帰ったのは九ツ過ぎ(十二時過ぎ)でした。さすがの火事もその頃は下火となって、やがて鎮火しました。
火事の危険であった話や、父に
扶けられた話や、
久方ぶり、母との対面や何やかやで、
雑炊を食べなどしている
中、夜は
白々として来ました。
さて、翌朝になり、焼け跡はどうなったか。師匠の家の跡は
······と父とともに心配をしながら行って見ると、師匠の家はない。焼け跡に、
神田の
塗師重の兄弟と、ほかに三人ばかり手伝いがボオンヤリと立っている。
互いに顔を見合わせて、何よりもまず昨夜の話、師匠はこれこれ、我々はこれこれと父が物語る。塗師重兄弟も嘆息しながら、
「まずお互い様に
生命に別条なく不幸中の幸い
······しかし、我々は逃げ
損くなって実に
酷い目に
逢いやした。逃げようといって、蔵前の方へも逃げられず、並木へと行けど、それも駄目なり。やむをえず河岸へ出たものだ。ところがちょうど
引汐時であったから、それへ荷物をウーンと出したものだ。すると、また
上潮になって来て、荷物は浮いて流れ出す。
······それを縄で
括って流すまいとするその大混雑
······其所へ、河岸へ火が出て来て猛火に
煽られ、こげ附くようになりながら、浮き上がった荷物の上へ、
獅噛みつき、身体を水に
濡らしては火の粉を
除けるという騒ぎ、何んのことはない、火責め水責めを前後に受けて生きた心地もしなかった。それに苦しい上にも苦しかったことは、あの、「
乾」の
烟草屋の物置きに火が掛かると、ありたけの烟草が一どきに燃え出して、その
咽ることは
······焦熱地獄とはこんなものかと目鼻口から涙が出やした」
と、今は寒さに震えながら、下火に当っての物語、
······茫々莫々たる焼け跡の真黒な世界は、師走の鉛色な空の下に無惨な
状で投げ出されていました。
師匠の荷物は、この兄弟が川の中で
扶けたものばかりと、手伝いの人が持って帰って、
後に届けてくれたもの少々とが残ったほかには、何も残りませんでした。笑い事ではありませんが、前述の万年屋の前で、師匠が大事に
背負って行った大風呂敷の包みは、諏訪町河岸にいた師匠の妹の夜具
蒲団であったので「わざわざ本所まで背負って行ったものの、これは妹に返さねばならない」と、後で、師匠が苦笑しました。
ところが、また不思議なことには、私の道具箱が何処にどう潜んでいたか、そのままに助かった。それは、まだ子供のこととて、
羊羹の折を道具箱にしたもので、切り出し、丸刀、
鑿、
物差などが
這入っていた。これが助かったので、
後に大変役に立ちました。
何しろ、今度の火事は変な火事で、蔵前の人々は、家が残って荷物が焼けました。これは、荷物を駒形の方へ出したためです。急に西風に変ったために蔵前の家々は残りました。ちょうど、黒船町の
御厩河岸で火は止まりました。
榧寺の
塀や門は焼けて本堂は残っていた。
この大火が
方附いてから、あの本願寺の門の前を通ると、駒形堂が真直に見えました。そうして、
大河の帆掛け舟が「そんな大火があったかい」といったように静かに
滑って行くのが見えました。
かくて、浅草は
落寞たる年の瀬を越し、淋しい初春を迎えたことであった。