一
家の
中二
階は川に臨んで居た。
其処にこれから
発たうとする一家族が船の準備の出来る間を集つて待つて居た。七月の暑い
日影は岸の竹藪に
偏つて流るゝ
碧い瀬にキラキラと照つた。
涼しい
樹陰に五六艘の
和船が集つて碇泊して居るさまが絵のやうに下に見えた。帆を舟一杯にひろげて干して居るものもあれば、
陸から一生懸命に荷物を積んで居るものもある。
此処等で出来る瓦や木材や米や麦や
||それ等は総て此川を上下する
便船で都に運び出されることになつて居た。その向こうには、
某町から
某町に通ずる県道の舟橋がかゝつてゐて、
駄馬や荷車の通る処に、橋の板の鳴る音が静かな午前の空気に轟いて聞えた。
橋のすぐ下では、船頭が五六人、せつせと竹の
筏を組んで居た。
『
婆様、
小用が出ないか。船に乗つて
了うと面倒だからな』
七十近い
禿頭の
老爺が
傍に小さく坐つて居る六十五六の目のひたと
盲ひた老婆にかう言ふと、
『それぢや、面倒でも今一度連れて行つて貰うかな』
やがて婆さんは爺さんに手を
曳かれて静に長い縁側を
厠の方に行つた。
『よくそれでも世話を見なさるな』
これを見て居た六十五六の今一人の
老爺は、
傍に居た五十二三の主婦に話しかけた。
主婦は老人や子供の世話に
忙殺されて居た。荷積の指図もしなければならなかつた。送つて来て
呉れた人々の相手にもならなければならなかつた。長い間住んだ土地を別れて来るに就いてのいろ/\の追懐や
覊絆もあつた。
『
中々あの真似は出来ませんよ』
かう言つたが、
丁度其時
今歳十一になる
弟の方が
縁の方に駈けて
下りて行くを見付けて、
『
正や、川の方に行くと危ぶないぞ!』
白絣を着てメリンスの帯を
緊めた子は、それにも頓着せず、急いで川の
下の方に
下りて行つた。
其処にはもう十六になる兄が先に行つて居た。岸に
繋がれた一艘の船には、長い間田舎家の茶の間に据ゑられた長火鉢だの、茶箪笥だのがそのまゝ積まれてあつた。
『それ、あの船だぜ!』
兄はかう
弟に言つた。
『どれや、どの船?』
『それ、火鉢があるぢやないか』
其船の船頭は
目腐れの中年の男で、今一人の若い方の船頭は頻りに荷物を運んで居た。髪を束ねた
上さんは
苫やら
帆布やらをせつせと片付けて居た。
一家族は
此処から一里ほど離れた昔の城下の士族町から来た。老人夫婦に取つても、主婦に取つても、
長年住み馴れた土地や親しい人々に別れて来るのは辛かつた。東京に行つて、知らぬ土地の土になるのは
厭だ! かう目の
盲ひた婆さんは言つた。
長年苦労した種に芽が生えて、十分ではなくても、兎に角
子息が月給取になつて、呼んで
呉れるのは嬉しいが、東京といふ処は石の上の
住居、一晩でも家賃といふものを出さずには寝られない。それよりはどんなにあばら屋でも、自分の
家で足を長くして寝て居る方が好い。主婦もいざとなつてからかう言ひ出した。しかし月給取になつた
子息を一人都に離して置くのも気がかりであつた。それに
修業盛の
弟達の為めもあつた。
親類や知人などは
一月も前から、お別れだと言つては、
饂飩を打つたり
肴を買つたりして、老夫婦や主婦を呼んで御馳走をした。
一人の娘は去年さる
機屋に望まれて嫁にやつた。今年の四月頃から懐妊の気味で、其の前から出るの
入るのと言つて居たが、
愈々上京の話が決ると、『
私ばかり置いて行くのかえ、
母さん』と言つて泣きに来た。母親は、『まア、
何うにでもするから、兎に角体が二つになるまで辛抱してお
出で』かう
宥めたり
賺したりしたが、
今朝発つて来る時にも、町の
外れまで送つて来て、大きな腹をして、
垣の処に寄りかゝつて泣いて居た。
目の
盲ひたお婆さんは、車に乗ると眼が
眩ると言ふので、昔
御国替への時乗つて来たやうな
軽尻馬をわざわざ仕立てゝ、町の通をほつくり/\と
遣つて来た。『
盲目でも眼が廻るのかねえ』と誰かが言つた。
維新前から船の問屋の
爺を知つて居るお爺さんは、朝から禿頭を光らして出かけて行つて居た。
二
船の
準備がやがて出来た。
長い
踏板が
船縁から岸に渡された。一番先に小さい
弟が元気よくそれを渡つて、深い船の中に飛んで
下りた。
其処まで送つて来た婿の
機屋が
盲目のお婆さんを
負つて続いて渡つた。お爺さん、主婦、それから
便船を幸ひに東京まで乗せて行つて貰はうといふ隣のお爺さんも乗つた。
船の中はちやんと整理がしてあつた。暑くないやうに、一ところ
苫が
葺いてあつて、
其処に長火鉢や茶箪笥が置いてある。炭取には炭が入れられてある。いつでも茶位入れられるやうになつて居た。
酒好きのお爺さんは、
徳利に上酒を一升ほど入れて来たが、子供に引くりかへされぬやうにと、それを茶箪笥の隅に押附けて置いた。
『お
貞、それは酒だからな
······こぼさぬやうにして呉りやれ』
かう主婦に注意もした。
『これさへありや、まア、退屈も
凌げますぢや?』
隣のお爺さんとこんなことを言つて笑ひ合つた。
主婦は舅の酒には苦労を
仕抜いて来た。夫の生きて居る間は、酒の上で二人はよく親子喧嘩をした。親類に呼ばれて行く時には、
屹度酔つて
管を
捲いた。夫に別れてからでも、町の居酒屋で泥酔して、
使を受けて迎へに行つたことなどもあつた。嫁に来た当座には、
何処か酒のない国に行き
度いと思つた。母親はよくかう子供等に話して聞かせた。しかし此頃では年を取つてもう大分おとなしくなつた。
盲目のお婆さんは、座が定ると、
懐から手拭を出して、それを例のごとく三角にして
冠つた。
暢気な鼻唄が唸
るるやうに聞え出した。
『暢気なものだねえ。もう鼻唄が出たよ』
母親は
其処に立つて居る次男に小声で言つた。
岸には送つて来た人々が並んだ。門の前で別れて来た人もあつた。町の入口で別れをつげた人もあつた。町はずれまで来て、さらば! を言つて行つた人もあつた。其川の岸まで来たのは最も親しい人達であつた。
次男を送つて来た一人の青年は、其友達のかうして東京に出て行くのをさも
羨ましさうに見送つて居た。
船が動き出した時、
盲目のお婆さんを除いては、
皆な
船縁の処に顔を並べた。岸の人々も別れの言葉を述べた。
船は静かに流を
下つた。
三
其頃は汽車が今のやうに便利でなかつた。運賃も高かつた。で、この家族はかうして船で東京に行くことになつた。東京から毎日来る小蒸気は、其頃ペンキ塗の船体を
処々の
埠頭の夕暮の中に白くくつきりと見せて居た。
老人達に取つては、その経て来た時代の推移ほど急激なものはなかつた。此人達は大小を指して殿様の行列の後に
踉いて歩いた。
勤王佐幕の
喧しい争闘の時には
昼夜兼行で浜町の上屋敷に上訴に出かけて行つたこともあつた。維新の際には、若者達の出陣した後を守つて、
其処此処の番所を固めた。
侍が士族となり、百姓が平民になつて、世の中は
目眩しいほどに変つて行つた。実力を持つた百姓町人が世に出て、
扶持を失つた士族が零落して行くあはれなさまをも見た。大名小路の大きな
邸が長い年月に段々つぶれて
畑になつて行くのをも見た。御殿のあつた
城址には
徒に草が
長じた。
隣の老人の家柄は、今移転して行かうとして居る家族よりは、
数等すぐれた家柄であつた。昔ならば
槍以上と以下とでは、殆ど交際が出来ぬほど階級が違つて居た。隣の老人は二百石の家柄で
暢気に謡ひをうたつて暮して来た。それに引かへて、一方の老人は
賤い処から武芸や
文事を磨いて、人が驚くほど立身して、江戸家老のお気に入りに其人ありと知られるほどの勢力のある生活を送つて来た。
しかしこの二軒は昔しから隣同士に親んで居たのではなかつた。
子息の死んだ後の家族を
纏めて、家を買つて
其処に其の禿頭の老人が移つて来てから、まだ十年と経たなかつた。
孫達の話を老人達は常によく話し合つた。
『常さんがしつかりして居るから、お
宅では
仕合ぢや』
かう家柄の方の老人は言つた。
家柄の方は家族も矢張息子に早く死なれて、孫に
懸らなければならなかつた。総領は娘で、今年二十二になつて居た。田舎にはめづらしいほどの
別嬪で、足利に行つて居る間に、鹿児島生れで、其土地の中学校の教師をしてゐた男に
見染められて、無理に懇望されて
嫁いで行つた。一二度其婿が細君と一緒に、柴垣の奥の古い汚い
茅葺家に来て泊つて行つたことなどもあつた。其時近所の評判は大変で、
豪い婿さんが出来たなどゝ噂し合つた。婿は綺麗な八
字髯を生した立派な男で、
丸髷に赤い
手絡をした
丈の高い細君とはよく似合つた。隣の次男は其婿が朝早く草の生えた井戸端で、
真鍮の
金盥で、眼鏡を
外して、頭をザブザブ洗つて居るのを見たこともあつた。
処が一年後に、懐妊した細君を里に預けて、其婿は東京へ出て行つたきり帰つて来なかつた。約束した
仕送は無論寄さなかつた。
後には手紙が
附箋を附けたまゝ戻つて来た。
東京に出かけて行けば、
探す
手蔓はいくらもある。中にはその居る所を教へて
呉れたものもある。しかし
出懸けて行く旅費もないほどその家は困つて居た。その美しい娘はもう
五月近い腹をして居りながら、乱れた髪をしてせつせと
機を織つて居た。
其処に
丁度隣りの一家族の上京
||で、頼んで
無賃で乗せて行つて貰へるのを喜んだ。
四
『
常さんがしつかりして居るから、お宅ぢやもう心配なことはない』
隣の老人はかう主婦に言つた。
『
何んなもんですか
······苦労しに東京に行くやうなものかも知れませんよ。年寄に子供、力になるのは
常ばかりですから』主婦は
鳥渡考へて、『それも、月給でも沢山取れるものなら好いですけれど
······』
『始めからさう
旨い訳には行かないぢや
······』笑つて見せて、『けれど、
正公も
成長くなつたし、
定公も学問が出来るから、お
貞さん、もう安心なもんぢゃ。これからは
楽が出来る』
『
何んなもんですか』
主婦はかう言つた。しかし
永年一人で苦労して来た老人や子供の世話を、東京に行けば、
子息と一緒にすることが出来ると思ふと、何となく肩が
下りるやうな気がした。
子息と住むといふことも嬉しかつた。
『それにしても、お宅のは?
······御出になる所は分つて居るのですか』
『大抵は知れて居るのですけれどな
······何うも不都合で困るぢやな』
『御心配ですねえ』
かう主婦は同情した。
船頭は
竿を弓のやうに張つて、長い
船縁を往つたり来たりした。
竿を当てる
襦袢が
処々破れて居た。
一竿毎に船は段々と
下つて行つた。
此附近には竹藪が多かつた。水量の多い今は
巴渦を巻いて流れて居るところもあつた。
渡船小屋が
芦荻の深い茂みの中から見えて居たり、帆を満面に
孕ませた船が二艘も三艘も連つて
上つて来るのが見えたりした。竹藪の
鳥渡途絶えた
世離れた静かな好い場所を占領して、長い釣竿を二三本も水に落して、
暢気さうに
岩魚を釣つて居る
鍔の大きい
麦稈帽子の人もあつた。
川に臨んで、赤い腰巻を出して、物を洗つて居る女もあつた。
二人の少年は物珍らしいので、下に坐つてなどは居なかつた。
紺絣の兄と
白絣の
弟と二人並んで、じり/\と上から照り附ける暑い
日影にも
頓着せず、余念なく移り変つて行く川を眺めて居た。
『
霍乱にでもなると大変だよ』
主婦は下から首を出して、時々声をかけて呼んだ。
兄の少年が手帳を出して、何か書きつけてゐると、
其傍に、隣の老人は
遣つて来て、
『おい、
定公、何か出来るか
······』かう言つて聞いて見た。手帳には七言絶句の転結だけが書いてあつた。
道具は大抵
菰包にして
了つた。膳も大きなのを
一箇出してあるばかりであつた。昼飯には皆ながそれを取巻いて食つた。暑い日にも腐らぬやうな
乾物だとかから鮭の切身だとかを持つて来て、それを
菜にした。
『江戸では、今は
松魚の
盛ですな』
『
在番した時分
||、
勢の
好いあの売声を聞いて、窓から皿を出して買つて食つた時分のことが思はれますな』
少し酒を呑みながら、老人達はこんなことを言つた。
午後には、主婦は連日の疲労につかれ果てたといふやうに、
平生使ひ馴れた
黒柿の煙草の箱を枕にして、手拭を顔にかけて、スヤスヤと昼寝をして居た。
苫の間から河風が涼しく吹いて来た。
老人達も少し酔つてやがて寝て
了つた。兄の少年が船から
下りて来た時には、
盲目の婆さんも、鼻唄をやめて横になつて居た。晴れた
日影はキラキラと水に反射して今が暑い
盛であつた。
襦袢をも脱棄てた二人の船頭は、毛の深い胸のあたりから、ダクダク汗を出しながら、
竿を弓のやうに張つて、頭より尻を高くして
船縁を伝つて行つた。眼の悪い方の船頭は、
眼脂を
夥しく出して、顔を真赤にして居た。
涼しい蔭をつくつた竹藪などはもうなかつた。
五
夕立が催して来た。
船頭は慌てゝ
苫を
葺いた。其下に一家族は夕立の
凄じく降つて通る間を輪を描いて集つて居た。銀線のやうな雨が水の上に白い
珠を躍らしてゐるのを
苫の間から少年達は見て居た。
『これで涼しくなつた』
かう老人達が言つた。
夕立の
霽れた時には、もう薄暮の色が広い川の上に蔽ひ
懸つて居た。
渡良瀬川は
思川を入れて、段々大きな利根川の
会湊点へと近づいて行つた。風が
稍々追手になつたので、船頭は帆を低く張つて、濡れた
船尾の処で
暢気さうに煙草を吸つて居る。其傍では船頭の
上さんが、釜に米を入れたのを出して、川から水を汲んで、せつせとそれを
炊いで居たが、やがて
其処から細い紫の
煙が絵のやうに川に
靡いた。
夕照が赤く水を染めて居た。
老人達は薄暗い処で酒を飲んでゐた。
主婦は酒癖の悪い爺さんが、やがて段々酔つて来て、言はないでも好いことを隣の老人に言ひ
懸けてゐるのを聞いた。
隣の老人は何の
準備もして来なかつた。酒も飯も黙つて御馳走になつて居た。それも困つて居るからだと主婦は思つて居た。
爺さんもそれを余り虫が
好過ぎると思つて居たらしかつた。
『お爺さん、あんなことを言はなけりや好いのに
||折角、
心地よく連れて来てやつたのに』
隣の老人が
舳先の方に行つた跡で、
主婦は
老爺に小声で言つた。
『何アに、少し位言つてやる方が好い。余り虫が
好過ぎる』
かう言つた爺さんは、もうかなり酔つて居た。
『だツて困つて居るんだから』
『困つて居たツて、余りだ、
瓢箪の一つ位持つて来たツて誰も悪いツて言はない
······何もおれだツて、そんなことを
喧しく言ふぢやないけれどな
······義理と言ふものがあらア』
其処に
下りて来た兄の少年は、またお爺さんの癖が始まつたなと思つた。
螢が一つ闇の中に流れる頃には、船はもう広い広い利根川に出て居た。星の光に水の流るゝのが暗く
綾をなして見えた。
艫の音が水を渡つて聞えた。
遠い
河岸には、灯が
処々に
点いて居るのが見えた。
其頃、栗橋の鉄橋が出来たばかりであつた。町からわざわざ其橋を見に行つたものも
少くなかつた。其噂は一家族の人々の耳にも聞えた。
『それ見ろよ、あれが栗橋の鉄橋だと』
かう主婦が二人の少年に
指して見せた。川を
跨いだ大きな鉄橋は暗い
夜の闇の中に其
輪廓をはつきりと描いて居た。珍らしいものにあくがれて居る兄弟の心は躍らざるを得なかつた。
やがて船は近づいて行つた。
橋杭に当る水音は高く聞えた。少年も
老爺も主婦も其下を通る時、皆仰向いて、その大きな鉄橋を闇に
透して見た。兄弟は手を延してその
橋杭を叩いて通つた。
六
兄弟の心は東京に憧れ切つて居た。
中でも兄は、これで
多年の志が遂げられたやうな気がした。東京に行きさへすれば、どんな目的でも達せられる。
何んな
豪い人にでもなれる。馬車に乗るやうな立派な人にもなれる。
其処には、かれの為めに、あらゆる好運と幸福とが門を開いて待つて居るやうにすら思はれた。
其処には
何んな物がかれ等を待つて居るかを知らなかつた。
川は暗かつた。岸の
灯が明るく
処々に
点いて居た。誰か大な声を立てゝ土手の上を通つて行つた。
艫の音が絶えず響く。
船の中にも蚊が居るので、主婦は準備して来た
蚊帳を
苫の角に
引懸けて低く吊つて、
其処に一緒にゴタゴタに頭やら足やらを入れて寝た。棚の上の三分の
洋燈は、薄暗く青い
蚊帳を照して居た。涼しい河風がをりをり吹いて通つた。
兄の方の少年は、
蚊帳の中に
入つても、容易に眠られなかつた。眼が冴えて仕方がなかつた。かれは船を漕いで居る船頭の
船尾の処に行つて、黙つて暗い水を眺めて立つた。
一人の船頭は、マッチを闇に
摺つて、大きな
煙管に火をつけて、スパリスパリ
遣つて居た。時々
苫の中の明るく見える船や、
篝のやうに火を
焼いて居る船などがあつた。
朝、人々が眼を覚した時には、船はある小さな
埠頭に留つて居た。朝霧の晴れ間から、青い
蚊帳を吊つた岸の二階屋の
一間が見えたり、女が水に臨んで物を洗つて居るのが眺められたりした。
其処に泊つて居る船も五六艘はあつた。
朝炊の
煙が紫に細く
騰つた。
『朝の気持は
好いなア
······何うだ
定公』
かう隣の老人は
其処に立つて朝の川を眺めて居る兄の方の青年に言つた。
お爺さんは、
『朝酒といふものは旨いものだ』
こんなことを言つて、朝飯の時盃を隣の老人にさした。隣の老人は二三度
辞つて見たが、それでも
後では四五杯受けて飲んだ。
隣の老人は、財布にいくらの金をも持つて居なかつた。
只で乗せて伴れて行つて貰へるからこそ出て来たほどの貧しい身には、世話になるは気の毒だとは思ふが、しかし酒を買ふほどの余裕はなかつた。船に売りに来る大福を買つて、それを
弟の少年や
盲目のお婆さんに分けて
遣る位の義理が関の山であつた。孫達の話が出ても、上京する一家族の希望に満ちた有様とは比ぶべくもなかつた。隣の老人はいつも小さくなつて居た。他人の世話になる辛さをもつくづく感じた。
『常さんがしつかりして居るから、本当に仕合だ』
いつもかう言つて調子を合せた。
汽船で行けば一日で到着するほどの
行程だが、和船では中々さう早くは行かなかつた。暑いと言つては休み、眠らなければならないと言つては碇泊し、荷の
積替をすると言つては、岸の小さい
埠頭に綱を
繋いだ。荷の種類に由つては、二時間近くも其岸を離れることが出来ないこともあつた。
其時は『かう手間を取つては仕方がない、これではとても今日東京には
入れない。
此方はまア、船の中で、一晩位余計に寝るのは
好いとしても、
常が遅いツて待つてゐるだらう』かう主婦もお爺さんも
一方ならず気を
揉んだ。お爺さんは、わざと声を
猫撫声にして、『船頭さん、もう出しても
好い時分だね』などゝ声をかけた。
ある浅瀬では、余り暑いので、船頭が裸で水の中を泳いで居ると、
船縁で見て居た
弟の方の少年は、堪らなくなつたというやうに着物を脱いで、ザンブと水の中に飛び込んだ。『大丈夫ですよ、私等がついて居るから』船頭はかう言つて心配する主婦の方を見て言つた。
連日の快晴で、水の浅くなつた処などもをり/\あつた。上りの小蒸汽が白いペンキ塗の船体を暑い
日影にキラキラさせて、浅瀬につかへて居る
傍をも通つて行つた。汽船では乗客を皆な別の船に移して、荷を軽くして船員
総がゝりで、長い
竿棹を五本も六本も浅い州に
突張つて居た。しかも汽船は容易に動かなかつた。煙突からは白い薄い
煙が
徒らに立つて居た。
其日も暑い日であつた。それに風がなかつた。
上りも
下りも帆を揚げて居る船は一隻もなかつた。一人の船頭の胸からは油汗が流れ、一人の船頭の眼からは
眼脂が流れた。人々は岸の人家や土手の樹木の移つて行くことの遅いのに段々
倦んで来た。それにヂリヂリと上から照り附けられる
苫の中も暑かつた。
盲目の婆さん
[#「婆さん」は底本では「姿さん」]は、
襦袢一つになつて、
濡して
絞つて貰つた手拭を、
皺の深い胸の処に当てゝ居た。
川に臨んで
白堊造の土蔵の見える処に来たのは、其日の午後であつた。
此処には有名な
白味淋の問屋があつた。酒も
灘酒に匹敵するやうなのが出来た。もう持つて来た酒を大抵飲み尽した爺さんは、『船頭さん、
其処に行つたら
鳥渡寄せて下さいよ』余程前からかう言つて其岸に来るのを待つて居た。
『
此処の
白味淋はそれや旨いな』
船頭達もかう語り合つた。
『買つて来て
上げやしやうか』と一人の船頭が言ふのを、『何に、私が買つて来る、他に用もある』かう言つて断つた爺さんは、途中で船頭に飲まれるのをひそかに恐れて居た。爺さんは
徳利を
下げて、禿頭を日に光らせながら踏板を伝つて行つた。
七
徒歩で行けば
其処から東京まで三里位しかないという
河岸に来て、船頭はまた船を
繋いだ。とても今日は東京に入ることは出来ないから、暑い中を
此処で休んで涼しくなつてから
出懸けやうといふ船頭の腹であつた。
船に飽きた人々は皆な不平を言つたが、しかし
真夜半に東京に着いても仕方がなかつた。
止むなく
此処で待つことにした。
と、隣の老人は、
『
甚だ失礼ぢやが
······まだ日が高いし、それに今日東京に
入つて置くと、都合が
好いから
私は
此処で失礼して歩いて行かうと思ふんぢやが
······』
かう言ひ出した。世話になるのも気に
懸れば、爺さんから酔つてチクチク言はれるも辛かつた。
誰も
引留めはしなかつたが、しかし余り
好い心地もしなかつた。
『
定公、また東京で逢はうな』
持つて来た風呂敷包を
背負つて、古びた
蝙蝠傘を持つて、すり減した
朴歯の下駄を
穿いて、しよぼたれた
風をして、隣の老人は
暇を告て行つた。土手の上には枝を張つた大きな
栃の樹があつて、其傍の
葭簀張には、午後四時過ぎの日影が照つて居た。兄の少年は其の隣の老人がとぼ/\と土手に登つて行くのを見えなくなるまで見送つて居た。
『もう歩いて行かれるからツて、
此処まで連れて来て
貰つて、余り勝手過ぎるのさ
||』主婦はかう言つた。
『碌に銭を持たねえで、人の借りた船で、飯も酒も食つたり飲んだりして
此処で
下りるツて、好く言へたもんだ』爺さんもこんなことを言つた。
八
涼しくなつた頃から、船頭は船を漕ぎ出した。もう海はさして遠くなかつた。岸には
芦荻や藻が繁つて、夕日が
汀を赤く染めた。
それに
幸に追手の夕風が吹いた。船頭は帆を
揚げて、
楫をギイと鳴らして、
暢気に煙草をふかした。誰の心も船のやうに早く東京に向つて
馳せて居た。
古戦場だといふ高い崖の下を通る頃には、もう夕暮の薄暗い色が、広い川一面に蔽ひかゝつた。
東京に
入つて行く掘割は、それから一里ほど
下つた処にあつた。それは川口といふところで、和船で交通をする時分には、随分
繁華な船着であつた。かなり聞えた料理屋も二三軒はあつた。
其処では田舎にめづらしい海の魚が食へた。赤い帯を
締めて
戯談を言ふ女も大勢居た。藩の
好い家柄の
子息で女房子がありながら、
此処でさういふ女に
溺れて評判に立てられたこともあつた。其頃東京に出る人は、『川口に行けば、むきみ汁が食へる』かう言つて誰も楽しみにして来た。
しかし今ではわざ/\寄つて食事をして行くものもなかつた。料理屋も段々つぶれて
了つて、一番下等なのが唯一軒残つた。爺さんは此家の
爺婆に昔から懇意であつた。一家族の人々は船から
上つて、暗いランプのついた狭い汚い間で、兼ねて噂に聞いて居る
生魚とむきみ汁とを食つた。
兄の少年の眼には
曾て栄えたところとは
何うしても見えなかつた。闇の
田圃の中に、五六軒
茅葺家があつて、
其処から灯が唯ちら/\見えた。
此処でも、船頭は矢張容易に船を出さなかつた。待ちかねて爺さんが其
所在を尋ねに行つた。やがて『酒を飲んで酔ぱらつてゐやがる』かう言つて帰つて来た。
船が出た頃には、遅く出た月がもう高くなつて居た。狭い掘割の両側には
種々な樹が繁つて、それが月の光を
篩して、美しい
閃きを水に投げた。
夜はしんとして居た。ところ/″\にかゝつてゐる船の
苫の中からは灯が見えた。犬の吠える声が
四辺に響いて高く聞えた。
夏の
夜は
明易かつた。両側に人家が続いたり、橋が
架つたりするあたりに来る頃には、もう
全く
明放れて居た。
小さい
艫を軽く操つて、物を売つて行く舟もあつた。
『そら、見ろよ
······あゝやつて、東京では朝早くあさりを売つて歩くんだぞ』
母親は兄の少年に
指して見せた。
『もう、
此処は東京かえ?』
弟がかう訊くと、
『東京ともよ。深川ツて言ふ処だぞよ』
少年達の眼には見ゆるものが皆なめづらしかつた。白壁の土蔵、ブリキの屋根
||河の岸には綺麗な路があつて、
其処を人がチラホラ歩いて居た。
たぷたぷとさして来る朝の潮、高く
架けられた絵のやうな橋、綺麗な
衣服を着て其上を通つて行く女、ぶつつかりはしないかと思はれるほど近く
掠めて行く多くの舟、大河の
碧に
捺したやうに白く見える小さい汽船
||漸く起つて来る雑然とした朝の物の響は、二人の少年の前に忙しい都会を
展げて見せた。
(「早稲田文学」明治43[#「43」は縦中横]年7月号)