて
行つたんです。
(
清正公樣の
前だよ
······煎豆屋の
角、
唐物屋の
所······水天宮樣の
横通·········)
と
所々で、
||釣臺に
附いてくれました
主人が
聲を
掛けて
教へますのを、あゝ、
冥途へ
行く
路も、
矢張り、
近所だけは
知つた
町を
通るのかと
思ひました。
私は
死にさうな
心持。
そして、
路筋を
聞かしてくれます、
主人の
聲のしません
間は、
絶えず
蟲が
鳴きましたつけ。
前に、
身體の
一大事と
云つた
時に、あの
鉦を
聞かされましたのが
耳に
附いて
······蟲の
中でも、あれが、
鉦たゝきと
思ふばかりで、
早鐘を
撞きますやうな
血が
胸へ
躍つたんです
······ 又······後で
主人に
聞きますと
······釣臺が
出ますと、それへ
着いた
提灯の四五
尺前へ、
早や、あの、
卍をかいたのが、
重つて
點れて、すつ/\と
先を
切つて
歩行いたんださうです。」
「
其、
其の
坊主が、」
「えゝ
······遠くへも
行かないで、
||藥を
買はなかつた
仇をしに
||待受けてでも
居たのでせう
······直き
二丁目の
中程から、
然うやつて
提灯が
見え
出したさうですが、
主人かつて、
忌はしからうが
何うしようが、
藥賣りが
町を
歩行くのに、
故障を
言へるわけはありません。
何だつて、
又······大病人を
釣臺でかゝへて
居て、
往來、
喧嘩も
出來ない
義理ですから、
睨着けて
其のまんま
歩行いたさうです。
たゞ、あの、
此處は、
何處······其處······と
私に
言つて
聞かしました
時分だけは、
途切れたやうに
其の
提灯が
隱れましたつて。
清正公樣の
前、
煎豆屋の
角、
唐物屋の
所、
水天宮樣の
裏通り、とそツち
此方で、
一寸々々見えなく
成つたらしいんですが、
······」
「すぐに、
卍が
出て、ふつと
前へ
通つて
行きます。
最う、
其を
見ると、
口惜しさが
胸を
縛つて、
咽喉を
詰めて、
主人は
口も
利けなかつたさうなんですよ。
其主人の
默つてますうちは、
私が
鉦たゝきに
五體を
震はす
時でした
······尤も、
坊主は、
唯ぼんやりと
鼠の
腰法衣でぶら/\と
前へ
立ちますばかり、
鉦は
些とも
鳴さなかつたつて
事でした
······ カン/\カン/\と、
不意に
目口へ
打込まれるやうに
響きました。
私は
氣が
遠くなつて
了つたんです。
口へ
冷いものが
入つて、
寢臺の
上に
居るのが
分りましたつけ
······坊主が
急に
鉦を
鳴らしたのは、
丁ど、
釣臺が
病院の
門を
入る
時だつたさうです。
其の
門が、
又······貴方、
表でもなければ
潛りでもなくつて、
土塀へついて
一
り

りました、
大な
椎の
樹があります、
裏門で
木戸口だつたと
申すんです。
尤も、二
時過ぎに
參つたんですから、
門も
潛りも
閉つて
居て、
裏へ

つたも
分りましたが、
後に
聞けば
何うでせう
······其の
木戸は、
病院で、
死にました
死骸ばかりを、
密と
内證で
出します、
其のために、
故と
夜中に
明けとくんですつて、
不淨門!
······ 隨分ですわねえ。ほゝゝほ、」
と
寂しい
笑顏が、
戸袋へひつたりついて、ほの
白く
此方を
覘いて
打傾いた。
唯吉は
又慄然とした。
「
坊主は
何うしました。」
「
心得たもの、
貴方······」
と
聲が
何故か
近く
來て、
「
塀から
押かぶさりました、
其の
大な
椎の
樹の
下に
立つて、
半紙四つ
切りばかりの
縱長い
||膏藥でせう
||其を
提灯の
上へ
翳して、はツはツ、」
と
云ふ、
婦人は
息だはしいやうで、
「と
黒い
呼吸を
吐掛けて
居たんださうです
······釣臺が
摺違つて
入ります
時、びたりと、
木戸の
柱にはつて、
上を
一つ
蒼黄色い、むくんだ
掌で
撫でましたつて
······ 悄乎と
其處へ
入ると、
其のトタンに、カン/\カン。
釣臺は、しつかり
蓋をした、
大な
古井戸の
側を
通つて
居ました。
餘りですから、
主人が
引返さうとした
時です
······藥賣の
坊主は、
柄のない
提灯を
高々と
擧げて、
椎の
樹の
梢越しに、
大屋根でも
見るらしく、
仰向いて、
(
先づは
送つたぞ
······)
と
聲を
掛けると、
何處かで、
(
御苦勞。)
と
一言、
婦の
聲で
言ひましたさうです
······ おやと
思ふと、
灰色の
扉が
開いて、
······裏口ですから、
油紙なんか
散らかつた、
廊下のつめに、
看護婦が
立つて、
丁ど
釣臺を
受取る
處だつたんですつて。
主人は、
此の
方へ
氣を
取られました、が、
其つ
切り、
藥賣は
影も
形も
見えません、あの
······」
と
一息。で、
「
此は、しかし
私が
自分で
見たのではありません。
其から、
私は
私の
方で、
何か、あの、ござんした。
變な
事が。
其の
時に、
次手に
主人が
話して
聞かせたんです
······私はたゞ
其の
鉦の
音が
耳について
耳に
着いて、
少しでも、うと/\としようとすれば、
枕に
撞木を
當てて、カン/\と
鳴るんですもの
······昔、うつゝ
責とか
申すのに、どら、ねう
鉢、
太鼓を
一齊に
敲くより、
鉦ばかりですから、
餘計に
脈々へ
響いて、
貫つて、
其の
苦しさつたら、
日に三
度も
注射の
針を
刺されます、
其の
痛さなんぞなんでもない!」
「
貴方······そんなに
切なくつたつて、
一寸寢返り
所ですか、
醫師の
命令で、
身動きさへ
成りません。
足は
裾へ、
素直に
揃へたつ
切、
兩手は
腋の
下へ
着けたつ
切、で
熟として、たゞ
見舞が
見えます、
扉の
開くのを、
便りにして、
入口の
方ばかり
見詰めて
見ました。
實家の、
母親、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、615-1]なんぞが、
交る/″\
附いて
居てくれます
他に、
其の
扉ばかり
瞻めましたのは、
人懷かしいばかりではないのです
······續いて
二人、
三人まで
一時に
入つて
來れば、
屹と
其が、
私の
臨終の
知らせなんでせうから、すぐに
心掛りのないやうに、
遺言の
眞似ごとだけもしませうと、
果敢いんですわねえ
······唯そればかりを
的のやうにして
目を

つて
居たんですよ。
然うしますとね、
苦しい
中にも、
氣が
澄むつて
言ふんでせう
······窓も
硝子も
透通つて、
晴切つた
秋の、
高い
蒼空を、も
一つ
漉した、それは
貴方、
海の
底と
云つて
可いか
何と
申して
可いんでせう、
寒の
月の
底へ
入つて、
白く
凍つたやうにも
思へます。
玲瓏つて
云ふんですか、
自分の
手も、
腕も、
胸なんぞは
乳のなり、
薄掻卷へすつきりと
透いて、
映つて、
眞綿は
吉野紙のやうに
血を
壓へて、
骨を
包むやうなんです。
清々しいの、
何のつて、
室内には
塵一ツもない、あつても
其が
矢張り
透通つて
了ふんですもの。
壁は
一面に
玉の、
大姿見を
掛けたやうでした、
色は
白いんですがね。
ト
最う、
幾日だか、
晝だか
夜だか
分りません、けれども、ふつと
私の
寢臺の
傍に
坐つて
居る
······見馴れない
人があつたんです。」
「えゝ、
何ですつて、」
と
思はず
聲を
出して、
唯吉は
窓から
頸を
引込めた。
「
私は
傍目も
觸らないで、
瞳を
凝と
撓めて
視たんですが、つひぞ
覺えのない
人なんです
······ 四十七八、五十ぐらゐにも
成りませうか、
眉毛のない、
面長な、
仇白い
顏の
女で、
頬骨が
少し
出て
居ます。
薄い
髮を
結び
髮に、きちんと
撫つけて、
衣紋をすつと
合はせた
······あの、
其の
襟が
薄黄色で、
而して
鼠に
藍がかつた、
艷々として
底光りのする
衣服に、
何にもない、
白い、
丸拔きの
紋着を
着て、
幅の
狹い
黒繻子らしい
帶を
些と
低めに
〆めて、
胸を
眞直ぐに
立てて、
頤で
俛向いて、
額越に、ツンとした
權のある
鼻を
向けて、
丁ど、
私の
左の
脇腹のあたりに
坐つて、あからめもしないと
云つた
風に、ものも
言はなければ、
身動きもしないで、
上から、
私の
顏を
見詰めて
居るぢやありませんか。
其が
貴方······變な
事には、
病室で、
私の
寢臺の
上に、
然うやつて
仰向けに
寢て
居ますんでせう。
左の
脇腹のあたりに
坐りました、
其の
女性の
膝は、
寢臺の
縁と、すれ/\の
所に、
宙にふいと
浮上つて
居るのですよ。」
唯吉は
押默つた。
「
······恁う、
然まで
骨々しう
痩せもしない
兩手を
行儀よく
膝の
上に
組んだんですが、
其藍がかつた
衣服を
膝頭へするりと、
掻込みました、
褄が
揃つて、
其の
宙に
浮いた
下の
床へ、すつと、
透通るやうに
長々と
落ちて
居るんです。
朝と
思へば
朝、
晝、
夜、
夜中、
明方、もうね、一
度其が
見えましてから、
私の
覺えて
居ますだけは、
片時も、
然うやつて、
私の
顏を
凝視めたなり、
上下に、
膝だけ
摺らさうともしないんです。
可厭で、
可厭で、
可厭で。
何とも、ものにたとへやうがなかつたんですが、
其の
女性の
事に
付いて、
何か
言はうとすると、
誰にも
口が
利けません。
······ 身體が
釘づけに
成つたやうなんでせう。
唯其の
中にも、はじめて
嬉しさを
知りましたのは、
私たち
婦の
長い
黒髮です
······白い
枕に
流れるやうに
掛りましたのが、
自分ながら
冷々と、
氷を
伸ばして
敷いたやうで、
一條でも
風に
縺れて
來ますのを、
舌の
先で
吸寄せますと
······乾いた
口が
涼く
成つて、
唇も
濡れたんですから。」
「
氷嚢や、
注射より、たゞ
髮の
冷いのが、きつけに
成つて、
幾度も、
甦り、
甦り、
甦る
度に、
矢張同じ
所に、ちやんと
膝に
手を
組んで
見て
居ます。
何か
知りませんけれども、
幾らも
其處等に
居るものの、
不斷は
目に
見えない、
此の
空氣に
紛れて
隱れて
居るのが、
然うして
塵も
透通るやうな
心持に
成つたので、
自分に
見えるのだらうと
思ひました。
現在、
居るのに、
看護婦さんにも、
誰の
目にも
遮りません
······何うかすると、
看護婦さんの
白い
姿が、
澄まして、
其の
女性の、
衣服の
中を
歴々と
拔けて
歩行いたんです。
五日目です
······後で
知れました。
其の
朝です。
黒髮の
又冷たさが、
染々と
嬉しかつた
時でした。
(お
前。)
と
其の
女性が、
其のまゝ、
凝視たなりで
口を
利きました。」
「えゝ、
其の
何かが?」
「
今でも
聲さへ
忘れませんわ。
(お
前は
澁太いの
······先づ
餘所へ
去にます。)
ツて、じろりと
一目見て、
颯と
消えました。
······何處へ
參つたか
分りません。
午前、
囘診においでなすつた
醫師が、
喫驚なさいました。
不思議なくらゐ、
其の
時から
脈がよく
成つたんです
······ 其の
晩、
翌朝と、
段々、
薄紙を
剥ぐやうでせう。
まあ、
此の
分なら
助かります。
實はあきらめて
居たんだツて、
醫師もおつしやいます。あの
室は、
今夜だ、
今夜だ、と
方々の
病室で、
然う
言つたのを
五日續けて、
附添ひの、
親身のものは
聞いたんですつて。
然うしますとね
······私の
方が
見直しました
二日目の
夜中です
······隣の
室においでなすつた
御婦人の、
私と
同じ
病氣でした。
其は、
此方とは
違つて、はじめから
樣子のよかつたのが、
急に
變がかはつておなくなりになりました。
死骸は、あけ
方に
裏門を
出て
行きました。
眞に、
罪な、
濟まない
事ぢやあるけれども、
同一病人が
枕を
並べて
伏つて
居ると、どちらかに
勝まけがあるとの
話。
壁一重でも、おんなじ
枕。お
隣の
方は
身代りに
立つて
下すつたやうなものだから、
此方が
治つたら、お
墓を
尋ねて、
私も
參る、お
前も
一所に
日參しようね。
と
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、619-9]が
云つてくれるんです。
最う、
寢ながら
私は、
兩手を
合はせて
囘向をしました。
日に
増し
······大丈夫と
云ふ
時に、
主人が、
鉦たゝきの
事から、
裏門を
入つた
事など
話しましたツけ、
||心も
確で、
何にも
氣に
掛らないほど、よく
成つたんです。
髮を
結んでもらひました、こんなに
······」
と、
優しく
櫛卷に
手を
觸れて、
嬉しらしく
云つたが、あど
氣なく、
而して、かよわい
姿が、あはれに
見えた。
「
朝、
牛乳を
飮んで、
涼しく、のんびりとして、
何となく、
莞爾して
一人で
居ました。
(おぎい、おぎい、)
ツて
聲がします
······ あゝ、
明方にお
産があつた。
おなくなんなすつた
室の、
次の
室はあいて
居て、
其の
次の
室に、十八におなんなさる
······初産の
方があつたんです。
其處で
聞えるのを、うつかり、
聞いて
居ましたツけ。
廊下をばた/\と
來て、
扉をあけながら、
私どもの
看護婦さんが、
(まあ、
可厭な、まあ
可厭な。)
と
云ひ/\、づか/\と
入つて
來て、
(
貴女、一
軒、あのお
隣さんが、
變なことを
云ふんですよ。
唯今、
何うしたんですか、
急に、
思ひも
掛けない、
惡い
容體にお
變んなすつたんですがね。
皆が
壓へても、
震へ
上るやうに、
寢臺の
上から、
天井を
見て、あれ/\
彼處に
變なものが
居て、
睨みます、とつて
頂戴、よう、とつて
頂戴。あれ、
釣下つた
電燈の
上の
所に、
變な
物がつて、
身悶えをするんですもの。
氣味の
惡さツたら!)
私は
水を
浴びるやうに
悚然して、
聲も
出ませんでした。
遁腰に、
扉を
半開きに
壓へて、
廊下を
透かしながら、
聞定めて、
(あれ、おなくなんなすつたんだ。)
ドン、と
閉めて
駈出して
見に
參ります
······其の
跫音と、
遠くへ
離れて、
(おぎい、おぎい。)
と
幽に
成つて
行つたのは、お
産婦から
引離して、
嬰兒を
連れて
退らしい。
······ 三ツ
四ツの
壁越ですが、
寢臺に
私、
凍りついたやうに
成つて、
熟と
其方を
見て
居ますと、
向きました、
高い
壁と、
天井の
敷合はせの
所から、あの、
女性が、」
「えゝ、」
「
見上げます
所に
坐つたなり、
膝へ
折つた
褄をふはりと
落して、
青い
衣服が
艷々として、すつと
出て、
(お
前、
何うしても
又來たよ
······)
と、
其處から
膝に
手を
組んで、
枕許へふら/\と、
下りたんです。
其の
脇の
下の
兩方を、
背後から
何ですか、
大な
黒い
手が
二ツ
出て、
据ゑて
持つて
居たんです。
寢臺と、すれ/\の
所へ
坐りますと
······」
ふと
言淀むかして、
默つて、
美人は
背後を
振向いた。
唯吉も
我が
座敷の
背後を
見た。
「もう
少し
······」
と
向うの
二階で、
眞暗な
中で
云ふのを
聞いた。
唯吉は
確乎と
敷居を
掴んだ。
婦人は、はつきりと
向直つて、
「あゝ
······其の
黒い
大な
手が、
蒼い
袖の
下からずツと
伸びて、わ、
私の
咽喉を、」
はツと
思つたのは、
凄じい
音で、はた、と
落した
團扇が、カラ/\と
鳴つて、
廂屋根の
瓦を
辷つて、
草の
中へ
落ちたのである。
「あれ、」
と
云ふ、
哀しい
聲に、
驚いて
顏を
上げると、
呀、
影の
如く、
黒い
手が、
犇と
背後抱きに、
其の
左右の
腕を
掴み
挫ぐ。
此に、よれ/\と
身を
絞つた、
美人の
眞白な
指が、
胸を
壓へて、ぶる/\と
震へたのである。
唯吉は
一堪りもなく
眞俯ぶせに
突俯した。
······ 夜は
蟲の
音に
更け
渡る。
●表記について
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「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」 | | 590-12 |
「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」 | | 615-1、619-9 |