「あゝもし、
一寸。」
「は、
私······でございますか。」
電車を
赤十字病院下で
下りて、
向うへ
大溝について、
岬なりに
路を
畝つて、あれから
病院へ
行くのに
坂がある。あの
坂の
上り
口の
所で、
上から
來た
男が、
上つて
行く
中年増の
媚かしいのと
行違つて、
上と
下へ五六
歩離れた
所で、
男が
聲を
掛けると、
其の
媚かしいのは
直ぐに
聞取つて、
嬌娜に
振返つた。
兩方の
間には、
袖を
結んで
絡ひつくやうに、ほんのりと
得ならぬ
薫が
漾ふ。
······婦は、
薄色縮緬の
紋着の
單羽織を、
細り、
痩ぎすな
撫肩にすらりと
着た、
肱に
掛けて、
濃い
桔梗色の
風呂敷包を
一ツ
持つた。
其の
四ツの
端を
柔かに
結んだ
中から、
大輪の
杜若の
花の
覗くも
風情で、
緋牡丹も、
白百合も、
透きつる
色を
競うて
映る。
······盛花の
籠らしい。いづれ
病院[#ルビの「びやうゐん」は底本では「びやうろん」]へ
見舞の
品であらう。
路をしたうて
來た
蝶は
居ないが、
誘ふ
袂に
色香が
時めく。
······ 輕い
裾の、すら/\と
蹴出にかへると
同じ
色の
洋傘を、
日中、
此の
日の
當るのに、
翳しはしないで、
片影を
土手に
從いて、しと/\と
手に
取つたは、
見るさへ
帶腰も
弱々しいので、
坂道に
得堪へぬらしい、なよ/\とした
風情である。
「
貴女、」
と
呼んで、ト
引返した、
鳥打を
被つた
男は、
高足駄で、
杖を
支いた
妙な
誂へ。
路は
恁う
乾いたのに、
其の
爪皮の
泥でも
知れる、
雨あがりの
朝早く
泥濘の
中を
出て
來たらしい。
······雲の
暑いのにカラ/\
歩行きで、
些と
汗ばんだ
顏で
居る。
「
唐突にお
呼び
申して
失禮ですが、」
「はい。」
と
一文字の
眉はきりゝとしながら、
清しい
目で
優しく
見越す。
「
此から
何方へ
行らつしやる?
······何、
病院へお
見舞のやうにお
見受け
申します。
······失禮ですが、」
「えゝ、
然うなんでございます。」
此處で
瞻つたのを、
輕く
見迎へて、
一ツ
莞爾して、
「
否、お
知己でも、お
見知越のものでもありません。
眞個唯今行違ひましたばかり
······ですから
失禮なんですけれども。」
と
云つて、づツと
寄つた。
「
別に
何でもありませんが、
一寸御注意までに
申さうと
思つて、
今ね、
貴女が
行らつしやらうと
云ふ
病院の
途中ですがね。」
「はあ、
······」と、
聞くのに
氣の
入つた
婦の
顏は、
途中が
不意に
川に
成つたかと
思ふ、
涼しけれども
五月半ばの
太陽の
下に、
偶と
寂しい
影が
映した。
男は、
自分の
口から
言出した
事で、
思ひも
掛けぬ
心配をさせるのを
氣の
毒さうに、
半ば
打消す
口吻で、
「
······餘り
唐突で、
變にお
思ひでせう。
何も
御心配な
事ぢやありません。」
「
何でございます、まあ、」と
立停つて
居たのが、
二ツばかり
薄彩色の
裾捌で、
手にした
籠の
花の
影が、
袖から
白い
膚へ
颯と
透通るかと
見えて、
小戻りして、ト
斜めに
向合ふ。
「をかしな
奴が
一人、
此方側の
土塀の
前に、
砂利の
上に
踞みましてね、
通るものを
待構へて
居るんです。」
「えゝ、をかしな
奴が、
||待構へて
||あの
婦をですか。」
「
否、
御婦人に
限つた
事はありますまいとも。
······現に
私が
迷惑をしたんですから
······誰だつて
見境はないんでせう。
其奴が
砂利を
掴んで
滅茶々々擲附けるんです。」
「
可厭ですねえ。」
と
口を
結んで
前途を
見遣つた、
眉が
顰んで、
婦は
洋傘を
持直す。
「
胸だの、
腕だの、
二ツ
三ツは、
危く
頬邊を、」
と
手を
當てたが、
近々と
見合せた、
麗な
瞳の
楯にも
成れとか。
「
私は
見舞に
行つた
歸途です。」
と
男は
口早に
言ひ
續けて、
「
往には、
何にも、そんな
奴は
居なかつたんです。
尤も
大勢人通りがありましたから
氣が
附かなかつたかも
知れません。
還は
最う
病院の
彼方かどを、
此方へ
曲ると、
其奴の
姿がぽつねんとして
一ツ。
其が、
此の
上の、ずんどに、だゞつ
廣い
昔の
大手前と
云つた
通へ、
赫と
日が
當つて、
恁うやつて
蔭もない。」
と
雲を
仰ぐと、
鳥を
見るやうに
婦も
見上げた。
「
泥濘を
捏返したのが、
其のまゝ
乾び
着いて、
火の
海の
荒磯と
云つた
處に、
硫黄に
腰を
掛けて、
暑苦しい
黒い
形で
踞んで
居るんですが。
何心なく、
眩がつて、すツとぼ/\、
御覽の
通り
高足駄で
歩行いて
來ると、ばらり/\、カチリてツちや
砂利を
投げてるのが、
離れた
所からも
分りましたよ。
中途で
落ちるのは、
屆かないので。
其の
砂利が、
病院の
裏門の、あの
日中も
陰氣な、
枯野へ
日が
沈むと
云つた、
寂しい
赤い
土塀へ、トン
······と
······間を
措いては、トーンと
當るんです。
何ですかね、
島流しにでも
逢つて、
心の
遣場のなさに、
砂利を
掴んで
海へ
投込んででも
居るやうな、
心細い、
可哀な
風に
見えて、
其が
病院の
土塀を
狙つてるんですから、あゝ、
氣の
毒だ。
······ 年紀は
少し
······許嫁か、
何か、
身に
替へて
思ふ
人でも、
入院して
居て、
療治が
屆かなかつた
所から、
無理とは
知つても、
世間には
愚癡から
起る、
人怨み。よくある
習で
||醫師の
手ぬかり、
看護婦の
不深切。
何でも
病院の
越度と
思つて、
其が
口惜しさに、もの
狂はしく
大な
建ものを
呪詛つて
居るんだらう。
······ と
私は
然う
思ひました。
最うね、
一目見て、
其の
男のいくらか
氣が
變だ、と
云ふ
事は、
顏色で
分りましたつけ。
······目の
縁が
蒼くつて、
色は
赤ツ
茶けたのに、
厚い
唇が
乾いて、だらりと
開いて、
舌を
出しさうに
喘ぎ/\
||下司な
人相ですよ
||髮の
長いのが、
帽子の
下から
眉の
上へ、ばさ/\に
被さつて、そして
目が
血走つて
居るんですから。
······」
「
矢張り、
病院を
怨んで
居るんですかねえ、
誰かが
亡く
成つてさ、
貴方。」
と
見舞の
途中で
氣に
成つてか、
婦は
恁う
聞いて
俯向いた。
「まあ、
然うらしく
思ふんです。」
「
氣の
毒ですわね。」
と
顏を
上げる。
「
雖然、
驚くぢやありませんか。
突然、ばら/\と
擲附つたんですからね。
何をする
······も
何にもありはしない。
狂人だつて
事は
初手から
知れて
居るんですから。
||頬邊は、
可い
鹽梅に
掠つたばかりなんですけれども、ぴしり/\
酷いのが
來ましたよ。
又うまいんだ、
貴女、
其の
石を
投げる
手際が。
面啖つて、へどもどしながら、そんな
中でも
其でも、
何の
拍子だか、
髮の
長い
工合と
云ひ、
股の
締らないだらけた
風が、
朝鮮か
支那の
留學生か
知ら。
······おや、と
思ふと、ばら/\と
又投附けながら、
······ ||畜生、
畜生||と
口惜しさうに
喚く
調子が、
立派に
同一先祖らしい、お
互の。」
とフト
苦笑した。
「それから
本音を
吐きました。
||畜生、
婦、
畜生|| 大變だ。
色情狂。いや、
婦に
怨恨のある
奴だ
······ と
······何しろ
酷い
目に
逢つて
遁げたんです。
唯た
今の
事なんです。
漸と
此處まで
來て、
別に
追掛けては
來ませんでした
||袖なんか
拂つて、
飛んだ
目に
逢ふものだ、と
然う
思ひましてね、
汗を
拭いて、
此の
何です、
坂を
下りようとすると、
下から、ぞろ/\と十四五
人、いろの
袴と、リボンで、
一組總出と
云つたらしい
女學生、十五六から
二十ぐらゐなのが
揃つて
來ました。
······」
「
其の
中に、
一人、でつぷりと
太つた、
肉づきの
可い、
西洋人のお
媼さんの、
黒い
服を
裾長に
練るのが
居ました。
何處か
宗教の
學校らしい。
今時分、こんな
處へ、
運動會ではありますまい。
矢張り
見舞か、それとも
死體を
引取に
行くか、どつち
道、
頼もしさうなのは、
其お
媼さんの、
晃乎と
胸に
架けた、
金屬製の
十字架で。
|| ずらりと
女學生たちを
從へて、
頬と
頤をだぶ/″\、
白髮の
渦を
卷かせて、
恁う
反身に
出て
來た
所が、
何ですかね
私には、
彼處に
居る、
其の
狂人を、
救助船で
濟度に
顯れたやうに
見えたんです。
が、
矢張り
石を
投げるか、
何うか、
頻に
樣子が
見たく
成つたもんですからね。
御苦勞樣な
坂の
下口で
暫時立つて
居て、
遣過ごしたのを、
後からついて
上つて、
其處へ
立つて
視めたもんです。
船で
行くやうに
其の
連中、
大手の
眞中を
洋傘の
五色の
波で
通りました。
氣がかりな
雲は、
其の
黒い
影で、
晴天にむら/\と
湧いたと
思ふと、
颶風だ。
貴女。
······誰もお
媼さんの
御馬前に
討死する
約束は
豫て
無いらしい。
我勝ち、
鳥が
飛ぶやうに、ばら/\
散ると、さすがは
救世主のお
乳母さん、のさつと
太陽の
下に
一人堆く
黒い
服で
突立つて、
其の
狂人と
向合つて
屈みましたつけが、
叶はなく
成つたと
見えて、
根を
拔いてストンと
貴女、
靴の
裏を
飜して
遁げた、
遁げると
成ると
疾い
事!
······卷狩へ
出る
猪ですな、
踏留まつた
學生を
突退けて、
眞暗三寶に
眞先へ
素飛びました。
それは
可笑いくらゐでした。が、
狂人は、と
見ると、もとの
所へ、
其のまゝ
踞み
込んで、
遁げたのが
曲り
角で二三
人見返つて
見えなくなる
時分には、
又······カチリ、ばら/\。
寂然した
日中の
硫黄ヶ
島に
陰氣な
音響。
通りものでもするらしい、
人足が
麻布の
空まで
途絶えて
居る
······ 所へ、
貴女がおいでなすつたのに、
恁うしてお
出合ひ
申したんです。
知りもしないものが、
突然お
驚かせ
申して、
御迷惑の
所はお
許し
下さい。
私だつて、
御覽の
通り、
別に
怪我もせず
無事なんですから、
故々お
話しをする
程でもないのかも
知れませんが、でも、
氣を
附けて
行らつしやる
方が
可からうと
思つたからです。
······失禮しましたね。」
と
最う、
氣咎めがするらしく、
急に
別構へに、
鳥打に
手を
掛ける。
「
何とも、
御しんせつに
······眞個に
私、」
と
胴をゆら/\と
身動きしたが、
端なき
風情は
見えず、
人の
情を
汲入れた、
優しい
風采。
「
貴方、
何うしたら
可いでせうね、
私······」
「
成りたけ
遠く
離れて、
向う
側をお
通んなさい。
何なら
豫め
其の
用心で、
丁ど
恁うして
人通りはなし
||構はず
駈出したら
可いでせう
······」
「
私、
駈けられませんの。」
と
心細さうに、なよやかな
其の
肩を
見た。
「
苦しくつて。」
「
成程、
駈けられますまいな。」
と
帽の
庇を
壓へたまゝ
云つた。
「
持ものはおあんなさるし
······では、
恁うなさると
可い。
······日當りに
御難儀でも
暫時此處においでなすつて、二三
人、
誰か
來るのを
待合はせて、それとなく
一所に
行らしつたら
可いでせう。
······」
と
云ひ
掛けて、
極めて
計略の
平凡なのに、
我ながら
男は
氣の
毒らしかつた。
「
何だか、
昔の
道中に、
山犬が
出たと
云う
時のやうですが。」
「
否、
山犬ならまだしもでございます
······そんな
人······氣味の
惡い、
私、
何うしませう。」
と
困じた
状して、
白い
緒の
駒下駄の、
爪尖をコト/\と
刻む
洋傘の
柄の
尖が、
震へるばかり、
身うちに
傳うて
花も
搖れる。
此の
華奢なのを、あの
唇の
厚い、
大なべろりとした
口だと
縱に
銜へて
呑み
兼ねまい。
「ですから、
矢張り
人通りをお
待合はせなさるが
可い。
何、
圖々しく、
私が、お
送り
申しませう、と
云ひかねもしませんが、
實は、
然う
云つた、
狂人ですから、
二人で
連立つて
參つたんぢや、
尚ほ
荒立てさせるやうなものですからね。
······」
婦は
分別に
伏せた
胸を、すつと
伸ばす
状に
立直る。
「
丁ど
可い
鹽梅に、
貴下がお
逢ひなさいましたやうな、
大勢の
御婦人づれでも
來合はせて
下されば
可うございますけれどもねえ
······でないと
······畜生······だの
||阿魔||だのツて
······何ですか、
婦に
怨恨、」
と
言ひかけて
||最う
足も
背もずらして
居る
高足駄を
||ものを
言ふ
目で、
密と
引留めて、
「
貴方、
······然う
仰有いましたんですねえ。」
「
當推ですがね。」
「でも
何だか、そんな
口を
利くやうですと。
······あの、どんな、
一寸どんな
風な
男でせう?」
「
然うですね、
年少な
田舍の
大盡が、
相場に
掛つて
失敗でもしたか、
婦に
引掛つて
酷く
費消過ぎた
······とでも
云ふのかと
見える
樣子です。
暑くるしいね、
絣の、
大島か
何かでせう、
襟垢の
着いた
袷に、
白縮緬の
兵子帶を
腸のやうに
卷いて、
近頃誰も
着て
居ます、
鐵無地の
羽織を
着て、
此の
温氣に、めりやすの
襯衣です。そして、
大開けに
成つた
足に、ずぼんを
穿いて、
薄い
鶸茶と
云ふ
絹の、
手巾も
念入な
奴を、あぶらぎつた、じと/\した
首、
玉突の
給仕のネクタイと
云ふ
風に、ぶらりと
結んで、
表の
摺切れた
嵩高な
下駄に、
兀げた
紺足袋を
穿いて
居ます。」
「それは/\
······」
と
輕く
言ふ
······瞼がふつくりと
成つて、
異つた
意味の
笑顏を
見せた、と
同時に
著しく
眉を
寄せた。
「そして、
塀際に
居ますんですね
······踞んで、」
「えゝ、
此方の。」
と
横に
杖で
指した、
男は
又やゝ
坂を
下へ
離れたのである。
「
此方の。
······」
と
婦も
見返つたまゝ、
坂を
上へ、
白い
足袋の
尖が、
褄を
洩れつつ、
「
上り
角から
見えますか。」
「
見えますとも、
乾溝の
背後がずらりと
垣根で、
半分折れた
松の
樹の
大な
根が
這出して
居ます。
其前に、
束ねた
黒土から
蒸氣の
立つやうな
形で
居るんですよ。」
「
可厭な、
土蜘蛛見たやうな。」
と
裳をすらりと
駒下駄を
踏代へて
向直ると、
半ば
向うむきに、すつとした
襟足で、
毛筋の
通つた
水髮の
鬢の
艶。と
拔けさうな
細い
黄金脚の、
淺黄の
翡翠に
照映えて
尚ほ
白い
······横顏で
見返つた。
「
貴方、
後生ですから。ねえ、
後生ですから、
其處に
居て
下さいましよ、
屹とよ
······」
と一
度見て、ちらりと
瞳を
反らしたと
思ふと、
身輕にすら/\と
出た。
上り
口の
電信の
柱を
楯に、
肩を
曲つて、
洋傘の
手を
柱に
縋つて、
頸をしなやかに、
柔かな
髢を
落して、
······帶の
模樣の
颯と
透く
······羽織の
腰を
撓めながら、
忙さうに、
且つ
凝と
覗いたが、
岬にかくれて
星も
知らぬ
可恐い
海を
窺ふ
風情に
見えた。
男は
立つて
動けなかつた。
と
慌しく
肩を
引くと、
「おゝ、
可厭だ。」
と
袖も
裳も、
花の
色が
颯と
白けた。ぶる/\と
震へて、
衝と
退る。
「
何うしました。」と
男は
戻つた。
「まあ
······堪らない。
貴方、
此方を
見て
居ます
······お
日樣に
向いた
所爲か、
爛れて
剥けたやうに
眞赤に
成つて
······」
今さらの
事ではない。
「
勿論目も
血走つて
居ますから、」
と
杖を
扱ひながら、
「
矢張り
石を
投げて
居ましたか。」
「
何ですか
恁うやつて、」
と
云つた
時、
其の
洋傘を
花籠の
手に
持添へて、トあらためて、
眞白な
腕を
擧げた。
「
石を
投げるんでせうか、
其が、あの
此方を
招くやうに
見えたんですもの。
何うしたら
可いでせう。」
と
蓮葉な
手首を
淑ましげに、
袖を
投げて
袂を
掛けると、
手巾をはらりと
取る。
······ 婦は
輕く
吐息して、
「
止しませう
······最う
私、
行かないで
置きますわ。」と
正面に
男を
見て、
早や
坂の
上を
背にしたのである。
「
病院へ、」
「はあ、」
「
其奴は
困りましたな。」
男は
實際當惑したらしかつた。
「いや、
其は
私が
弱りました。
知らずにおいでなされば
何の
事はないものを。」
「あら、
貴方、
何の
事はない
······どころなもんですか。
澤山ですわ。
私は
最う
······」
「
否、
雖然、
不意だつたら、お
遁げなすつても
濟んだんでせう。お
怪我ほどもなかつたんでせうのに。」
「
隨分でござんすのね。」
と
皓齒が
見えて、
口許の
婀娜たる
微笑。
······行かないと
心が
極まると、さらりと
屈託の
拔けた
状で、
「
前を
通り
拔けるばかりで、
身體が
窘みます。
歩行けなく
成つた
所を、
掴つたら
何うしませう
······私死んで
了ひますよ
······婦は
弱いものですねえ。」
と
持つた
手巾の
裏透くばかり、
唇を
輕く
壓へて
伏目に
成つたが、
「
石を
其處へ
打たれましたら、どんなでせう。
電でも
投附けられるやうでせう。
······最う
私、
此處へ
兵隊さんの
行列が
來て、
其の
背後から
參るのだつて
可厭な
事でございます
||歸りますわ。」
と
更めて
判然言つた。
「しかし、
折角、
御遠方からぢやありませんか。」
「
築地の
方から、
······貴方は?」
「
······芝の
方へ、」
と
云つたが、
何故か、うろ/\と
四邊を
見た。
「
同じ
電車でござんすのね。」
「
然やう
······」
と
大きにためらふ
體で、
「ですが、
行らつしやらないでも
可いんですか。お
約束でもあつたんだと
||何うにか
出來さうなものですがね、
||又不思議に
人足が
途絶えましたな。こんな
事つてない
筈です。」
雲は
所々墨が
染んだ、
日の
照は
又赫と
強い。が、
何となく
濕を
帶びて
重かつた。
「
構ひません、
毎日のやうに
參るんですから
······まあ、
賑かな
所ですのに
······魔日つて
言ふんでせう、こんな
事があるものです。おや、
尚ほ
氣味が
惡い、
······さあ、
參りませう。」
とフト
思出したやうに
花籠を、ト
伏目で
見た、
頬に
菖蒲が
影さすばかり。
「
一寸、お
待ち
下さいましよ。
······折角持つて
參つたんですから、
氣ばかり、
記念に。
······」
で、
男は
手を
出さうとして、
引込めた。
||婦が
口で、
其の
風呂敷の
桔梗色なのを
解いたから。
百合は、
薔薇は、
撫子は
露も
輝くばかりに
見えたが、それよりも
其の
唇は、
此の
時、
鐵漿を
含んだか、と
影さして、
言はれぬ
媚かしいものであつた。
花片を
憐るよ、
蝶の
翼で
撫づるかと、はら/\と
絹の
手巾、
輕く
拂つて、
其の一
輪の
薔薇を
抽くと、
重いやうに
手が
撓つて、
背を
捻ぢさまに、
衝と
上へ、
||坂の
上へ、
通りの
端へ、
||花の
眞紅なのが、
燃ゆる
不知火、めらりと
飛んで、
其の
荒海に
漾ふ
風情に、
日向の
大地に
落ちたのである。
菖蒲は
取つて、
足許に
投げた、
薄紫が
足袋を
染める。
「や、
惜い、
貴女。」
「
否、
志です
······病人が
夢に
見てくれますでせう。
······もし、
恐入りますが、」
花の、
然うして、
二本ばかり
抽かれたあとを、
男は
籠のまゝ、
撫子も、
百合も
胸に
滿つるばかり
預けられた。
其の
間に、
風呂敷は、
手早く
疊んで
袂へ
入れて、
婦は
背後のものを
遮るやうに、
洋傘をすつと
翳す。と
此の
影が、
又籠の
花に
薄り
色を
添へつつ
映る。
······日を
隔てたカアテンの
裡なる
白晝に、
花園の
夢見る
如き、
男の
顏を
凝と
見て、
「
恐入りました。
何うぞ
此方へ。
貴方、
御一所に、
後生ですから。
······背後から
追掛けて
來るやうで
成らないんですもの。」
「では、
御一所に。」
「まあ、
嬉しい。」
と
莞爾して、
風に
亂れる
花片も、
露を
散らさぬ
身繕。
帶を
壓へたパチン
留を
輕く
一つトンと
當てた。
「あつ。」
と
思はず
······男は
驚駭の
目を

つた。
······と
其の
帶に
挾んで、
胸先に
乳をおさへた
美女の
蕊かと
見える
······下〆のほのめく
中に、
状袋の
端が
見えた、
手紙が一
通。
「あゝ
······」と
其の
途端に、
婦も
心附いたらしく、
其の
手紙に
手を
掛けて、
「
······拾つたんですよ。
此の
手紙は、」
「え、」
と、
聲も
出ないまで、
舌も
乾いたか、
息せはしく、
男は
慌しく、
懷中へ
手を
突込んだが、
顏の
色は
血が
褪せて
颯と
變つた。
「
見せて
下さい、
一寸、
何うぞ、
一寸、
何うぞ。」
「さあ/\。
······」
と
如何にも
氣易く、わけの
無ささうに、
手巾を
口に
取りながら、
指環の
玉の
光澤を
添へて
美しく
手紙を
抽いて
渡す。
此の
封は
切れて
居た。
······「あゝ、
此だ。」
歩行いて
居た
足も
留るまで、
落膽氣落がしたらしい。
「
難有かつた、
難有かつた
······よく、
貴女、」
と、もの
珍らしげに
瞻つたのは、
故と
拾ふために、
世に、
此處に
顯れた
美しい
人とも
思つたらう。
······「よく、
拾つて
下すつた。」
「まあ、
嬉しい
事、」
と
仇氣ないまで、
婦もともに
嬉々して、
「
思ひ
掛けなくおために
成つて
······一寸、
嬉しい
事よ
私は。
······矢張何事も
心は
通じますのですわね。」と
撫子を
又路傍へ。
忘れて
咲いたか、と
小草にこぼれる。
······「
何處でお
拾ひ
下すつた。」
「
直き
其處で。
最う
其處へ
參りますわ、
坂の
下です。
······今しがた
貴方にお
目に
掛ります、
一寸前。
何ですか、フツと
打棄つて
置けない
氣がしましたから。
······それも
殿方のだと、
何ですけれど、
優しい
御婦人のお
書でしたから
拾ひました。
尤も、あの、にせて
殿方のてのやうに
書いてはありますけれど、
其は
一目見れば
分りますわ。」
と
莞爾。で、
斜めに
見る
······ 男は
悚然としたやうだつた。
「
中を
見やしませんか。」と
聲が
沈む。
「
否。」
「
大切な
事なんですから。もしか
御覽なすつたら、
構ひません、
||言つて
下さい、
見たと、
貴女、
見たと
······構はないから
言つて
下さい。」
と
煩かしい
顏をする。
「
見ますもんですか、」と
故とらしいが、つんとした、
目許の
他は、
尚ほ
美しい。
「いや、
此は
惡かつた。まあ、
更めて、
更めて
御禮を
申します。
······實際、
此の
手紙を
遺失したと
氣が
附かなかつた
中に、
貴女の
手から
戻つたのは、
何とも
言ひやうのない
幸福なんです。
······たとひ、
恁して、
貴女が
拾つて
下さるのが、
丁と
極つた
運命で、
當人其を
知つて
居て、
芝居をする
氣で、
唯遺失したと
思ふだけの
事をして
見ろ、と
言はれても、
可厭です。
金輪際出來ません。
洒落に
遺失したと
思ふのさへ、
其のくらゐなんですもの。
實際遺失して、
遺失した、と
知つて
御覽なさい。
搜さう、
尋ねようと
思ふ
前に、
土塀に
踞んで
砂利所か、
石垣でも
引拔いて、
四邊八方投附けるかも
分らなかつたんです。
······ 思つても
悚然とする。
|| 動悸が
分りませう、
手の
震へるのを
御覽なさい、
杖にも
恥かしい。
其を
||時計の
針が
一つ
打つて、あとへ
續くほどの
心配もさせないで、あつと
思ふと、
直ぐに
拾つて
置いて
下すつたのが
分つた。
御恩を
忘れない、
實際忘れません。」
「まあ、そんなに
御大切なものなんですか
······」
「ですから、
其ですから、
失禮だけれどもお
聞き
申すんです。」
「
大丈夫、
中を
見はしませんよ。」
と
帶も
薄くて
樂なもの。
······「
決して、」
と
又聲に
力を
入れた。
男は
立淀むまで
歩行くのも
遲く
成つて、
「
貴女をお
疑ひ
申すんぢやない。もと/\
封の
切れて
居る
手紙ですから、たとひ
御覽に
成つたにしろ、
其を
兎や
角う
言ふのぢやありません。が、
又それだと
其のつもりで、どんなにしても、
貴女に、
更めてお
願ひ
申さなければ
成らない
事もあるんですから。
······」
「
他言しては
不可い、
極の
祕密に、と
言ふやうな
事なんですわね。」
と
澄して
言ふ。
益々忙つて、
「ですから
眞個の
事を
云つて
下さい、
見たなら
見たと、
······頼むんですから。」
「
否、
見はいたしませんもの、ですがね。
旗野さん、」
と
婦は
不意に
姓を
呼んだ。
「
············」
又ひやりとした、
旗野は、
名を
禮吉と
云ふ、
美術學校出身の
蒔繪師である。
呆氣に
取られて
瞻るのを、
優しい
洋傘の
影から、
打傾いて
流眄で、
「お
手紙の
上書で
覺えましたの
······下郎は
口のさがないもんですわね。」と
又微笑す。
禮吉は
得も
言はれず、
苦しげな
笑を
浮べて、
「お
人が
惡いな。」
とあきらめたやうに
言つたが、
又其處どころでは
無ささうな、
聲も

つて、
「
眞個に
言つて
下さい。
唯今も
言ひましたやうに、
遺失すのを、
何だつてそんなに
心配します。たゞ
人に
知れるのが
可恐いんでせう。
······何、
私は
構はない。
私の
身體は
構はないが、もしか、
世間に
知れるやうな
事があると、
先方の
人が
大變なんです。
恁うやつて、
奴凧が
足駄を
穿いて
澁谷へ
落ちたやうに、ふらついて
居るのも、
詰り
此手紙のためで、
······其も
中の
文句の
用ではありません
||ふみがらの
始末なんです。
一體は、すぐにも
燒いて
了ふ
筈なんですが、
生憎、
何處の
停車場にも
暖爐の
無い
時分、
茶屋小屋の
火鉢で
香はすと、
裂いた
一端も
燒切らないうちに、
嗅ぎつけられて、
怪しまれて、それが
因で
事の
破滅に
成りさうで、
危險で
不可い。
自分の
家で、と
云へば
猶更です
······書いてある
事柄が
事柄だけに、すぐにも
燃えさしが
火に
成つて、
天井裏に
拔けさうで
可恐い。
隱して
置くにも、
何の
中も、どんな
箱も
安心ならず
······鎖をさせば、
此處に
大事が
藏つてあると
吹聽するも
同一に
成ります。
昨日の
晩方、
受取つてから
以來、
此を
跡方もなしに
形を
消すのに
屈託して、
昨夜は
一目も
眠りません。
······此處へ
來ます
途中でも、
出して
手に
持てば
人が
見る
······袂の
中で
兩手で
裂けば、
裂けたのが
一層、
一片でも
世間へ
散つて
出さうでせう。
水へ
流せば
何處を
潛つて
||池があります
||此の
人の
住居へ
流れて
出て、
中でも
祕さなければ
成らないものの
目に
留まりさうで
身體が
震へる。
身に
附けて
居れば
遺失しさうだ、
||と
云つて、
袖でも、
袂でも、
恁う、うか/\だと
掏られも
仕兼ねない。
······ ······其の
憂慮さに、
||懷中で、
確乎手を
掛けて
居ただけに、
御覽なさい。
何かに
氣が
紛れて、ふと
心をとられた
一寸一分の
間に、うつかり
遺失したぢやありませんか。
此で
思ふと
······石を
投げた
狂人と
云ふのも、
女學生を
連れた
黒い
媼さんの
行列も、
獸のやうに、
鳥のやうに、
散つた、
駈けたと
云ふ
中に、
其が
皆、
此の
手紙を
處置するための
魔性の
變化かも
知れないと
思ふんです。
いや、
然う
云ふ
間もない、
彼處に
立つてる、
貴女とお
話をするうちは、
實際、
胴忘れに
手紙のことを
忘れて
居ました。
······ 貴女······氣障でせうが、
見惚れたらしい。さあ、
恁うまで
恥も
外聞も
忘れて、
手を
下げます
······次第によつては
又打明けて、
其の
上に、あらためてお
頼み
爲やうもありませうから、なかの
文句を
見たなら
見たと
云つた
聞かして
下さい。
願ひます、
嘆願するから
······」
「
拜見しましたよ。」
とすつきり
言つた。
「えゝ!」
瞳も
据らず、
血の
褪せた
男の
顏を、
水晶の
溶けたる
如き
瞳に
艶を
籠めて
凝と
視ると、
忘れた
状に
下まぶち、
然り
氣なく
密と
當てた、
手巾に
露が
掛かつた
[#「掛かつた」はママ]。
「あゝ、
先方の
方がお
羨しい。そんなに
御苦勞なさるんですか。」
「
其の
人が、
飛んだことに
成りますから。」
「だつて、
何の
企謀を
遊ばすんではなし、
主のある
方だと
云つて、たゞ
夜半忍んでお
逢ひなさいます、
其のあの、
垣根の
隙間を
密とお
知らせだけの
玉章なんですわ。
||あゝ、
此處でしたよ。」
男が
呼吸を
詰めた
途端に、
立留まつた
坂の
下り
口。
······病院下の
三ツ
角は、
遺失すくらゐか、
路傍に
手紙をのせて
來ても、
戀の
宛名に
屆きさうな、
塚、
辻堂、
賽の
神、
道陸神のあとらしい
所である。
「
此の
溝石の
上に、
眞個に、
其の
美しい
方が
手でお
置きなすつたやうに、
容子よく、ちやんと
乘つかつて
居ましたよ。」
と
言ふ。
其處へ
花籠から、
一本白百合がはらりと
仰向けに
溢れて
落ちた
······ちよろ/\
流れに
影も
宿る
······百合はまた
鹿の
子も、
姫も、ばら/\と
續いて
溢れた。
「あゝ、
籠から
······」
「
構ふもんですか。」
と、
撫子を
一束拔いたが、
籠を
取つて、はたと
溝の
中に
棄てると、
輕く
翡翠の
影が
飜つて
落ちた。
「
旗野さん、」
「
············」
「
貴方の
祕密が、
私には
知れましても、お
差支へのない
事をお
知らせ
申しませうか、
||餘り
御心配なすつておいとしいんですもの。
眞個に、
殿方はお
優しい。」
と
聲を
曇らす、
空には
樹の
影が
涼しかつた。
「
何うして、
何うしてです。」
「あのね、
見舞ひに
行きますのは、
私の
主人······まあ、
旦那なんですよ。」
「
如何にも。」
「
斯う
見舞の
盛花を、
貴方何だと
思ひます
||故とね
||青山の
墓地へ
行つて、
方々の
墓に
手向けてあります、
其中から、
成りたけ
枯れて
居ないのを
選つて、
拵へて
來たんですもの、
······ 貴方、
此私の
心が
解つて
······解つて?
解つて?
······ そんなら、
御安心なさいまし。」
と
莞爾した。
······ 禮吉は
悚然としながら、
其でも
青山の
墓地の
中を、
青葉がくれに、
花を
摘む、
手の
白さを
思つた。
······ 時に
可恐かつたのは、
坂の
上へ、あれなる
狂人の
顯れた
事である。
······ 婦が
言つた、
土蜘蛛の
如く、
横這ひに、
踞んだなりで、
坂をずる/\と
摺つては、
摺つては
來て、
所々、
一本、
一輪、
途中へ
棄てた、いろ/\の
花を
取つては
嗅ぎ、
嘗めるやうに
嗅いでは、
摺つては
來、
摺つては
來た。
二人は
急いで
電車に
乘つた。
が、
此電車が、あの
······車庫の
處で、
一寸手間が
取れて、やがて
發車して
間もなく、
二の
橋へ、
横搖れに
飛んで
進行中。
疾風の
如く
駈けて
來た
件の
狂人が、
脚から
宙で
飛乘らうとした
手が
外れると、づんと
鳴つて、
屋根より
高く、
火山の
岩の
如く
刎上げられて、
五體を
碎いた。
飛乘る
瞬間に
見た
顏は、
喘ぐ
口が
海鼠を
銜んだやうであつた。
其も、
此の
婦のために
氣が
狂つたものだと
聞く。
······薔薇は、
百合は、ちら/\と、
一の
橋を
||二の
橋を
||三の
橋を。
●表記について
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