若いのと、
少し
年の
上なると
······ 此の
二人の
婦人は、
民也のためには
宿世からの
縁と
見える。ふとした
時、
思ひも
懸けない
處へ、
夢のやうに
姿を
露はす
|| こゝで、
夢のやうに、と
云ふものの、
實際は
其が
夢だつた
事もないではない。けれども、
夢の
方は、
又······と
思ふだけで、
取り
留めもなく、すぐに
陽炎の
亂るゝ
如く、
記憶の
裡から
亂れて
行く。
しかし
目前、
歴然と
其の
二人を
見たのは、
何時に
成つても
忘れぬ。
峰を
視めて、
山の
端に
彳んだ
時もあり、
岸づたひに
川船に
乘つて
船頭もなしに
流れて
行くのを
見たり、
揃つて、すつと
拔けて、
二人が
床の
間の
柱から
出て
來た
事もある。
民也は
九ツ
······十歳ばかりの
時に、はじめて
知つて、三十を
越すまでに、
四度か
五度は
確に
逢つた。
これだと、
隨分中絶えして、
久しいやうではあるけれども、
自分には、
然までたまさかのやうには
思へぬ。
人は
我が
身體の
一部分を、
何年にも
見ないで
濟ます
場合が
多いから
······姿見に
向はなければ、
顏にも
逢はないと
同一かも
知れぬ。
で、
見なくつても、
逢はないでも、
忘れもせねば
思出すまでもなく、
何時も
身に
着いて
居ると
同樣に、
二個、
二人の
姿も
亦、十
年見なからうが、
逢はなからうが、そんなに
間を
隔てたとは
考へない。
が、つい
近くは、
近く、
一昔前は
矢張り
前、
道理に
於て
年を
隔てない
筈はないから、
十から三十までとしても、
其の
間は
言はずとも二十
年經つのに、
最初逢つた
時から
幾歳を
經ても、
婦人二人は
何時も
違はぬ、
顏容に
年を
取らず、
些とも
變らず、
同一である。
水になり、
空になり、
面影は
宿つても、
虹のやうに、すつと
映つて、
忽ち
消えて
行く
姿であるから、
確と
取留めた
事はないが
||何時でも
二人連の
||其の
一人は、
年紀の
頃、どんな
場合にも二十四五の
上へは
出ない
······一人は十八九で、
此の
少い
方は、ふつくりして、
引緊つた
肉づきの
可い、
中背で、
······年上の
方は、すらりとして、
細いほど
瘠せて
居る。
其の
背の
高いのは、
極めて、
品の
可い
艷やかな
圓髷で
顯れる。
少いのは
時々に
髮が
違ふ、
銀杏返しの
時もあつた、
高島田の
時もあつた、
三輪と
云ふのに
結つても
居た。
其のかはり、
衣服は
年上の
方が、
紋着だつたり、お
召だつたり、
時にはしどけない
伊達卷の
寢着姿と
變るのに、
若いのは、
屹と
縞ものに
定つて、
帶をきちんと
〆めて
居る。
二人とも
色が
白い。
が、
少い
方は、ほんのりして、もう
一人のは
沈んで
見える。
其の
人柄、
風采、
※妹[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、648-5]ともつかず、
主從でもなし、
親しい
中の
友達とも
見えず、
從※妹[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、648-5]でもないらしい。
と
思ふばかりで、
何故と
云ふ
次第は
民也にも
説明は
出來ぬと
云ふ。
||何にしろ、
遁れられない
間と
見えた。
孰方か
乳母の
兒で、
乳※妹[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、648-8]。
其とも
嫂と
弟嫁か、
敵同士か、いづれ
二重の
幻影である。
時に、
民也が、はじめて
其の
姿を
見たのは、
揃つて
二階からすら/\と
降りる
所。
で、
彼が
九ツか
十の
年、
其の
日は、
小學校の
友達と
二人で
見た。
霰の
降つた
夜更の
事|| 山國の
山を、
町へ
掛けて、
戸外の
夜の
色は、
部室の
裡からよく
知れる。
雲は
暗からう
······水はもの
凄く
白からう
······空の
所々に
颯と
藥研のやうなひゞが
入つて、
霰は
其の
中から、
銀河の
珠を
碎くが
如く
迸る。
ハタと
止めば、
其の
空の
破れた
處へ、むら/\と
又一重冷い
雲が
累りかゝつて、
薄墨色に
縫合はせる、と
風さへ、そよとのもの
音も、
蜜蝋を
以て
固く
封じた
如く、
乾坤寂と
成る。
······ 建着の
惡い
戸、
障子、
雨戸も、カタリとも
響かず。
鼬が
覘くやうな、
鼠が
匍匐つたやうな、
切つて
填めた
菱の
實が、ト、べつかつこをして、ぺろりと
黒い
舌を
吐くやうな、いや、
念の
入つた、
雜多な
隙間、
破れ
穴が、
寒さにきり/\と
齒を
噛んで、
呼吸を
詰めて、うむと
堪へて
凍着くが、
古家の
煤にむせると、
時々遣切れなく
成つて、
潛めた
嚔、ハツと
噴出しさうで
不氣味な
眞夜中。
板戸一つが
直ぐ
町の、
店の八
疊、
古疊の
眞中に
机を
置いて
對向ひに、
洋燈に
額を
突合はせた、
友達と
二人で、
其の
國の
地誌略と
云ふ、
學校の
教科書を
讀んで
居た。
||其頃、
風をなして
行はれた
試驗間際に
徹夜の
勉強、
終夜と
稱へて、
氣の
合つた
同志が
夜あかしに
演習をする、なまけものの
節季仕事と
云ふのである。
一
枚······二
枚、と
兩方で、ペエジを
遣つ、
取つして、
眠氣ざましに
聲を
出して
讀んで
居たが、
恁う
夜が
更けて、
可恐しく
陰氣に
閉されると、
低い
聲さへ、びり/\と
氷を
削るやうに
唇へきしんで
響いた。
常さんと
云ふお
友達が、
讀み
掛けたのを、フツと
留めて、
「
民さん。」
と
呼ぶ、
······本を
讀んでたとは、からりと
調子が
變つて、
引入れられさうに
滅入つて
聞えた。
「
······何、」
ト、
一つ
一つ、
自分の
睫が、
紙の
上へばら/\と
溢れた、
本の、
片假名まじりに
落葉する、
山だの、
谷だのを
其まゝの
字を、
熟と
相手に
讀ませて、
傍目も
觸らず
視て
居たのが。
呼ばれて
目を
上げると、
笠は
破れて、
紙を
被せた、
黄色に
燻つたほやの
上へ、
眉の
優しい
額を
見せた、
頬のあたりが、ぽつと
白く、
朧夜に
落ちた
目かづらと
云ふ
顏色。
「
寂しいねえ。」
「あゝ
······」
「
何時だねえ。」
「
先刻二
時うつたよ。
眠く
成つたの?」
對手は
忽ち
元氣づいた
聲を
出して、
「
何、
眠いもんか
······だけどもねえ、
今時分になると
寂しいねえ。」
「
其處に
皆寢て
居るもの
······」
と
云つた
||大きな
戸棚、と
云つても
先祖代々、
刻み
着けて
何時が
代にも
動かした
事のない、
······其の
横の
襖一重の
納戸の
内には、
民也の
父と
祖母とが
寢て
居た。
母は
世を
早うしたのである
······「
常さんの
許よりか
寂しくはない。」
「
何うして?」
「だつて、
君の
内はお
邸だから、
廣い
座敷を
二つも
三つも
通らないと、
母さんや
何か
寢て
居る
部屋へ
行けないんだもの。
此の
間、
君の
許で、
徹夜をした
時は、
僕は、そりや、
寂しかつた
······」
「でもね、
僕ン
許は
二階がないから
······」
「
二階が
寂しい?」
と
民也は
眞黒な
天井を。
······ 常さんの
目も、
齊しく
仰いで、
冷く
光つた。
「
寂しいつて、
別に
何でもないぢやないの。」
と
云つたものの、
兩方で、
机をずつて、ごそ/\と
火鉢に
噛着いて、ひつたりと
寄合はす。
炭は
黒いが、
今しがた
繼いだばかりで、
尉にも
成らず、
火氣の
立ちぎは。
其れよりも、
徹夜の
温習に、
何よりか
書入れな
夜半の
茶漬で
忘れられぬ、
大福めいた
餡餅を

つたなごりの、
餅網が、
侘しく
破蓮の
形で
疊に
飛んだ。
······御馳走は十二
時と
云ふと
早や
濟んで、
||一つは
二人とも
其がために
勇氣がないので。
······ 常さんは
耳の
白い
頬を
傾けて、
民也の
顏を
覘くやうにしながら、
「でも、
誰も
居ないんだもの
······君の
許の
二階は、
廣いのに、がらんとして
居る。
······」
「
病氣の
時はね、お
母さんが
寢て
居たんだよ。」
コツ/\、
炭を
火箸で
突いて
見たつけ、はつと
止めて、
目を
一つ
瞬いて、
「え、そして、
亡くなつた
時、
矢張、
二階。」
「うゝむ
······違ふ。」
とかぶりを
掉つて、
「
其處のね、
奧······」
「
小父さんだの、
寢て
居る
許かい。
······ぢや
可いや。」と
莞爾した。
「
弱蟲だなあ
······」
「でも、
小母さんは
病氣の
時寢て
居たかつて、
今は
誰も
居ないんぢやないか。」
と
觀世捩が
挫げた
體に、
元氣なく
話は
戻る
······「
常さんの
許だつて、あの、
廣い
座敷が、
風はすう/\
通つて、それで
人つ
子は
居ませんよ。」
「それでも
階下ばかりだもの。
||二階は
天井の
上だらう、
空に
近いんだからね、
高い
所には
何が
居るか
知れません。
······」
「
階下だつて
······君の
内でも、
此の
間、
僕が、あの
空間を
通つた
時、
吃驚したものがあつたぢやないか。」
「どんなものさ、」
「
床の
間に
鎧が
飾つてあつて、
便所へ
行く
時に
晃々光つた
······わツて、
然う
云つたのを
覺えて
居ないかい。」
「
臆病だね、
······鎧は
君、
可恐いものが
出たつて、あれを
着て
向つて
行けるんだぜ、
向つて、」
と
氣勢つて
肩を
突構へ。
「こんな、
寂しい
時の、
可恐いものにはね、
鎧なんか
着たつて
叶はないや
······向つて
行きや、
消つ
了ふんだもの
······此から
冬の
中頃に
成ると、
軒の
下へ
近く
來るつてさ、あの
雪女郎見たいなもんだから、」
「
然うかなあ、
······雪女郎つて
眞個にあるんだつてね。」
「
勿論だつさ。」
「
雨のびしよ/\
降る
時には、
油舐坊主だの、とうふ
買小僧だのつて
······あるだらう。」
「ある
······」
「
可厭だなあ。こんな、
霰の
降る
晩には
何にも
別にないだらうか。」
「
町の
中には
何にもないとさ。それでも、
人の
行かない
山寺だの、
峰の
堂だのの、
額の
繪がね、
霰がぱら/\と
降る
時、ぱちくり
瞬きをするんだつて
······」
「
嘘を
吐く
······」
と
其でも
常さんは
瞬きした。からりと
廂を
鳴らしたのは、
樋竹を
辷る、
落たまりの
霰らしい。
「うそなもんか、
其は
眞暗な
時······丁ど
今夜見たやうな
時なんだね。それから
······雲の
底にお
月樣が
眞蒼に
出て
居て、そして、
降る
事があるだらう
······さう
云ふ
時は、
八田潟の
鮒が
皆首を
出して
打たれるつて
云ふんです。」
「
痛からうなあ。」
「
其處が
化けるんだから、
······皆、
兜を
着て
居るさうだよ。」
「ぢや、
僕ン
許の
蓮池の
緋鯉なんか
何うするだらうね?」
其處には
小船も
浮べられる。が、
穴のやうな
眞暗な
場末の
裏町を
拔けて、
大川に
架けた、
近道の、ぐら/\と
搖れる
一錢橋と
云ふのを
渡つて、
土塀ばかりで
家の
疎な、
畠も
池も
所々、
侍町を
幾曲り、で、
突當りの
松の
樹の
中の
其の
邸に
行く、
······常さんの
家を
思ふにも、
恰も
此の
時、
二更の
鐘の
音、
幽。
町なかの
此處も
同じ、
一軒家の
思がある。
民也は
心も
其の
池へ、
目も
遙々と
成つて
恍惚しながら、
「
蒼い
鎧を
着るだらうと
思ふ。」
「
眞赤な
鰭へ。
凄い
月で、
紫色に
透通らうね。」
「
其處へ
玉のやうな
霰が
飛ぶんだ
······」
「そして、
八田潟の
鮒と
戰をしたら、
何方が
勝つ?
······」
「
然うだね、」
と
眞顏に
引込まれて、
「
緋鯉は
立派だから
大將だらうが、
鮒は
雜兵でも
數が
多いよ
······潟一杯なんだもの。」
「
蛙は
何方の
味方をする。」
「
君の
池の?」
「あゝ、」
「そりや
同じ
所に
住んでるから、
緋鯉に
屬くが
當前だけれどもね、
君が、よくお
飯粒で、
絲で
釣上げちや
投げるだらう。ブツと
咽喉を
膨らまして、ぐるりと
目を
圓くして
腹を
立つもの
······鮒の
味方に
成らうも
知れない。」
「あ、
又降るよ
······」
凄まじい
霰の
音、
八方から
亂打つや、
大屋根の
石もから/\と
轉げさうで、
雲の
渦く
影が
入つて、
洋燈の
笠が
暗く
成つた。
「
按摩の
笛が
聞えなくなつてから、
三度目だねえ。」
「
矢が
飛ぶ。」
「
彈が
走るんだね。」
「
緋鯉と
鮒とが
戰ふんだよ。」
「
紫の
池と、
黒い
潟で
······」
「
蔀を
一寸開けて
見ようか、」
と
魅せられた
體で、ト
立たうとした。
民也は
急に
慌しく、
「お
止し?
······」
「でも、
何だか
暗い
中で、ひら/\
眞黒なのに
交つて、
緋だか、
紫だか、
飛んで
居さうで、
面白いもの、」
「
面白くはないよ
······可恐いよ。」
「
何故?」
「だつて、
緋だの、
紫だの、
暗い
中に、
霰に
交つて
||それだと
電がして
居るやうだもの
······其の
蔀をこんな
時に
開けると、そりや
可恐いぜ。
さあ
······此から
海が
荒れるぞ、と
云ふ
前觸れに、
廂よりか
背の
高い、
大な
海坊主が、
海から
出て
來て、
町の
中を
歩行いて
居てね
······人が
覘くと、
蛇のやうに
腰を
曲げて、
其の
窓から
睨返して、よくも
見たな、よくも
見たな、と
云ふさうだから。」
「
嘘だ!
嘘ばつかり。」
「
眞個だよ、
霰だつて、
半分は、
其の
海坊主が
蹴上げて
來る、
波の
※[#「さんずい+散」、U+6F75、657-13]が
交つてるんだとさ。」
「へえ?」
と
常さんは
未だ
腑に
落ちないか、
立掛けた
膝を
落さなかつた
······ 霰は
屋根を
駈
る。
民也は
心に
恐怖のある
時、
其の
蔀を
開けさしたくなかつた。
母がまだ
存生の
時だつた。
······一夏、
日の
暮方から
凄じい
雷雨があつた
······電光絶間なく、
雨は
車軸を
流して、
荒金の
地の
車は、
轟きながら
奈落の
底に
沈むと
思ふ。
||雨宿りに
駈込んだ
知合の
男が
一人と、
内中、
此の
店に
居すくまつた。十
時を
過ぎた
頃、
一呼吸吐かせて、もの
音は
靜まつたが、
裾を
捲いて、
雷神を
乘せながら、
赤黒に
黄を
交へた
雲が
虚空へ、
舞ひ/\
上つて、
昇る
氣勢に、
雨が、さあと
小止みに
成る。
其の
喜びを
告さむため、
神棚に
燈火を
點じようとして
立つた
父が、
其のまゝ
色をかへて
立窘んだ。
ひい、と
泣いて
雲に
透る、
······あはれに、
悲しげな、
何とも
異樣な
聲が、
人々の
耳をも
胸をも
突貫いて
響いたのである。
笛を
吹く
······と
皆思つた。
笛もある
限り
悲哀を
籠めて、
呼吸の
續くだけ
長く、
且つ
細く
叫ぶらしい。
雷鳴に、
殆ど
聾ひなむとした
人々の
耳に、
驚破や、
天地一つの
聲。
誰も
其の
聲の
長さだけ、
氣を
閉ぢて
呼吸を
詰めたが、
引く
呼吸は
其の
聲の
一度止むまでは
續かなかつた。
皆戰いた。
ヒイと
尾を
微かに、
其の
聲が
切れた、と
思ふと、
雨がひたりと
止んで、
又二度めの
聲が
聞えた。
「
鳥か。」
「
否。」
「
何だらうの。」
祖母と、
父と、
其の
客と
言を
交はしたが、
其の
言葉も、
晃々と、
震へて
動いて、
目を
遮る
電光は
隙間を
射た。
「
近い。」
「
直き
其處だ。」
と
云ふ。
叫ぶ
聲は、
確かに
筋向ひの
二階家の、
軒下のあたりと
覺えた。
其が
三聲めに
成ると、
泣くやうな、
怨むやうな、
呻吟くやうな、
苦み

くかと
思ふ
意味が
明かに
籠つて
來て、
新らしく
又耳を
劈く
······「
見よう、」
年少くて
屈竟な
其の
客は、
身震ひして、すつくと
立つて、
内中で
止めるのも
肯かないで、タン、ド、ドン!と
其の、
其處の
蔀を
開けた。
||「
何、」
と
此處まで
話した
時、
常さんは
堅くなつて
火鉢を
掴んだ。
「
其の
時の
事を
思出すもの、
外に
何が
居ようも
知れない
時、
其の
蔀を
開けるのは。」
と
民也は
言ふ。
却説、
大雷の
後の
希有なる
悲鳴を
聞いた
夜、
客が
蔀を
開けようとした
時の
人々の
顏は
······年月を
長く
經ても
眼前見るやうな、いづれも
石を
以て
刻みなした
如きものであつた。
蔀を
上げると、
格子戸を
上へ
切つた
······其も
鳴るか、
簫の
笛の
如き
形した
窓のやうな
隙間があつて、
衝と
電光に
照される。
と
思ふと、
引緊めるやうな、
柔かな
母の
兩の
手が
強く
民也の
背に
掛つた。
既に
膝に
乘つて、
噛り
着いて
居た
小兒は、
其なり、
薄青い
襟を
分けて、
眞白な
胸の
中へ、
頬も
口も
揉込むと、
恍惚と
成つて、
最う
一度、ひよいと
母親の
腹の
内へ
安置され
終んぬで、トもんどりを
打つて
手足を
一つに
縮めた
處は、
瀧を
分けて、すとんと
別の
國へ
出た
趣がある、
······そして、
透通る
胸の、
暖かな、
鮮血の
美しさ。
眞紅の
花の
咲滿ちた、
雲の
白い
花園に、
朗らかな
月の
映るよ、と
其の
浴衣の
色を
見たのであつた。
が、
其の
時までの
可恐しさ。
||「
常さん、
今君が
蔀を
開けて、
何かが
覗いたつて、
僕は
潛込む
懷中がないんだもの
······」
簫の
窓から
覗いた
客は、
何も
見えなかつた、と
云ひながら、
眞蒼に
成つて
居た。
其の
夜から、
筋向うの
其の
土藏附の
二階家に、
一人氣が
違つた
婦があつたのである。
寂寞と
霰が
止む。
民也は、ふと
我に
返つたやうに
成つて、
「
去年、
母さんがなくなつたからね
······」
火桶の
面を
背けると、
机に
降込んだ
霰があつた。
ぢゆうと
火の
中にも
溶けた
音。
「
勉強しようね、
僕は
父さんがないんだよ。さあ、」
鮒が
兜を
着ると
云ふ。
······「
八田潟の
處を
讀まう。」
と
常さんは
机の
向うに
居直つた。
洋燈が、じい/\と
鳴る。
其の
時であつた。
二階の
階子壇の
一番上の
一壇目······と
思ふ
處へ、
欄間の
柱を
眞黒に、くツきりと
空にして、
袖を
欄干摺れに
······其の
時は、
濃いお
納戸と、
薄い
茶と、
左右に
兩方、
褄前を
揃へて
裾を
踏みくゞむやうにして、
圓髷と
島田の
對丈に、
面影白く、ふツと
立つた、
兩個の
見も
知らぬ
婦人がある。
ト
其の
色も
······薄いながら、
判然と
煤の
中に、
塵を
拂つてくつきりと
鮮麗な
姿が、
二人が
机に
向つた
横手、
疊數二
疊ばかり
隔てた
處に、
寒き
夜なれば、ぴつたり
閉めた
襖一
枚······臺所へ
續くだゞつ
廣い
板敷との
隔に
成る
······出入口の
扉があつて、むしや/\と
巖の
根に
蘭を
描いたが、
年數算するに
堪へず、で
深山の
色に
燻ぼつた、
引手の
傍に、
嬰兒の
掌の
形して、ふちのめくれた
穴が
開いた
||其の
穴から、
件の
板敷を、
向うの
反古張の
古壁へ
突當つて、ぎりゝと
曲つて、
直角に
菎蒻色の
干乾びた
階子壇······十ばかり、
遙かに
穴の
如くに
高い
其の
眞上。
即ち
襖の
破目を
透して、
一つ
突當つて、
折屈つた
上に、たとへば
月の
影に、
一刷彩つた
如く
見えたのである。
トンと
云ふ。
と
思ふと、トン/\トンと
輕い
柔かな
音に
連れて、
褄が
搖れ/\、
揃つた
裳が、
柳の
二枝靡くやう
······すら/\と
段を
下りた。
肩を
揃へて、
雛の
繪に
見る
······袖を
左右から
重ねた
中に、どちらの
手だらう、
手燭か、
臺か、
裸火の
蝋燭を
捧げて
居た。
蝋の
火は
白く
燃えた。
胸のあたりに
蒼味が
射す。
頬のかゝり
白々と、
中にも、
圓髷に
結つた
其の
細面の
氣高く
品の
可い
女性の、
縺れた
鬢の
露ばかり、
面窶れした
横顏を、
瞬きもしない
雙の
瞳に
宿した
途端に、スーと
下りて、
板の
間で、もの
優しく
肩が
動くと、
其の
蝋の
火が、
件の
繪襖の
穴を
覘く
······其の
火が、
洋燈の
心の
中へ、
※[#「火+發」、U+243CB、663-14]と
入つて、
一つに
成つたやうだつた。
やあ!
開けると
思ふ。
「きやツ、」
と
叫んで、
友達が、
前へ、
背後の
納戸へ
刎込んだ。
口も
利けず
······民也も
其の
身體へ
重なり
合つて、
父の
寢た
枕頭へ
突伏した。
こゝの
障子は、
幼いものの
夜更しを
守つて、
寒いに一
枚開けたまゝ、
霰の
中にも、
父と
祖母の
情の
夢は、
紙一重の
遮るさへなく、
机のあたりに
通つたのであつた。
父は
夢だ、と
云つて
笑つた、
······祖母もともに
起きて
出で、
火鉢の
上には、
再び
芳しい
香が
滿つる、
餅網がかゝつたのである。
茶の

えた
時、
眞夜中に
又霰が
來た。
後で、
常さんと
語合ふと
······二人の
見たのは、しかも
其が、
錦繪を
板に
合はせたやうに
同一かつたのである。
此が、
民也の、ともすれば、フト
出逢ふ、
二人の
姿の
最初であつた。
常さんの、
三日ばかり
學校を
休んだのは
然る
事ながら、
民也は、それが
夢でなくとも、
然まで
可恐いとも
可怪いとも
思はぬ。
敢て
思はぬ、と
云ふではないが、
恁うしたあやしみには、
其の
時分馴れて
居た。
毎夜の
如く、
内井戸の
釣瓶の、
人手を
借らず
鳴つたのも
聞く
······ 轆轤が
軋んで、ギイと
云ふと、キリ/\と
二つばかり
井戸繩の
擦合ふ
音して、
少須して、トンと
幽かに
水に
響く。
極つたやうに、
其のあとを、ちよき/\と
細かに
俎を
刻む
音。
時雨の
頃から
尚ほ
冴えて、ひとり
寢の
燈火を
消した
枕に
通ふ。
續いて、
臺所を、こと/\と
云ふ
跫音がして、
板の
間へ
掛る。
||此の
板の
間へ、
其の
時の
二人の
姿は
來たのであるが
||又······實際より、
寢て
居て
思ふ
板の
間の
廣い
事。
民也は
心に、
此を
板の
間ヶ
原だ、と
稱へた。
傳へ
言ふ
······孫右衞門と
名づけた
氣の
可い
小父さんが、
獨酌の
醉醒に、
我がねたを
首あげて
見る
寒さかな、と
來山張の
屏風越しに、
魂消た
首を
出して
覘いたと
聞く。
臺所の
豪傑儕、
座敷方の
僭上、
榮耀榮華に
憤を
發し、しや
討て、
緋縮緬小褄の
前を
奪取れとて、
竈將軍が
押取つた
柄杓の
采配、
火吹竹の
貝を
吹いて、
鍋釜の
鎧武者が、のん/\のん/\と
押出したとある
······板の
間ヶ
原や、
古戰場。
襖一重は
一騎打で、
座敷方では
切所を
防いだ、
其處の
一段低いのも
面白い。
ト
其の
氣で、
頬杖をつく
民也に
取つては、
寢床から
見る
其の
板の
間は、
遙々としたものであつた。
跫音は
其處を
通つて、
一寸止んで、やがて、トン/\と
壇を
上る、と
高い
空で、すらりと
響く
襖の
開く
音。
「あゝ、
二階のお
婆さんだ。」
と、
熟と
耳を
澄ますと、
少時して、
「えゝん。」
と
云ふ
咳。
「
今度は
二階のお
爺さん。」
此の
二人は、
母の
父母で、
同家に
二階住居で、
睦じく
暮したが、
民也のもの
心を
覺えて
後、
母に
先だつて、
前後して
亡くなられた
······ 其の
人たちを、こゝにあるもののやうに、あらぬ
跫音を
考へて、
咳を
聞く
耳には、
人氣勢のない
二階から、
手燭して、する/\と
壇を
下りた
二人の
姿を、
然まで
可恐いとは
思はなかつた。
却つて、
日を
經るに
從つて、
物語を
聞きさした
如く、
床しく、
可懷しく、
身に
染みるやうに
成つたのである。
······ 霰が
降れば
思が
凝る。
······ 然うした
折よ、もう
時雨の
頃から、
其の一二
年は
約束のやうに、
井戸の
響、
板の
間の
跫音、
人なき
二階の
襖の
開くのを
聞馴れたが、
婦の
姿は、
當時又多日の
間見えなかつた。
白菊の
咲く
頃、
大屋根へ
出て、
棟瓦をひらりと
跨いで、
高く、
高く、
雲の
白きが、
微に
動いて、
瑠璃色に
澄渡つた
空を
仰ぐ
時は、あの、
夕立の
夜を
思出す
······そして、
美しく
清らかな
母の
懷にある
幼兒の
身にあこがれた。
此の
屋根と
相向つて、
眞蒼な
流を
隔てた
薄紫の
山がある。
醫王山。
頂を
虚空に
連ねて、
雪の
白銀の
光を
放つて、
遮る
樹立の
影もないのは、
名にし
負ふ
白山である。
やゝ
低く、
山の
腰に
其の
流を
繞らして、
萌黄まじりの
朱の
袖を、
俤の
如く
宿したのは、つい、まのあたり
近い
峰、
向山と
人は
呼ぶ。
其の
裾を
長く
曳いた
蔭に、
圓い
姿見の
如く、
八田潟の
波、
一所の
水が
澄む。
島かと
思ふ
白帆に
離れて、
山の
端の
岬の
形、につと
出た
端に、
鶴の
背に、
緑の
被衣させた
風情の
松がある。
遙かに
望んでも、
其の
枝の
下は、
一筵、
掃清めたか、と
塵も
留めぬ。
あゝ
山の
中に
葬つた、
母のおくつきは
彼處に
近い。
其の
松の
蔭に、
其の
後、
時々二人して
佇むやうに、
民也は
思つた、が、
母には
然うした
女のつれはなかつたのである。
月の
冴ゆる
夜は、
峰に
向つた
二階の
縁の
四枚の
障子に、それか、あらぬか、
松影射しぬ
······戸袋かけて
床の
間へ。
······ また
前に
言つた、もの
凄い
暗い
夜も、
年經て、なつかしい
人を
思へば、
降積る
霰も、
白菊。
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#···]」の形で示しました。
「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA | | 648-5、648-5、648-8 |
「さんずい+散」、U+6F75 | | 657-13 |
「火+發」、U+243CB | | 663-14 |