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雪間

久生十蘭





 宮ノ下のホテルを出たときは薄月が出ていたが、秋の箱根の天気癖で、五分もたたないうちに霧がかかってきた。笠原の別荘の門を入ると、むこうのケースメントの硝子のめんに夜明けのような空明りがうつり、沈んだ陰鬱な調子をつけている。急に冷えてきたとみえて、霧のつぶが大きくなり、いつの間にか服がしっとりと湿っている。

 うねうねと盛りあがった赤針樅あかはりもみ根這ねはいにつまずきながら玄関のほうに行こうとすると、木繁みの間からほのかに洩れだす外灯の光の下で、笠原の細君の安芸子と滋野光雄が向きあって立っているのが見えた。

 二尺ほどの間隔をおいて向きあっているが、それはただそうしているというのではなく、激情をひそめた静の姿勢だと思われる。そういった切迫したようすがある。

「これは弱った」

 伊沢ほどの齢になると、他人の情事を隙見させてもらっても、かくべつ啓発されるようなことはない。することがあるなら、なんでもいいから早くすましてしまえとジリジリしていると、滋野の手がそろそろと伸びだし、なんともいえないやさしいようすで安芸子の肩に触れた。

「はじまった」

 伊沢は舌打ちをしながら額に手をあてた。

 ねがえるなら、あまりひどい光景にならないようにと念じているうちに、こんどは安芸子の手があがって行き、滋野の胸のあたりを撫でるようにしながら、なにかささやいた。

 伊沢の耳には、とうとう、あなたも······と聞えた。

 模糊とした霧の渦の中で、二人の影が動いたような気がした。たぶん、なにか新しい発展をするのではないかと恐れているうちに、風が出て霧が流れ、また情事の舞台があらわれだしたが、霧に濡れた下草がそよいでいるばかりで二人のすがたはもうそこにはなかった。

 昼すぎホテルから電話をかけたら、笠原は仙石原でゴルフをしているということだったので、時間をはかってやってきたのだったが、細君がこんなことをしているようでは笠原はまだ帰っていないと思うしかない。

 長い硝子扉の側面につづく翼屋のようになった二階の窓に灯がついた。ラリーク式の窓の大きな部屋で、赤味がかった、カーテンの裾のあたりに淡い光が滲んでいる。丈の低いフロアスタンドの夜卓に置いたサイドランプの光なので、すると、あそこが笠原の細君の寝室なのだろうと、そんなことを考えながらぼんやりと見あげているうしろから、誰かにぐっと服の襟を掴まれた。

 なにを言うひまもない。襟がみを掴んだままズルズルと押して行き、赤針樅のみきにこじりつけると、いまのところ撲りつけることしか考えないといったように、いきをきらしながら頭のところをむやみに撲りはじめた。

 伊沢は両手で顔をふせぎながら、されるままにぐにゃぐにゃしていたが、いつまでたってもやめない。正体のない暴れかたをするところをみると、酔っているのかもしれない。いい加減にやめさせるほうがいい。

「もういいだろう。それくらいにしておけ」

 ふりかえりざま手でおしてやると、そうしようと思ったわけでもなかったのに、相手の胸を強く突いたらしく、見事な尻餅をついてあおのけにひっくりかえった。

「ぬすっとう」

 とその男が悲鳴をあげた。

 勝手の戸があいて、誰かこっちへ走ってきた。書生らしい骨太の青年が、いきなり伊沢の手をねじりあげておいて、

「こいつ」と背中の真中を強く突いた。

 これが今夜一番の痛手だった。舌が縮まって息がつまり、伊沢は思わずそこへしゃがみこんでしまった。

「こんなところへ這いこんで来やがって······おい、あかりをつけてみろ」

 尻餅をついた男が息巻くようにいった。笠原の声だった。

「笠原さん、伊沢です」

 大柄のチェックのコートを着た笠原が尻下りの愛嬌のある八字眉をピクピクさせ、びっくりした子供のような眼つきで伊沢の顔を見かえした。

「伊沢さん······これはどうも」

「やられました」

 笠原は両手で頭を抱えて、

「いやア、とんだ闇試合で······宮島だんまりの袈裟太郎があなただったとはおどろきました······なにしろ、この霧だから、あぶなくってしょうがない。御用邸の前へ車を置いてソロソロ歩いてくると、樹の下に人が立っている······わたしは臆病者で、怖いと、かあっとなると、年甲斐もないことをやりだすので困ります」

 真面目になればなるほど剽軽に見えてくる。善良すぎる顔に愛想笑いをうかべてクドクドと言訳をしてから、

「なんだからって、なにもあんな手荒なことをしなくとも······いったい、どこをやったんだ」

 と恐縮して立っている書生を叱りとばした。

 さすがに照れくさいふうで、それとなく言いくるめてしまったが、正体もないようないまの暴れかたから推すと、たぶん憎い誰かと人ちがいしたというわけだったのだろう。その辺の機微は伊沢にも嚥みこめぬことはなかった。

「お騒がせして恐縮でした。富士屋ホテルに居りますが、こちらにいらっしゃるということで、ちょっとご挨拶に伺ったのでしたが」

「それはそれは、ようこそ······久しくなりますので、いちどお逢いしたいものだと思って居りました。家内も退屈しているふうだから喜ぶことでしょう······ともかくまあ」

 そういうと笠原は先に立ってチョコチョコと歩きだした。植込みの間の道をまわりこんで行くと、テラスのむこうの奥まった玄関に小間使らしいのが出迎いに出ていた。

「奥さんは」

「お変りございません」

「二階の寝室に灯がついていた。ご機嫌はいいのか」

「ご食気しょくけがおありなさいませんようで、夕食はおさげになりました」

 笠原は渋くうなずくと、伊沢に、

「どうも失礼······家内が引籠っておりましてね。たいしたこともないようなんだが、なにかとむずかしくて手に余ります」

 そういうと、とってつけたような空笑そらわらいをしながら、食堂の脇間のような部屋に連れこんだ。

 さり気ないふうに笑い流しているが、笠原の胸のなかにあるのは、そんな単純なことではないのだろう。笠原の顔は人のいい男につきものの感情が丸出まるだしになる正直な顔なので、胡魔化そうにも胡魔化せない。壁付灯のあかりで笠原の眼頭にキラリと光るものを見つけると、伊沢は思わず眼を逸らした。

 怒っているのか、歎いているのか、なにか泣くほどのことがあるのらしい。自分に関係のあることではないが、こうして笠原と向きあっていることが急に重荷になってきた。

 笠原忠兵衛は中東とアフリカで木綿を買っている近江財閥の一族で、家同士は三代前からの地縁のつづきだが、笠原その人と伊沢はこの四、五年来の交際つきあいで、年代からいえば、若草みどりといって、映画のスターだったこともある笠原の細君の安芸子や、安芸子とおなじ撮影所にいた滋野光雄のほうがもっと古い。

 滋野とみどりは渋谷の松濤で同棲していた一時期があり、その後、映画と縁を切って笠原と結婚したが、相互の交通は公認されているふうで、麻布の邸などにも出入りし、仕事のないときは笠原のゴルフのお相手をしたりしていた。

「奥さんは、どういうご病気なんですか」

「それがね、半年ほど前から非常に疲れやすくなって、すこし長い話をしてもぐったりと疲れてしまう。結局はまア神経衰弱の強いやつなんでしょう。部屋を暗くしてベッドにいるのがいちばんいいらしいので、気づかうほどの病症でもないから、なるたけ寄りつかずに、そっとしてあります。紅葉も終って、この辺は雪が早く来るから、そろそろ東京へひきあげるほうがいいのですが、動くのはいやだというんだから······悪くなるなら、いっそのこと、もっと悪くなってくれれば、心配してやる甲斐もあるのですが、なにしろ一日中、寝室でぐったりしているだけだというんですから、張合もなにもありません」

 そんなことをいっているところへ、小間使が入ってきた。

「うむ、なんだ」

「ぶしつけで恐れ入るのですが、ご用がおすみになったら、遊びにおいでくださるようにと、奥さまがおっしゃっていらっしゃいました」

 笠原がうなずいてみせると、

「ただいま仕度をして居りますから、少々お待ち遊ばして」

 茶会の待合でいうような挨拶をして、小間使が脇間から出て行った。

 いつもこういう扱いを受けているのか、笠原はふしぎそうな顔もせず、楽しいことを待っている子供のような眼つきになって、

「あれの部屋は二階ですが、その階段をあがるのは、わたしも三月目ぐらいです」

 と、わからないことをいいだした。

「今日、あなたがおいでくだすったことは、いろいろな意味でお礼を申さなくちゃならないんですよ。ここしばらく、自分から動きだすようなことは、ついぞ、なかったのですから」

 寝室でぐったりしているだけということはあるまい。霧の中で滋野と向き合って立っていたのはたしかに安芸子だったが、もしそうなら、細君を見る笠原の眼に隙があるというほかはない。それは笠原が自分で気がつかないかぎり、永久に訂正できないような性質のものだった。

「そういうことなら、ご遠慮しましょう。あとでお疲れになると困るから」

「疲れるのが望みだというんです。あの我儘者が勤めたりするはずはないから」

 さっきの小間使が入ってくると、笠原は椅子から腰をあげた。

「いいのか······伊沢さん、あれは寝たままなんでしょうが、病人にちがいないのですから、どうか気持を悪くなさらないで」

 そういう間もニコニコと笑いやまなかった。



 広廊のつづきから、ゆるい階段をあがると、ドアの前に小間使が待っていて二人を部屋に迎え入れた。

 庭にむいたほうの壁は全体が窓になったラリーク式のガラス壁で、高い天井から床まである赤い天鵞絨のカーテンがどっしりと垂れさがっていた。マットレスを積みあげた正方形のデヴァン・リのそばに大きな夜卓があって、その上にカルトンの笠をつけたスタンドランプが置いてある。伊沢が庭から見あげたのは、つまりはこのあかりなのだが、そんなことはともかく、この部屋全体がいかにも拵えすぎた感じで、舞台装置の中にでもいるような思いがした。

「伊沢さん、いらっしゃい」

「いよう、しばらく」

 笠原が予告したように、安芸子は三角に折った大きなショールで肩と胸を包み、壁に凭せたいくつかのクッションに上半身を埋め、純白の薄毛布の下に両足をのばしてぐったりしていた。一瞥した瞬間、この物臭なようすは、部屋のスタイル同様、どうやら拵えものらしいと伊沢は直感した。

「どうだね」

 笠原は人のいい笑いかたをしながら安芸子のそばへ行き、顔のうえにかがみこんで頬に接吻した。安芸子は、

「いらっしゃい」と呟きながら、もう一方の頬をさしだした。西洋人の夫婦が家庭でかわす家常的な接吻だが、それがぴったりと板につき、気障な感じがしないところが妙だった。

「見たところ、元気そうじゃないか」

「それはそうだろうじゃありませんの。まだ死にかけているわけじゃないんだから」

 手きびしくやりつけておいて、やつれの見える美しい小さな顔を伊沢のほうへむけると、

「伊沢さん、見てちょうだい、あたしの恰好を······

 鼻にかかった声で、うたうようにいった。

「どうしたって、しあわせそうには見えないでしょう。これがあたしの生活なの」

 笠原は卓を挾んだソファに伊沢を掛けさせると、ツルリと禿げあがった額を撫であげながら、

「もう、ごぞんじのことだろうと思うが、わたしの家庭というのはおかしなものなんです。私は私の、家内は家内の財産を持って、自分のしたいように暮している。わたしの家庭、家内の家庭······それぞれのスタイルで一軒の家の中におさまっている。食べるものもちがえば、食事の時間もちがう。悪い意味の自由主義が、家庭という枠の中で、これほど見事に成果をあげている例はちょっと少なかろうと思うんですよ」

「伊沢さん、笠原のいうことなんか、本気になって聞くことはないのよ。こんな出鱈目ばかりいうひともないもんだわ」

 安芸子がおひゃらかすようにいった。笠原はのどかな顔で、

「ご機嫌が悪いようだな。伊沢さんがいらしたんだから、強羅のロッジへ電話をかけて、滋野を呼んだらどうだい。お前がそうしたいなら、おれのほうはかまわない」

「滋野は、今日の午後いっぱい、ゴルフのお相手をしたばかりなんでしょう。あなたの家来でも奴隷でもないんだから、こちらの都合でアチコチするのはよしたらどう」

「お前さんのいいように······滋野といえば、今日は妙だったよ。三番のグリーンで、どうしてもアプローチができないのだ。身体のぐあいでも悪いのかな」

「どうしたのかしら。ここのところ久しく逢わないから知らないわ」

 さまざまな洋酒の瓶や水差やタンブラーを、小間使が二人がかりで小さなバアの引越しほど持ちだしてきて卓の上にならべた。

「相当なライブラリーですね。キルシュ、デラメラ、キャンティ······これはペルノオ以前の本物のアブサントだ。めずらしいものがある」

 安芸子は茄子紺の地にあざみを白く抜いたシュミジェの長い裾をつまみながら二人の間に割りこんでくると、

「伊沢さんもアブサントの組なの。この笠原のじいちゃんもそうなの。寝酒というんですか、これを飲んで豚みたいに眠りこけるのが、この世の楽しみなんだって······伊沢さん、お手際なところをお目にかけましょうか」

 三分の一ほどアブサントを注いだ脚付のグラスの縁に、ナイフをわたして角砂糖を一つ載せ、それがすこしずつ溶けこむようにゆるゆると水差の水を注いだ。

 いまのところ、笠原の上機嫌をそこなういかなるものもないふうで、グラスの底に澱んだ金緑きんりょくのアブサントが、水を注ぐにつれて乳白色に変り、それが真珠母色に輝いてくるのを浮きうきとながめていた。

 安芸子はグラスを眼の高さまであげ、切子を光らせるようにして酒の色を見てから、

「こんなところかしら。まア召しあがってみてちょうだい」

 といって伊沢にグラスをよこした。

 笠原は自分の番を待っているらしかったが、安芸子はそしらぬ顔で向きあう椅子に落着いてしまった。

「奥さん、おれのは」

「あなたは飲むと、すぐ居睡りするでしょう。もうすこし後になさるほうがいいわ」

 笠原はひょうげた顔で伊沢の手もとを見ながら、

「そいつはわたしには麻薬のようなもので、とかく失態を演じさせます。アブサントというやつはたしかに曲者ですよ」

 言訳をしながら酒瓶のほうへ手を伸しかけると、安芸子がツイととりあげてしまった。

「あなたはあなたのを持って来させればいいでしょう。仕掛けのあるのを」

「それはそうだが、伊沢さんの前で、なにもそんなところまで、さらけださなくとも」

 照れたような顔で小間使を呼ぶと、自分の部屋へアブサントの瓶をとらせにやった。

 小間使がいいつけられたものを持ってくると、笠原は酒瓶と水差を手もとにひきつけ、自製でよろしくやりながら、あれこれと洋酒の講釈をはじめた。

「じいちゃん、うるさいわよ。どうして今夜はそんなにしゃべるんです?」

「口がひとりでに動くんだ。口を閉めてくれ」

「そんなにおっしゃるんなら、閉めてあげるわ」

 安芸子は乱暴にアブサントを注ぎ、いい加減に水を割ると、に近いのを笠原の口もとにさしつけた。

「これを飲んで、さっさと潰れてしまいなさい。おやすみになる時間よ」

「眠くないが寝てやってもいい」

 注がれたアブサントをグイ飲みすると、

「伊沢さん、わたしが邪魔なんだそうだから、その辺へ片付いて、ひと眠りします······家内も今夜は調子がいいらしいから、ご用がなかったら、ゆっくりしていらしてください」

 笠原は壁ぎわの長椅子によろけこんでうつらうつらしていたが、間もなく長椅子の肱に頭を落して調子の乱れた鼾をかきだした。

「ほら、もう眠ってしまったわ」

 虚脱したようになっている笠原のあわれな寝顔を、安芸子は下眼しために見さげておいて、そろりと伊沢のとなりの椅子に移ってきた。

「あたしの影が薄いでしょう。間もなく、すうっと消えて行きそう。淋しいのよ」

「病気だなんていっているけど、溌剌たるもんじゃないか。なかなか死にそうもないよ」

「お話ししたいこと山ほどあるの。ご迷惑でしょうけど、ぜひ聞いていただかなくてはならないの」

「今夜は変なものばかり見てしまって気が重い。二三日中に出なおして来て、ゆっくり聞くよ」

「なにを怒ってる。気に障るようなことをいったかしら」

「酒瓶の仕掛けというのは、眠り薬のことなんだろう? 笠原の細君は、亭主を眠らせておいて、夜から朝まで勝手なことをしているという噂を聞いたが、ほんとうのことだったんだな。なんのつもりでいるか知らないが、あんな好人物を弄ぶのはいい加減にしろ。面白くないよ」

「それもお話ししたいことのひとつなの。笠原の正体はどんなものだったかということを······

 安芸子は笑止そうに薄笑ってから、こんなことをいった。

「結婚した当座、じいちゃんのおつとめにうんざりして、ベッド・ワインにアドルムを仕込むようないたずらをしたこともあったけど、そのうちに、そんなこともめんどうくさくなってやめてしまったの。そうすると、笠原のほうから、要求するようになったというわけ······なにをいっているかわかるでしょう? 若いころのお道楽のむくいで、ぜんぜんダメになっているのをさとられまいというのと、あたしを悪者にして、自分だけに同情を集めようという二重の策略なの······すっかりコキュ気取りで不貞な妻に冷酷な取扱いを受けているなんて、ほうぼうで触れまわしているらしいの。感きわまって泣きだしたりすることがあるんだって······いくらか正体がわかりかけてきたけど、ヘラヘラ笑ってばかりいて捉えどころがないでしょう。いまなにを考えているのかと思うと、ぞうっとすることがあるわ」



 十月十三日の夜から、紅葉があるのに雪が降りだした。朝の八時すぎ、一時間ほど雪間ゆきまがあって陽が照ったが、間もなくまた降りついで大雪になった。箱根では例年より十一日早く雪がきたわけだったが、小涌谷や蘆ノ湯にいた客はふるえながら塔ノ沢や湯本へ移った。

 十四日の朝、ちょうど雪間にあたるころ、滋野光雄が交通事故で死んだ。強羅から車で宮ノ下まで降りる途中、道路から飛びだして谷底まで一気に落ちこんだというようなことだった。

 伊沢はホテルのフロントでその話を聞いた。すぐ笠原の別荘へ電話をかけると、旦那さまは昨夜東京へ、奥さまは小田原へお下りになったという返事だった。

 午後二時ごろ、小田原の警察署から電話があった。

「私は署長ですが、伊沢次郎というのはあなたですか。ご足労でも、こちらまでおいでねがいたいので······ええ、笠原さんの奥さんのことで。お目にかかってくわしく申しあげます」

 小田原の警察署へ出向いて名をいうと、折襟の服を着た警官が椅子から立ってきた。

「私は交通二課の事故係です。伊沢さんですか。ご苦労さんでございます。どうかこちらへ」

 ニスを塗った板張りの衝立が外套掛けにも仕切りにもなって、大部屋の奥のほうを二坪ばかり仕切ってある。むきだしの丸テーブルと椅子しかない面会所といったところに伊沢が落着かない顔で掛けていると、さっきの事故係が署長といっしょに入ってきた。

「署長です。遠いところお呼びたてして」

 そういいながら名刺をよこした。

「失礼ですが、笠原忠兵衛さんとはどういうご関係で」

「同業······祖父の代からの古い交際で」

「奥さんのほうは?」

「友人といったところです······奥さんはまだこちらに居られますか。なにか、むずかしいことでも?」

「笠原さんの奥さんのことですが」

 署長は困ったような顔になって、

「居られます。お引取りねがいたいのですが、どうしてもお帰りにならないので」

「どういうことでしょう」

「殺されそうだから、保護してくれと言われるんですがねえ」

「よく嚥みこめませんが······いったい誰が殺すというんです?」

「奥さんは滋野光雄が殺されたから、こんどは私の番だ。これはほぼ確実なことだから、ぜひとも保護してもらいたいと言われるのです」

「滋野は交通事故で死んだと聞きましたが、殺されたというような事実でもあったのですか」

「いや全然」

「私が説明します」

 交通二課の事故係が署長に代った。

「事故を起した強羅、宮ノ下間のカーヴは、勾配と、曲折、視界と、悪い条件が三つ、うまいぐあいに揃ったあぶないところで、あの場所だけで、この二年間に、もう五件以上やっています。現場へ行ってデータを見ましたが、当然、そうなるような状況で」

「当然というのは?」

「滋野さんは十五分の一の勾配を、七、八十のスピードで降りてきて、第一の曲折で左へ四十度ぐらい急にカーヴを切ったが、それが浅すぎて前部の左の車輪が谷へ出てしまった······そこであわてて左へ大迎えに車をまわしたがまわしきれず、崖端の雪だまりへ左の後輪が出たもんだから、ズルズルと後落して、そのまま一気に谷底へ飛びこんでしまったという状況でした」

「車は?」

「車は五十六年のオースチンの新車で、ご承知のように油圧式の四輪制動で、安定のいい車だから、車の故障のせいだとは思えない。デラックスかフェートンの中古車なら、問題があるでしょうが」

「それはそうです」

「追突されたようすも、接触して煽られたような形跡もない。あそこで誰もがやるような経過を踏んで落ちている······と申しますのは、ああいう場所の事故は、みなまぎれもない性格を持っているもので······つまり、どの例も判で捺したようにおなじなんです。だから、どこかに······まア規格ですか、それにはずれた動きが一カ所でもあれば、これは変だとすぐわかるものなんですが、かくべつそんなデータもない。他からの作為が加わっているとはどうしても思えない。もしあれば加害者も車といっしょに谷へ飛びこんでいなければならないわけなんで······結局のところ、笠原さんの奥さんの言われるような事実は想像できんということですな」

「よくわかりました」

「ちょっとおたずねしますが、滋野さんは運転のほうは」

「古くから車を持っているし、運転のほうはたしかでした」

「飲酒して運転されるようなことはなかったでしょうか」

「私の知っているかぎりではそんなことはありませんでした」

「滋野さんは午前八時すぎ、雪がやんで陽が照りだしたところを見はからって強羅から下りた。当時の積雪量は大体、十センチ程度で、通行が困難だというようなことはなかった。私の見解ですが、滋野さんは泥酔して運転していたのではないでしょうか。軌跡が常規を逸している。じつにどうもシドロモドロなんで、そんな失礼な想像をしたわけですがね」

「滋野は朝の八時から泥酔するような習慣は過去にはなかったようです······それで、署長さん、笠原の細君は証拠とするものがあって、そんな主張をしているのでしょうか」

 署長は笑いながら首を振った。

「いや、なにも······かならず、誰かに殺される。だが、その人の名は言えない······笠原さんの奥さんは、滋野光雄が殺されたから、こんどは私の番だというようなことを言われる。滋野が殺されたら、なぜ笠原さんの奥さんが殺されなければならないのか、その辺の連帯関係について、なにかお気づきの点がありますか。参考までにおたずねするのですが」

「格別、これといって」

「笠原さんの奥さんは若草みどりという映画女優で、滋野光雄とおなじ撮影所で働いていたそうですが、あなたはその頃から二人とお知合いだったのですか」

 と急にむずかしい話になってきた。

 滋野と自分を掛けあわせて考える以上、安芸子の恐れている意想の人物は笠原忠兵衛なのにちがいない。奇妙なかたちで結びついている三人の関係を説明すれば、おのずから疏通することもあるのだろうが、進んで申述したいような事柄でもなかった。

「二人は私の友人ですが、偶然に銀座なんかで出逢えば、いっしょにお茶を飲むとか、酒を飲むとか、その程度の交際で、深いことはなにも知りません。これは真実です」

 署長は狼狽している伊沢の心の中を見透したような顔で、苦笑しながらうなずいてみせた。

「ここは法廷ではないから、真実などという言葉をおつかいにならなくとも結構です。警察に代わる保護者としてあなたを指名されたので、どういう関係にあられる方なのか、ちょっとおたずねしただけです······いまも申しましたように、われわれには、笠原さんの奥さんが感じていられるような不安というものは想像できませんのでね······ここへお呼びしますから、どうかお連れねがいたいのです。興奮していられるようですから、その辺のところも、どうか」

 庶務の警官を呼んで署長がなにかささやくと、間もなく衝立の間から、黒のスーツに馴鹿となかいの黒いハンドバッグを抱えた安芸子が、昂奮に蒼ざめて、唇をふるわせながら、入ってきた。

「伊沢さん、すみません······あなたにご迷惑をかけるつもりはなかったんだけど、警察では面倒を見きれないというもんだから」

 署長のそばへ行って、かたちばかりの会釈をすると、

「警察では事故だと思いこんでいるらしいけど、あたしにはうまく仕組まれた殺人だということがわかっている。こんどはあたしの番だというんだから、あたしが怖がるのは無理もないでしょう。帰れというから帰りますが、もし、あたしが殺されたら、あなたはさぞいやな思いをすることでしょう」

 署長はこんなことには馴れきっているふうで、横を向いて相手にならなかった。

 待たせてあった車に乗ると、安芸子は疲れきったようすで、ぐったりと座席に掛けた。

「どこへ行けば安心できるんだね?」

 安芸子は顔をあげると、強い眼つきになって、

「あなたまでおひゃらかすの? あたしが冗談を言っていると思っているんですか。今日はバカな話はよしましょう······箱根以外ならどこでもいいから、気の向いたほうへやってちょうだい」

 とニベもない調子でいった。

 とりあえず湯河原へ行くことにして、運転手に宿の名を言ったが、ひどく真剣な安芸子の眼の色を見ていると、ただのヒステリーだけではないような気がして、急に不安になってきた。

「警察では、なにも言わなかったようだね」

「あんなてあいにいうことなんかあるもんですか」

「なにも言わずに、だまって保護してくれじゃ、向うも弱ったろう」

「あたし言ってやったのよ。滋野が雪の晴れ間に強羅から下りてくれば、どこのカーヴでどうなって、どんなふうにして谷へ落ちこむか、はっきりと知っていた人間がいるって······そこまで言ってもわからないんだから、申しあげる言葉もないのよ」

「それだけでは、おれにもわからない。どういうことなんだ」

「仕事があるならともかく、いまはオフでしょう。あの怠け者が雪降りの朝の八時に車で降りてくるなんてしょっちゅうあることじゃないから、誰かに誘いだされたのだと思うべきでしょう」

「そうかも知れない」

「そうかも知れないでなくて、事実だったの。八時ちょっとすぎに、いつも連絡してくれる女の子から電話があって、滋野さん、いま車で出ましたから、間もなくそちらへ着くでしょう。お悪いような話でしたが、お元気な声を聞いて安心したわ、って······あたしは病気でもなし、滋野に電話なんか掛けたおぼえはないのよ」

「誰だろう」

「自動車の事故は霧の日か、道が凍ったときだけにかぎると思うのはまちがいで、天気のいい、陽の照りつけるときだって起りうるのよ······映画に関係したことのある人間ならすぐ気がつくことなんだけど、あなたにはわからないかも知れない······羞明しゅうめい」って言葉、知ってる?」

「知らないね」

「眩しさというものに極端に鋭感な状態······あたしもそうだったけど、滋野はライトにやられて、電気性眼炎というやつになって、失明する一歩手前まで行ったことがあるの。もう普通になったけど、なにかの拍子で強い光線にあたると、視界が暗黒になるようなことがあるので、クルックスの特殊ガラスのサングラスをいつも持って歩いていたわ」

「そうだったのかい。そんなものを掛けたところを見たことがなかったが」

「滋野は気取り屋だから、人にさとられないようにしていたらしいけど、この間、仙石原のゴルフ・リンクで西陽に向ってアプローチをしているとき、とつぜん羞明がはじまって、えらいミスをやったもんだから、笠原が感づいてしまったのね」

「それは君の想像なのか」

「想像でも妄想でもいいの······話の順序はこうなのよ。たぶん、あなた見られたと思うんだけど、霧の夜、玄関であたしと滋野が立話をしていたことがあったでしょう。滋野はゴルフ・リンクでクルックスのサングラスを失くしたもんだから、心配になってあたしのところへサングラスを借りにきたところだったの······あたしウルトラジンのサングラスを持っていたはずなんだけど、探しても無いもんだから、貸してあげることができなかったわ」

「へえ······事実なら怖いような話だねえ」

「えゝ簡単なことだったのよ。滋野のサングラスを隠して、雪間の陽の照りだしたところを見はからって、誘いだしの電話をかけるだけ」

 一応、筋は通っているが、あの頓馬な笠原がそこまでの芸当をやってのけるかどうか、信じられないような話だった。

 安芸子は脇窓から、急に冬めかしくなった錆色の風景をながめながら、呟くようにいった。

「いまとなっては、どうでもいいことだけど、滋野のサングラスは宮ノ下の笠原の部屋のどこかに放りだしてあるはずだわ。あたしにはそれが見えるような気がする」






底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字2、1-13-22)」三一書房

   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行

   1992(平成4)年2月29日第1版第8刷発行

初出:「別冊文藝春秋 第五十六号」

   1957(昭和32)年2月

※「ええ」と「えゝ」の混在は、底本通りです。

入力:門田裕志

校正:芝裕久

2020年12月27日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





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