いつお帰りになって? ······昨夜? よかったわ、間にあって······ちょいと咲子さん、昨日、大阪から久能志貴子がやってきたの。しっかりしないと、たいへんよ······ええ、ほんとうの話。あなたを担いでみたって、しようがないじゃありませんか。終戦から六年、その前が四年だから、ちょうど十年ぶり······誰だっておどろくわ。どんなことがあったって、東京へなど出てこられる顔はないはずなのに、そこが志貴子の図々しさよ······木津さん? 心配しているのは、そのことなのよ。なにはともかく、大至急、お耳にいれておくほうがいいと思って、それで······それはもう、あなたさまのおためになることでしたら、いかようにも、相勤めまするでござるだけど、お蔭さまで、今日はくたくた······
ええ、朝の十時ごろ、いきなり築地の「山城」から電話をかけてきたものなの。折入っておねがいしたいことがあるから、どこか静かなところで、一時間ほどお話できないだろうかって。すらっとしたものよ······志貴子の追悼会をやったあと、
あなたはそうでしょうさ。木津さんを釣っておくためなら、どんなことだってするひとなんだから、バレたら、あやまればいいと思っているんでしょうけど、あたしのほうは、悪かったじゃすまないのよ。そうだろうじゃありませんの。志貴子さん、お亡くなりになったんですってねえって、久能徳のうしろにくっついて、まっさきにお悔みに行ったのは、あたしなんだから罪が深いわ。
もしもし、電話、遠いわね。聞えて? ······逢ったわ。もちろんよ、志貴子なんかの話、きいてやる筋はないわけなんだけど、いい気になって、ほっつき歩かれでもしたら事だから、うんと、とっちめて、昨夜のうちにでも大阪へ追い帰してやるつもりだったの······銀座のボン・トンで。なまじっかな場所だと、かえって目につくから、ざわざわしたところのほうがいいと思ったの。······
やってきたわ、二十分も遅れて。腹がたって、ひっぱたいてやろうかと思ったくらい······遅くなったともいわず、ずるずるに椅子に掛けて、「お別れしてから、久しうなりますのンに、ちょっともお変りになってはれしめへんな」なんて、のんびりしたものなの。おぼえているでしょう。神戸にいるころは、朴とかいうボクサーくずれに入りあげて、耳のうしろの肉が落ちて、栄養失調の子供のようないやな感じだったけど、こんどは
面白くないことが、もうひとつあるのよ。当座、見た感じで、たかだか、水通しの本結城と軽く踏んだんですけど、結城はまったくの見そくない······なんというものなのか、粉をふいたような
帯? 帯はね、蝦夷錦の金銀を抜いて、ブツブツの
もしもし、ふふ、あたし······帯はともかく、着物のほうがわからない。吉野でもなし、
それはそうよ、なにかというと、張りあう気でいるひとなんだから、あたしのほうにも、はじめっからツモリはあったの。薄いレモン地に臙脂の細い立縞をよろけさせたお召に、
泣きだしもしなかったわ、あなたとはちがうから······どうしてやろうと思うと、眼がチラチラして、まわりのものがみな浮きあがってくるみたい。なにがなんでも、このままでは帰されない。骨身にしむほど、ぎゅっという目に逢わしてやろうと思うんだけど、久しく不通だったもんだから、志貴子、どんな生活をしているのか、正体がわからない。苛めようにも方針が立たないってわけ。せめて輪郭だけでもつかまないことには、手も足も出ないから、「この四、五年は一年ぐらいの早さですんでしまったけど、数えてみると、あれから、もう十年になるのね。このごろ、どんな生活なの」と釣りだしにかかると、「うちらに生活みたいなもん、あれしません。ぼやぼやと、一日一日がたっていくだけですねん。でも、東京いうたら、いつ来てみても、なんやしらん、ざわついてますねんなァ。うち、山ン中にひっこんでるせいか、こないしてると、中腰で
そうなのよゥ。銀座のような手軽なところへ呼びだされたのが心外だ、という意味でもあるんですけど、要するに、上手にぼやかして尻尾をつかませないの。あたしも、ついムキになって、「あなたは恩知らずよ。あたしたちにあんなに世話になっておきながら、たよりひとつよこさないなんて、あんまりバカにしているじゃないの。今日は、あなたをとっちめに来たんだから、そう思ってちょうだい」とキッパリとやりつけてやると、志貴子は困ったような顔でもするどころか、「あの節は、木津さんのことで、あんじょうお助けをいただきまして、いちどお礼にあがらんならんところでしてんけど、東京方面では、うち、盲腸炎で死んだことになっていて、みなさんに年忌までもしてもろた手前、照れくそうて、手紙みたいもん、書けしません。それに、ひょっとして、木津さんの手ェでも入ったら、それこそ、えらい騒動になって、あなたや咲子さんにご迷惑かける思うて、つつしんでおりましてんわ」まるで恩に着せるようないいかた。「ご殊勝なことだけど、それほど
こうなのよ。「昨夜、麻布に用があって行った帰り、一本道の横通りでバッタリと木津さんと顔が合うてしまいましてん。こら、えらいこっちゃ思うて、いきなり駆けだすと、木津さん、どこまで追うて来やはるやありませんの。駆けっこなら自信があるねんけど、木津さん、コンパス長うて、すぐに追いついてしまはりますねん。どないしょうと思いながら、なんたらいうお寺さんの前までゆくと、門脇の潜戸が開いてますのんで、とっつきの、
そうでもないのよ、平気な顔······いうことがいいじゃありませんか。あたしが死んだと信じきっている証拠を握ったわけだから、これですっかり気持が落ちついた。もう、ビクビクして隠れていることはない。大っぴらに出歩くつもりだ。木津さんに関するかぎり、あたしのことは心配してくれなくともよろし。······
なァに? よく聞えないけど······そんなこといわしておく手はないって? 聞えたわ。なんだか、あたしが叱られてるみたいね。あたしに腹をたててみたってしょうがないじゃありませんか······それでね、咲子さん、べつな話なんだけど、あなたにおわびすることがあるの······もしもし、聞いている? あのね、あたし、木津さんに志貴子を逢わしてやったのよ······ほうら、やっぱり怒ったわね。あなたとしちゃ、木津さんをとるかとりかえされるかというたいへんなところなんでしょうけど、泣き声をだすのはおよしなさいよ、情けなくなるわ······なぜって聞かれても困るんだけど、あたしだって
やっぱり聞きたいんでしょう。だから、つまらない強情を張るのはおよしなさいっていうの······そこは腕よ。その気になったら、志貴子ぐらい釣りだすぐらい、ぜんぜんお軽いのよ。「あなたにはかなわないわね。でも、いまの話を聞いて、あたしもなんだかホッとしたわ、木津さんには悪いけど······平気な顔でおし通すつもりなら、どちらのためにもいいかもしれなくってよ。そんなら、いいパァティにご案内するわ。午後、赤坂離宮で使節団の観光茶会があるのよ。元宮様や大公使の集まり······お出になる気はなくって」。······
元宮様のほうは知らないけど、外交官の
もちろんよ、すぐ乗ってきたわ。「そないなパァティやったら、服は半礼装でっしゃろ。シャールも銀狐ぐらいにせな、恥かくわ」なんて、嚥みこんだようなことをいっているの。茶会をパァティといったのは、洒落のつもりだったんですけど、解釈はむこうさまの自由でしょう。ダンスでもあるつもりで、半礼装かなんかでやってきて、長裾を踏んづけたり、パタパタさせたり、みっともない恰好をして大恥をかくのだろうと思うと、面白くなってしつっこいくらいに誘ってやると、「宮さまいうたかて、このごろは安っぽくなってしもて、汗ェかいてまで、見に行くほどのことはないのンですけど、せっかくですよってに、お伴させてもらいます」。しぶしぶ承知したふうにして、「そのパァティ、何時からやらはるのン」と何気ないようすで聞くのよ。宿へ飛んで帰って、親戚眷族を総動員して、半礼装なるものを探させようという魂胆なんですワ。ええ、もちろんそうなのよ。······
四時に迎えを出すことにして、家へ帰って、こちらはすぐ着付······長襦袢は
なんですって? 聞き捨てにならないことをいうわね。あなたなら、どうされたってうれしいでしょうけど、あたしのほうは、さようなわけにはまいりませんの。そんな扱いをされるおぼえはないんですから、どうしたんだろうと考えていると、すぐアタリがついたわ。ツンツンしているわけじゃないの。なにか、べつなことなの。······
えらい。見ぬいたわ。そうなのよ。昨夜、いまは亡き愛人の仮りの姿に出っくわしたせいで、浮世がはかなくなって、ぼーっとしているところなの。こういう迂濶なひとに、幽霊が足を生やして、半礼装の長裾をパタパタさせながら逃げだすという厳粛な実景を見せて、生悟りに活をいれてやるのは、友情というようなものでしょう······それァ、あたしだって考えないわけはなかろうじゃありませんの。死んだのではなかったと知ったら、また逆上して、志貴子をつけまわすにきまっている。志貴子をあわてさせるのは痛快だけど、木津さんというひとを、手をかけて、わざわざ志貴子のほうへ追いやってしまうようなものだと、妙な気がしないでもなかったけど、乗りかかった舟で、いまさら、あとにひけやしないのよ。
五時に席入りの合図があって、ご先客から順に、一人ずつ座敷飾を拝見して帰ってくるの。あと五人ばかりで、こちらの番になるというのに、なかなかあらわれない。感づいて、体をかわしたとも思わないけど、席へ入ってしまうと、手筈がみなだめになってしまうんですから、お尻で
まァ、お聞きなさいよ。デッサンはちがうけど、帯はマァベルのゴブランで、帯留は沈香の花鏡の透彫りというのは、いったいどういうことなんでしょう······へんだわ、どころの話ですか。大いにあやしいのよ。そんなうまい偶然なんて、あり得るはずがない。誰かが、あたしの着付を志貴子に知らせてやったんだとしか思えない。ご先客のなかに、そういうすばしっこいひとがいたと、考えられなくもないけど、仮りに、あの場から電話で知らしてやったとしても、わずかの間に、着物から帯留まで、こちらとそっくりおなじものを揃えるなんて、どんな奇術をつかったって出来るわけのものではないんですから、考えれば考えるほどわけがわからなくなって、ぼんやりしてしまったわ。ひどくやられちゃって、腹をたてる気力もないの。······
ええもう、そこまでおっしゃってくださらなくとも結構よ。おむこうさまは、あたしのようなずんぐりむっくりとちがって、すらりしゃんとしていらっしゃるんですから、おなじ吉野のひき立つことといったら。着手がちがうと、こうまで変るものかと、つくづく見惚れたくらい。······
そうそう、その話ね。かんじんなところを読み落すところだったわ······木津さん? 待合にいたのよ。はっきりと二人の顔が合ったわけ······どうしたって? これからそこを語ろうというんじゃありませんか······志貴子はドキッとしたらしいけど、そこはバカじゃないから、顔色に出すようなヘマはしない。奥の円座にいる木津さんの顔を、あどけないみたいな眼つきでマジマジと見つめながら、ぼんやりと立っているんだけど、頭のなかは、ひっくりかえるようなさわぎになっているの。待合へ入ったとたんに、こちらの計画を見ぬいてしまったわけなんだから、このところ、志貴子の進退掛引は、よっぽど考慮を要するんですワ······こちらは面白くてたまらない。さっぱりと溜飲をさげて、どう出るだろうと思って高見の見物をしていると、志貴子がいきなりあたしのそばへ来て、わざと木津さんに聞えるような高ッ調子で、「そこにいやはりますのン、木津さんやありませんの」と耳こすりをするじゃありませんか。まさか、そんな出かたをするとは思わない。そこにいるのは、なんといったって木津さんにちがいないんですから、思わず、ええ、そうよ、とうなずいちゃったの。すると志貴子はシナシナしながら木津さんの前へ行って、「木津さんとちがいますか。うち、志貴の妹の志津子ですのン。何年前でしたか知らん、いちど神戸でお目にかかってます」てなことをいって、お辞儀をしたもんです。······
憎らしいでしょうとも。でも、腹をたてるなら、もっと後にしたほうがよくってよ······木津さんのほうも、いっこうに驚かない。白扇を
ところが、それからがたいへんなの。跡見がすんで、あとは
まったく、なんのこった、よ。放っておくと、二人でどこかへ行ってしまいそうだから、離すわけにはいかないでしょう。おさえつけておいて嘘の皮をひンむいて見せないと、木津さんなんてひとは、どんな化かされかたをするか知れたもんじゃないから、二人に追いついて、「ちょいと志貴子さん」と声をかけると、志貴子のやつ、びっくりしたような顔もしないで、「うち、志津子······まちがわんといとうわ」とすらりと受流したものなの。「あら、ごめんなさい。あまりよく似ていらっしゃるもんだから、錯覚を起こしてしまうのよ」「まあ、お上手やこと。うち、姉はんみたい綺麗なことあれしません。そないにいわれると、きまりわるいよってに、やめとほしわ」「なんとか、おっしゃるわ。それはそうと、このままお別れするのもなんですから、ごいっしょに夕食でもいかが。目黒の松柏園なんだけど、どうかしら」
志貴子は、はあといったきり、これが、ぜんぜん煮えきりません。「これから、どこかへおまわりになる?」「まわるとこて、あれしませんけど······木津さんどないしはります?」。志貴子が甘ったれたようなことをいうと、木津さんは木津さんで、「それはもう、結構すぎるくらいですが」なんて、ありありと迷惑そうなようすなの。ちょっとお手洗に行っている間に、早いとこ二人で夕食でもする約束ができてしまったわけ。······
そうですとも、いよいよもって放っておけないことになったから、近いところで、むりやり赤坂の陶々亭へひっぱって行って、支那卓の前へおしすえたものなのよ······志貴子に志貴子だと白状させるぐらいのことは、わけはないと思って、軽く踏んでかかったんですけど、てんで、歯がたたないの。いつの間に、そんなところまで話しあったのか、見当がつかないんですけど、れいの年忌のことまで、抜目なく、ちゃんと吹きこんでしまったみたいで、あのときのことをいいだしても、木津さん、笑うばかりで、受けつけようともしないんだから、あたしもがっかりしてしまったわ。やりきれなくなって、昨夜、志貴子が麻布のどことかで木津さんに逢った話をすっぱぬいてやると、志貴子、ぼんやりした顔で、「それ、うちやったかもしれしませんなァ」という挨拶なんです。······
お聞きなさいよ、こういう話なの。「こないいうと、けったいな思われまっしゃろ。うちあけたところをお話しますが、じつは、ふしぎなことがありますの。はっきりした
だまっちゃったわね。いうことがあるなら、おっしゃいよ。ここで伺っていますから······ええ、聞えるわ。それもまた、ひとつの意見でしょうが、長い間、だまされていたのは、あたしたちのほうじゃなかったかというような気がするの。邪魔にされていたのは、あたしたちのほうだったらしいって······お二人さん、今日、強羅あたりにおさまっているはずよ。そのことについて、ご相談したいと思いますから、これからすぐ、いらっしゃらない?