夕方、五時頃うかゞひますと云ふ電話であつたので、きんは、一年ぶりにねえ、まァ、そんなものですかと云つた心持ちで、電話を離れて時計を見ると、まだ五時には二時間ばかり間がある。まづその間に、何よりも風呂へ行つておかなければならないと、女中に早目な、夕食の用意をさせておいて、きんは急いで風呂へ行つた。別れたあの時よりも若やいでゐなければならない。けつして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆつくりと湯にはいり、帰つて来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になつたガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔が赧くしびれて来た。五十六歳と云ふ女の年齢が胸の中で牙をむいてゐるけれども、きんは女の年なんか、長年の修業でどうにでもごまかしてみせると云つたきびしさで、取つておきのハクライのクリームで冷い顔を拭いた。鏡の中には
きんは、洋服は此時代になるまで一度も着た事はない。すつきりとした真白い縮緬の襟に、藍大島の絣の袷、帯は薄いクリーム色の白筋博多。水色の帯揚げは絶対に胸元にみせない事。たつぷりとした胸のふくらみをつくり、腰は細く、地腹は伊達巻で締めるだけ締めて、お尻にはうつすりと真綿をしのばせた腰蒲団をあてて西洋の女の粋な着つけを自分で考へ出してゐた。髪の毛は、昔から茶色だつたので、色の白い顔には、その髪の毛が五十を過ぎた女の髪とも思はれなかつた。大柄なので、裾みじかに着物を着るせゐか、裾もとがきりつとして、さっぱりしてゐた。男に逢ふ前は、かならずかうした玄人つぽい地味なつくりかたをして、鏡の前で、
いまから思へば、かうした事も、みんな遠い過去のことになつてしまつたけれども、きんは自分が現在五十歳を過ぎた女だとはどうしても合点がゆかなかつた。長く生きて来たものだと思ふ時もあつたが、また短い青春だつたと思ふ時もある。養母が亡くなつたあと、いくらもない家財は、きんの貰はれて来たあとに生れたすみ子と云ふ義妹にあつさり継がれてしまつてゐたので、きんは養家に対して何の責任もない躯になつてゐた。
きんが田部を知つたのは、すみ子夫婦が戸塚に学生相手の玄人下宿をしてゐる頃で、きんは、三年ばかり続いていた旦那と別れて、すみ子の下宿に一部屋を借りて気楽に暮してゐた。太平洋戦争が始つた頃である。きんはすみ子の茶の間で行きあふ学生の田部と知りあひ、親子ほども年の違ふ田部と、何時か人目を忍ぶ仲になつてゐた。五十歳のきんは、知らない人の目には三十七八位にしか見えない若々しさで、眉の濃いのが匂ふやうであつた。大学を卒業した田部はすぐ陸軍少尉で出征したのだけれども、田部の部隊はしばらく広島に駐在してゐた。きんは、田部を尋ねて二度ほど広島へ行つた。
広島へ着くなり、旅館へ軍服姿の田部が尋ねて来た。革臭い田部の体臭にきんはへきえきしながらも、二晩を田部と広島の旅館で暮した。はるばると遠い地を尋ねて、くたくたに疲れてゐたきんは、田部の逞ましい力にほんろうされて、あの時は死ぬやうな思ひだつたと人に告白して云つた。二度ほど田部を尋ねて広島に行き、その後田部から幾度電報が来ても、きんは広島へは行かなかつた。昭和十七年に田部はビルマへ行き、終戦の翌年の五月に復員して来た。すぐ上京して来て、田部は沼袋のきんの家を尋ねて来たが、田部はひどく老けこんで、前歯の抜けてゐるのを見たきんは昔の夢も消えて失望してしまつた。田部は広島の生れであつたが、長兄が代議士になつたとかで、兄の世話で自動車会社を起して、東京で一年もたゝない間に、見違へるばかり立派な紳士になつてきんの前に現はれ、近々に細君を貰ふのだと話した。それからまた一年あまり、きんは田部に逢ふ事もなかつた。||きんは、空襲の激しい頃、捨て値同様の値段で、現在の沼袋の電話つきの家を買ひ、戸塚から沼袋へ疎開してゐた。戸塚とは眼と鼻の近さでありながら、沼袋のきんの家は残り、戸塚のすみ子の家は焼けた。すみ子達が、きんのところへ逃げて来たけれども、きんは、終戦と同時にすみ子達を追ひ出してしまつた。尤も追ひ出されたすみ子も、戸塚の焼跡に早々と家を建てたので、かへつていまではきんに感謝してゐる有様でもあつた。今から思へば、終戦直後だつたので、安い金で家を建てる事が出来たのである。
きんも熱海の別荘を売つた。手取り三十万近い金がはいると、その金でぼろ家を買つては手入れをして三、四倍には売つた。きんは、金にあわてると云ふ事をしなかつた。金銭と云ふものは、あわてさへしなければすくすくと雪だるまのやうにふくらんでくれる利徳のあるものだと云ふ事を長年の修業で心得てゐた。高利よりは安い利まはりで固い担保を取つて人にも貸した。戦争以来、銀行をあまり信用しなくなつたきんは、なるべく金を外へまはした。農家のやうに家へ積んで置く愚もしなかつた。その使ひにはすみ子の良人の浩義を使つた。幾割かの謝礼を払へば、人は小気味よく働いてくれるものだと云ふ事もきんは知つてゐた。女中との二人住ひで、四間ばかりの家うちは、外見には淋しかつたのだけれども、きんは少しも淋しくもなかつたし、外出ぎらひであつてみれば、二人暮しを不自由とも思はなかつた。泥棒の要心には犬を飼ふ事よりも、戸締りを固くすると云ふ事を信用してゐて、何処の家よりもきんの家は戸締りがよかつた。女中は唖なので、どんな男が尋ねて来ても他人に聞かれる心配はない。その癖きんは、時々、むごたらしい殺され方をしさうな自分の運命を時々空想する時があつた。息を殺してひつそりと静まり返つた家と云ふものを不安に思はないでもない。きんは、朝から晩までラジオをかける事を忘れなかつた。きんはその頃、千葉の松戸で花壇をつくつてゐる男と知りあつてゐた。熱海の別荘を買つた人の弟だとかで、戦争中はハノイで貿易の商社を起してゐたのだけれども、終戦後引揚げて来て、兄の資本で松戸で花の栽培を始めた。年はまだ四十歳そこそこであつたが、頭髪がつるりと禿げて、年よりは老けてみえた。板谷清次と云つた。二三度家の事できんを尋ねて来たけれども、板谷は何時の間にかきんの処へ週に一度は尋ねて来るやうになつてゐた。板谷が来始めてから、きんの家は美しい花々の土産で賑はつた。||今日もカスタニアンと云ふ黄いろい薔薇がざくりと床の間の花瓶に差されてゐる。銀杏の葉、すこし零れてなつかしき、薔薇の園生の霜じめりかな。黄いろい薔薇は年増ざかりの美しさを思はせた。誰かの歌にある。霜じめりした朝の薔薇の匂ひが、つうんときんの胸に思ひ出を誘ふ。田部から電話がかゝつてみると、板谷よりも、きんは若い田部の方に惹かれてゐる事を悟る。広島では辛かつたけれども、あの頃の田部は軍人であつたし、あの荒々しい若さも今になれば無理もなかつた事だとつまされて嬉しい思ひ出である。激しい思ひ出ほど、時がたてば何となくなつかしいものだ。||田部が尋ねて来たのは五時を大分過ぎてからであつたが、大きな包みをさげて来た。包みの中から、ウイスキーや、ハムや、チーズなぞを出して、長火鉢の前にどつかと坐つた。もう昔の青年らしさはおもかげもない。灰色の格子の背広に、黒つぽいグリンのズボンをはいてゐるのは如何にも此時代の機械屋さんと云つた感じだつた。「相変らず綺麗だな」「さう、有難う、でも、もう駄目ね」「いや、うちの細君より色つぽい」「奥さまお若いンでせう?」「若くても、田舎者だよ」きんは、田部の銀の煙草ケースから一本煙草を抜いて火をつけて貰つた。女中がウイスキーのグラスと、さつきのハムやチーズを盛りあはせた皿を持つて来た。「いゝ娘だね······」田部がにやにや笑ひながら云つた。「えゝ、でも唖なのよ」ほゝうと言つた表情で、田部はぢいつと女中の姿をみつめてゐた。柔和な眼もとで、女中は丁寧に田部に頭をさげた。きんは、ふつと、気にもかけなかつた女中の若さが目障りになつた。「御円満なのでせう?」田部はぷうと煙を吹きながら、あゝ僕ンとこかいと云つた顔で、「もう来月子供が生れるンだ」と言つた。へえ、さうなのと、きんはウイスキーの瓶を持つて、田部のグラスにすゝめた。田部は美味さうにきゆうとグラスを空けて、自分もきんのグラスにウイスキーをついでやつた。「いゝ生活だな」「あら、どうして?」「外は嵐がごうごうと吹き荒さんでゐるのにさ、君ばかりは何時までたつても変らない······不思議な人だよ。どうせ、君の事だから、いゝパトロンがゐるンだらうけど、女はいゝな」「それ、皮肉ですか? でも、私、別に、田部さんに、そんな風な事云はれる程、貴方に御厄介かけたつて事ないわね?」「憤つたの? さうぢやないンだよ。さうぢやないンだ。あンたは倖せな人だつて言ふンだよ。男の仕事つて辛いもンだから、つい、そンな事を云つたのさ。いまの世は、あだやおろそかには暮せない。喰ふか喰はれるかだ。僕なンか、毎日ばくちをして暮してゐるやうなもンだからね」「だつて、景気はいゝンでせう?」「よかないさ······あぶない綱渡り、耳鳴りがする位辛い金を使つてゐるンだぜ」きんは黙つてウイスキーをなめた。壁ぎはでこほろぎが啼いてゐるのがいやにしめつぽい。田部は、二杯目のウイスキーを飲むと、荒々しくきんの手を火鉢越しにつかんだ。指環をはめてゐない手が絹ハンカチのやうに頼りないほど柔い。きんは手の先きにある力をぢつと抜いて、息を殺してゐた。力の抜けてゐる手は無性に冷たくてぼつてりと柔い。田部の酔つた目には、昔の様々が渦をなし心に迫つて来る。昔のまゝの美しさで女が坐つてゐる。不思議な気がした。絶えず流れる歳月のなかに少しづつ経験が積み重なつてゆく。その流れのなかに、飛躍もあれば墜落もある。だが、昔の女は何の変化もなく太々しくそこに坐つてゐる。田部はぢいつときんの眼をみつめた。眼をかこむ小皺も昔のままだ。輪郭も崩れてはゐない。この女の生活の情態を知りたかつた。この女には社会的の反射は何の反応もなかつたのかもしれない。箪笥を飾り長火鉢を飾り、豪華に群生した薔薇の花も飾り、につこりと笑つて自分の前に坐つてゐる。もう、すでに五十は越してゐる筈だのに、匂ふばかりの女らしさである。田部はきんの本当の年齢を知らなかつた。アパート住ひの田部は、二十五歳になつたばかりの細君のそゝけた疲れた姿を瞼に浮べる。きんは火鉢のひき出しから、のべ銀の細い煙管を出して、小さくなつた両切りをさして火をつけた。田部が、時々膝頭をぶるぶるとゆすぶつてゐるのが、きんには気にかゝつた。金銭的に参つてゐる事でもあるのかも知れないと、きんはぢいつと田部の表情を観察した。広島へ行つた時のやうな一途な思ひはもうきんの心から薄れ去つてゐる。二人の長い空白が、きんには現実に逢つてみるとちぐはぐな気がする。さうしたちぐはぐな思ひが、きんにはもどかしく淋しかつた。どうにも昔のやうに心が燃えてゆかないのだ。この男の肉体をよく知つてゐると云ふ事で、自分にはもうこの男のすべてに魅力を失つてゐるのかしらとも考へる。雰囲気はあつたにしても、かんじんの心が燃えてゆかないと云ふ事に、きんは焦りを覚える。「誰か、君の世話で、四十万ほど貸してくれる人ない?」「あら、お金のこと? 四十万なンて大金ぢやないの?」「うん、いま、どうしても、それだけ欲しいンだよ。心当りはない?」「ないわ、第一、こんな無収入な暮しをしてゐる私に、そンな相談をしたつて無理ぢやないの······」「さうかなア、うんと、利子をつけるが、どうだらう?」「駄目! 私にそンな事おつしやつても無理よ」きんは、急に寒気だつやうな気がした。板谷との長閑な間柄が恋ひしくなつて来る。きんは、がつかりした気持ちで、しゆんしゆんと沸きたつてゐるあられの鉄瓶を取つて茶を淹れた。「二十万位でもどうにかならない? 恩にきるンだがなア······」「をかしな人ね? 私にお金のことをおつしやつたつて、私にはお金のない事よく判つていらつしやるぢやないの······。私がほしい位のものだわ。私に逢ひたい為に来て下すつたンぢやなく、お金の話で、私のとこへいらつしたの?」「いや、君に逢ひたい為さ、そりやア逢ひたい為だけど、君になら、何でも相談が出来ると思つたからなンだよ」「お兄様に相談なさればいゝのよ」「兄貴には話せない金なンだ」きんは返事もしないで、ふつと、自分の若さも、もうあと一二年だなと思ふ。昔の焼きつくやうな二人の恋が、いまになつてみると、お互ひの上に何の影響もなかつた事に気がついて来る。あれは恋ではなく、強く惹きあふ雌雄だけのつながりだつたのかも知れない。風に漂ふ落葉のやうなもろい男女のつながりだけで、こゝに坐つてゐる自分と田部は、只、何でもない知人のつながりとしてだけのものになつてゐる。きんの胸に冷やかなものが流れて来た。田部は思ひついたやうに、にやりとして、「泊つてもいゝ?」と小さい声で、茶を呑んでゐるきんに尋ねた。きんは吃驚した眼をして、「駄目よ。こんな私をからかはないで下さい」と、眼尻の皺をわざとちぢめるやうにして笑つた。美しい皓い入れ歯が光る。「いやに冷酷無情だな。もう、一切金の話はしない。一寸、昔のきんさんに甘つたれたンだ。でも、||こゝは別世界だものね。君は悪運の強い人だよ。どんな事があつたつてくたばらないのは偉い。いまの若い女なンか、そりやアみじめだからね。君、ダンスはしないの?」きんは、ふゝんと鼻の奥でわらつた。若い女がどうだつて云ふンだらう······。私の知つた事ぢやないわ。「ダンスなンて知らないわ。貴方なさるの?」「少しはね」「さう、いゝ方があるンでせう? それでお金がいるンじやないの?」「馬鹿だなア、女にみつぐ程、ぼろい金まうけはしてゐない」「あら、でも、とても、その身だしなみは紳士ぢやないのよ。相当なお仕事でなくちや、出来ない芸だわ」「これははつたりなンだ。ふところはぴいぴいなンだぜ。
長い歳月に晒らされたと言ふ事が、複雑な感情をお互ひの胸の中にたゝみこんでしまつた。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻つては来ないほど、二人とも並行して年を取つて来たのだ。二人は黙つたまゝ現在を比較しあつてゐる。幻滅の輪の中に沈み込んでしまつてゐる。二人は複雑な疲れ方で逢つてゐるのだ。小説的な偶然はこの現実にはみぢんもない。小説の方がはるかに甘いのかも知れない。微妙な人生の真実。二人はお互ひをこゝで拒絶しあふ為に逢つてゐるに過ぎない。田部は、きんを殺してしまふ事も空想した。だが、こんな女でも殺したとなると罪になるのだと思ふと妙な気がした。誰からも注意されない女を一人や二人殺したところで、それが何だらうと思ひながらも、それが罪人になつてしまふ結果の事を考へると馬鹿々々しくなつて来るのだ。たかが虫けら同然の老女ではないかと思ひながらも、この女は何事にも動じないでこゝに生きてゐるのだ。二つの箪笥の中には、五十年かけてつくつた着物がぎつしりと這入つてゐるに違ひない。昔、ミッシェルとか言つた仏蘭西人に贈られた腕環を見せられた事があつたけれども、あゝした宝石類も持つてゐるに違ひない。この家も彼女のものであるにきまつてゐる。唖の女中を置いてゐる女の一人位を殺したところで大した事はあるまいと空想を逞しくしながらも、田部は、此女に思ひつめて、戦争最中あひゞきを続けてゐた学生時代の、この思ひ出が息苦しく生鮮を放つて来る。酒の酔ひがまはつたせゐか、眼の前にゐるきんのおもかげが自分の皮膚の中に妙にしびれ込んで来る。手を触れる気もないくせに、きんとの昔が量感を持つて心に影をつくる。
きんは立つて、押入れの中から、田部の学生時代の写真を一枚出して来た。「ほゝう、妙なもの持つてゐるンだね」「えゝ、すみ子のところにあつたのよ。貰つて来たの、これ、私と逢ふ前の頃のね。この頃の貴方つて貴公子みたいよ。紺飛白でいゝぢやない? 持つていらつしやいよ。奥さまにお見せになるといゝわ。綺麗ね。いやらしい事を言ふひとには見えませんね」「こんな時代もあつたンだね?」「ええ、さうよ。このまゝですくすくとそだつて行つたら、田部さんは大したものだつたのね?」「ぢやァ、すくすくとそだたなかつたつて言ふの?」「ええ、さう」「そりやァ、君のせゐだし、長い戦争もあつたしね」「あら、そンな事、こじつけだわ。そンな事は原因にならなくてよ。貴方つて、とても俗になつちやつた······」「へえ······俗にね。これが人間なンだよ」「でも、長い事、此写真を持ち歩いてゐた私の純情もいゝぢやァないの?」「多少は思ひ出もンだらうからね。僕にはくれなかつたね?」「私の写真?」「うん」「写真は怖いわ。でも、昔の私の芸者時代の写真、戦地に送つて上げたでせう?」「どこかへおつことしちやつたなァ······」「それごらんなさい。私の方が、ずつと純だわ」
長火鉢のとりでは、仲々崩れそうにもない。田部は、もうすつかり酔つぱらつてしまつた。きんの前にあるグラスは、始めの一杯をついだまゝのが、まだ半分以上も残つてゐる。田部は冷たい茶を一気に呑んで、自分の写真を興味もなく横板の上に置いた。「電車、大丈夫?」「帰れやしないよ。このまゝ酔つぱらひを追ひ出すのかい」「えゝ、さう、ぽいと放り出しちやふわ。こゝは女の家で、近所がうるさいですからね」「近所? へえ、そンなもの君が気にするとは思はないな」「気にします」「旦那が来るの?」「まァ! 厭な田部さん、私、ぞつとしてしまつてよ。そンなこと言ふ貴方つてきらひッ!」「いゝさ。金が出来なきや、二三日帰れないンだ。こゝへ置いて貰ふかな······」きんは、両手で頬杖をついて、ぢいつと大きい眼を見はつて田部の白つぽい唇を見た。百年の恋もさめ果てるのだ。黙つて、眼の前にゐる男を吟味してゐる。昔のやうな、心のいろどりはもうお互ひに消えてしまつてゐる。青年期にあつた男の恥ぢらひが少しもないのだ。金一封を出して戻つてもらひたい位だ。だが、きんは、眼の前にだらしなく酔つてゐる男に一銭の金も出すのは厭であつた。初々しい男に出してやる方がまだましである。自尊心のない男ほど厭なものはない。自分に血道をあげて来た男の初々しさをきんは幾度も経験してゐた。きんは、さうした男の初々しさに惹かれてゐたし、高尚なものにも思つてゐた。理想的な相手を選ぶ事以外に彼女の興味はない。きんは、心の中で、田部をつまらぬ男になりさがつたものだと思つた。戦死もしないで戻つて来た運の強さが、きんには運命を感じさせる。広島まで田部を追つて行つた、あの時の苦労だけで、もうこの男とは幕にすべきだつたと思ふのだつた。「何をじろじろ人の顔見てるンだ?」「あら、あなただつて、さつきから、私をじろじろ見てて何かいゝ気な事考へてゐたでせう?」「いや、何時逢つても美しいきんさんだと見惚れてゐたのさ······」「さう、私も、さうなの。田部さんは立派になつたと思つて······」「逆説だね」田部は、人殺しの空想をしてゐたのだと口まで出かけてゐるのをぐつとおさへて、逆説だねと逃げた。「貴方はこれから男ざかりだから愉しみだわね」「君もまだまだじやないの?」「私? 私はもう駄目。このまゝしぼんでゆくきり。二三年したら、田舎へ行つて暮したいのよ」「ぼろぼろになるまで長生きして、浮気するつて云つたのは嘘?」「あら、そんな事、私云ひませんよ。私つて、思ひ出に生きてる女なのよ。只、それだけ。いゝお友達になりませうね」「逃げてるね。女学生みたいな事を云ひなさンなよ。えゝ。思ひ出だのつてものはどうでもいゝな」「さうかしら······だつて、柴又へ行つたの云ひ出したの貴方よ」田部はまた膝をぶるぶるとせつかちにゆすぶつた。金が欲しい。金。何とかして、只、五万円でも、きんに借りたいのだ。「本当に都合つかないかねえ。 店を担保に置いても駄目?」「あら、また、お金の話? そンな事私におつしやつても駄目よ。私、一銭もないのよ。そンなお金持ちも知らないし、あるやうでないのが金ぢやないの。私、貴方に借りたい位だわ······」「そりやァうまくゆけば、うんと君に持つて来るさ。君は、忘れられない人だもの、······」「もう沢山よ、そンなおせじは······お金の話しないつて云つたでせう?」わあつと四囲いちめん水つぽい秋の夜風が吹きまくるやうで、田部は、長火鉢の火箸を握つた。一瞬、凄まじい怒りが眉のあたりに這ふ。謎のやうに誘惑される一つの影に向つて、田部は火箸を固く握つた。雷光のやうなとゞろきが動悸を打つ。その動悸に刺激される。きんは何とない不安な眼で田部の手元をみつめた。いつか、こんな場面が自分の周囲にあつたやうな二重写しを見るやうな気がした。「貴方、酔つてるのね、泊つて行くといゝわ······」田部は泊つて行くといゝと云はれて、ふつと火箸を持つた手を離した。ひどく酩酊したかつかうで、田部はよろめきながら厠へ立つて行つた。きんは田部の後姿に予感を受け取り、心のうちでふふんと軽蔑してやる。この戦争ですべての人間の心の環境ががらりと変つたのだ。きんは、茶棚からヒロポンの粒を出して素早く飲んだ。ウイスキーはまだ三分の一は残つてゐる。これをみんな飲ませて、泥のやうに眠らせて、明日は追ひ返してやる。自分だけは眠つてゐられないのだ。よく熾つた火鉢の青い炎の上に、田部の若かりしころの写真をくべた。もうもうと煙が立ちのぼる。物の焼ける匂ひが四囲にこもる。女中のきぬがそつと開いてゐる襖からのぞいた。きんは笑ひながら手真似で、客間に蒲団を敷くやうに言ひつけた。紙の焼ける匂ひを消す為に、きんは薄く切つたチーズの一切れを火にくべた。「わァ、何焼いてるの」厠から戻つて来た田部が女中の豊かな肩に手をかけて襖からのぞき込んだ。「チーズを焼いて食べたらどンな味かと思つて、火箸でつまんだら火におつことしちまつたのよ」白い煙の中に、まっすぐな黒い煙がすつと立ちのぼつてゐる。電気の円い硝子笠が、雲の中に浮いた月のやうに見えた。あぶらの焼ける匂ひが鼻につく。きんは、煙にむせて、四囲の障子や襖を荒々しく開けてまはつた。
(「別冊文芸春秋」昭和23[#「23」は縦中横]年11[#「11」は縦中横]月号)