「ツル菜鍋とは変ってるね」
「ツル菜じゃない、鶴······それも、狩野流のリウとした丹頂の鶴です。鶴は千年にして黒、三千年にして白鶴といいますが、白く抜けきらないところがあるから、二千五百年くらいのやつでしょう」
「そんなものなら自慢することはない。むかし、鶴の罐詰というのがあって、子供のころ、よく食わされた······丹頂の鶴が短冊をくわえて飛んでいる極彩色のレッテルを貼って、その短冊に『千年長命』と書いてあるんだ。こんなものを食ったおかげで、千年も長生きをするんじゃたまらないと思って、子供心ながら、だいぶ気にした」
「あなたのお話は、いつも、どこかズレているのでハラハラしますよ。それは人魚のまちがいでしょう。長寿にあやかるということはありますが、鶴を食って長生きをしたという
「まことしやかに、なにかいうね。君はどうしてそんなことを知っているんだい」
「あの罐詰をやっていたのは、あたしの叔父なんだから、あきらめていただきましょう」
「これは恐れいった。すると、あれは鶴でなくて雉だったんだね」
「南鮮にそいつがむやみにいて、粟を食ってしようがない。そのため、ときどき大仕掛けな害鳥捕獲をやるんですが、名のとおりに、泥臭くて煮ても焼いても食えない。あたしの叔父は利口だから、それで、ああいう見事なことを思いついたんですが、日本には、あなたのようなとぼけたひとが多いので、これは大いに
鶴の話ばかりしていて、いっこうに鍋ははじまらない。冬木は落着かなくなって、そろそろやろうかと催促すると、冬亭は、
「やろうといったって、鶴はまだない。これから、ひねりに行くんです」と
となりの鹿島の邸の庭にいる鶴が、毎晩のように飛んできて、冬亭が飼っている鯉を、十何匹とか食ってしまったので、そのしかえしに、おびきだしてひねってしまうという話なのである。
「あたしは脚を抱えこみますから、あなたは嘴を掴んでいただきます。あれでこつんとやられると、頭に穴があきますから」
冬木は冗談じゃないと思って、
「僕はまだなんともいっていないぜ。あっさりいうけど、むこうだって
相手になりたくないようなようすを見せたが、冬亭にはまるっきり感じがなく、両手をひろげて、眼の前の空気をかき抱くようなしぐさをしながら、
「あたしが、こんなふうに、
冬木は、なんといわれても動かないことにきめ、
「そういうことなら、鶴鍋も億劫だ。ぼくは葱だけでいいよ、鶴はいらない」
じゃけんに、つっぱねると、冬亭は怒ったような顔になって、
「そんなことをいったって、あんな大きなものを、一人でひねれやしないですよ。やっていただかなくては、こまります」
強くいって立ちあがると、
「お立ちなさい、さあ」
ものものしく尻はしょりをして、子供のように足をじたばたさせた。冬木は横をむいてしらん顔をしていると、冬亭は痩せ脛を
「嫌ならいやでいいですが、懐手ばかりしていないで、せめて、手ぐらい出しなさい」
というと、縁の端のほうへ行ってすねたようにあぐらをかいた。
冬亭の胡坐というのは、このながいつきあいの間にも、まだいちども見たことがなかった。めずらしいことをするものだと思って、ようすをうかがっていると、冬亭は縁無し眼鏡をチカチカさせながらこちらへむいて、いきなり、「馬鹿野郎」と一喝した。
冬月師の句会で、はじめて冬亭に逢ったとき、冬月師は、こちらは土井さん、大学で美学を講じていられる助教授でと紹介した。
鶴鍋などというのは、冗談なのにちがいない。
風よ惜しめ一つこもり居る薔薇の
という冬亭の最近の句は、例によってさんざんな目に逢った。冬木もひと太刀浴びせた組だが、冬月師は、つぎに出てくるものを待とうといい、期するところがあるようで、冬亭としても、この月の句会には、どうしても秀作をものしなくてはならない絶命にいた。察しるところ、秋色の池の
冬木は立ちあがって、かいがいしくじんじんばしょりをすると、
「なんだか面白くなってきた。おれも行くよ」
というと、冬亭は機嫌をなおして、
「行ってくださいますか。
と、いいかけて、顔を
「なんといったんだ?」
と、はぐらかしてしまったが、すると、きょうの鶴鍋は、句のことではなく、文女に関係のあることなのだと、あらためて、はっとした。
文女は横浜の親戚へ見舞いに行って、あの大空襲にあい、その後、生死不明のままになっている。冬亭はそのころ、毎日、横浜の焼跡へ出かけて、日ねもす文女の消息をたずねまわり、秀麗な趣きのある顔が、見るかげもないようになってしまった。
鹿島の孫娘の
文女は
はじめて冬亭の書斎で逢ったとき、ひきつめにして、薄紅い玉の簪をしていたが、その玉は、なにか途方もないものらしく、深く沈んだ光が、冬木の眼をうってやまなかった。藍系統のくすんだ着付に、ざっとした帯をしめているので、更紗かと思ったら、シャンチョン宮の狩猟の図を織りだした
冬亭と文女が向き合って坐っている光景は、ふしぎきわまるもので、冬亭は煙草ものまず、膝に手をおいたまま、文女のほうは下眼にうつむき、話らしい話もせずに、二時間でも三時間でも坐っている。冬木がその席にいたせいではなく、そういうのが毎度のことらしい。そのとき書斎の窓から
「花というものは、花を見ているあいだは、ほかに、なにもいらないような気持にさせますのね」と、いったきりだった。
二人の気持が、どういうふうに向いていったか、冬木は知らないが、そのうちに、いつ行っても文女が来ているようになった。句作のことではないらしく、冬亭のところへ通いつめているのは、ただごとではないようにみえてきた。
文女の両親は七年ほど前に亡くなって、鹿島の家には祖父の与兵衛が坐りなおしていた。西園寺公や
日本へ帰って、息子に家産を譲ってからも、あいかわらず寛濶に遊びつづけていたが、息子夫婦が文子を残して死ぬと、
洒脱な老人だが、一面、家柄や格式にこだわる頑迷なところもあるので、文子のしたいようにさせているが、最後のぎりぎりのところで、そんな男のところへ
文女が空襲にあうひと月ほど前、冬亭の問題で、なみなみならぬもんちゃくがあったふうで、鹿島老はすっかり依怙地になり、探しにひとを出すようなこともせず、位牌も白木のままで、重ね棚のうえに放りだしてあるというような噂だった。冬亭が口をすべらしたので、なにか文女に関係のあることだと思われるが、冬亭が鹿島の庭へ入りこんでなにをしようというのか、冬木には見当がつかなかった。
黒鉄の裏門を押して入ると、マロニエの並木のある築山の裏にでた。築山の裾を明るい小径がうねりながらむこうにつづき、落葉がいいほどにたまっている。
なんのつもりか、冬亭はマロニエの実を拾っては袂に入れながら、
「この落葉には
というと、カサコソと落葉を踏んで、先に立って歩きだした。
落葉の道を行きつくすと、だしぬけに、ひろびろとした池がひらけた。
冬亭は秋草のなかに分け入って、あちらこちらと池の岸をながめまわしていたが、そのうちに、ひどくはしゃぎだして、
「あそこに鶴がいる······見えますか。むこうの
と、殊更らしく大きな声をだした。
水門のほうへゆるく弧をひろげた池の
「再び一点をつくれば、すなわち俗というのはこれだね。あんなものがいるので、せっかくの庭が俗っぽくなってしまった」
というと、冬亭は池の端にしゃがみこんで煙草を吸いながら、
「そうですよ。乱杭石のあるあたりは、大切な空間なんですから、鶴なんかいるのは困ります」
と気のない調子でいった。冬木は、つまらなくなって、片付けるものは早く片付けてしまえと、
「そろそろやろうか」
と催促すると、冬亭はしぶしぶ立ちあがって、折りとった桔梗を一茎手に持ったまま、鶴のいるほうへぶらぶら歩きだした。
汀について水門のほうへ行くと、
冬亭は岸に立って、漠然と鶴をながめていたが、
「眠っているんですね。起こしてやりましょう」
というと、袂からマロニエの実をだして鶴に投げつけた。鶴は首をあげて、じろりとこちらへふりかえると、ちょっと羽づくろいをし、脚を踏みかえただけで、また動かなくなってしまった。冬亭は、こいつめといいながら、鶴を的にしてマロニエの実を投げていると、うしろで、
「お
という声がした。
ふりかえって見ると、髪も眉も雪のように白い、上背のある七十ばかりの老人が、ゆったりとした着流しで、
冬亭は、すらすらと老人の前へ行って、おじぎをすると、
「失礼ですが、鹿島さんでいらっしゃいますか。わたくしは土井でございます。いちど、お目にかかりたいと思っておりました」
老人は
「わたしは鹿島です。あなたが土井さんですか。わたしも、いちどお目にかかりたいと思っておりました」
と挨拶をかえすと、まじまじと冬亭の顔を見ながら、
「それで、この鶴をどうなさろうというんですか」
とたずねた。冬亭は急に苦しそうなようすになって、
「この鶴が、毎晩のようにわたくしの庭へ飛んでまいりまして、飼っている鯉を食べてしまいましたので、こいつをしめて、鶴鍋にでもしてしまおうと思っているのです」
老人は、おだやかにうなずいて、
「ここに居着いているというだけのことで、わたしのものではありませんから、そういうことだったら、存分にしてくだすっていいのですが、それはそれとして、まあ、こちらへおいでになりませんか。お茶でもさしあげましょう」
そういうと、後手に組んで、いま来たほうへ、ゆっくりとひきかえした。
池の縁をまわって、南下りになった
信州あたりにある三つ割式の
一方は
囲爐裏には黒く煤けた竹筒の自在鍵がかかり、手焙りは粗末な今戸焼、床の間には木の根ッこの置物が一つあるだけで、香爐にも柱掛にも、茶がかったものはひとつもなかった。
「どうぞ、お入り」
慇懃に二人を招じ入れ、三方から囲爐裏を囲むようにして坐ると、老人は茶釜から茶を汲み、すすめるでもなくすすめぬでもなく、それを爐縁のうえに置きながら、
「いま鳴いておりましょう、あれは
余談的なことを、ながながといってから、重ね棚のうえの位牌のほうへ振返って、
「さきほどの鶴の話ですが、あれを食べてしまうことは、ごかんべんねがいたいので······ご承知のことと思いますが、わたしの孫が横浜で空襲にあい、今日まで消息が知れません。これはもう、死んだものとあきらめるほかはないのですが、あの鶴は、横浜に空襲があってから間もなくここへ来て、そのまま居着いておりますが、あの鶴は文の身代りのように思えてなりません。文が死んで、鶴になったともかんがえませんけれども、なんとなくそんな気がいたしましてね······お償いしてすむものなら、どのようにも償いますが、土井さん、いかがでしょう。あの鶴をゆるしていただくわけにはまいりませんでしょうか」
冬亭は顔を赧らめて、
「そういうことでございましたか。存じませんことで、失礼いたしました」
と頭をさげた。
「失礼したとおっしゃるのは、おゆるしくださるという意味なのでしょうか。馬鹿な念を入れるようですが、はっきり伺っておきませんと、安心がなりませんので」
「ゆるすもゆるさないもありません。つまらぬことでお騒がせして、恐縮でした」
老人は、おだやかな顔のまま、
「わたしは、鶴は文の身代りだと申しましたが、それでもゆるしていただけますのでしょうか。言葉を重ねずに、ひと言で返事をおきかせねがいとうございます」
冬亭は、なにかいいかけたが、思いかえしたように口をつぐむと、眼を伏せて、しずまりかえってしまった。
老人は夜うぐいすの声をききすますように、夕月の光のさしかける半蔀のほうをながめていたが、すこし座を下って、畳の上に両手をつくと、
「鶴に罪はありません······こういう不幸にたちいたりましたのは、みなわたしの我儘から起こりましたことで、それにつきましては、このとおり、手をついておわびいたします。鶴は、この冬、越後で雪にあって、長らく
というと、眼をあげて、まじまじと冬亭の顔を見まもった。
一つこもり居る薔薇の紅、という冬亭の句の中に、若い女性がいると、冬木は感じていたが、文女は横浜の空襲で死んでしまったと思いこんでいたので、そうと読みとることができなかった。籠り居るという以上、
冬亭は、なんともいわないので、老人はあきらめたのか、手を膝へ戻して、
「横浜へまいります前日、あれがいろいろに申しましたが、絶対に不賛成だったので、あくまでも反対いたしました。あまりわからないことばかりいうので、愛想をつかして、わたしを捨てることに決心したのだろうと思いますが、ああいうひどい空襲のあとですから、失踪いたしますと、
感情の翳のささぬ、淀みのない調子になって、
「あれは越後から、たびたび手紙をさしあげたそうですが、そういう不分明なことは出来ないとおっしゃって、とうとう、いちどもお逢いくださらなかったというようなことも聞きました······わたしは、こういうひねくれものでございますから、やすやすと信じる気にはなれませんで、いろいろと手をつくして調べさせましたが、
老人は、ふくよかな顔つきで、茶碗をとりあげると、掌のうえでゆっくりと糸底をまわしながら、
「すぐにもおたずねして、お詫びしたいと思いましたが、申そうにも、言葉もない次第で、それに、世間体は、故人になっているために、間にひとを入れるわけにもまいりません······きょう庭先でお見かけしましたので、お詫びとまではなく、せめて、心のほどを、おうちあけしたいと思いましたが、さまざまとお
と冬亭のほうへ笑顔をむけた。冬亭は釣りこまれたようにニコニコ笑いだしながら、
「先日、新潟からお手紙をいただきました······長いあいだ辛抱していたけれども、思いきってよそながらおじいちゃんの顔を見に行くことにした。ああいう不孝のあとなので、
老人は、思わずというふうに顔をゆるめて、
「そういうわけだったのですか。すると、あのとき、誰か芦の間にひそんでいたのでございますね」
「こんどのご上京は、もっぱら、そのためだけのように伺っておりますので、大切な折を、おはずしになるようなことは、なかったろうとぞんじます」
老人はちょっと頭を低めて、
「わたしから、お礼をいう筋ではありませんが、それほどにしていただきまして、さぞかし、故人も恐悦したことでしたろう」
冬木へも、軽く目礼をすると、いつとなく笑顔をおさめて、
「さきほどのくりかえしになりますが、文滋大姉も、あなたのおいいつけどおり、この一年の間、越後の雪の中で
冬亭は頭をさげて、
「さきほどから、さまざまご懇情をいただきまして、ありがたくぞんじておりますが、わたくしのほうにも、ひとつ、おねがいがございますのです」
「どういうことでございましょうか」
「どんな事情がありましょうとも、ただ一人の肉親を捨て去るというのは、由々しいことでして、あなたさまといたしましては、ゆるしがたく、お思いになっていられることとぞんじますが、あの方も、そのためにいろいろとお苦しみになり、十分に、むくいも受けていられるのでございますから、それにめんじて、まげて、もとどおりに、お戻しねがいたいのでございます」
老人は背筋を立てると、いかめしい顔つきになって、
「せっかくのお言葉ですが、文はもうこの世のものではありません。冥途におるものを、わたしがゆるすといってみたところで、戻れるわけのものでもございますまい。わたしがおねがいいたしますのは、肉親を捨て、そのうえに、あなたにまで見放されるのでは、さぞ辛かろうは思って、それで、おねがいいたしますので、わたしのゆるすゆるさぬは、別なことにしていただきましょうです」
冬亭は顔に血の色をあげて、
「わたくしはあの方を愛しておりますので、そばにいていただきたいと、思わないこともございませんでしたが、それでは暗い人生になりますので、それはいたしませんでした。東京と新潟に別れて、つらい辛抱をしておりましたのは、あの方をそちらの籍へお戻しねがいたいためでしたが、ならぬとおっしゃるのでしたら、おゆるしの出るまで、このままでいるほかはございません」
老人は森閑と考え沈んでいたが、眼をあげると急に晴れやかな顔になって、
「それで、文は、いま、どこにおりますのでしょう。もし、近くにいるのでしたら······」
と、それとなく了承の意をしめしたが、冬亭は、そっぽをむきながら、
「今日の夜行で、新潟へお帰りになるように、うかがっていますから、いまごろは、上野の駅にでも、いられるのではないでしょうか」
と冷淡な口調で、こたえた。老人は、うなずいて、
「これは粗忽でした。まだ、おゆるしをいただいていないのですから、あなたにおねがいできる筋ではございませんでした」
そういって、冬木のほうへ膝をむけかえると、
「どういうご関係の方か、ぞんじませんが、たぶん、土井さんとお親しい方とお見受けいたします。唐突で、ごめいわくでもありましょうが、
冬木は、うれしくなって、
「それは、こちらから、おねがいしようかと思っておりましたことです······それで、門は、どちらの門から、お入れしましょうか」
「ご念の入ったことで······今日は、
「時刻は、何時といたしましょうか」
「只今、七時でございますから、正十時ということに」
「たしかに、承りました」
芦の葉先が
老人は左手に家紋入りの提灯を、右手に白扇を持ち、二人の前までくると、荘重に白扇をかまえ、
「ようこそ、お帰り」
と
「おじいちゃん」
というと、肩を震わせて、はげしく泣きだした。