第二次大戦がはじまった年の七月の午後、大電流部門の発送関係の器材の受渡しをするため、近くドイツに行くことになっていた大電工業の和田宇一郎が、会社の帰りに並木通りの「アラスカ」のバアへ寄ると、そこで思いがけなく豊川治兵衛に行きあった。
「よう、いつ帰ったんだ」
「つい、この十日ほど前に······用務出張でね、またすぐひきかえすんだ」
「おれも急に出かけることになったんだが、戦争ははじまりそうか」
「それはもう時期の問題だ。今日、チャーチルと英国の陸相がわざわざ巴里へやってきて、観兵式を見ている最中だよ。七月十四日の巴里の観兵式も、たぶん、これが最後になるのだろう」
治兵衛は豊川財閥の二代目からの分家の当主で、金持ちの馬鹿息子に共通したずぼらなところがあり、ぬうっとした見かけをしているが、ときには、この男がと思うような鋭い才気を見せることもあった。色が白く、頬が巴旦杏色に艶に赤らみ、彫のある曰くありげな指輪をはめたりしているのも、板について気障な感じがしなかった。オックスフォード大学にいるとき、C宮が遊学に来られ、豊川も学友の一人にえらばれてモードリン・カレッジへ移るようにとすすめられたが、そういうおつとめはできかねると辞退した一件もあって、その階級のタイプにしては、徹底した一面を持っているようだった。
「いやに、はっきりいうじゃないか」
「これでもおれは密偵だからね。戦争のはじまる時期くらい、見当がつくだろうさ」
だいぶ底が入っているらしく、なにか曖昧なことをいいながら、だるそうに窓際の長椅子の上に長くなった。
豊川は本家の会社で若さと熱情のかわらぬ信義をつくして精進したおかげで、財界理論派の若手のホープとして、重役陣へのゴール・インが約束されていたが、昭和十二年の秋、突然、企画院の経済科学局へ入って戦時資材の調査にヨーロッパへ派遣され、間もなく巴里駐在員になった。
軍部との抱合を、できるかぎり回避するというのが、五大財閥の伝統的な方策だったが、それを裏切ってまで、なんのつもりで総力戦を支持する新秩序に積極性を示そうとするのかと、真意を知らぬ財界の若手連中を呆れさせたものだが、豊川がそれとなく告白したところでは、実情は、だいたいつぎのようなものだった。
日本は昭和十二年の秋から参謀本部の総力戦五カ年計画にもとづいて、広汎な軍事資材の購入にかかっていた。銅の輸入は七割増、鉄鉱石は十割増、銑鉄と屑鉄は二十五割増、
豊川治兵衛の身分は、公称は経済科学局の研究員だが、実体は、財界にも財閥にも資本家にも因縁を持たぬ、総力戦研究所直属の秘密仲買人、同時に、陸軍参謀本部特殊勤務要員という名の経済スパイなので、こんどのヨーロッパ行の仕事は、パルプとバーターで
「おれにとって、ヨーロッパの戦争なんか、どうなったってかまうことはない。日本は昭和十六年にどんな戦争をはじめようというのか、そのほうがよほど心配だ。相手は英米なんだろうが、作戦の規模から推すと、支那事変などとは、くらべものにならないほど大きなものだということがわかるんだから」
「なるほど、それは
「軍部の頭は、一面秀抜だが、想像力においてなにか欠けるところがあるようだ。自国の力を過信している点では、ポーランドとよく似ているよ······
そんなことをいっているところへ、久慈
「あら、治兵衛さん······和田さん、お久しゅう」
パール・グレイのしゃれたアフタヌンを着て、リュムゥルの香水をほんのりと漂わせている。
倫子は久慈周平の次女で、豊川とは分家同士だが、世襲と
豊川はぶすっとした顔で、
「ふしぎなひとがあらわれた」
とか、なんとかいいながら、バーテンにジン・フィーズをいいつけた。とぼけたようにそらしているが、グラスを渡す手つきになんともいえない情感があり、倫子も、
「うまいところへ来あわせたわ」
などと調子をあわせているが、このほうも眼の色にただならぬものがひそみ、どう見ても尋常ではなかった。
帰るはずのない豊川が東京にいるのも、不縁になったとも聞かない倫子が、ずるずると実家に居据っているのも、なるほど、こういうわけだったのかと勘ぐりかけたが、豊川の同族の娘たちは、系図を辿れば、みな又従兄妹くらいにあたり、とりわけ倫子とは血の関係が濃く、およそめんどうな波風をおこす心配のない間柄であるうえに、豊川の父は心にそまぬ同族結婚をし、氷のように冷やかな夫婦関係をつづけながら、死ぬまで内婚制度を呪っていたという事情がある。久慈周平は倫子を豊川におしつけたい気があり、いちどそういう話をしかけたが、豊川は、「おやじの血が騒ぐから」と
倫子は豊川のほうへ顔を寄せて、リヴァプールへ着くまでに、戦争がはじまるようなことがないだろうかと聞いている。豊川は気のない調子で、
「五十日や六十日の間に、情勢が変るようなことは考えられない」とこたえると、倫子はそれで安心したようなようすになった。
「倫子さん、ロンドンへ帰るのかい」
和田がたずねると、倫子は、
「どうしたって、それゃ、帰るだろうじゃありませんの。離縁になったわけじゃないんですもの」
といって笑った。
「いままでブラブラしていたくせに、あぶなくなってから、あわてて帰りかけるなんて、意味のないことをするもんだ。豊川がいくらひきうけたって、戦争がはじまるモーメントなんか、誰にだってわかるもんじゃないから」
「でしょう? だからこそ、帰るんじゃありませんの。日本へ逃げていたおかげで、助かったなんて言われるの、癪だからよ。三池の家の人たちなら、言わずにはいないわ」
「わからない話だな。戦争というなら、日本にいるほうが、もっとあぶないじゃないか。ともかく、意味ないよ、こんなときに船に乗るなんて······おれのほうは差迫った用があるから、しょうがないが」
「あなたもいらっしゃるんでしたの。おなじ船じゃないかしら······あたしのは、この二十三日のクレーデルという独逸の船」
「おれのもそれだよ。いまのところ、安全なのは独逸の船だから」
すると倫子が、
「あら、そうだったの」
と拍子抜けがしたような白けた顔をした。
「なんだい、その顔は」
「ごいっしょで、よかったわ。安心したせいか、がっかりしちゃった」
豊川はうるさくなったらしく、
「そんな話、面白くないね」
と突っぱなすようにいうと、倫子は勝気らしいよく透る声で、
「戦争の話ですもの、面白いわけはないでしょう」
と笑いながらやりかえした。
「まあいいわ。飲みましょう、お別れの盃よ」
「別れもくそもあるか。英国へ帰るくらいで大騒ぎをすることはない。好きな亭主のところへ帰るんだろう」
「それは、あなたのような
「君が船で行くなら、おれはシベリヤで行く。暑い中で、四十五日も世話をやいたうえ、バカ亭に誤解されでもしたら、立つ瀬がないからね」
三池の焼餅と早合点は有名なもので、巴里へ遊びに行った倫子の帰りが一日でも遅れると、クロイドンから旅客機で迎いに行くというはげしさだった。最近はいよいよ狂的になって、居もしない倫子のことで言いがかりをつけ、大使館の若い連中で、迷惑をしたのがだいぶ居るという噂だった。
「あなたなんか、
「せっかくだが、急ぐから、豊川といっしょにシベリヤ廻りにするよ」
「ひどいわ。なんなの、それは。あたしのような女を一人、あぶない船に乗せるの、かわいそうだとお思いになりません」
「思わないね。なんといっても、旅は一人のほうがいいよ。いろいろと面白いことがあるはずだ、船の中には」
「せめて、見送りくらいには来てくださるわね。こんどの旅、なんだか心細くてしょうがないの」
クレーデル号が出帆する朝、和田は見送りに行ってやった。豊川は来なかった。
港務部の曳船のランチが向きをかえ、汽船が内防波堤の口に向いてゆっくりと動きだした。高いA甲板に倫子の白い顔が小さく見える。いつだったか、ルシタニヤ号に乗った友達を埠頭で見送ったときのことが頭に浮んだ。その男も沖に向う船から、眼で合図をしながら消えて行ったが、それきり帰って来なかったなどと思いながら帰りかけると、後のほうでなにか騒ぎが起きた。
クレーデル号が防波堤の突端へ接触し、そのショックで婦人客が甲板へ倒れて頭を打ち、死んだとか、死にかけているとか、そんなふうなことだった。まさか倫子ではあるまいと思うが、ようすがわかるまで岸壁に残っていた。死んだのは独逸人の老婦人で倫子でなかったが、船の出帆は、そのため一日延びるということだった。悪い船出になったものだと、この思いがしばらく和田の心に残った。
ソ満国境が閉鎖しているので、旅行は
見てやるほどの値打のある風景でもないのに、チタまでは、おおかた窓のブラインドがおろされるので、仕事のように朝からウォトカを飲み、チャイを飲み、ほろ酔い機嫌の旅をつづけて、二十六日の朝、オムスクに着いた。それから三日目の二十八日の午後、カザン駅の
「えらいことになった。独逸のポーランド進駐は絶対だ。一日もはやく国境を越えないと、あぶないぞ」
豊川は、にわかにあわてだした。
国境まであと四日半、無事に独領へ辷りこめるかどうか、あやしくなってきた。モスクワの十時間の停車には身を
国境へあと一時間というところで、ナチスの侵入にかちあったというのは、運が悪すぎた。列車主任にワルソオへひきかえす交渉をしているうちに、乗客は部落の馬車を傭ってボーゼンの方面へ逃げてしまった。和田と豊川はしばらく後を追ったが、思ったより情況が悪いので、おとなしくワルソオまでひきかえし、リスアニア、和蘭、白耳義を経由して、ジャモンからフランスへ入り、がたがたのフォードを買って、二十日目に、やっとのことで巴里に辷りこんだ。
巴里に帰りついた当座、豊川はいそがしそうにしていたが、そのうちになにか煮え切らないようになり、ル・ペリイというキャフェのテラスの椅子に掛け、シャンゼリゼェの大通りをながめながら、半日も動かずにいるようになった。
クレーデル号は、九月一日前後にマルセイユに寄港するはずだったが、ちょうどフランスの対独宣戦布告とかちあい、ブレーメン号などと同様、どこの海の果てを逃げまわっているのか消息が知れない。豊川はなにも言わないが、やはり倫子の運命を気にしているのだとみえ、クレーデル号の話になると、心の落莫は隠しきれず、渋く唇をひき結んで
その日も豊川が誘いにきて、ル・ベリイに行った。テラスで珈琲を飲んでいると、バレーをやっているというM物産の野坂の娘が、ウルトラメールのフロックにミンクのケープをし、顔のどこかが弛んでいるような薄笑いをしながら、二人のテーブルのほうへやってきた。
「豊川さん、しばらく······あちらへ帰っていらしたんですって。お噂、聞いたわ。あなたって、見かけによらない、いいところがあるのね。豊川治兵衛はシベリヤ廻りで、三池夫人は印度洋廻りで、わかれわかれに日本を
舌ったらずな口調でいうと、
「あたし、お茶でもいただこうかしら」
と二人の間に割りこんできた。
「あなた、倫子さんの消息、ごぞんじなの、お教えしましょうか」
「クレーデルって船、どこへ行ったかわからなくなって、心配しているんだ」
「クレーデルの話ね。クレーデルがスエズに入港する前の晩、事務長がやってきて、スエズからピラミッド見物に行ったらどうだと、さかんにすすめるんですってよ。倫子さん、そんなもの見たくないから、断ったんですけど、あまりうるさくいうので、伊太利人やスペイン人と十人ばかり組になって、カイロに一晩泊って、翌日、ポートサイドへ行ったら、荷物だけが汽車で送られてきて、船はとうとう来なかったんですって。アデンで客をおろして、漂流準備にかかったというわけなのね」
野坂の娘が一人でしゃべってテラスから立って行くと、豊川は気まずそうな顔でだまりこんでいたが、いいほどに落葉のたまった歩道のほうをながめながら、
「シベリヤと印度洋と、二た手に別れて駆落ちしたって、それで、どうなるものか」
と、ちがうひとのような感情のこもった声でいった。
「そんなたわけたことじゃなかったんだ。二人だけで、旅をしたいと思わないこともなかったが、三池と正式に離婚するまで、慎しむべきところは慎しもうと、倫子と申しあわせたもんだから」
「そんならそれでいいじゃないか。おれはなにも言いはしないよ。そんなことだろうと察してはいたが······それで、三池は離婚しそうな希望があるのか」
「三池は巴里へ来ているんだろうが、倫子をつかまえて出さないところを見ると、どうも、だめらしい」
むっとしたような顔で、電話に立って行ったが、十分ほどして戻ってきた。
「三池は倫子を連れて、昨日の十七時の便でロンドンへ帰ったらしい。いずれ、こうなることはわかっていたが、こんな状態で、四、五年、ひき分けられるのは困るのだ」
「すぐあとを追って行けばいいだろう。なにか言い残したことがあるなら」
「そうはいかない。明日はサントニア島の砂鉄のオプション(入札参加権)の最後の日で、八時二十分のトゥルーズ行でマドリッドへ出張する命令を受けている。特殊勤務要員は軍法会議から除外されているが、命令棄却は機密漏洩より罪が重い。手形ぬきの正貨取引で、アパルトマンの裏庭にひきだされ、頭蓋骨に四五径の拳銃弾のブローカー・レージがつくんだ······クロイドン行の一便の座席を予約したが、それをやると、えらいことになる」
「手紙ではだめなのか」
「三池のことだから、電話にも寄りつけないような状態にしてあるのだろう。いますぐ行けば、一度くらい、逢うチャンスを掴めるだろうが、暇をおくと、どこへ隠しこんでしまうか知れたもんじゃない······辛いところだよ。クロイドン行の第一便は八時十五分、トゥルーズ行の第一便は八時二十分だ······賭ける気があるなら、賭けてみろ。明日、おれがどっちの旅客機に乗ると思うか」
独逸の旗色が悪くなると、巴里に残っていた日本人は、大使館の命令でベルリンに集結したが、二十年の一月匆々、東西から敵軍が迫ってきて、ベルリンの町のいたるところにバリケードが築かれはじめた。
三月の中旬になると、米軍の戦闘機が傍若無人に低空射撃を加えるようになり、ソ連軍はベルリンの西六十粁のオーダー河の線まで近づき、ベルリンもあぶなくなったので、南独逸のバスガスタインに移った。
瑞西領と独領の国境になっているグレゲンツから[#「グレゲンツから」はママ]、三十メートルあるかなしの川を隔てたすぐ向うに、瑞西の町の灯が見えるのに、査証がなくて入国できない独逸やポーランドの避難民が千人ばかり、赤十字キャンプに収容されていた。そのキャンプで和田は倫子と行きあった。
倫子はスラックスをはいて背負袋を肩に掛け、虚脱したようなうつろな表情で避難民の中に坐っていた。
「倫子さんじゃないか、和田だよ」
倫子の肩に手をかけて揺すると、倫子は、
「あっ、和田さん」
といって、子供のように顔に手をあてて、さめざめと泣きだした。
「和田さん、辛かったのよ。ほんとうに辛かったの」
「三池はどうしたの」
「
「豊川はどうした。君に逢いに行ったんじゃなかったのか」
「えゝ、来たわ。でも、高孝がどうしても逢わせてくれなかったの。たいへんなことだったらしいけど、無駄なことだったわ。胸を悪くして、いま瑞西のレイザンのサナトリウムにいるんです。高孝が死んでから、治兵衛の手紙をポケットから見つけたのよ。それでわかったの」
倫子は戦争がすむまでと、あきらめていたようだったが、和田に逢って元気になり、どんなことがあっても瑞西へ入るのだと毎日のように川筋を辿って、泳いで渡れそうな場所を探していた。
「いいところを見つけたわ」
ある日、帰ってくるなり、倫子が勢いこんで和田にいった。
「ひと跨ぎくらいのところなの」
泳いで渡れるところがあるなら、キャンプになんか居ることはない。
夜の十時ごろ、和田はキャンプをぬけだして、倫子が探しあてた場所へ行った。
土と草の香りがほのかに漂い、春めいた温かな夜だったが、空に風があるのか、星の光も見えないほど、あわただしく雲が流れていた。
川に近くなると、怒っているような川波の音が聞えてきた。雪解けの山々からおしだしてきたアルプス・ラインの流れが、さわがしく波立ちながら、一キロほど向うで暗いボーデン湖に注ぎこんでいた。
「ちょっとえらいな。相当あるぜ。倫子さん、大丈夫か」
「あたしなら、大丈夫。二十五メートルのプールより、いくらか長いくらいなもんでしょう。二キロもある湖水を、泳ぎ渡るひとだっているんだから」
倫子はさっさと下着だけになった。
倫子が水に入ると、すぐ和田がつづき、二人は肩をならべて川の中流へ泳ぎだした。
遠い山から出てきた新鮮なはげしい水は、油断のならない力で、二人を湖水のほうへ押し流そうとする。
和田は瑞西でさえあれば、どこの岸についてもいいつもりで、暢気にやっていたが、倫子は町の灯に目標をたて、是が非でもそこへ泳ぎつこうと、躍起となっているふうだった。
「倫子さん、あせるとしくじるぞ。ゆっくり行こう」
「えゝ、ゆっくりね······でも、冷たいわね。どうしたんでしょう。なんだか、眠たくなってきたわ」
倫子の身体が沈み、頭のうえを川波が越えていく。
「どうした、倫子さん」
「あたし、だめらしい。足が
和田が倫子のそばへ泳いで行って、頭をひきたてようとすると、倫子が和田を突き退けた。
「あたしが
「バカなことを言ってないで、おれに掴まれァいいんだ」
「いいのよ。ここまで来たけど、やはり、だめだったわ······あきらめます」
水に濡れしおった顔をあげて、もうよほど近くなった瑞西の町の灯をながめていたが、うねりにおされて、それなり波の下に沈んだ。