そのとき私は大へんひどく
疲れていてたしか風と
草穂との
底に
倒れていたのだとおもいます。
その秋風の
昏倒の中で私は私の
錫いろの
影法師にずいぶん
馬鹿ていねいな
別れの
挨拶をやっていました。
そしてただひとり
暗いこけももの
敷物を
踏んでツェラ高原をあるいて行きました。
こけももには赤い
実もついていたのです。
白いそらが高原の上いっぱいに
張って
高陵産の
磁器よりもっと
冷たく白いのでした。
稀薄な空気がみんみん鳴っていましたがそれは多分は
白磁器の雲の
向うをさびしく
渡った
日輪がもう高原の西を
劃る黒い
尖々の
山稜の向うに
落ちて
薄明が来たためにそんなに
軋んでいたのだろうとおもいます。
私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。
ただ一かけの鳥も
居ず、どこにもやさしい
獣のかすかなけはいさえなかったのです。
(私は
全体何をたずねてこんな
気圏の上の方、きんきん
痛む空気の中をあるいているのか。)
私はひとりで自分にたずねました。
こけももがいつかなくなって
地面は
乾いた
灰いろの
苔で
覆われところどころには赤い苔の花もさいていました。けれどもそれはいよいよつめたい高原の
悲痛を
増すばかりでした。
そしていつか薄明は
黄昏に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の
山稜の上のそらばかりかすかに黄いろに
濁りました。
そのとき私ははるかの
向うにまっ白な
湖を見たのです。
(水ではないぞ、また
曹達や何かの
結晶だぞ。いまのうちひどく
悦んで
欺されたとき力を
落しちゃいかないぞ。)私は自分で自分に言いました。
それでもやっぱり私は
急ぎました。
湖はだんだん近く光ってきました。間もなく私はまっ白な
石英の
砂とその向うに音なく
湛えるほんとうの水とを見ました。
砂がきしきし鳴りました。私はそれを一つまみとって空の
微光にしらべました。すきとおる
複六方錐の
粒だったのです。
(
石英安山岩か
流紋岩から来た。)
私はつぶやくようにまた考えるようにしながら
水際に立ちました。
(こいつは
過冷却の水だ。
氷相当官なのだ。)私はも
一度こころの中でつぶやきました。
全く私のてのひらは水の中で青じろく
燐光を出していました。
あたりが
俄にきいんとなり、
(風だよ、草の
穂だよ。ごうごうごうごう。)こんな
語が私の頭の中で鳴りました。まっくらでした。まっくらで少しうす赤かったのです。
私はまた
眼を
開きました。
いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。
素敵に
灼きをかけられてよく
研かれた
鋼鉄製の天の野原に
銀河の水は音なく
流れ、
鋼玉の
小砂利も光り
岸の砂も一つぶずつ数えられたのです。
またその
桔梗いろの
冷たい
天盤には
金剛石の
劈開片や
青宝玉の
尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの
黄水晶のかけらまでごく
精巧のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい
勝手に
呼吸し勝手にぷりぷりふるえました。
私はまた足もとの
砂を見ましたらその
砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。
恐らくはそのツェラ高原の
過冷却湖畔も天の
銀河の
一部と思われました。
けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。
それは空気の中に何かしらそらぞらしい
硝子の分子のようなものが
浮んできたのでもわかりましたが
第一東の九つの小さな青い星で
囲まれたそらの
泉水のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも
鋼青から
天河石の
板に
変っていたことから
実にあきらかだったのです。
その
冷たい
桔梗色の
底光りする空間を一人の天が
翔けているのを私は見ました。
(とうとうまぎれ
込んだ、人の
世界のツェラ高原の空間から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)私は
胸を
躍らせながら
斯う思いました。
天人はまっすぐに翔けているのでした。
(
一瞬百
由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも
動いていない。少しも動かずに
移らずに変らずにたしかに一瞬百由旬ずつ翔けている。実にうまい。)私は斯うつぶやくように考えました。
天人の
衣はけむりのようにうすくその
瓔珞は
昧爽の
天盤からかすかな光を
受けました。
(ははあ、ここは空気の
稀薄が
殆んど
真空に
均しいのだ。だからあの
繊細な衣のひだをちらっと
乱す風もない。)私はまた思いました。
天人は
紺いろの
瞳を大きく
張ってまたたき一つしませんでした。その
唇は
微かに
哂いまっすぐにまっすぐに
翔けていました。けれども少しも動かず移らずまた変りませんでした。
(ここではあらゆる
望みがみんな
浄められている。
願いの数はみな
寂められている。
重力は
互に
打ち
消され
冷たいまるめろの
匂いが
浮動するばかりだ。だからあの
天衣の
紐も
波立たずまた
鉛直に
垂れないのだ。)
けれどもそのとき空は
天河石からあやしい
葡萄瑪瑙の
板に
変りその天人の翔ける
姿をもう私は見ませんでした。
(やっぱりツェラの高原だ。ほんの一時のまぎれ
込みなどは
結局あてにならないのだ。)
斯う私は自分で自分に
誨えるようにしました。けれどもどうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに
似たかおりがまだその
辺に
漂っているのでした。そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の
世界の空間を
夢のように
感じたのです。
(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の
感覚のすぐ
隣りに
居るらしい。みちをあるいて黄金いろの
雲母のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん
花崗岩に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり
度々になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう
一度この高原で天の
世界を感ずることができる。)私はひとりで
斯う思いながらそのまま立っておりました。
そして空から
瞳を高原に
転じました。
全く
砂はもうまっ白に見えていました。
湖は
緑青よりももっと古びその青さは私の
心臓まで
冷たくしました。
ふと私は私の前に三人の天の
子供らを見ました。それはみな
霜を
織ったような
羅をつけすきとおる
沓をはき私の前の
水際に立ってしきりに東の空をのぞみ
太陽の
昇るのを
待っているようでした。その東の空はもう白く
燃えていました。私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ
系統なのを知りました。またそのたしかに
于
大寺の
廃趾から
発掘された
壁画の中の三人なことを知りました。私はしずかにそっちへ
進み
愕かさないようにごく声
低く
挨拶しました。
「お早う、于

大寺の壁画の中の子供さんたち。」
三人
一緒にこっちを
向きました。その
瓔珞のかがやきと黒い
厳めしい瞳。
私は進みながらまた
云いました。
「お早う。
于
大寺の壁画の中の子供さんたち。」
「お前は
誰だい。」
右はじの
子供がまっすぐに
瞬もなく私を見て
訊ねました。
「私は于

大寺を
沙の中から
掘り出した
青木晃というものです。」
「何しに来たんだい。」少しの顔色もうごかさずじっと私の
瞳を見ながらその子はまたこう
云いました。
「あなたたちと
一緒にお日さまをおがみたいと思ってです。」
「そうですか。もうじきです。」三人は
向うを
向きました。
瓔珞は黄や
橙や
緑の
針のようなみじかい光を
射、
羅は
虹のようにひるがえりました。
そして早くもその
燃え立った白金のそら、
湖の向うの
鶯いろの原のはてから
熔けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、
反射炉の中の
朱、一きれの光るものが
現われました。
天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ
合掌しました。
それは
太陽でした。
厳かにそのあやしい
円い熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に
昇った天の
世界の太陽でした。光は針や
束になってそそぎそこらいちめんかちかち鳴りました。
天の
子供らは
夢中になってはねあがりまっ
青な
寂静印の湖の
岸硅砂の上をかけまわりました。そしていきなり私にぶっつかりびっくりして
飛びのきながら一人が空を
指して
叫びました。
「ごらん、そら、インドラの
網を。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに
変ったその
天頂から四方の青白い
天末までいちめんはられたインドラのスペクトル
製の網、その
繊維は
蜘蛛のより細く、その
組織は
菌糸より
緻密に、
透明清澄で黄金でまた青く
幾億互に
交錯し光って
顫えて燃えました。
「ごらん、そら、風の
太鼓。」も一人がぶっつかってあわてて
遁げながら
斯う
云いました。ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように
暗く
藍や黄金や
緑や
灰いろに光り空から
陥ちこんだようになり
誰も
敲かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり
永く見て眼も
眩くなりよろよろしました。
「ごらん、
蒼孔雀を。」さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる
天鼓のかなたに空一ぱいの
不思議な大きな蒼い孔雀が
宝石製の
尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には
居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。
そして私は
本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。
却って私は
草穂と風の中に白く
倒れている私のかたちをぼんやり思い出しました。