峰は
木の
葉の
虹である、
谷は
錦の
淵である。
······信濃の
秋の
山深く、
霜に
冴えた
夕月の
色を、まあ、
何と
言はう。
······流は
銀鱗の
龍である。
鮮紅と、
朱鷺と、
桃色と、
薄紅梅と、
丹と、
朱と、くすんだ
樺と、
冴えた
黄と、
颯と
點滴る
濃い
紅と、
紫の
霧を
山氣に
漉して、
玲瓏として
映る、
窓々は
恰も
名にし
負ふ
田毎の
月のやうな
汽車の
中から、はじめ
遠山の
雲の
薄衣の
裾に、ちら/\と
白く、
衝と
冷く
光つて
走り
出した、
其の
水の
色を
遙に
望んだ
時は、
錦の
衾を
分けた
仙宮の
雪の
兎と
見た。
尾花も
白い。
尾上に
遙に、
崖に
靡いて、
堤防に
殘り、
稻束を
縫つて、
莖も
葉も
亂れ
亂れて
其は
蕎麥よりも
赤いのに、
穗は
夢のやうに
白い
幻にして
然も、
日の
名殘か、
月影か、
晃々と
艶を
放つて、
山の
袖に、
懷に、
錦に
面影を
留めた
風情は、
山嶽の
色香に
思を
碎いて、
戀の
棧橋を
落ちた
蒼空の
雲の
餘波のやうである。
空澄んで
風のない
日で、
尾花は
靜として
動かなかつたのに。
······ 胡粉に
分れた
水の
影は、
朱を
研ぐ
藥研に
水銀の
轉ぶが
如く、
衝と
流れて、すら/\と
絲を
曳くのであつた。
汽車の
進むに
連れて、
水の
畝るのが
知れた。
······濃き
薄き、もみぢの
中を、
霧の
隙を、
次第に
月の
光が
添つて、
雲に
吸はるゝが
如く、
眞蒼な
空の
下に
常磐木の
碧きがあれば、
其處に、すつと
浮立つて、
音もなく
玉散す。
窓もやゝ
黄昏れて、
村里の
柿の
實も
輕くぱら/\と
紅の
林に
紛れて、さま/″\のものの
緑も
黄色に、
藁屋根の
樺なるも
赤い
草に
影が
沈む、
底澄む
霧に
艶を
増して、
露もこぼさす、
霜も
置かず、
紅も
笹色の
粧を
凝して、
月光に
溶けて
二葉三葉、たゞ
紅の
點滴る
如く、
峯を
落ちつつ、
淵にも
沈まず
飜る。
散る、
風なくして
散る
其もみぢ
葉の
影の
消ゆるのは、
棚田、
山田、
小田の
彼方此方、
砧の
布のなごりを
惜んで


ふ
状に、
疊まれもせず、
靡きも
果てないで、
力なげに、すら/\と
末廣がりに
細く
彳む
夕の
煙の
中である。
······煙の
遠いのは
人かと
見ゆる、
山の
魂かと
見ゆる、
峰の
妾かと
見ゆる、
狩り
暮らし
夕霧に
薄く
成り
行く、
里の
美女の
影かとも
視めらるゝ。
水ある
上には、
横に
渡つて
橋となり、
崖なす
隈には、
草を
潛つて
路となり、
家ある
軒には、
斜めに
繞つて
暮行く
秋の
思と
成る。
煙は
靜に、
燃ゆる
火の
火先も
宿さぬ。が、
南天の
實の
溢れたやうに、ちら/\と
其の
底に
映るのは、
雲の
茜が、
峰裏に
夕日の
影を
投げたのである。
此の
紅玉に
入亂れて、
小草に
散つた
眞珠の
數は、
次等々々照増る、
月の
田毎の
影であつた。
やがて、
月の
世界と
成れば、
野に、
畑に、
山懷に、
峰の
裾に、
遙に
炭を
燒く、それは
雲に
紛ふ、はた
遠く
筑摩川を
挾んだ、
兩岸に、すら/\と
立昇るそれ
等の
煙は、
滿山の
冷き
虹の
錦の
裏に、
擬つて
霜の
階と
成らう。
凍てて
水晶の
圓き
柱と
成らう。
······ 錦葉の
蓑を
着て、
其の
階、
其の
柱を
攀ぢて、
山々、
谷々の、
姫は、
上
は、
美しき
鳥と
成つて、
月宮殿に
遊ぶであらう。
木の
葉は
夜の
虹である、
月の
錦の
淵である。
此の
峰、
此の
谷、
恁る
思。
紅の
梢を
行く
汽車さへ、
轟きさへ、
音なき
煙の、
雪なす
瀧をさかのぼつて、
輕い
群青の
雲に
響く、
幽なる、
微妙なる
音樂であつた。
驛員が
黒く
流れて、
「
姨捨!
姨捨!」
······「
失禮、
此處は
一體何處なんですか。」
「
姨捨です。」
五
分間停車と
聞いて、
昇降口を、
峠の
棧橋のやうな、
雲に
近い、
夕月のしら/″\とあるプラツトフオームへ
下りた
一人旅の
旅客が、
恍惚とした
顏をして
訪ねた
時、
立會せた
驛員は、
······恁う
答へた。が、
大方睡から
覺めたものが、
覺束なさに
宿の
名に
念を
入れたものと
思つたらう。
「
姨捨です。」
「
成程。」
と
胸に
氣を
入れたやうに
頷いて
云つたが、
汽車に
搖られて
來た
聊かの
疲勞も
交つて、
山の
美しさに
魅せられて
身の
萎々と
成つた、
歎息のやうにも
聞えた。
實際、
彼は
驛員の
呼び
聲に、
疾く
此の
停車場の
名は
聞いて
心得たので。
空も
山も、
餘りの
色彩に、
我は
果して
何處にありや、と
自ら
疑つて
尋ねたのであつた。
「
何とも
申しやうがありません。
實にいゝ
景色の
處ですな。」
出入りの
旅客も
僅に二三。で、
車室から
降りたのは
自分一人だつた
彼に、
海拔二千
尺の
峰に
於けるプラツトフオームは、
恰も
雲の
上に
拵へた
白き
瑪瑙の
棧敷であるが
如く
思はれたから、
驛員に
對する
挨拶も、
客が
歡迎する
主人に
對して、
感謝の
意を
表するが
如きものであつた。
心は
通ずる、
驛員も、
然も
滿足したらしい
微笑を
浮べて、
「お
氣に
入りまして
結構です、もみぢを
御見物でございますか。」
と
半ば
得意の
髯を
揉む。
「
否、
見物と
申すと、
大分贅澤なやうで。」
と、
彼は
何故か
懷中の
見える、
餘り
工面のよくない
謙遜の
仕方で、
「
氣紛れに
御厄介を
掛けますのです。しかし、
觀光の
客が
一向に
少いやうでございますな、
此だけの
處を。」
「はあ
······」と
一寸時計を
見ながら、
「
雜と
十日ばかり
後れて
居ますです。
最う
雪ですからな。
風によつては
今夜にも
眞白に
成りますものな。
······尤も
出盛りの
旬だと
云つても、
月の
頃ほどには
來ないのでしてな。」
「あゝ、
其の
姨捨山と
云ふのは
孰れでございます。」
「
裏の
此の
山一體を
然う
云ふんださうです。」
と
來合せて
立停つた、
色の
白い
少年の
驛夫が
引取る。
手屆く
其の
山懷に、
蔽ひかさなる
錦葉の
蔭に、
葉の
眞赤な
龍膽が、ふさ/\と二三
輪、
霜に
紫を
凝して
咲く。
······ 途すがらも、
此の
神祕な
幽玄な
花は、
尾花の
根、
林の
中、
山の
裂けた
巖角に、
輕く
藍に
成つたり、
重く
青く
成つたり、
故と
淺黄だつたり、
色が
動きつつある
風情に、
人に
其の
生命あることを
知らせ
顏に
裝つた。そして、
下界に
降りて、
峰を、
原を、
紫の
星が
微行して
幽に
散歩する
俤があつたのである。
「
月見堂と
云ひますのは。」
「
彼處が
其です。」と、
少年の
驛夫が
指す。
其の
錦の
淵に、
霧を
被けて
尾花が
縁とる、
緋の
毛氈を
敷いた
築島のやうな
山の
端に、もの
珍しく
一叢の
緑の
樹立。
眞黄色な
公孫樹が
一本。
篝火焚くか、と
根が
燃えて、
眞紅の
梢が、ちら/\と
夕の
茜をほとばしらす。
道々は、
峰にも、
溪にも、
然うした
處に
野社の
鳥居が
見えた。
こゝには、
銀の
月一輪。
「
空の
色が
潭のやうです、
何と
云つたら
可いでせう。
······碧とも
淺黄とも
薄い
納戸とも、
······」
月が
山々に
曳いた
其の
薄衣を
仰ぐ
時、
雲の
棧橋に
立つ
思ひがした。
再び
見た
時計を
納めて、
「あれへ
御一泊は
如何です。」
目の
下の
崖の
樹の
間に、
山鳥が
吐いた
蜃氣樓の
如き
白壁造、
屋根の
石さへ
群青の
岩の
斷片を
葉に
散らす。
唯見ると、
驛員は
莞爾として、
機關車の
方へ、
悠然として
霧を
渡つた。
「や、
出ますな。」
衝と
列車に
入つた
時、
驛夫の
少年は
車の
尾へ
駈けて
通る。
笛は
谺す、
一鳥聲あり、
汽車はする/\と
艶やかに
動き
出す。
窓で、
彼が
帽を
脱ぐのに、
驛員は
擧手して
一揖した。
霧が
掠れて、ひた/\と
絡ひつく、
霜かと
思ふ
冷さに、
戸を
引いたが、
彼は
其の
硝子に
面をひたと
着けたまゝ、
身動きもしないで
尚ほ
見惚れた。
筑摩川は、あとに
成り
行く
月見堂の
山の
端の
蔭から、
月が
投げたる
網かと
見える
······汽車の
動くに
連れて、
山の
峽、
峰の
谷戸が、
田をかさね、
畝をかさねて、
小櫻、
緋縅、
萌黄匂、
櫨匂を、
青地、
赤地、
蜀紅なんど
錦襴の
直垂の
上へ、
草摺曳いて、さつく/\と
鎧ふが
如く
繰擴がつて、
人の
俤立昇る、
遠近の
夕煙は、
紫籠めて
裾濃に
靡く。
水は
金銀の
縫目である。
川中島さへ
遙に
思ふ。
「
長野で
辨當を
買つた
時に
情なかつた。
蓮に
人參に
臭い
牛肉、
肴と
云ふのが
生燒の
鹽引の
鮭は
弱る。
······稗澤山もそ/\の、ぽんぽち
飯、あゝ/\
旅行はしなければ
可かつたと
思つた。
いや、
贅澤は
云ふまい、
此の
景色に
對しては
恐多いぞ。」
「
伺ひます。」
一停車場で、
彼の
隣に
居た、
黒地の
質素な
洋服を
着て、
半外套を
被つて、
鳥打を
被つた
山林局の
官吏とも
思ふ、
痩せた
陰氣な
男が、
薄暗い
窓から
顏を
出して、
通がかりの
驛員を
呼んで
聞いた。
「
伊那へは、
此の
驛から
何里ですな。」
「六
里半、
峠越しで、七
里でせう。」
「しますと、
次の
驛からだと
如何なものでせう。」
「
然やう
······おい/\。」
呼ぶと、
驛員が
駈けて
來た。まだ
宵ながら
靴の
音が
高く
響く。
······改札口に
人珍しげに
此方を
透かした
山家の
小兒の
乾栗のやうな
顏の
寂しさ。
「
······驛からだと
伊那まで
何里かね。」
「
山路六
里······彼是七
里でございます。」
「はゝあ、」と
歎息するやうに
云つた
時の、
旅客の
面色も
四邊の
光景も
陰々たるものであつた。
「
俥はありませうか。」
「ございます。」
と
驛夫が
答へた。
「
次の
驛には、」
「
多分ございませう、一
臺ぐらゐは。」
「
否、
此處で
下ります。」
と
思沈んだのが、
急に
慌しげに
云つて、
「
此處で
下ります。」
と、
最う
一度自ら
確めるやうに
言ひ
加した。
驛員等は
衝と
兩方へ。
旅客は
眉を
壓する
山又山に
眉を
蔽はれた
状に、
俯目に
棚の
荷を
探り
取つたが、
笛の
鳴る
時、
角形の
革鞄に
洋傘を
持添へると、
決然とした
態度で、つか/\と
下りた。
下り
際に、
顧みて
彼に
會釋した。
健康を
祈る。
隣に
居た
其の
旅客は、
何處から
乘合せたのか
彼はそれさへ
知らぬ。
其の
上、
雙方とも、もの
思ひに
耽つて、一
度も
言葉は
交さなかつたのである。
雖然、いざ、
分れると
成れば、
各自が
心寂しく、
懷かしく、
他人のやうには
思はなかつたほど
列車の
中は
人稀で、
······稀と
云ふより、
殆ど
誰も
居ないのであつた。
彼は、
單身山又山を
分けて
行く
新しい
知己の
前途を
思つた。
蜀道磽
として
轉た
世は
嶮なるかな。
孤驛既に
夜にして、
里程孰れよりするも
峠を
隔てて七
里に
餘る。
······彼は
其の
道中の
錦葉を
思つた、
霧の
深さを
思つた、
霜の
鋭さを
思つた、
寧ろ
其よりも
早や
雪を
思つた、
······外套黒く
沈んで
行く。
······ 月が
晃々と
窓を
射たので、
戞然と
玉の
函を
開いたやうに、
山々谷々の
錦葉の
錦は、
照々と
輝を
帶びて
颯と
目の
前に
又卷絹を
解擴げた。が、
末は
仄々と
薄く
成り
行く。
渚の
月に、
美しき
貝を
敷いて、あの、すら/\と
細く
立つ
煙の、
恰も
鴎の
白き
影を
岬に
曳くが
如く
思はれたのは、
記憶が
返つたのである。
汽車は
山の
狹間の
左右に
迫る、
暗き
斷崖を
穿つて
過ぎるのであつた。
窓なる
峰に、
星を
貫く、
高き
火の
見の
階子を
見た。
孤家の
灯の
影とても、
落ちた
木の
葉の、
幻に
一葉紅の
俤に
立つばかりの
明さへ
無い。
岩を
削つて
點滴る
水は、
其の
火の
見階子に、
垂々と
雫して、
立ちながら
氷柱に
成らむ、と
冷かさの
身に
染むのみ。
何處に
家を
燒く
炎があらう。
曉の
霜を
裂き、
夕暮の
霧を
分けて、
山姫が
撞木を
當てて、もみぢの
紅を
里に
響かす、
樹々の
錦の
知らせ、と
見れば、
龍膽に
似て
俯向けに
咲いた、
半鐘の
銅は、
月に
紫の
影を
照らす。
大なる
蝙蝠のやうに、
煙がむら/\と
隙間を
潛つた。
「あゝ、
隧道へ
入つた。」
人も
知つた
······此の
隧道は
以ての
外鎖がある。
普通我國第一と
稱へて、(
代天工)と
銘打つたと
聞く、
甲州笹子の
隧道より、
寧ろ
此の
方が
長いかも
知れぬ。
はじめは、たゞあまりに
通過ぎるつもりで、
事とも
爲なかつたばかりで
無い。
一向、
此の
變則の
名所に
就いて、
知識も
經驗も
無かつた
彼は、
次第に
暗く
成り、
愈々深くなり、もの
凄じく
成つて、
搖れ/\
轟然たる
大音響を
發して、
汽車は
天窓から、
鈍き
錐と
變じて、
山の
底に
潛込むが
如き、
易からぬものの
氣勢に、
少からず
驚かされたのである。
「
此は
難所だ。」
美人に
見惚るゝとて、あらう
事か、ぐつたり
鏡臺に
凭掛つたと
云ふ
他愛なさ。で、
腰掛に
上り
込んで、
月の
硝子窓に、
骨を
拔いて
凍付いて
居たのが、
慌てて、
向直つて、
爪探りに
下駄を
拾つて、
外套の
下で、ずるりと
弛んだ
帶を
緊めると、
襟を
引掻合せる
時、
袂へ
辷つて
宙に
留まつた、
大切な
路銀を、ト
懷中へ
御直り
候へと
据直して、
前褄をぐい、と
緊めた。
「いや、なか/\だぞ、
尚だ。
······」
汽車は
轟々と、
唯瀧に
捲かれた
如くに
響く。
此處で
整然として
腰を
掛けて、
外套の
袖を
合せて、
一つ
下腹で
落着いた
氣が、だらしもなく
續けざまに
噎せ
返つた。
煙が
烈しい。
室内一面濛々とした
上へ、あくどい
黄味を
帶びたのが、
生暖い
瀬を
造つて、むく/\
泡を
吹くやうに、
······獅噛面で
切齒つた
窓々の、
隙間と
云ふ
隙間、
天井、
廂合から
流込む。
噂も
知らなかつた
隧道が
此だとすると、
音に
響いた
笹子は
可恐しい。
一層中仙道を
中央線で、
名古屋へ
大
りをしようかと
思つたくらゐ。
「
何にしろ
酷いぞ、
此は
······毒を
以て
毒を
制すと
遣れ。」
で、
袂から
卷莨を
取つて、
燐寸を
摺つた。
口の
先に
※[#「火+發」、U+243CB、468-3]と
燃えた
火で
勢付いて、
故と
煙を
深く
吸つて、
石炭臭いのを
浚つて
吹出す。
目もやゝ
爽かに
成つて、
吻と
呼吸をした
時||ふと、
否、はじめてと
言はう、
||彼が
掛けた
斜に、
向う
側の
腰掛に、
疊まり
積る
霧の
中に、
落ちて
落かさなつた
美しい
影を
見た。
影ではない、
色ある
衣の
媚かしいのを
見たのである。
「
女が
居る。」
然も
二人、
······ と
認めたが、
萎々として、
兩方が
左右から、
一人は
一方の
膝の
上へ、
一人は
一方の、おくれ
毛も
亂れた
肩へ、
袖で
面をひたと
蔽うたまゝ、
寄縋り
抱合ふやうに、
俯伏しに
成つて
惱ましげである。
姿を、
然うして
撓やかに
折重ねた、
袖の
色は、
濃い
萌黄である。
深い
紫である。いづれも
上に
被た
羽織とは
知れたが、
縞目は
分らぬ。
言ふまでもなく
紋があらう。
然し、
煙に
包まれて、
朦朧としてそれは
見えぬ。
小袖も
判然せぬ。が、
二人とも
紋縮緬と
云ふのであらう、
絞つた、
染んだやうな
斑點のある
緋の
長襦袢を
着たのは
確。で、
搦み
合つた
四つの
袖から、
萌黄と
其の
紫とが
彩を
分けて、
八ツにはら/\と
亂れながら、しつとりと
縺れ
合つて、
棲紅に
亂れし
姿。
······ 其の
然も
紅は、
俯向いた
襟を
辷り、
凭れかゝつた
衣紋に
崩れて、
膚も
透く、とちらめくばかり、
氣勢は
沈んだが
燃立つやう。
ト
其の
胸を、
萌黄に
溢れ、
紫に
垂れて、
伊達卷であらう、
一人は、
鬱金の、
一人は
朱鷺色の、だらり
結びが、ずらりと
摩く。
「おや/\
女郎かな。」
雖然、
襦袢ばかりに
羽織を
掛けて
旅をすべき
所説はない。
······駈落と
思ふ、が、
頭巾も
被らぬ。
顏を
入違ひに、
肩に
前髮を
伏せた
方は、
此方向きに、やゝ
俯向くやうに
紫の
袖で
蔽ふ、がつくりとしたれば、
陰に
成つて、
髮の
形は
認められず。
其の、
膝に
萌黄の
袖を
折掛けて、
突俯した
方は、
絞か
鹿の
子か、ふつくりと
緋手柄を
掛けた、もつれ
毛はふさ/\と
搖れつつも、
煙を
分けた
鬢の
艶、
結綿に
結つて
居た。
此女が
上に
坐つて、
紫の
女が、
斜めになよ/\と
腰を
掛けた。
落した
裳も、
屈めた
褄も、
痛々しいまで
亂れたのである。
年紀のころは
云ふまでもない、
上に
襲ねた
衣ばかりで、
手足も
同じ
白さと
見るまで、
寸分違はぬ
脊丈恰好。
······と
云ふ、
其の
脊丈恰好が?
······「
見世ものに
成る
女ぢやないか。」
一
度、
然う
思つたほど
小さかつた。
が、いぢけたのでも
縮んだのでもない。
吹込む
煙に
惱亂した
風情ながら、
何處か
水々として
伸びやかに
見える。
襟許、
肩附、
褄はづれも
尋常で、
見好げに
釣合ふ。
小さいと
云ふより、
······小造りに
過ぎるのであつた。
汽車は
倒に
落ちて
留まない。
煙が
濃いのが
岩を
崩して、
泥を
掻き/\、
波のやうな
土を
煽つて、
七轉八倒あがき
悶ゆる。
俗に、
隧道の
最も
長いのも、ゆつくり
吸つて
敷島一
本の
間と
聞く。
二
本目を
吸ひつけた
時、
彼は
不安の
念を
禁じ
得ないのであつた。
······不思議な
伴侶である。
姿に
色を
凝らした、
朦朧とした
女の
抱合つた
影は、
汽車に
事變のあるべき
前兆ではないのであらうか。
嘗て
此の
隧道を
穿ちし
時、
工夫が
鶴觜、
爆裂彈の
殘虐に
掛つた、
弱き
棲主たちの
幻ならずや。
或は
此の
室にのみ、
場所と
機會に
因つて
形を
顯す、
世に
亡き
人の
怨靈ならずや。
と、
誘はれた
彼も、ぐら/\と
地震ふる
墓の
中に、
一所に
住んで
居るもののやうな
思ひがして、をかしいばかり
不安でならぬ。
靜坐するに
堪へなく
成つて、
急に
衝と
立つと、
頭がふら/\としてドンと
尻もちをついて、
一人で
苦笑した。
ふと
大風が
留んだやうに
響が
留んで、
汽車の
音は
舊に
復つた。
彼は
慌しく
窓を
開いて、
呼吸のありたけを
口から
吐出すが
如くに
月を
仰ぐ、と
澄切つた
山の
腰に、
一幅のむら
尾花を
殘して、
室内の
煙が
透く。それが
岩に
浸込んで
次第に
消える。
夢から
覺めた
思ひで、
厚ぼつたかつた
顏を
撫でた、
其の
掌を
膝に
支いて、
氣も
判然と
向直つた
時、
彼は
今までの
想像の
餘りな
癡けさに
又獨りで
笑つた。
いや、
知己でもない
女の
前で、
獨笑は
梟の
業であらう。
冥界の
伴侶か、
墓の
相借家か、とまで
怪しんだ
二人の
女が、
別條なく、
然も、
揃つて
美しい
顏を
上げて
居たから。
「
矢張り
隧道に
惱んだんだ。」
と
彼は
頷いたのであつた。
「そして、
踊······踊の
歸途······恁う
着崩した
處を
見ては、
往路ではあるまい。
踊子だらう。
後の
宿あたりに
何か
催しがあつて、
其處へ
呼ばれた、なにがし
町の
選ぬきとでも
言ふのが、
一つ
先か、それとも
次の
驛へ
歸るのであらう。
······踊の
催しと
言へば、
園遊會かなんぞで、
灰色の
手、
黄色い
手、
樺色の
手の、
鼬、
狐、
狸、
中には
熊のやうなのも
交つた
大勢の
手に、
引
され、
掴立てられ、
袖も
振も
亂れたまゝを
汽車に
乘つた
落人らしい。」
落人と
云へば、
踊つた
番組も
何か
然うした
類かも
知れぬ。
······其の
紫の
方は、
草束ねの
島田とも
見えるが、
房りした
男髷に
結つて
居たから。
此方は、やゝ
細面で。
結綿の
娘は、ふつくりして
居る。
二人とも
鬘を
被つたかと
思ふ。
年紀が
少い、十三四か、それとも五六、七八か、
眦に
紅を
入れたらしいまで
極彩色に
化粧したが、
烈しく
疲れたと
見えて、
恍惚として
頬に
蒼味がさして、
透通るほど
色が
白い。
其の
紅と
思ふ
瞼の
紅がなかつたら、
小柄ではあるし、たゞ
動く
人形に
過ぎまい。
「
何にしろ
弱つたらしい。
······舞臺の
歸途として、
今の
隧道を
越すのは、
芝居の
奈落を
潛るやうなものだ、いや、
眞個の
奈落だつた。」
||心細いよ
木曾路の
旅は
笠に
木の
葉が
舞ひかゝる
|| 人形のやうな
此の
女達、
聲を
聞きたい、
錦葉に
歌ふ
色鳥であらう。
まだ
全く
消え
果てない
煙を
便宜に、あからめもしないで
熟と
視る
時、
女は
二人、
揃つて、
目を

つて、
四ツの
目をぱつちりと
瞬きした。
······瞳は
水晶を
張つたやうで、
薄煙の
室を
透して
透通るばかり、
月も
射添ふ、と
思ふと、
紫も、
萌黄も、
袖の
色が
※[#「火+發」、U+243CB、473-8]と
冴えて、
姿の
其處此處、
燃立つ
緋は、
炎の
亂るゝやうであつた。
すツかと
立揚つた
大漢子がある。
先に
||七
里半の
峠を
越さうとして
下りた
一見の
知己が
居た、
椅子の
間を
向うへ
隔てて、
彼と
同じ
側の
一隅に、
薄青い
天鵝絨の
凭掛を
枕にして、
隧道を
越す
以前から、
夜の
底に
沈んだやうに、
煙に
陰々として
横倒れに
寐て
居たのが、
此の
時仁王立ちに
成つたのである。
が、
唐突に
大な
材木が
化けて
突立つて、
手足の
枝が
生えたかと
疑はるゝ。
茶の
鳥打をずぼりと
深く、
身の
丈を
上から
押込んだ
體に
被つたのでさへ、
見上げるばかり
脊が
高い。
茶羅紗霜降の
大外套を、
風に
向つた
蓑よりも
擴く
裾一杯に
着て、
赤革の
靴を
穿いた。
時に
斜違ひにづかりと
通つて、
二人の
女の
前へ
會釋もなくぬつくと
立つ。ト
紫の
目が、ト
其の
外套の
脇の
下で、
俯目に
成つたは
氣の
毒らしい。
||紅は
萎む、
萌黄の
八ツ
口。
大漢子の
兩手は、
伸をして、
天井を
突拔く
如く
空ざまに
棚に
掛る、と
眞先に
取つたのは、
彈丸帶で、
外套の
腰へぎしりと
〆め、
續いて
銃を
下ろして、ト
筈高にがツしと
掛けた。
大な
獲もの
袋と、
小革鞄と
一所に、
片手掴みに
引下したのは
革紐の
魔法罎。
で、
一搖り
肩を
搖つて、
無雜作に、
左右へ
遣違へに、ざくりと
投掛ける、と
腰でだぶりと
動く。
獲もの
袋が
重さうに、
然も
發奮んで
搖れた。
||山鳩七
羽、
田鴫十三、
鶉十五
羽、
鴨が三
羽|| づしりと
其の
中にあるが
如くに
見て
取られる。
······ 昨日、
碓氷で
汽車を
下りて、
峠の
權現樣に
詣でた
時、さしかゝりで
俥を
下りて、あとを
案内に
立つた
車夫に、
寂しい
上坂で
彼は
訊ねた。
「
些とも
小鳥が
居ないやうだな。」
「
搜すと
居ります。
······昨日も
鐵砲打の
旦那に、
私がへい、お
供で、
御案内でへい、
立派に
打たせましたので。」
と
狡しげな
目を
光らして
云つた。
鴫も
鳩も、
||此處に
其の
獲ものの
數さへ
思つたのは、
車夫が
其の
時の
言葉の
記憶である。
此の
山里を、
汽車の
中で、
殆ど
鳥の
聲を
聞かなかつた
彼は、
何故か、
谷筋にあらゆる
小禽の
類が、
此の
巨な
手の
獵人のために
狩盡されるやうな
思ひして、
何となく
悚然とした。
其も
瞬時で。
汽車は
留まつた。
「
鹽尻、
鹽尻||中央線は
乘換。」
其の
途端である。
······鷹揚に、
然も
手馴れて、
迅速に
結束し
果てた
紳士は、
其の
爲に
空しく
待構へて
居たらしい
兩手にづかりと
左右、
其の
二人の
女の、
頸上と
思ふあたりを
無手と
掴んで
引立てる、と、
呀?
衣も
扱帶も
上へ
摺つて、するりと
白い
顏が
襟に
埋つた、
紫と
萌黄の、
緋を
流るゝやうに
宙に
掛けて、
紳士は
大跨にづかり/\。
呆氣に
取られた
彼を
一人室内に
殘して、
悠然と
扉を
出たのである。
あとの、もの
凄さ。
紅さいた
二ツの
愛々しい
唇が、
凍てて
櫻貝の
散つて
音するばかり、
月にちら/\と、それ、
彼處に
此處に
||「あゝ、
寒い。」
温泉に
行かうとして、
菊屋の
廣袖に
着換へるに
附けても、
途中の
胴震ひの
留まらなかつたまで、
彼は
少なからず
怯かされたのである。
東京を
出程つ
時から、
諏訪に一
泊と
豫定して、
旅籠屋は
志した
町通りの
其の
菊屋であつた。
心細い
事には、
鹽尻でも、
一人も
同じ
室へ
乘込まなかつた。
······其の
宿の
名は、
八重垣姫と、
隨筆の
名で、
餘所ながら、
未見の
知己。
初對面の
從姉妹と、
伯父さんぐらゐに
思つて
居たのに。
········· 下諏訪へ
來ると、七八
人、
田螺を
好きさうな、
然も
娑婆氣な
商人風のが
身を
光らして、ばら/\と
入つて
來た。
其の
中で
一人、あの、
其の
女二人居た
處へ、
澄まして
腰を
掛けた
男があつた。
はつと
思つたが、
一向平氣で、
甲府か
飯田町へ
乘越すらしい。
上諏訪に
彼が
下車した
時まで、
別に
何事もなく、
草にも
樹にも
成らず、
酒のみと
見えて、
鼻の
尖の
赤いのが、
其のまゝ
柿の
實にも
成らないのを
寧ろ
怪む。
はじめ、もう
其のあたりから、
山も
野も
眇として
諏訪の
湖の
水と
成る
由、
聞いては
居たが、ふと
心着かずに
過ぎた、
||氣にして、
女の
後ばかり
視めて
居たので。
改札口を
冷く
出ると、
四邊は
山の
陰に、
澄渡つた
湖を
包んで、
月に
照返さるゝ
爲か、
漆の
如く
艶やかに、
黒く、
且つ
玲瓏として
透通る。
白きは
町家の
屋根であつた。
水から
湧いた
影のやうに、すら/\と
黒く
煽つて、
俥が三
臺、つい
目の
前から
駈出した。
||俥が三
臺、
人が三
人||「
待てよ、
先刻の
紳士は、あゝして、
鹽尻で
下車たと
思ふが、
······其とも
室を
替へて
此處まで
來たか、
俥が三
臺、
揃つて。」
と
見る、
目の
前へ、
黄色い
提灯の
灯が
流れて、がたりと
青く
塗つた
函車を
曳出すものあり。
提灯には
赤い
蕋で、
車には
白い
紋で、
菊屋の
店に
相違ない。
「
一寸、
菊屋の
迎かい。」
「
然うで。」
とぶつきら
棒立。
仲屋の
小僧と
云ふ
身の、から
脛の、のツぽが
答へる。
「おい、
其處へ
行くんだ、
俥はないかね。」
「
今ので
出拂つたで、」
「
出拂つた
······然うか。
······餘程あるかい。」
「
何、ぢき
其處だよ。
旦那、
毛布預ろかい。」
縞の
膝掛を
函に
載せて、
「
荷もつも
寄越すが
可いよ。」
「
追剥のやうだな。」
と
思はず
笑つたが、これは
分らなかつた。
奴はけろりとして、
冷いか、
日和下駄をかた/\と
高足に
踏鳴らす。
「おい
來た。」
と
出さうとした
信玄袋は、
顧みるに
餘りに
輕い。
函に
載せると、ポンと
飛出しさうであるから
遠慮した。
「これは
可いよ。」
「
然うかね、では、
早く
來さつせいよ。
寒いから。」
ありや、と
威勢よく
頭突に
屈んで、
鼻息をふツと
吹き、
一散に
黒く
成つてがら/\と
月夜を
駈出す。
······ 猪が
飛出したやうに
又驚いて、
彼は
廣い
辻に
一人立つて、
店々の
電燈の
數より
多い、
大屋根の
石の
蒼白い
數を
見た。
紙張の
立看板に、(
浮世の
波。)
新派劇とあるのを
見た。
其の
浮世の
波に、
流れ
寄つた
枯枝であらう。
非ず、
湖の
冬を
彩る、
紅の
二葉三葉。
「
酒を
頼むよ、
何しろ、
······熱くして。」
菊屋に
着いて、
一室に
通されると、まだ
坐りもしない
前、
外套を
脱ぎながら、
案内の
女中に
註文したのは、
此の
男が、
素人了簡の
囘生劑であつた。
其のまゝ、六
疊の
眞中の
卓子臺の
前に、

と
坐ると、
早や
目前にちらつく、
濃き
薄き、
染色の
葉に
醉へるが
如く、
額を
壓へて、ぐつたりと
成つて、二
度目に
火鉢を
持つて
來たのを、
誰とも
知らず、はじめから
其處に
火を
裝つて
備附けられたもののやうに、
無意識に
煙草を
吸つた。
細い
煙も
峰に
靡く。
「お
召しかへなさいまして、お
湯へ
入らつしやいまし。」
「
然うだ、
飛込まう。」
と
糊の
新しい
浴衣に
着換へて
||件の
胴震ひをしながら
||廊下へ
出た。が、する/\と
向うへ、
帳場の
方へ、
遙に
駈けて
行く
女中を
見ながら、
彼は
欄干に
立つて
猶豫つたのである。
湯氣が
温く、
目の
下なる
湯殿の
窓明に、
錦葉を
映すが
如く
色づいて、むくりと
此の
二階の
軒を
掠めて、
中庭の
池らしい、さら/\と
鳴る
水の
音に
搖れかゝるから、
内湯の
在所は
聞かないでも
分る。
が、
通された
部屋は、すぐ
突當りが
壁で、
其處から
下りる
裏階子の
口は
見えない。で、
湯殿へは
大
りしないと
行かれぬ。
處で、はじめ
女中に
案内されて
通つた
時から、
「
此處では
醉へないぞ。」と
心で
叫んだ、
此の
高いのに、
別に
階子壇と
云ふほどのものも
無し、
廊下を
一
りして、
向うへ
下りるあたりが、
可なりな
勾配。
低い
太鼓橋を
渡るくらゐ、
拭込んだ
板敷が
然もつるりと
辷る。
彼は
木曾の
棧橋を、
旅店の、
部屋々々の
障子、
歩板の
壁に
添つて
渡つて
來た
······其も
風情である。
雖然、
心覺えで
足許の
覺束なさに、
寒ければとて、
三尺を
前結びに
唯解くばかりにしたればとて、ばた/\
駈出すなんど
思ひも
寄らない。
且つは
暗い。
······前途下りに、
見込んで、
其の
勾配の
最も
著しい
其處から、
母屋の
正面の
低い
縁側に
成る
壁に、
薄明りの
掛行燈が
有るばかり。
他は、
自分のと
一間置いて
高樓の
一方の、
隅の
部屋に
客がある、
其處の
障子に
電燈の
影さすのみ。
「
此は、そろり/\と
參らう。」
獨りで
苦笑ひして、
迫上つた
橋掛りを
練るやうに、
谿川に
臨むが
如く、
池の
周圍を
欄干づたひ。
他の
客の
前をなぞへに
折曲つて、だら/\
下りの
廊下へ
掛ると、
舊來た
釣橋の
下に、
磨硝子の
湯殿が
底のやうに
見えて、
而して、
足許が
急に
暗く
成つた。
ト
何處へ
響いて、
何に
通ふか、
辿々しく
一歩二歩移すに
連れて、キリ/\キリ/\と
微に
廊下の
板が
鳴る。
ちよろ/\とだけの
流ながら、
堤防も
控へず
地續きに、
諏訪湖を
一つ
控へたれば、
爪下へ
大湖の
水、
鎬をせめて、
矢をはいで、じり/\と
迫るが
如く
思はるゝ。
······其の
音さへ、
途留むか、と
耳に
響いて、キリ/\と
細く
透る。
······ 奧山家の
一軒家に、たをやかな
女が
居て、
白雪の
絲を
谷に
繰り
引く
絲車の
音かと
思ふ。
······床しく、
懷しく、
美しく、
心細く、
且つ
凄い。
ト
又聞える。
(きり/\、きり/\
きいこ、きいこ。)
······ 彼は
引据ゑられるやうに
立つた。
古の
本陣と
云ふ
構への
大きな
建ものは、
寂然として
居る。
客は
他にない。
湯に
行つた
留守か、もの
越、
氣勢もしないが、
停車場から
俥で
走らした三
人の
客、
其の三
人が
其處に、と
思つて、
深く
注意した、
||今は
背後に
成つた
||取着きの
電燈を
裡に
閉切つた、
障子の
前へ、
······翼を
掻込んだ、
地を
渡る
鳥の
影が
黒く
映つた。
小形な
鳩ほどある、
······ 唯見ると、する/\と
動く。
障子はづれに
消えたと
思ふと、きり/\と
板に
鳴つて、つる/\と
辷つて、はツと
思ふ
袂の
下を、
悚然と
胸を
冷うさして
通拔けた。が、
颯と、
翠に、
藍を
襲ね、
群青を
籠めて、
紫に
成つて、つい、
其の
掛行燈の
前を
拔けた。
が、
眞赤な
嘴口を
明けた。
萌黄色の
首がする/\と
伸びて、
車が
軋つて、
(きり/\、きり/\
きいこ、きつこ、きいこ。)
······(
樹へ
行こ、
樹へ
行こ。
樹樵來るな、
樹樵來るな。きいこ、きいこ。)
と
鳴いた。
あゝ、あの、
手遊びの
青首の
鴨だ、と
見ると、
續いて、
追ひ
状に
袖の
下を
拔けたのは、
緋に
黄色に、
艶々とした
鴛鴦である。
ともに、
勾配にすら/\と、
水に
流るゝ、
······廊下を
辷る。
「
何處かへ
絲を
引掛けた。」
廣袖へ
着けて
女中が、と、はた/\と
袖を
煽つたが、フト
鳥に
成るやうに
思つて、
暗がりで
悚然とした。
第一、
身に
着いた
絲の、
玩弄具の
鳥が、
彳んだものを、
向うへ
通拔ける
數はない。
手を
緊めて、
差窺ふ、
母屋の、
遠く
幽なやうな
帳場から、
明の
末が
茫と
屆く。
池に
面した
大廣間、
中は四五十
疊と
思はるゝ、
薄暗い
障子の
數の
眞中あたり。
合せ
目を
細目に
開けて、
其處に
立つて、
背後に、
月の
影さへ
屆かぬ、
山又山の
谷々を、
蜘蛛の
圍の
如く
控へた、
星に
屆く
黒き
洞穴の
如き
大なる
暗闇を
翼に
擴げて、
姿は
細き
障子の
立棧。
温泉の
煙に、ほんのりと、
雪なす
顏、
黒髮の
髷。
幻の
裳に
月影さすよと、
爪先白く
立つたのが、
花の
魂のやうな
手を
上げて、ちらりと
招く。
きり/\と、
鳥の
形は
柱を
繞つた。
其の
女は
|| ||此に
就いて、
別に
物語があるのである。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#···]」の形で示しました。
「火+發」、U+243CB | | 468-3、473-8 |