坊主畳を敷いた長二十畳で、部屋のまんなかに大きな囲炉裏が切ってある。
どこもここも
藤波友衛。南番所の並同心で、江戸で一二といわれる捕物の名人。南町奉行所を一人で背負って立っているといってもいいほどのきれものだが、驕慢で気むずかしくて、ちょっと手におえない男である。藤波の不機嫌と言ったら有名なもので、番所では、ひとりとしてピリつかぬものはない。
一年中、概して機嫌のいい時は少いのだが、今日はとりわけ、どうも、いけないらしい。切長な細い眼の中でチラチラと白眼を光らせ、頬のあたりを凄味にひきつらしている。
岡ッ引どもは霜に逢った菜ッぱのようにかじかんでしまって、膝小僧をなでたり、
藤波は上眼づかいで、ひとりひとりジロジロ
「だいぶ暇らしいの、結構だ。······どうした、そんなにかじかんでいねえで、なかんずくの大ものだという、いまのつづきをしたらどうだ。······飛んだ深
貧相な
「えへへ、どうも、とんだことを······」
藤波はいよいよ蒼ずんで、
「なにも尻込みをすることはなかろう。······それとも、俺がいちゃ
「と、とんでもない」
と、息もたえだえ。
藤波は、唇の端だけで、もの凄くニヤリと笑って、
「そうか。飛んでもねえということを知っていたのか。なら、まだ人間並みだ。俺もいい下廻りを持ってしあわせだ、ふふん」
中で年配なのが、おそるおそる顔をあげて、
「なにか、あッしども、しくじりでも······」
「笑わせるな。しくじりなんて気取った段じゃねえ。······なんだ、今度のざまア。てめえら、それで生きているのか、性があるのか」
「な、なんですか、一向にどうも······」
「ざまア見ろ、そんなすッ
「ですから、どういう······」
「聞きたけりゃァ言って聞かしてやる。······番代りの
大風に吹かれた下草のようにハッとひれ伏してしまう。
藤波は、キリキリと
「いかに虎列剌がこの節の
癇性に身を反らして、ひれ伏す岡ッ引どもを、骨も徹れとばかり睨みつけていたが、ふと、眼を
「だれだ、そこらで寝ころんでいるやつア、面ア出せ、おい」
ゆっくり絆纒をひきのけて起上ると、のっそり囲炉裏のほうへ近づいて来たのは、藤波の右腕といわれるせんぶりの千太、生れてからまだ笑ったことがないという苦ッ面の眉間に
「寝ていたわけじゃアありません、泣いてたんでございます。実ァ······」
と言って、ガックリとなり、
「実は、あッしが検死にまいりました。なんとも、お詫びのもうしようもありません」
藤波は、えッと息をひいて、
「おめえが、······おめえが行って
まともに顔をふり向けると、
「それが、······
藤波は深く腕を組んで考え沈んでいたが、ふいに顔をあげると、
「そりゃア、確かだろうな」
「へい。······石井順庵先生の
藤波は、かすかに頷いて、
「それで、その毒はなんだ」
「ですから、はなッから、盛り殺したなんてことは誰れの考えにもなかッたことなんで······」
藤波は焦ら立って、
「すると、石井先生にも判定のつかねえような毒を、どこのどいつが見分けたというのだ」
千太は、無念そうに唇を噛んで、
「またしても、顎の化物の仕事なんでございます」
藤波は、ちぇッと舌を鳴らして、
「おい、あの顎はなんだ、神か、仏かよ。······
「飛んでもない、まるっきり、ふぬけのような男なんでございます。とてもそんなことをしそうなやつじゃアございません」
藤波は、なんとも冷然たる顔つきになって、急に立ち上ると、
「おい千太、出かけよう」
「えッ、出かけようといって、一体、どこへ」
「わかってるじゃねえか、
聞くより千太は勇み立って、
「ようございます、そういうことになりゃア、骨が
危険
古すだれの隙間から涼風が吹きこんで、いぎたなく畳の上でごろ寝をしている顎十郎の鬢の毛をそよがせる、それからまた小半刻、顎十郎は、
「ううう」
と、精一杯に伸びをすると、じだらくな薄眼をあけて陽ざしを見あげる。時刻はもうとうに
一種茫漠たるこの人物は、この脇坂の
中間部屋では顎十郎を知らないものはまずない。このほうでは、だいぶいい顔である。
綽名のゆえんであるところの、ぽってりと長い異様な顎をふりながら顎十郎がのっそり入って来ると、部屋部屋は俄かに活気づく。互いにひどく気が合うのである。
大名の上屋敷、中屋敷、合せて五百六十、これに最少四人二分を乗じただけの人数が、顎十郎の手足のように働くとしたら、これまた一種
まず、だいたいこんなようなあんばい。
さて、不思議はふしぎとしておいて、顎十郎は、このへんでようやくパッチリと眼をひらく。もういっぺん伸びをして起上ってあぐらをかくと、まったく、間髪をいれずというふうに、小者がスッと箱膳を運んでくる。
「先生、御膳になさい」
腹がへるとのそのそ起上ることにきまっている。部屋ではこの辺の呼吸はちゃんと心得ている。もっとも、鯛の刺身などつくわけではない。この世界なみに、たいてい
「だいぶ、涼気が立って来たの」
てなことを、のんびり言っておいて、またごろりと横になろうとするところへ、ひとりの中間が、先生、お手紙、といって
顎十郎は受取って、
「これは、けぶだの。俺に色文をつける気ちがいなどはねえはずだが······」
ゆっくりと封じ目をあけて読み下していたが、無造作に手紙を袂の中に突っこむと、
「ほう、こりゃア、ひょっとすると喧嘩かな。いやはや、どうも弱ったの」
と、ぼやきながら、剥げちょろの脇差をとりあげ、のっそりと上り框のほうへ歩いてゆく。耳早なひとりが聞きつけて、
「先生!」
と、気負い立つと、顎十郎は、
「あん」
と、不得要領な声を出しておいて、長い顎をふりふり小屋のそとへ出て行った。
指定された坂下の水茶屋までやって行くと、よしずの蔭の縁台で、藤波友衛とせんぶりの千太が物騒な眼つきでこちらのほうを眺めている。
顎十郎は藤波のそばへ行って、のそっとその前に立ちはだかると、
「これは、これは、藤波さん、暑中にもかかわらず御爽快のていでまず以て
と、例によってわけの判らぬことを言っておいて、きょろりとした顔つきで、
「して、わたくしに御用とおっしゃるのは」
藤波は蒼白んだ顔をふりあげながら立上って、
「ここでは、話もなるまい。その辺を歩きながらでも······」
「おお、そうですか。どっちへ歩きます」
藤波と千太は先に立って、氷川神社の裏道のほうへ入って行く。顎十郎はすこし遅れて、のそのそとそのあとをついてゆく。
片側は土手、片側は
藤波は立ちどまって、くるりと向きなおると、
「ほかでもないのだが、すこし御忠言したいことがあって、それで、ご足労を願ったのだが······」
顎十郎は、掌で顎の先を撫でながら、ぼんやりした声で、
「ほほう、それは、それは」
と、一向に張合がない。藤波はキュッと頬をひきしめて、
「ときに、仙波さん、あなたのお
「はア、ご承知のように、
「つまり、刑律の先例を調べるのが、あなたの役なのだろう。そんならば、古帳面へしがみついているがいい。あまり出すぎた真似はせぬほうがいいな」
「これは、どうも、ご忠告ありがたい。せいぜい戒心いたします」
藤波はキリッとかすかに歯噛みをして、
「ふん、面は馬鹿げているが、わかりはいいようだな。以後、気をつけろ」
顎十郎は、いんぎんに
「委細承知いたしました。これで御用は、もう、おすみですか、そんならば、わたくしはこの辺で······」
「待て、待て、うろたえるな。まだ話がある」
「ほほう」
「こんどの堺屋の一件は、やはり貴様の出しゃばりだろうが、お気の毒だが、でんぐりけえすぞ、そう思って貰おう。こッちに
顎十郎は、すこし真顔になって、
「出しゃばりとか、堺屋とか、そりゃア、いったい、なんのことです。どうも、一向······」
千太はいままで、苦虫を噛んで突っ立っていたが、藤波を押しのけるようにして進み出ると、
「なんだと、ひとをこけにしやがって、いいかげんにとぼけておきやがれ。いってい、てめえなんざ、
藤波は薄い唇をほころばして白い歯を出し、
「まったく、珍な顎だの、いやな面だ」
顎十郎は、ゆっくり一足進みよると、眼を据えて、穴のあかんばかり、藤波の顔を
「つまらぬことをいうようだが、藤波さん。······むかし、わたしが死ぬほど惚れた女がいましてね、その家の紋が
顎十郎は袖を払うようにして、のっそりと今きたほうへ歩き出す。藤波は、千太とチラと眼を見あわせ、せせら笑いながら、
「なにを、たわけた。······さあ、
二人は反対のほうへ帰りかける。その途端、藤波の背中で、エイッという
「やるか!」
藤波が腰をひねって、とっさにすっぱ抜こうとすると、この時、顎十郎は懐手をして、もう四五間むこうをゆっくりと歩いていた。
「なんだ、つまらぬやつ」
千太は、聞えよがしに、
「眼の前で『顎』とひと言いうと、かならずぶった斬ると評判だけは高えが、なんのことやら······」
と言って、藤波のうしろから歩き出そうとし、とつぜん、うわッと声をあげ、
「旦那!」
「なんだ、けたたましい」
「せ、背中の紋が丸く切りとられて、
「えッ」
かたびらの背中だけが紋なりに丸く切りとられ、膚には毛ほどの傷もついていなかった。
ぞっと冷水をあびたようになって、言葉もなく二人が眼を見合せていると、
ねずみ
顎十郎が組屋敷の
顎十郎が入って来たのを見ると、庄兵衛は日ごろの渋っ面をひきほごして、
「やア、風来坊が舞いこんできた。······これ、阿古十郎、貴様が中間部屋にしけこんでいるうちに、だいぶ世の中が変ったぞ。突っ立っていないで、ここへ坐れ。手柄話をきかせてやる」
顎十郎は、のんびりと顔をひきのばして、
「それは、近ごろ耳よりな話ですな。ちょうど、水の手が切れかかっていたところだから、手前にとってはもっけのさいわい」
と、いいながら、叔父のそばに大あぐらをかくと、
「叔父上、それはいったいどんな話です。まさか、堺屋の件ではありますまいな」
庄兵衛は、おどろいて、
「貴様、それを、どこで耳に入れた。この件はまだ世間にはけっして洩れない筈だが······」
「と思うのが、たいへんなまちがい。どういうわけか、この阿古十郎の耳にはちゃんと届いております。······
ひょろ松は膝をゆり出し、
「阿古十郎さん、こんどくらい、気持のいいことはごぜえませんでした。······実は今月の
顎十郎は、気のなさそうな顔つきで、
「ほほう、妙というのは、どう妙?」
「まあ、お聞きなさいまし。いったい、堺屋では、主人の嘉兵衛と姉娘のおきぬと妹娘のおさよ、それに一番番頭の鶴吉、手代の忠助と忠助の弟の市造と、この六人が奥で飯を喰うしきたりになっているんでございます」
「なるほど」
「ちょうど二十九日の夜、晩飯がすんで半刻ばかりすると、いま言った三人だけが苦しみ出し、あっという間にこれがもういけない。······なんの不思議もないようだが、ねえ、阿古十郎さん、よッく考えてごらんなさい。一緒に膳についた妹娘のおさよと忠助と忠助の弟の市造だけは、けろりとして、しゃっくりひとつしねえんです」
「それが、どうだというんだ」
「なるほど、これだけじゃ、納得がゆかねえでしょうから、かんじんのところを掻いつまんで申しますと、死んだのは、三人とも忠助にとっては邪魔なやつばかりで、生きのこったのは忠助としては、どうあっても、生かしておいたはずの三人なんです。これじゃア話がすこしうますぎやしませんか」
と言って、チラリと庄兵衛のほうを見て、
「尤も、あッしの智慧じゃない。これはけぶだと最初に言い出したのは、実は旦那なんです。そう言われて見ると、なるほど······」
庄兵衛は、大きな
「どうだ、阿古十郎。あの石井順庵が、これはコロリだと言い切ったのだが、与力筆頭の眼力はそんなチョロッカなもんじゃない。これは、なにかアヤがあると、たちまち
ひょろ松は前につづけ、
「そう言われて、あッしも成程と思い、堺屋へ乗りこんで調べて見ますと、すぐ、いま言った関係がわかったんです。······忠助というのは主人の遠縁にあたるもので、弟の市造と三年前から堺屋へ引き取られて手代がわりに働かされていたのです。······ところが、この忠助は、いつの間にか妹娘のおさよと出来てしまった。これが、陰気な、見るからに気のめいるような男で、仕事ッぷりもハキハキしないところから、平素から嘉兵衛の気に入らなかったらしいんですが、こんなことがあったので、主人はすっかり腹を立て、一度は弟もろとも追い出されかかり、ようやく詫びを入れて店へ帰ったようなこともあるんです。店は一番番頭の鶴吉に姉娘をめあわせてそれに譲ることになっていた。その折は弟と二人に暖簾を分けて貰えるはずだったが、こんなことでそのあてもなくなった。······一方、主人の嘉兵衛には身寄というものはないのだから、姉娘と鶴吉を亡いものにすれば、だまっていても、堺屋の身代は当然忠助のものになる。······どうです、これでおわかりになりましたろう」
顎十郎は顎をひねりひねり、うっそりと聞き入っていたが、急に無遠慮な声で笑い出し、
「叔父上、それから、ひょろ松も······、二人の口真似をするわけじゃねえが、なるほど、こりゃあ、すこしけぶですぜ」
庄兵衛は、たちまちいきり立って、
「なにが、どう、けぶなのだ」
「だって、そうじゃありませんか。それほどの悪企みをやってのける人間が、だれに言わせたって、かならず自分に疑いがかかるような、そんなとんまな真似をするはずがねえ。弟のひとりぐらいはちゃんと道連れにつけてやっているはずです。······それじゃ、まるで、手前がやりましたとふれて歩いているようなもんだ。こりゃあ、すこし、ひどすぎる」
「だから、それ、うまく虎列剌と胡麻化せると思って、大きに多寡をくくってやった仕事なのだわ」
ひょろ松は、それにつづいて、
「阿古十郎さん、あなたのおっしゃることは一応ごもっともですが、まだほかにいけないことがあるんです。······いったい、三人はその晩、蛤汁が出ると、忠助は妹娘のおさよと弟の市造に、このごろ虎列剌が
顎十郎は、かぶりを振って、
「そう聞くと、いよいよいけねえの。······虎列剌の
庄兵衛は癇癪を起して、
「よけいな詮索はいらぬわい。貴様はなにかつべこべいうが、当の忠助が、私がいたしました、私のしたことに相違ありませんと白状し、もう爪印までとってある」
「それで、忠助は、どんな毒を盛ったというのだの」
ひょろ松は少々当惑のていで、
「ただ、殺したのは私だというばかりで、そのほうはどうしてももうしません」
「では、段取りのほうはどうだ。そのころ忠助が台所でうろうろしていたというような事実でもあったのか」
「いえ、そういうこともございません。女中や飯たきのほか、店のものなどは、ひとりも台所へ来なかったというんでございます」
顎十郎は、ニヤリと笑って、
「叔父上、いつまでもこんな掛合いをしていてもキリがねえし、ほかの事件ならいざ知らず、
庄兵衛は、日ごろの強情にも似ず急に脅えたような顔つきになったが、それでも、口先だけは威勢よく、
「なにを、小癪な。では、俺の吟味にあやまりがあるというのか。ほかに罪人があるとでもぬかすのか」
「まアまア、そうご心配なさるな。手前が扱ったという以上、あなたの顔をつぶすような真似はしやしません。······ねえ、叔父上、手前は、なにもあなたの吟味が間違いだなどと言ってるわけじゃない。お調べどおり、罪人は、いかにも忠助です」
叔父は眼を三角にして、
「そ、そんならば、なぜにいらざる異をたてる。ふざけるのもいい加減にしておけ」
顎十郎は、またしても、
「······いかにも、忠助は忠助だが、その忠助は尻尾の長いチュウ助です。ここのところが、ちッとばかりちがう。······しかしながら、いずれにしろ罪人はチュウ助なんだから、それをとりちがえたって、たいしてあなたの顔にかかわるというわけでもない」
と、わからないことを言っておいて、急に切って放したようなようすになり、
「叔父上、······それから、ひょろ松。······あなた方は、ついこの頃よく江戸の市中に売りに来るようになった『

きょろりと、二人の顔を眺めて、
「赤斑も出れば、
と言って、言葉をきり、
「手前は堺屋へ行ったわけではない。なにもわざわざ出かけて行かなくともちょっと理詰めにしてみると、このくらいのアヤはわけなくとける。······これはピンからキリまで手前の推察だが、大きなことを言うようだが、けっして、これにははずれはない。······思うに、堺屋では、石見銀山を買った。ご承知の通り、この鼠とりは蛤っ貝の中に入っている。それを飯たきがへっついの近くの棚にのせておいたに違いない。そして、その棚の近くには鼠の通う穴があるはずだ。嘘だと思うなら行って調べてごらんなさい。かならずある。······ここまで陳ずれば、あとはくどくど説くがものもねえのだが、どうして、こんな間違いが起きたかと言えば、ねずみが棚を走りまわって、殺鼠剤の入った蛤っ貝を下に蹴り落した。運悪くへっついの近所に、晩飯の蛤汁にする蛤が
顎十郎の聴き役、庄兵衛のひとり娘の花世の部屋へ入ってゆくと、花世は今度の成行を心配して顎十郎を待っていたところだった。堺屋の末娘のおさよから花世に宛てて長い手紙が来ていた。
顎十郎は、その手紙を読み終ると、
「実は、吟味部屋で二人に逢う前に、おれは揚屋へ行って忠助と話をしてみた。······まるで、念仏でもとなえるように、私が殺したとばかりくりかえす。旦那さまや鶴吉どんが死んで、おさよさんとわれわれ二人だけの世の中だったら、どんなに楽しかろうと、ときどき考えたことがございます。たぶんその思いが通じて、こんな
「それで、藤波のほうはどうでしたの」
「藤波はせんぶりの千太と堺屋へ出かけて行って、台所の棚に鼠の通い路があるのを見つけて、間もなくおれと同じように詮じつめてしまった。······ふふふ、今度はまず五分五分の勝負かな。······ただ藤波は堺屋へ行き、おれはうちで寝っころがって考えただけのちがいだ」