「阿古十郎さん、まア、もうひとつ召しあがれ」
「ごうせいに、とりもつの」
「へへへ」
「陽気のせいじゃあるまいな」
「あいかわらず、悪い口だ。······いくらあっしが
むこうは
顎十郎のとりもちをしているのは、神田の御用聞のひょろ松。その名のとおり、
酒と名のつくものなら、
矢つぎばやの追っかけ突っかけで、顎十郎、さすがにだいぶ御酩酊のようす。
ぐにゃりと首を泳がせて、
「ときに、ひょろ松、お前、今年、いくつになる」
「へえ、三十······に、近いんで」
「お前の三十にちかいも久しいもんだ。······本当の年は、いくつだ」
「三十四でございます」
「それなら、四十に近い」
「いえ、三十のほうに近い」
「ふふふ、小咄だの。······それはいいが、その年をさげて、こんな芸しかできないとは、お前もよっぽどばちあたりだ」
へたにとぼけた顔で、
「それは、なんのことでございます」
「ひょろ松、相手を見てものを言え」
顎十郎、長い顎のさきを撫でながらニヤニヤ笑って、
「おい、お見とおしだよ」
「·········」
「お前、叔父貴に
「なにをでございます」
「強情だの。······それそれ、へたにとぼけたお前の顔に、頼まれて来た、と書いてある。······おれの口から頼みます願いますでは、天下の与力筆頭の
「まったく、その通り······」
つい、うっかり口走って、へへへと
「てめえで言ってしまっちゃアしょうがねえ。いままで、なんのために苦労をしたんだかわかりゃアしない······こいつア、大しくじり」
「はなっから、間のぬけた話だ。······下戸のお前が、柳橋へ行こうの、屋根舟にしようのと、水をむけるからしてあんまり智慧がなさすぎる。······ふふふ、まア、そうしょげるな。これでも、おれは気がいいからの、むげに、お前の顔をつぶすようなまねはしない。とりもちにめんじて、ある智慧なら貸してやる」
ひょろ松、ピョコリと頭をさげ、
「さすがは、阿古十郎さん」
顎十郎は、
「おだてるな。······それで、今度はどんなことだ」
へえ、といって、急に顔をひきしめ、
「それがどうも、すこし、
顎十郎、のんびりとした声で、
「ふむ、妙とは、どう妙」
「それが、どうも、捕えどころのねえ話なんで······。どうしたものか、この月はなっから江戸の市中が水を打ったようにひっそりと静まりかえっているんでございます。······どんなことがあったって、日に十や二十はかかしたことのねえ
「なるほど、そりゃあ珍だの」
ひょろ松はうなずいて、
「江戸中の悪いやつらが、ひとり残らず
「そうだとありゃア、いかにも物笑いだ」
ひょろ松は、情なそうな顔をして、
「そう、澄ましていられちゃ困ります。······なにしろ、あなたは、日がな毎日、犯例帳の
といって、膝をすすめ、
「ねえ、阿古十郎さん、······古いころ、······たとえば、鎌倉時代にでも、こんな
顎十郎、
「はて、いっこうに聴かねえの」
「こりゃア情ない。······前例はねえとしても、では、なにかあなたのお見こみがございましょうか」
「お見こみなら、少々ある」
ひょろ松は思わず乗りだして、
「へえ、それは」
「間もなく、御府内で、どえらいことが起る」
大久保彦左衛門以来という、江戸ではもう名物のひとつになっている
懐手をしたまま
「いよう」
と、ひともなげな挨拶をすると、遠慮もなくズカズカと入りこんで来て、叔父のよこへ大あぐらをかく。
庄兵衛は、顎十郎の声を聞きつけると、どうしたのか、ひどくあわてふためいて、あたふたとありあう本で文机のうえのものをおおい隠すと、三白眼をつりあげ、大きな眼鏡ごしに顎十郎の顔をにらみあげながら、
「いくらいっても聞きわけがない、叔父にむかって、いよう、などという挨拶があるか。······たしなまッせえ、この
顎十郎は、空吹く風と聞きながし、
「ときに叔父上、あなたもめっきりお年をとりましたな、そうしてションボリと文机のまえに坐っているところなんざ、まさに
庄兵衛は、膝を掻きむしって、
「またしても、またしても、言わしておけば
まるで、こんがら童子が
「まあまあ、そうご立腹をなさるな。······それはそうと、いまさっき、なにかしきりにコソコソやっていられたが、
庄兵衛はうろたえて、
「ぷッ、冗談にもほどがある。······出まかせをいうのも、ほどほどにしておけ」
「てまえが入って来ると、あわてて本でかくしなさったようだが、いったい、なにをしていらしたんです」
庄兵衛は、いよいよもって狼狽し、からだで文机をかくすようにしながら、
「ええ、なにもしておらぬともうすに」
「そんなら、その本をとってお見せなさい」
といいながら、文机のほうへ手をのばしかける。
庄兵衛は、やっきとなって、顎十郎の手をはらいのけながら、
「これ、なにをする······
「いいからお見せなさい」
「ならん、ならん」
揉みあっているところへ、庄兵衛の秘蔵ッ
ことし十九になる惚々するような
花世は、父と顎十郎のあいだへ、わざと割りこむようにして坐って、あどけなく首をかしげながら、庄兵衛に、
「もう出来ましたかえ」
といいながら、文机のほうを覗きこむ。
庄兵衛は、またしてもあわてふためいて、いそがしく目顔で知らせながら、
「出来たとは、なにが。······わしは知らぬぞ」
花世は、
「おや、いやな。······そら、御尊像のことでござります」
顎十郎は、そっくりかえってふアふアと笑いだし、
「いやはや、こいつは大笑いだ。······あなたはうまく隠しおおせたつもりだったでしょうが、種はさっきからあがっているんですぜ。······
急に手をのばして文机の本をはねのけると、その下からおおかた彫りあがった大黒尊像の版木があらわれた。
これは、例の幸運の手紙とおなじもので、
これをおこのうものは福徳家内に満ち、これをおこなわぬものはかならず災疫をうけるというので、これを受けとったものは、おのがじし百枚ずつを版木に起して配布するので、わずか三月とたたぬうちに、大黒尊像は日本の津々浦々にまで行きわたるような大勢力となった。幕府は大いに狼狽し、文政二年の末ごろ禁令を出して取締ったが、またふた月ほど前から、尊像頒布が急にたいへんな勢いで流行しはじめた。
顎十郎は、文机のうえから版木をとりあげて、ニヤニヤ笑いながら、
「たとい、むかしでも法度は法度。······それを取締るべき与力筆頭のあなたが、こんなことをなさるなどは、ちと受けとれぬ話ですね」
庄兵衛は、てれくさそうに額に手をやり、
「悪いやつに、悪いものを見られてしまったわい。······見あらわされたうえはいさぎよく白状するが、なにもこれは迷信などを信じてやったわけではない。おまえも知ってのとおり、花世は
顎十郎は、聞くでもなく聞かぬでもないような様子で版木をひねくりまわしていたが、なにを認めたものか、ほう、と声をあげ、
「こりゃア妙だ。······叔父上、この尊像はすこし変っていますぜ。······いままでの大黒尊像は、俵を踏んまえて、その下に鼠が二匹いる。······だれでも知っている通り、それだけのものだが、これ、ごらんなさい、この尊像には、こんなわけのわからぬものがついている」
見ると、なるほど、尊像の空白に、お灸のあとのような、妙なものがついている。
それは、こんなふうなものだった。
○○●●●●●○●○●○○○○○○○○○●○○○○●○○●○●●●●○○●○○○
弓町の住居にもかえらないし、庄兵衛の屋敷にもよりつかない。また、れいのごとく、中間部屋にでもとぐろを巻いているのかと思って、脇坂や
そうこうしているうちに、南番所のほうでは、いよいよ追いこみにかかったらしく、
ひょろ松は気がきでない。手にものもつかぬようにじれ切っているところへ、ちょうど四日目の朝になって、顎十郎が泰平な顔でブラリとやって来た。
顎十郎の声をききつけるより早く、ひょろ松は奥から泳ぎだし、喰ってかかるような調子で、
「阿古十郎さん、ひどく気をもませるじゃありませんか。······いったい、今日までどこに雲がくれしていたんです」
顎十郎は、懐手をしてのっそりと突っ立ったまま、
「じつは、長崎のほうに友達ができてな、ちょっとそこまで行って来た」
ひょろ松は、ムッとして、
「冗談なんぞをいってる場合じゃありません。······こっちは、たいへんなことになってるんです。しっかりしてもらわなくっちゃ困ります。······それで、なにか見当がつきましたか」
顎十郎はケロリとして、
「引きうけたおぼえはないが、見当だけはつけてやった」
ひょろ松が、
「それで、南じゃ、このごろ、どんなことをやっている」
ひょろ松は、藤波とせんぶりの千太が、弥太堀に人数を張りこまして大わらわになっていることを話すと、顎十郎は、ふんと、鼻を鳴らして、
「こりゃア、ちと物騒なことになってきた。まごまごするとお蔵に火がつく。······南でやろうが、北でやろうが、おれにしちゃ、どうでもいいようなもんだが、なることなら、やはり叔父貴に手柄をさせてやりたい。どんなことになっているのか、ひとつ様子を見にゆこうか」
「へえ、お伴します」
急ぐのかと思えば、そうでもない。泰然たる面もちでひょろ松とならんで歩きながら、
「お前との約束があったが、じつは、すこし、からかってやるつもりで、あの足で金助町へ出かけて行ったんだ」
「えッ、じゃア、底を割ったんですか」
「と、思ったんだが、そうはしなかった。······そのかわりに、ふしぎなものを手に入れて来た」
といって、懐から一枚の
「ひょろ松、お前、これをなんだと思う」
ひょろ松は、受けとって眺めていたが、つまらなそうな顔で、
「こりゃア、このせつ
「そうか、お前にはそうとしか見えないか」
ひょろ松はあらためて眼をすえて眺めていたが、そのうちに頓狂な声をあげ、
「なるほど、こりゃア、ちと変っている。······この碁石のぶっちげえのようなものは、いったい、なんなのでしょう。······まさか、五目ならべの課題でもあるめえが」
顎十郎はニヤリと笑って、
「それだけでもわかりゃア上の部だ。······それはそうと、妙なのはそれだけか。眼のくり玉をすえて、もう一度、よく見ろ」
ひょろ松は、ためつすがめつ大黒絵を眺めていたが、
「あります、あります。······なるほど、妙なところがある。······大黒様の左肩に、矢羽根のようなものが微かに見えるが、矢をせおった大黒様とは珍らしい」
「ひょろ松、縁起まわしの刷物には、鼠がなん匹いたっけな」
「きまってるじゃありませんか、二匹です」
「この大黒様にはなん匹いる」
「なるほど、こりゃアけぶだ。······俵のうしろから鼻のさきを出しているのがある。······ひい、ふう、みい、よ······みんなで、四匹おります」
ひょろ松は、眼をかがやかして、
「こりゃア、どういう洒落なんです。これが、今度のいきさつに、なにかひっかかりがありますんでしょうか」
聞えたのか聞えぬのか、顎十郎、なんの返事もしない。長い顎をふって、あちこちと河岸っぷちの景色を眺めながら、ぶらりぶらりと歩いてゆく。
ひょろ松は、それに眼をつけると、
「阿古十郎さん、あれが藤波ですぜ」
と、ささやく。
顎十郎は、ほほう、とうなずきながら、さりげない様子でお堂の右ひだりを眺めると、なるほど、いる、いる。
花売りにかったいぼう、手相見もいれば、飴屋もいる。そうかと思うと、子供づれで、参詣の
顎十郎は、ああん、と口をあいて、大がかりな捕物を見物していたが、やがて、ひょろ松のほうへ長い顎をふりむけると、
「おい、ひょろ松、このぶんじゃ、どうやら、こっちの勝だぜ」
と、のんびりと言って、
「これだけ見りゃもう充分だ。······じゃ、そろそろひっかえすとするか」
弥太堀の大黒堂をあとにすると、顎十郎は、
ひょろ松は、気にして、
「阿古十郎さん、これじゃア、道がちがやアしませんか」
といったが、てんで耳もかさず、
見ると、大黒堂と堀ひとつへだてた向い岸。橋ひとつ渡ればすむところを、小半刻も大まわりをしてやって来たわけである。
ひょろ松はあっけにとられて、
「こりゃア、おどろいた。······ここは、弥太堀じゃありませんか。······昼日なか、狐につままれたわけでもありますめえね。······いってえ、どうしたというわけなんです」
顎十郎は、依然として無言のまま、先に立って弥太堀から横丁へ折れこみ、大きな料理屋のすじむかいの
ひょろ松はしょうことなしにそのあとについてゆくと、顎十郎は、ずっと奥まった
「このへんに番所があるか······駕籠屋があるか」
いつもの顎十郎と様子がちがう。
ひょろ松は、けおされたようになって、思わずこれも小声になり、
「あの火の見の下が辻番で、駕籠屋も、つい近所にございます」
顎十郎は
「······なア、ひょろ松、御府内の
「へえ、その通りでございます」
「お前に、まだ、そのわけがわからねえか」
「·········」
「それは、鳴りをひそめているんじゃない、江戸にいないのだ」
「えッ」
「それだけの人数の
「どうも······」
「こないだ、大川の屋根舟で、間もなく
いよいよ、ささやくような声になって、
「お前も、多少は聞いているだろうが、こんど幕府が外国から買い入れた、例の咸臨丸、これは、
ひょろ松は、あッ、とのけぞって、
「それだッ······すると、江戸の悪者どもは······」
まっ蒼になって、ブルブル慄えていたが、急に狂気したように、両手で顎十郎の腕を鷲づかみにすると、
「そ、それで······その金は?」
「きのう、江戸を出たはずだ」
「げッ、······それじゃア、もう間にあいませんか」
「なんともいえないが、やるだけやってみるより、しょうがあるまい。······ところで、ひょろ松、ちょっとむかいの料理屋へ行って、きょう三十人ばかりで
ひょろ松は無我夢中のていで水茶屋から出ていったが、間もなくもどってきて、
「きょうは、
顎十郎はうなずいて、
「うむ、そうか、それでいいのだ」
ひょろ松は、席にもいたたまれぬように焦だって、
「それはそうと、阿古十郎さん、こんな水茶屋なんぞでのっそりしていていいのですか。······あっしはもう······」
立ちかかるのを、顎十郎は腕をとってひきとめ、
「まア、あわてるな。······すこし、落着いてむかいの料理屋の看板を見ろ。なんと書いてある」
ひょろ松は、葭簀のあいだから料理屋のほうをすかしながら、口のなかで、
「大黒屋······、だ、い、こ、く、や······」
と呟いていたが、急に横手をうって、
「あッ、わかりましたッ。······すると、あの縁起まわしの大黒絵の刷物は、絵ときで場所を知らせる
「いかにもその通り······それで、きょうは、いったい、何日で、そして、なんの日だ」
「きょうは、九月四日······」
指を折って、
「
顎十郎は、顎を撫でながら、
「おれも、あれには一ぷくふいた。······なんの
○○●●● ヒ、●●○●○ ル、●○○○○ ヤ、○○○○○ ツ、●○○○○ ヤ、●○○●○ タ、●●●●○ ホ、○●○○○ リ
「昼、
といって、てれくさそうに、頭に手をやり、
「ところで、藤波友衛のほうが、おれより五日ばかり早かった。······ただ、藤波のやつは絵すがたの絵ときが出来ずに、いきなり弥太堀の大黒堂だと思いこんでしまった。藤波だって、矢羽根も四匹の鼠もちゃんと見ていたことだろうが、あのまぬけな絵ときが出来なかったのは、あいつの頭があまり鋭すぎたからだ。······たとえば、
ひょろ松は、そっと水茶屋の裏口からぬけだすと、長い脛でぼんのくぼを蹴あげるようにしながら、むさんに八丁堀のほうへ駈けて行った。
弥太堀の大黒屋に集っていたのは、一団の主領かぶで、
勤王を名にして、木曽路や東海道で強盗をはたらいていた連中。咸臨丸の金、二十五万両が東海道をくだることを聞きこみ、江戸の悪者どもをかりあつめて海道に配置し、自分らはここで勢揃いをし、用金の後を追って、まさに