行ってみると、蘭印アンボン島特別郵便局の検閲済の消印のある分厚な一通の封書と、赤い封蝋でシールされた、十糎立方ほどの小包を一個渡してくれた。差出人はマリハツ・シロウという人で、心当りのない名だったが、一応、持ち帰ってマサヨに封書を開けさせたところ、手紙は、村上重治の最後のようすと、当時の環境をくわしく報知してきたもので、小包は、すなわち重治の遺骨であった。
重治は娘の夫で、かねて戦死の公報があり、戦歿地は昭南ということになっていたが、実は、濠洲の
重治は中野電信隊付属通信研究所(通称中野学校)で通信技術を修めていたが、こんど通信隊長になって行くのですというので、そういうものかと疑いもしなかったが、終戦後、M氏の手記その他によって、中野学校というのは、どういうことをするところだったか、ほぼ了解することができた。以前、参謀本部の地下室で、海外へ派遣される武官に、特殊な諜報教育を授けていた施設を中野電信隊跡へ移し、幹部候補生から選抜した要員に、
通信隊長であろうと、機関員であろうと、死んでしまった以上、名目などはどちらでもかまうことはない。シンガポールで死のうと、濠洲で死のうと、残されたものの上に及ぼす影響に、さしたるちがいがあるわけでもない。重治の最後のようすが知れたのは、娘にしても老生にしても非常な満足であり、マリハツ・シロウというひとの親切は、謝するにあまりあるのであるけれども、老生が強くうたれたのは、未知のインドネシア人の重治にたいするたとえようもなき深い情誼についてであった。
当然の次第とはいえ、文章はたどたどしく、
あなたは村上さんの奥さんですか。私、マリハツ・シロウは、一日も早く村上さんの遺骨をお送りし、死なれたときのようすを、お知らせしたいと思って居りましたけれども、アンボンも独立戦争でいそがしく、今日までそれは出来ませんでした。今年の夏のはじめ、当地もようやくしずかになり、日本へ手紙を出すことも、いいということなので、村上さんのお骨と報告を、戦争後最初のジャワ・チャイナパゲットの[#「ジャワ・チャイナパゲットの」はママ]郵船にたのむことにいたすつもりであります。
ヴェランダには、村上さんがいつも寝ていたとおりに寝椅子があり、部屋には、机も寝台もみなそのままにあります。マンデー(水浴場)の棚にはシャボンが残っていました。なにもかも、そのままにあるのに、村上さんだけが居ない。死なれた村上さんが、帰ることはない。でも、こうしていると、
「おい、四郎、コッピー・パナス(熱い珈琲)」
といいながら、門から入って来られるようでなりません。
私はサイフォンでコッピーをこしらえ、ヴェランダの
マリハツ・シロウは村上さんのジョンゴス(僕)をしていた二年の間、夜は二時間、昼は炊事場の日蔭で十分ばかり眠り、村上さんに喜ばれたいために、つとめました。寝ている夢の中でも、村上さんの用をつとめ、びっくりして飛び起きることがありました。私は村上さんの忠実なジョンゴスでありました。
村上さんは、いつも黙っているひと、厳格なひとでした。インドネシアは喜ばしいときには笑い、悲しいときには泣きます。日本人は悲しいときには笑い、嬉しいときには怒ります。インドネシアは、それを理解することができません。長い間、私もそうでした。村上さんのやさしい心を知ったのは、死なれてから十日もあと、村上さんのお骨を入れた骨壺を、舟の檣のてっぺんに結びつけ、一人、月の光に照らされ、
私の父は濠洲へダイバー(潜水夫)の出稼ぎに行き、ロェベック湾のブルームの町で、私と妹を生みました。母はロッマ島人でニ・ヌガリ、妹はスクレニといい、父の主人はルービンという人で、船の名はローザ号でした。父は上手なダイバーで、潜水具をつけずに、一気圧半のところで働いていました。一気圧半といいますと、約四十尺であります。
私は十歳のときからローザ号の貝洗いにやとわれ、十四の年から潜りはじめ、テンダーといって、潜水夫の救命繩を取る役や、送気ポンプの係をやり、十九の年、父と二人で独立して、小さなプラウ(刳舟)で
二十一歳のとき父が死んだので、母と妹を連れてアンボンに帰りますと、間もなく戦争がはじまり、ラハの飛行場に日本軍があがりました。夜、ラハに火が高く燃え、大砲の音や機関銃の音がし、オランダ軍がこちらの岸のベンテンの砲台から海越しにラハにむけて大砲を打ちました。その音は長くつづき、夜明けまできこえ、サウシテひどいスコールが来ました。雨の中でも機関銃の音がきこえていました。
間もなく、ラハの飛行場を日本軍がとったといい、ハロンでも戦争がはじまりました。日本の飛行機がたくさん来て、軍艦からも、どんどん大砲をうちました。私の家はオランダ軍が火をつけて焼いたので、トレホの海岸へ逃げました。
私は母と妹とすこしばかりの家財を刳舟に積んで、ブル島のナムレヤへ連れて行き、私一人、アンボンへ帰ってきました。私は濠洲のブルームやトレース海峡や木曜島で日本人といっしょに暮し、いくらか日本語がわかりますので、日本軍の通訳になってかせぎたいと思ったのであります。しばらくすると、郡役所で通訳の試験があるというので、十人ばかりの人といっしょに行きました。村上さんが試験官で試験をされましたが、みな落第でした。なぜかといえば、私どもアンボン人よりも、村上さんのアンボイナ語のほうが上手で、ミナカンボー語もブル語も、チモール語も、スンダ語も、みなよく知っていられたからです。
私どもは、村上さんの日本語学校で勉強することになりましたが、村上さんは熱心におしえてくれましたが、やがて誰も来ないようになり、しまいには、私だけになりました。窓にバンダナスの葉が垂れる、薄暗い静かな部屋で、村上さんと私と二人だけで勉強をしました。村上さんは、一日にタッタ一つの言葉しかおしえませんでした。私はソレを読み、仮名で書きますと、それで終りになります。村上さんは、その言葉をよく理解いたすように、しかしながら、私にはすこしもわからないたとえ話を、低いしずかな声で、いつまでも話します。私は葉をすかしてくる青い日光の中でボンヤリし、ときどき眠りながら、それを聞きました。
それから、村上さんは一ヶ建ての宿舎に住むようになり、通訳として部隊からもらう分とべつに、月、三ギルダーで村上さんの食事の世話をしてあげることになりました。通訳見習として、隊から五ギルダーもらいますが、それでは家へ三ギルダーしか送られませんので、村上さんの気に入られて、ほかのインドネシアにこの役をとられたくないと思いました。
隊で私のする仕事は、郡長や村長のところへ行って、住民が山からおりて村へ帰るようにすすめ、また、野菜やニワトリなどを集めさせること、木綿や塩で支払いすること、部隊の布告の説明をして歩くことなどでした。村上さんのほうはいそがしくて、一日中主計科や庶務科や電話室にいて、夜おそく隊から疲れて帰って来ると、すこしばかり物を食べ、サウシテたくさんコッピーを飲みました。
村上さんは水でマンデーをすると、青くなって咳をし、すぐ風邪をひきました。私は隊から帰ると、毎日そのためにお湯を沸かしました。村上さんは非常に汗をし、なんべんも夜中にシーツをとりかえました。私が聞きますと、ボルネオのジャングルにいるときマラリヤをやり、それがまだなおらないのだといいました。
村上さんは夜食をすると、そのまま朝まで本を読みました。私はいやでなりませんでしたけれども、眠られない病気だと聞き、気の毒になり、本を読んでいられるあいだ、コッピーといったらすぐコッピーをあげられるよう、毎晩、部屋の入口の靴拭きの上に寝ました。村上さんといる二年の間、自分の寝床へ行って寝たことは、ただの一度もありませんでした。
しばらくして、プアサ(インドネシア人の正月)の休みに、ブル島へ母や妹に逢いに行って帰って来ますと、村上さんが、
「おい四郎、お前は小さなプラウでブル島まで行ってきたのだそうだな、えらいことをやるな!」といいました。それで私は、
「ブル島ぐらいわけはありません。ここから濠洲まででも行きます。十五尺ばかりの小さな舟で、北濠洲の海を二百浬も航海していました」
といいますと、たいへん感心されたようでした。
それから一月ほどして、私がスープにする椰子のミルクをとっていますと、村上さんが私のそばへしゃがんで、
「おい四郎、ひとつ、濠洲へ商売に行くかな!」といいました。私はおどろいて、
「隊の通訳のほうは」とたずねますと、
「隊の通訳は、間もなく満期になる。占領されてからでは、うまいことが出来んから、すこし前に潜っているほうがいい。危ないことをしなければ、金は儲からんよ。どうだ、おれといっしょに金儲けをする気はないか」といいました。
プラウの航海にかけては、北濠洲のアルネムランドの土人にかなうものはありません。あのあたりの土人は、コンパスもチャート(海図)もなしで、沿岸看視船の行かぬ、白人の知らない珊瑚礁のあるムズカシい海を、鳥のように自由に飛んであるく。クロコダイル島から四百哩もあるポーダーヴィンまで、たった一人で行きます。私はそれほどでないけれども、ニューギニアから島づたいにトレス海峡を渡って、濠洲へ行くくらいのことはわけはないのであります。
私どもアンボン人は、サムナー法といって、星を見て、夜だけ航海いたすのですが、東南貿易風が西北の反対貿易風にかわる変り目の一ト月と、雨季明けの一ト月は航海しません。サウシテどこまでも岸について帆で走り、強い風が吹きだすと、舟を岸にあげて、何日でも休みます。でありますので、海の上で嵐にあうようなことは絶対にありません。
水はマングローブの木からも、アダンの蔓からもとれます。食物はサゴでも、ヤムでも、蟹でも、また、いくらでも魚が釣れますから、食料を積むことはいりません。昼は航海しませんから、暑くて困ることもない。ただ非常に忍耐のいる旅です。普通にやる四倍ぐらいの日数がかかります。なぜなら、昼は休みますからそれで半分、十日のうち五日は風が吹くから、それでまた半分。ほかの船が十日で行くところを、私は四十日かかります。気の短い日本人には、とても我慢がなるまいと思いますといいますと、村上さんは、
「よくわかった。ミミカから先には濠洲軍の哨戒艇がいるが、それはどうするつもりか」とききました。それで私は、
「ソマーセットや木曜島の物資は、みな土人が刳舟でポートモレスビーへ運んでいるのです。私どもの刳舟がその中へ一艘まじっても、ふしぎとは思わないでしょう」といいました。村上さんは、
「そうだなー、うまくゆくかも知れんねー」といいました。
五日ほど後、村上さんはトレホの村長のところからスコールに濡れて帰ってきて、病気になりました。熱の高いとき、村上さんは私の顔がわかりませんでした。私は寝台の下にいて、二十五日の間、自分の手を氷で冷やしては、村上さんの足を涼しくしてあげました。村上さんがすこしよくなってからは、毎日、抱いてお湯に入れてあげました。
十月のある朝、村上さんが免職されたという噂がアンボン中にひろがりました。私はソエのパッサールでききました。煙草屋のクット・ライは、村上さんが部隊のお金を費いすぎたので、その罰で、ニューギニアのケクワの部隊へやられるのだといいました。私が帰ってそういいますと、村上さんは、
「お前などの知ったことでない」とたいへん怒りましたが、しばらくすると、
「四郎、こっちへ来い。おれは考えるのだが、おれは日本人をやめて、インドネシアになってもいいな。お前たちのように気楽に暮したくなった。お前の妹でも嫁さんに貰ってさ」
私はつぎの言葉を待っていましたが、村上さんそれっきり黙ってしまったので、気の変らないうちに話をきめておくほうがいいと思って、
「スクレニがあなたの嫁さんになれば、あなたと私は兄弟になるのですか」とききますと、
「それにちがいなかろうじゃないか。しかし、おれはもう貧乏だから、嫁さんを食わせられんよ」
「そんなら濠洲へ行って金を儲けてください。身代ができたら、私がスクレニを連れに帰ってあなたのところへ連れて行きます」
村上さんは首をふって、
「どうせやるなら、大きな商売をやる。おれは羊毛の仲買をやるつもりだが、下手をすれば、一文なしになる。たしかな宛もないのに、お前の妹と約束はできんね。まー、やめにしよう」
「それで結構ですから、やれるだけやってみてください。駄目なときは、それでようございます」
「四郎、お前は二年もおれといっしょに居たが、内地から手紙がきたのを、一度も見たことがなかったろう。それというのは、おれには親も兄弟もないからだ。おれはどこへ行って死んでもかまわんが、お前には母も妹もあるのだから、おれといっしょに冒険をさせるわけにはいかんよ」といいました。
「そんなことはない。私は濠洲やアラフラ海で、なんども死にそくなっています。いま生きているのは、オマケです。母も妹も、私をアテにしていません。あなたが行かれるなら、どこへでも私は行きます」
すると村上さんは私の顔を見て、
「お前もへんな奴だな!」といいました。
私は一人だけの考えで、かまわず準備をはじめました。ニューギニアへ行ったら、濠洲へ渡るための土人のプラウを買わなければならないが、二人乗の刳舟の値段は、煙草二百本、ダンガリー(太織木綿)一反、あるいは手斧二梃、赤木綿二反であります。航海にいるものは、帆布、
アンボン島には、インドネシアだけの夜中のパッサール(市場)があります。パッサール・プーラン(月夜の市場)といっていますが、今夜はテンガテンガの山の上、そのつぎの晩はハロンの海岸というふうに、毎晩ところを変え、月のある晩、商人がいろいろな品物を持ってきて、夜の十二時から市を開きます。どういうところからどうして持ってくるか知らないが、欲しいものはなんでもあります。そこで私は斧一梃と赤木綿を二反買っておきました。間もなく、村上さんの出発の日がきましたので、私も隊からヒマをもらい、苦力になっておなじ輸送船に乗り、一月のはじめにアンボンを出発して、ニューギニアへ行きました。
はじめてニューギニアの景色を見ると、なんともいわれない悲しい気持になります。海岸からいきなりマングローブの林がはじまり、世界の涯までもあるジャングルにつづいています。ジャングルは昼も暗く、人もケダモノも、なにも住んでおりません。ジャングルのない、すこしばかりの海岸に、とびとびにパプア人の部落があるだけであります。しかし私どもが行きますと、ミミカに海軍の人夫がいて、飛行場をつくって居りました。
ちょうど雨季がすんで乾季に入り、風は、毎日かわりなく西から吹き、南へ帆で走るためには、今から三月までの、二カ月のあいだがいちばんよいのです。私がそういいますと、村上さんは、
「では、満期の手続きをとるから、お前はそれまで飛行場つくりの手伝いをしていてくれ」といいました。
私は村上さんと離れたところに住み、パプアたちと飛行場をつくる手伝いをしていますうちに、パプア語がわかるようになりましたので、川向いのケクワの部落へ遊びに行き、ンブナムというスルタン(酋長)と知合いになりました。ケクワのプラウは、二十人から三十人も乗る戦争の丸木舟ばかりですので、腕三つ分、約五メートルの舟と、檣を一本こしらえてもらうようにたのみ、斧一梃、赤木綿二反、カナカナ煙草五束、新聞紙六枚の値段にきめました。
四月のはじめ、村上さんはようやく満期になりました。部隊長には、
「私たちはプラウでカイマナまで行き、そこでアンボンへ帰る船を待ちます」といいますと、部隊長はたいへんにおどろいていられました。
四月十七日の朝、ミミカの川口を出ると、すぐ南へ舟を向けましたが、時季がおくれたので風はもう強く吹かず、扇子であおぐほどの弱い風で、帆をかけても船は走りません。空には雲もなく、海には小さな波もない。一日中、ギラギラと光る二枚の鏡の間に居るような気持がいたしました。
濠洲のヨーク岬までは、七十日の航海ですが、ミミカから南は敵地ですので、どこの岸にでも舟をつけて休むということができない。それに、このあたりの海岸は、海からいきなりマングローブの林がはじまる大洪水のような景色で、そういう淋しい海岸が百哩も二百哩もつづき、パプア人の村もすくないですので、こんなところを舟で通ると、すぐ人目につきます。怪しまれるようなものはなにも持っていない。網と釣道具のほか、パラン(山刀)が一梃とアカ汲みの桶だけですけれども、こんなところにインドネシアが二人もマゴマゴしているわけはないから、捕まれば、いいぬけはできませんのです。
それで、昼はマングローブの林の中へ舟を入れ、夜も、月が落ちて星だけになってから航海するようにいたしました。水は椰子の実を用意しておきましたので、不自由することはありませんでした。マングローブの根元には、親指の頭くらいの小さな牡蠣が無数についています。一尺五寸もある、泥のような色をした大蟹もいます。
世界で一番よく出来た刳舟は、マルケサス諸島の刳舟で、幅は一呎もなく、軽いから、手で水を掻いても、一時間、四浬は走り、帆で走るならば、十五浬は行きます。しかし、ンブナムがこしらえた刳舟もなかなかよいもので、十二浬はらくに出て、けっして遅いことはないのです。
「村上さん、なぜ、そう急ぐのですか。あなたは濠洲へ羊の毛を買いに行くのではないのですか」といいますと、村上さんは腹をたて、椰子の実を枕にして寝たきり、五日も口をききませんでした。
フレデリック・ヘンリー岬からメラウケまでの間では、爆撃機が毎日のように頭の上を飛んで行きましたが、ある朝、舟をマングローブの林の中へ入れようとしますと、村上さんが寝ていた舳のところに、血のようなものがいっぱいこぼれていますので、なんだろうと思って見ていますと、村上さんは、
「マングローブの木の汁だよ」といいました。
マングローブの木からタンニンがとれ、木を切ると、血のような色をした赤黒い汁がでますが、マングローブを切りもしないのに、どうしてここに汁があるのか、ヘンだと思ったが、「そうですか」といっておきました。
メラウケから更に南へ下ると、海岸から八浬も沖まで珊瑚礁が出ている。危険なので、昼か月夜でなければ航海ができなくなり、そのうえ、急に吹きだす嵐の心配をしながら、よほど沖を行かねばならなくなりました。鯨がだんだん多くなり、一晩中、オルガンのような音が、暗い海にきこえました。村上さんは知りませんが、こんな小さな丸木舟の航海にとっては、嵐よりもなによりも、鯨と


そういう心配な日が何日もつづいたある晩、村上さんが私をゆりおこして、
「海で赤ん坊が泣いているぞ」といいました。
星だけ光る暗い海の上で、シクシクと赤ん坊が泣くような声が聞えます。だが、それは人間の赤ん坊ではない。母鯨にはぐれた鯨の赤ん坊が、この舟を母親かと思い、一心についてあるきながら、シクシク泣いているその声なのです。私がそういいますと、どうしたのか、村上さんは急に腹をたてて、
「おい、四郎、お前、母親が恋しくなったのだな。帰りたかったら、さっさと帰れ。おれを、そのへんの岸へあげて帰ればいい」といいました。
私のシクシク泣く声と、鯨の赤ん坊のシクシク泣く声がよく似ていて、いっそう悲しい気がしました。鯨の赤ん坊は、朝まで舟についていましたが、夜があけると、どこかへ行ってしまいました。
そのへんの海岸は、コンモリと榕樹の繁った高い崖つづきで、陸にはサゴもワラビもなく、水にも、食べるものにも、困るようになりました。村上さんはだんだんものをいわぬようになり、毎日一度、海の水を汲んでマンデーをするにも、ビクビクせねばならぬようになりました。私は村上さんの忠実なジョンゴスで、村上さんのことだけが、私の考えることのすべてなのでありますけれども、村上さんはすこしも私に笑いません。たとえ、この航海がどんなに辛く苦しくても、村上さんさえ機嫌をよくいたされたら、苦しくも辛くも思われなかったでありましょう。毎日、おなじような岸、おなじような海、あとまだ何十日か、長い航海がありますのに、狭い舟の中で、村上さんの機嫌のわるい顔を見るので、私は勇気も、ほとんど尽きるかと思いました。しかし、こんな長い、面白くない航海を、楽しいと思うひとは居りません。私は子供のときから、こういう航海に馴れていますけれども、村上さんに私と同じようなことを望むのは無理だと思って、がまんしました。いっそのこと、ひどい嵐でも吹いてくれればいい。なにか変ったこと、サウシテそれが村上さんの気持をまぎらすものであれば、どんな辛いことでもよいと、そんなことまでねがうようになりました。村上さんがむずかしいのは、なんのためだったか、いまとなっては、よくわかって居ります。そのあいだ、村上さんは、どんなに、マーどんなに辛かったでしょうと思い、それを知らないでいたマリハツ・シロウがウラメシイです。
ところで、私のおろかなねがいは、すぐ聞きとどけられました。ニューギニア本土が終ってから三日目の朝、ジャビイス島とマルグレープ島の間で、それがなければよいと心配していた、恐ろしい物音を聞きました。それは大砲をうつ音と、汽車が走る音がまじったようなすごい音で、三浬も遠くから聞えてきました。
明けたばかりの海をすかして見ますと、一匹が半町四方もあるような大

「モー、これが最後です。二人とも、骨まで砕かれてしまうでしょう」と叫びますと、村上さんは舟底に肱を立てて身体を起し、まったく静かな声で、
「四郎、おれはすることがあるのだから、なんとかして逃がしてくれ」といいました。
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これがすぎると、舟の行く手は楽しいものになりました。私どもはミミカを出てから六十二日目に、バンクス島の灯台を見て、トレース海峡へ入りました。木曜島をすぎれば、間もなく濠洲クィーンスランドの北端へ舟をつけることができるのであります。
「あれがバンクス島の灯台です」といいますと、村上さんは寝て空を見たまま、
「そうか、うれしいな!」といって眼をつぶりました。
喜んでもらいたいと思ったのに、海の上をメグリメグル灯台のあかりさえ見ようともしないので、私は落胆いたしました。いま思いますと、そのときはもう村上さんは、起きたいとしても、身体を起こすことが出来なかったのでした。
夜が明け、ラタリーの最初の島が波の上に見えてきました。
「ああ、ラタリーだ」と櫂を休めて眺めていますと、村上さんが、
「おい、へんなものがやってくる」と指で沖をさしました。
私にとっても、めずらしいことがはじまりました。薄黒い、銀色に光る高い土堤のようなものが、白い泡をふきながら、二町ほどの幅でおしよせてくる。サウシテその上に、何千羽とも知れない鴎の群が、飛び降りまた空へ飛びあがって騒ぐので、空の太陽も暗くなり、その声で耳がツンボになりそうでした。
それは
舟が沈むと、隠れ場がなくなったので、鰊の群は二つの銀色の川のようになって舟から離れて行き、ようやく泳げるようになったので、あたりを見ますと、村上さんは沈んだ舟のアウト・レッガー(支架)にすがっていました。私が村上さんのほうへ泳ぎだしたとき、鰊を追いながら浅く泳いで来た鱶の一匹が、ヤスリのような
私は反対のほうへ逃げましたが、よほど泳いでから気がついて、村上さんのほうへ戻りかけたとき、べつな一匹が私の眼の前をすりぬけて行き、右へ右へと大きな円をかきながら、ゆっくりと村上さんのまわりをまわりはじめました。私は鱶のそばへ泳いで行って、両手で水を叩き、大きな声で叫びながら、鼻面をつかんでむこうへ押してやりました。鱶はそれで一度は深く潜りましたけれども、すぐまた浮きあがってきて、村上さんをねらいました。私は村上さんと鱶の間へ身体を入れ、両手で鱶を防ぎながら、
「早く、刳舟の上へ」と叫びました。
そのときは、鱶のほうもイラダッてきて、尾で村上さんを打とうとしますので、私は左手の拳を鱶のほうへ突きだしておいて、
「こうしているうちに、早く」とまた叫びました。突きだした腕はうまく口の中に入り、鱶は私の左腕の肱から先を喰いとって、水の中へ沈んで行きました。
それから五日目に、私どもはヨーク岬の西側、カルン岬の北の人のいない淋しい砂浜に舟をつけました。ミミカを出てから、ちょうど七十七日目でした。
ここはもとコンラッド兄弟のラガー船の基地でしたが、真珠貝がとれなくなったので、来る人もない。たいへんにさびれ、
「濠洲へ着きました」といいました。
村上さんは、顔じゅう一杯になるほど大きな眼をあけ、長い間、私の顔をみつめ、
「ここは濠洲のどこだ」とたずねました。
「ここはクィーンスランドの北のダック湾です」といいますと、
「うれしいなー、四郎、おれを担ぎおろして、濠洲の土を踏ませてくれ」といいました。
私は右手で村上さんを抱き、ひきずるようにして砂浜へあげますと、村上さんは砂の上にあぐらをかいて、
「アア濠洲だなー、濠洲だ」といって、手で砂を
それは、私が一生に見る血の全部よりまだ多いと思われるようなたいへんな血で、ポンプの口から吐きだすように、あとからあとから、いくらでも出ました。
私はなにがはじまったのかわからず、ボンヤリと立ったまま眺めていましたが、気がついて血をとめようと、手で村上さんの口をふさぎかかりますと、村上さんは私の手を両手で挾み、頂くように額へ強くおしあて、それで村上さんの手は、氷のように冷たくなってしまいました。
間もなく月は空へのぼって、静かな海と、まばらに草の生えた、長い砂浜を照らしました。聞えるものは波の音だけで、私の肩に露がおり、キラキラ光る玉をつくりました。はるかに私はたった一人になったことを知りました。
私は村上さんの枕もとにすわって、長い間かかって考えました。村上さんの不機嫌は、なんのためであったのか。椰子の実を枕にして寝てばかりいたのは、なんのためだったのか。アンボンにいたころのことまで、なにもかも、いっぺんにわかりました。村上さんの肺の病気は、もうたいへんに悪く、椰子の実を枕にして、寝ているほかはなかったのであります。私に心配させまいとして、マングローブの汁だといったのは、毎日、そっと海へ吐いていた血のしたたりであったのです。狭い舟の中で、咳の音で私を起すまいとし、どんなに苦しんで血を吐かれたことか。村上さんは気持がイライラとし、生きているうちに濠洲へ着きたいと、あせりあせったのも、みなこの病気のせいであったのであります。
帰りましてから、隊の軍医長に聞きますと、村上さんはアンボンにいるときから病気が悪く、夜、眠れないのも、みなそのためで、どうせ死ぬ命なら、生きているうちに濠洲へ入りこんで、一と仕事したいものだと考えたということであります。
村上さんの仕事は、羊の毛を買うことではなかったのだろうと思います。マリハツ・シロウは、村上さんに百遍欺されても、怨みには思うようなことはありませんけれども、死ぬ最後の日まで、私に心をゆるされませんでしたことが、悲しくてなりません。しかし人間は死ねば、天の智慧をもらい、マコトもウソも一と目で見とおすといいますから、村上さんはいまこそマリハツ・シロウのほんとうの心を知られたのにちがいない、そうおもって、私は満足いたします。
ひとり渚にいる私の影は、だんだん伸びて、砂丘の上にまで届きました。私は使えるほうの手で穴を掘って村上さんの身体をころがしこみ、流木を積みあげて、鉄木とロダンゴをすって火をつけました。
それから小屋にあった古い塩豚の壺を洗って、村上さんの骨を入れ、ラップラップ(腰布)に包んで、帆綱で檣のてっぺんにつるしあげ、来るときは村上さんと二人であった刳舟で、私一人、六百浬の海をアンボンへ帰るために、舟を海の上に押しだしました。
あのさわぎで舟を覆してから、山刀も網も釣道具もみな海に沈め、刳舟にあるのは、村上さんの骨と私だけでした。私は半分しかない左腕を、動かぬように
四日ぐらいから、舟の中が急に臭くなりました。腐るものはなにもない。気がつきますと、左腕の切口を、アダンの蔓で強く縛ったままにして置いたので、そこから
しかし、アンボンに帰るには、どうしても七十日はかかる。腐ったところを切って捨てたいが、山刀がないので切ることも出来ません。
ときどき眠りからさめ、ボンヤリと眼をひらくたびに、空には太陽があったり、星があったりしました。つぎにさめると、檣の上で揺れている骨壺がありました。インドネシアのサムナー法という航海術は、星を見て、夜だけ航海する方法だといいましたが、それだけのものではありません。インドネシアの刳舟が大海へ流されると、インドネシアはあおのけに艫に寝て、何日でも動かない決心をいたします。動くと、早く、死にます。ときどきスコールの雨水が口から流れこんで、身体を養ってくれます。すこしも動きませんので、たいてい六十日から七十日ぐらいは生きていて、その間に、通る舟に救われます。これがほんとうのサムナー法なのであります。
私の舟は、風にしたがって東へ行き、また西へ行きました。だんだん身体が弱ってきて、目をあいたまま、いろいろな夢を見ました。二十日目ごろ、海の上に二頭立ての馬車が走ってきました。それはジャワのバタヴィアやスラバヤにあるドッカールのような馬車で、舷のところへ来ると、馭者が私に、
「そんなことをしてると死んでしまうぞ。早くこの馬車に乗れ、
私はよろこんで、
「おれはやはり舟にいる」と断わりました。
馭者は恐ろしい眼つきで私を睨みつけ、波の上を馬車で行ってしまいました。馬車は毎日のように来ましたけれども、そのたびに海豚がはねあがりました。
鱶も来ました。鱶はだんだん気が短くなって、舟の艫や舳をがりがりと噛みました。その間に、どれほど日がたったか知らないが、気がついたころには、もう馬車も鱶も来ませんでした。それは一匹の海豚がずっと刳舟についていて、それらのものを追いはらってくれたからであります。それで、村上さんが私にくださる慈悲が、海豚に姿をかえて守っていてくれるのだと、私はそう信じるようになり、淋しくなれば、海豚と話をいたしました。その海豚は、アンボンの湾口まで来て、そこから南へ帰って行きました。
お話することは、これでみんなでございます。はるかなるアンボンの島から、奥さんのご健康をお祈りいたします。