「······
「
「はい、ちょうど七字と十ミニュート······」
「ああ、そうですか。······六字に神田を出たとして、駕籠ならば小泉町、
「······佐原屋のことだから、
向島
朱塗の大きな
ちょっと見には、くすんだくらいの
この春、
それもそのはず、ここに居おうのは
いずれも
毎月八日に、この長崎屋の寮で句会をひらく。俳句はぼくよけで、実は、大切な商談の会。
顧問格の、仁科という西洋通を正客にまねき、最近の西洋事情やら外国船の来航の日取りをきく。
たがいに識見を交換し、結束をかたくして
正座についている、
その手前にかけている小柄な男は、洋書問屋の
仁科の右どなりにいるのは、交易所
長崎屋の
もとは、佐倉の佐藤塾で洋方医の病理解剖を勉強していたが、墓から持って来たたったひとつの
ちょうど、話題は横浜の
「······佐原屋といえば、こんどの禁制でいちばん手いたい目にあった組だ。一万斤の生糸の売渡しが破談になったばかりか、そのためにトーマス商会と訴訟になり、その談判に一日の通弁料が百両という仕あわせでは、いかに佐原屋でも
和泉屋がいうと、日進堂は首を振って、
「どうして、なかなか······ご承知の通り、あの
長崎屋は、ほう、と驚いて、
「そりゃア、ずいぶん思いきったことをしたもんだな······豪放もけっこう、無茶もいいが、それも時と場合による。こういう際に、ことさらに攘夷派を
仁科伊吾はうなずいて、
「······そうそう、私もいつかその点を指摘しようと思っていたんです······取引の上のことはともかく、おおっぴらに城陽亭へ入って
そこへ、渡りの廊下の端で、
「まア、いいいい······ちょっと、みなに、このなりを見せてやるんだ」
案内の女中に、笑いながらそんなことを言っている声がきこえ、濶達な足音が近づいてきて、
色が浅黒く、いい恰幅で、藍がかった
水からあがったように、頭から爪先までグッショリ濡れたまま、おどけた恰好で座敷の入口に突っ立ち、団十郎張りの大きな目玉を笑いたそうにギョロギョロさせている。
一同、そちらへ振りかえったが、あまりおかしな様子をしているので、思わず噴きだしてしまい、
「は、は、は······佐原屋さん、ひどい目にあいなすったね。それじゃア濡れ鼠どころじゃない、まるで、
和泉屋が言うと、日進堂も腹をかかえながら、
「濡れ仏、とは、うまいことを言ったもんだ······額からしずくをたらしながら、そうして目玉をむいて突っ立っているところなんざ、牛込
と、ひやかすと、佐原屋清五郎は、なんのせいかひどく赤らんだ額のしずくを、手のひらでぬぐいながら、
「その
ひどく上機嫌にしゃべり立てるのを、長崎屋は、手でおさえるようにしながら、
「いくら夏の雨でも、そんなことをしていては、からだに障る······ひと風呂あびて、浴衣にも着かえていらっしゃい。······いま、湯殿へ案内させますから······」
佐原屋は、ひょうきんに顔を
「雨水が咽喉へはいって気色が悪くていけねえ。······風呂へ入る前に、
と、言いながら、絨毯を踏んで座敷のほうへ入りかけようとした途端、ドツと吹きこんで来た川風に、蝋燭の灯があおられてフッフッと次々に吹き消え、部屋の中がまっ暗になった。
「おッ、これはいけない」
「
口々に騒いでいるうちに、闇の中で、ううむ、と奇妙な唸り声がきこえだした。
「そこで唸っているのは佐原屋さんか? まるで
「佐原屋さん、子供でもあるまいし、つまらない真似はおよしなさい」
「ほんとに、気味の悪い声だぜ」
そうしているうちに、長崎屋が、地袋の棚から
「やれやれ、やっと明るくなった」
で、
「おッ!」
「これは!」
口々に叫びながら、おどろいて、五人が椅子から立って、ドヤドヤと佐原屋のほうへ駈けよって、
「こんなところへ寝ころんでしまっちゃいけないな······どうなすったんだ」
「おい、どうしたんだ、佐原屋······」
あわてて引きおこしてみると、佐原屋はもう
よほど苦しかったのだろう、手の指を蟹の爪のように曲げて絨毯にくいこませ、目玉が飛びだすばかりにクヮッと眼を見ひらき、どす黒い舌を歯で噛んで、そこから流れだした血が頬のほうへまっ赤な筋をひいている。
佐原屋清五郎は頸に巻きつけている蕃拉布で、力まかせに頸を
燈灯が消えてから、早附木で灯をともすまでの、ほんの[#「ほんの」は底本では「ほんのの」]三分のあいだの出来事だった。
町医者を呼んで、さまざまに手を尽してみたが、佐原屋はとうとう生きかえらない。
窓の下は、石崖からすぐ川で、水面から
廊下のほうは、太鼓なりの渡り廊下のはしから階下へおりる階段へつづき、片側はずっと
階段の下は錠口になっていて、
そういう用心堅固な座敷にスラスラと入りこんで来て、ほんの二三分のあいだに佐原屋を
五人がすわっていた円卓と、佐原屋清五郎が倒れていた場所とのへだたりは、すくなくとも四間はあった。
かりに、円卓についていた五人のうちの誰かが、灯りの消えた束の間にツイと立って行って佐原屋を縊り殺し、また椅子にもどって来られそうにも考えられようが、そういうことが絶対に不可能だったということは、その時、軒さきに吊るした
ところで、医者の診断では、卒中でも
検視の役人が来るのを待つあいだ、五人は階下の小座敷にあつまって顔つきあわして坐っていた。
雨がやんで、
鼻を突きあわせて、ムンズリと坐ってばかりいてもしょうがないから、酒を運ばせてしめやかに飲みだしたが、さっきの今だから、座が浮き立つはずもない。いわんや、二階には佐原屋の
それに、一同の心の中には共同の不安というようなものが重苦しくたぐまっていて、考えがとかくそちらへばかり行く。互いに顔を見られぬように用心しながら、黙々と盃をふくんでいたが、そのうちに日進堂が思いきったようにズカリと口を切った。
「······私ひとりの考えではあるまい、みんなも、
そう言って、同意を求めるように、一座の顔を眺めわたした。
佐原屋が絞め殺されているのを見た時、とっさにみなの頭にひらめいたのはこの考えだったが、そのやり方になんともいえぬ凄いところがあって、闇討ちや
日進堂がそう言うと、和泉屋は、むしろホッとしたような顔で、
「まず、そうと思うよりほかはない。······われわれとしては、すでに覚悟のあることで、こんなことぐらいで弱気になるのではないが、あまり水ぎわ立ったやり方なんで、さすがに、ちっとばかり凄いようで······」
佐倉屋もうなずいて、腕を組んで
「······ねえ、仁科さん······たとえ、どう理が合わなくとも、これが
仁科伊吾は、太い一文字眉を癇性らしく動かしながら、すぐにはそれに答えずに、うつむき加減に膝に目を落していたが、とつぜん顔をあげると、
「······しかし、それは、いくらここで言いあってみたって、どうにもならないこってしょう。······どんなふうにして殺されたかは、岡っ引どもが来て調べりゃわかるこったから、くどッくらしく巻き返すのは、これくらいにしておこうじゃありませんか。······それよりも、これは、ひとり、佐原屋ばかりのことではない。われわれ全体の上におおいかかって来た問題なので、これに対して、われわれがどういうふうに身を処すべきか、それを相談しておくほうが急務だと思われます。······方法はどうあろうと、ことの実体は、われわれが不可解な殺戮の目標になっているらしいということで、もし、そうとすれば、恐らく、つぎつぎにこういう事件が襲いかかってくるものと覚悟せなければなりますまい······われわれ六人が結束を固くしているのは、日本の文化開発のために微力を尽そうということのほかに、いわれのない攘夷派の圧迫に、一団となって対抗するためもあったのですが、こういう容易ならん方法でわれわれの生命が脅威をうけた場合、六人組としてはどういう処置をとったらよろしいか······長崎屋さん、あなたに、なにか、お考えがおありですか」
長崎屋は、いかにも不敵な口調で、
「······佐原屋の平素のやりかたには、たしかに攘夷派を挑発するような素振りが多かった。······こんなふうに言うと、死んだ佐原屋を鞭打つようなもんだが、それは、たしかにそうなんです。······思うに、攘夷派の連中が、ことさらあんな奇抜な方法で佐原屋を殺したのは、つまり、一種の示威なので、かくべつ恐れるに足らないことだと思います。······なぜかと申しますと、佐原屋を殺すつもりなら、なにもあんな奇異な方法をとらなくとも、もっと簡単にやれる方法はいくらだってあるでしょう。それをことさらにあんな方法を選んだというのが、つまり、そのへんの消息を物語っているのだと思います······いかがでしょう」
仁科は、間をおかず、すぐにうなずいて、
「長崎屋さん、あなたのおっしゃる通りだ。······じつは、わたしも、さっきからその点に気がついておりました。······こりゃアたしか、
そうするうちに、町与力の一行がやって来た。
検屍が済んでから、ひとりずつ別間へ呼ばれて取調べを受けたが、さっきも言ったように、五人ながら円卓から離れなかったということはお互いがよく知っているので、おのおのの申し立ての符節があい、このまま引きとって差しつかえないということになった。
検屍がすんだのは、ちょうど七ツごろで、もう東の空が白みかけている。
雨あがりの上天気で、きょうもさぞ暑くなりそうな、雲ひとつない
なにしろ、ずっと夜あかしで、それに、気を張りづめだったから、さすがに疲労をおぼえて、これから駕籠に揺られて帰る気はない。
船にしようということになって、長崎屋だけをひとり寮に残し、仁科、日進堂、和泉屋、佐倉屋の四人が
「旦那、おつかまえしましょうか」
と、立ちかかるのへ、
「なアに、大丈夫」
と、こたえて、ゆっくりと小用をたしていたが、やはり疲れていたのか、うねりで船がガクとあおられたはずみに、ヒョロリと足をひょろつかせて、他愛もなくザブンと川の中へ落ちこんでしまった。
一同はおどろいて、思わず、あッ、と声をあげたが、川には小波ひとつなく、それに、水練にかけてはひとに負けない佐倉屋のことだから、間もなく、やア、ひどい目にあった、などと言いながら浮きあがって来るのだろうと思っていると、よほど深く沈んだとみえて、なかなか浮いて来ない。
さすがに、気をもんでいるうちに、佐倉屋はとつぜん躍りだすような勢いで浮きあがって来て、口をパクパクさせながら、
「あッ、あッ」
と、
ひどく、妙なようすだ。
頭から濡れしずくになって、
佐吉は
「······どうも、様子が変ですぜ······」
仁科はうなずいて、
「こりゃア、たしかに妙だ······御苦労だが、かいしゃくしてやってくれ」
「ええ、ようございます」
佐吉は
「おッ、こりゃア、どうしたんだ······し、し、絞め殺されている!」
と、叫んだ。
佐倉屋は、昨夜の佐原屋と同じように、蕃拉布できつく首を絞められて絶命していた。
長崎屋の寮の
まるで雨乞いでもするような恰好で、うっそりと腰をかけているのが、顎十郎。
檐に近いところでは、れいのひょろ松、熱い瓦を踏みながら、
顎十郎は、扇子で脇の下へ風をいれながら、うっそりとそれを眺めていたが、ああんと顎をふりあげると、おかったるい間のび声で、
「どうだ、ひょろ松、なにか眼星しい手がかりがあったか」
ひょろ松は、檐のはしへ手をかけて廂の下をのぞきこみながら、
「ええ、ですから、そいつをこうして探しているんで······」
顎十郎は、ニヤニヤ笑いながら、
「そうやって、尻を持ちあげて檐下をのぞいている様子なんざ、ちょっと、
ひょろ松は、ムッと頬をふくらせ、
「ひやかすのはおよしなさい······そんなところで高見の見物ばかりしていないで、すこし手伝ってくれたらどんなもんです。······あっしだって、洒落や冗談でこんなことをしている訳じゃねえんでさ」
「そう怒るな······あまり怒ると腹なりが悪くなる。······冗談は冗談として、いつまでそんなことをしていたっておかげがねえ、もう、そろそろ切りあげたらどうだ。いくら屋根を
ひょろ松はツンとして、
「ないとは、そりゃまた、なぜに。······どんなことがあっても土扉のほうから来られるはずはないのですから、二階の広座敷へ入りこむとすりゃア、この屋根だけがただひとつの通り道。······だから、こうして、脳天を
「まず、無駄だな」
「ほう、驚いたね······じゃア、そもそもどこから入りこんだと言うんです」
顎十郎はトホンとした顔つきで、
「それは、おれにもわからない。······それで、こうやって、せいぜい首をひねっているところだ」
「相変らずはぐらかしますねえ、まともに口をきいていると馬鹿を見る······まあ、それはいいとして、あいつが屋根を通らなかったというゆえんは、ぜんたい、どうなんです」
顎十郎は、ポッテリした顎をのんびりと指の先でつまみながら、
「佐原屋が絞め殺されたとき、えらい土砂降りだったそうだな」
「ええ、そうです」
「寮からの迎えで、お前があわてて駈けつけた時も、まだ降っていたそうだな」
「へえ、降っておりました」
「今朝、お前がおれのところへ来たとき、座敷には足跡らしいものもございませんでしたと言ったな······それは、いったいどうしたわけなんだ」
「どうしたわけ、とおっしゃると」
「その土砂降りに屋根から舞いこんだとすると、廊下や絨毯に濡れた足跡ぐらい残っていなけりゃならないはずだ。······それなのに、そんな気配もなかったというのは、どうしたことだと訊いているんだ」
「おッ」
「おッに、ちがいねえ。······それがすなわち、屋根からなんぞ這いこんだのではない証拠」
ひょろ松は、あっけらかんと顎十郎の顔を眺めていたが、大きな息をひとつつくと、感にたえたというような声で、
「こりゃ、どうも。そこには気がつかなかった。さすがは阿古十郎さん、······なるほど、そう言われてみりゃア、こりゃあ理屈だ」
髷節へ手をやりながら、うらめしそうな顔で、
「それにしても、あなたもおひとが悪い。そうならそうと、
顎十郎は、大口をあいて笑いながら、
「たまには虫干をするのもいいと思ってな」
「なんとでもおっしゃい。······そうとわかったら、馬鹿馬鹿しくって、もう一時だってこんなところにいられやしない」
ブリブリ言いながら、檐へかけた梯子をつたってドンドン庭のほうへおりて行く。
顎十郎は、ひょろ松のうしろについて、ノソノソと玄関の踏石へおりながら、
「おや」
と、おしつけたような低い叫び声をあげた。
「おい、ひょろ松、ここに変ったものがある。······あそこを見ろ」
ひょろ松が、指さされたところを見ると、黒漆塗の札に『
ここまでは、かくべつ不思議はないが、六枚の席札のうち、誰のしわざか、佐原屋と佐倉屋と和泉屋の名を筆太にグイと胡粉で抹殺してある。
ひょろ松は、
「これは句会の名札ですが、これが······どうしたというんです」
「お前にはこの凄味がわからねえか。······おい、ひょろ松、今日は、いったい、どっちの通夜なんだ」
「
「すると、五人組の連中は、当然、蠣殻町に集っているわけだな」
「へえ、そうでございます」
顎十郎は、急に眼ざしを鋭くして、
「そんなら、こうしちゃいられない、まごまごしていると、こんどは和泉屋が
尻切草履を突っかけると、むやみな勢いで土手のほうへ走りだした。
夜もふけて、かれこれ八ツ半。
短い夏の夜のことだから、もうひと刻もすれば東が白む。
日本橋蠣殻町、
橋の下、塀の片闇、天水桶のかげ、柳の根もと。
まだ月の出ぬ闇だまりの中に影のように這いつくばい、時にはよりそってなにかヒソヒソと囁きあうと、もとのところへ帰って、また動かなくなる。
夜がふけるにつれて、
一丁目のほうへ鍵の手に黒塀がめぐり、そのはしが土蔵になっている。
その
「ねえ、阿古十郎さん、
顎十郎は、フンと鼻を鳴らして、
「相変らず、びくしゃくした男だの。なにもそう気をもむにゃア当らない。おれは神でもなければ
「あなたを坊主にして見たってしょうがない。それより、テキがやって来てくれたほうが、よっぽど有難いんで······」
「せっかくだが、ひょろ松、ひょっとすると、テキなんぞやって来ないな」
「えッ、なんですって」
「おれは、テキがやってくるなんてひとことも言ったおぼえはないぞ。ただ、和泉屋が今晩やられると言っただけだ」
「こりゃあ、驚いた······すると、これだけの人数を伏せたのは、いったい、どういうことになるんで」
「つまるところ、ぼくよけだ」
「ぼくよけ······」
「敵を油断させるための遠謀深慮さ」
「すると、あなたは······」
「いかにも、その通り、おれの見こみでは、下手人はたしかに残った四人の中にいる」
「えッ」
「あの晩のことをよく考えて見ろ。······広座敷から出て行った証拠も入った証拠もないとすると、下手人はあのとき座敷にいた五人の中にいたのだと思うほかはなかろう」
と言って、チラリと土蔵のほうへ
「だから、うまく言いくるめて土蔵の中へご避難をねがい、うかつに出られねえように締めこんであるんだ」
ひょろ松は、納得のゆかぬ顔つきで、
「······でも、それはチトおかしかないですか。······佐原屋が控え座敷で締め殺されたとき、誰ひとり椅子から立っちゃいないんです。······それに、佐倉屋のときにしてからがそうでしょう。佐倉屋はじぶんで艫へ立ってゆき、あとの三人は胴の間に坐っていてピリッとも動きはしなかったんです。それなのに、あの連中に下手人がいるのだとおっしゃるのは、いったい、どういう趣旨によることなんで······」
「世の中には、理外の理といって、人間の智慧では思いも及ばないようなこともある。おれにはうすうす見当がついているが、チトはっきりしかねる
「柚木先生というと、あの、西洋薬草園の」
「そうだ······猪之が間にあうように早く帰ってくれりゃアいいが。さもなければ、和泉屋はたぶん明けがたまでに殺られてしまう。······猪之吉の帰りがさきか、和泉屋が殺られるのがさきか、ここが、千番に一番の兼ねあいという場合なんだ」
「おッ、そりゃア大変······じゃ、いまの間に、なんとか、和泉屋を······」
「ところが、それがいけない。······いま言ったように、
「あなたにさえ、はっきり方角がつかないことが、あっしなぞにわかるわけはない。······どうしてやるのかそのほうはわからないとしておいて、では、和泉屋が殺られるというのは、ぜんたい、どこから割りだしたことなんで······」
「これは、思いきってくどい男だ。······和泉屋の名を抹殺してあったあの席札のことを考えて見ろ。······洒落や冗談であんな縁起でもないことをするか」
「······じゃ、仮りに、殺されるのは和泉屋だとして、では、殺すほうは誰なんです。あの土蔵の中には、和泉屋をのけて三人の人間しかいない。仁科に、長崎屋に、日進堂······。外部から来るのでないとすると、殺すのはこの三人のうち。······あなたには、どいつが下手人なのか、もう、お見こみがついているんですか」
顎十郎はうなずいて、
「だいたい、当りはついている。······こうまで執念深くからむ以上、いずれにせよ、あれらの仲間になにか深い怨みを持っているやつ」
「······それで?」
「おれの見こみでは、まず、日進堂」
「えッ」
「たぶん、そのへんと思って、出来るだけくわしく三人の素性を調べて見た」
「へい」
「······ところでこの日進堂、······十二歳のとき日進堂へ養子に行ったが、素性を洗うと、むかし長崎で、和泉屋、長崎屋、佐倉屋、佐原屋の四人組に家をつぶされた
そう言い捨てて闇だまりから立ちあがると、のそのそと土蔵の
「あたしです、仙波です······ちょっと、ここをあけてください」
間もなく、内側からガラガラと土扉がひきあけられ、顔を出したのが日進堂。つづいて、仁科も戸口へ出て来る。日進堂は、うだったような赭い顔をして、
「おお、仙波さん、どうもひどい目にあうもんで······命にかかわるかも知れないが、これじゃ、むこうがやってくる前に
顎十郎は、手でおさえるようにして、
「まあまあ、もう一刻のご辛抱。······いま土蔵からお出しして、万一、殺させでもしたら、これまでやった大捕物の意味がなくなります。おつらいでしょうが、もう少々がまんしていてください。······それはそうと、あとのお二人もごそくさいでしょうな」
その声をききつけて、長崎屋と和泉屋が笑いながら二人のうしろから顔をだした。
「その元気なら大丈夫、たぶん、事なくすみましょう。······じゃ、また土扉をしめますよ。······もう一刻のご辛抱······」
四人を土蔵の中へ押し入れるようにして厳重に錠をおろし、大きな鍵をブラブラさせながらひょろ松のところへもどって来て、
「······見た通り、まだなにごとも始まっていないが、油断は禁物、この四半刻が命のわかれ目······ひょっとして、内部から飛び出すやつでもあったら、誰かれかまわず遠慮なく引っくくってしまえ。土蔵のまわり、裏木戸にもぬかりなく人数を伏せてあるだろうな」
「へえ、そのほうは大丈夫でございます。どんなことがあったって、鼠一匹はいだせるものじゃありません」
そう言っているところへ、泉水のむこうの植込みの下から影のように這って来たひとりの若い男。
「旦那······」
「おお、猪之吉か。······柚木先生にお目にかかれたか」
「へえ、お申しつけ通り、ご返事をいただいてまいりました」
「早く、こっちへよこせ」
引ったくるように受けとると、封を切る間ももどかしそうに月の光で立ち読みをしていたが、
「おッ、やっぱり、そうだったか」
このとき、とつぜん、土蔵の土扉をはげしく打ちたたく音とともに、
「もし、どなたでも早く、早く······和泉屋がたいへんだ······和泉屋が死んでしまった!」
と、大声にわめき立てる声がする。
顎十郎は、
「しまった。遅れたか」
と、叫びながら、一足飛びに戸前のほうへ飛んで行き、錠をガチガチさせて、てっぱいに土扉を押しあけて土蔵の中へ飛びこんで見ると、例の通り、和泉屋が蕃拉布で首を締められて、薄暗い板敷の片隅で、虚空をつかんであおのけに倒れている。······鼻に手をやって見ると、はや、もうまったく事切れ。
顎十郎は、うしろに引きそって来たひょろ松に、
「おい、土扉をしめて錠をおろしてしまえ」
と、命じておいて、三人のほうへ向きかえると、
「こりゃあ、どういう次第だったんですか。······三人の目の前で和泉屋さんが締め殺されるなんてえのは、チト受けとれぬはなしですが······」
日進堂はすすみ出て、
「じつは、和泉屋が熱さに
「なるほど······それで、盃洗の水をひっかけたのは、いったい、どなただったんですね?」
日進堂が、
「それは、あたしです」
顎十郎は、ははあ、と、間のびした声でうなずいていたが、急にニヤニヤ笑いだし、
「つかぬことをおたずねするようだが、皆さんが首に巻いていられる蕃拉布は、日進堂さんからお貰いになったものではありませんか」
長崎屋はうなずいて、
「いかにも左様。······この五月、長崎の土産だといって、日進堂がわれわれ五人に分けてくれたのですが······」
顎十郎は、急に血の気をなくしてワナワナと唇を
「たぶん、そんなことだろうと思いましたよ。······この蕃拉布が命とりだとは、ちょっと誰でも気がつきますまい。······いま、その証拠をお眼にかけますから、ちょっと、その蕃拉布をお貸しください」
長崎屋がはずしてよこした蕃拉布を受けとると、それをかたわらの盃洗の水の中に浸しながら、
「さア、よく見ていてください。······この布は竜舌蘭という草の繊維を編んだもので、水がつくと、たちまちギュッと縮んでしまうのです」
仁科と長崎屋が眼をそば立てて眺めていると、顎十郎の言う通り、水の中に入れた蕃拉布は
あッ、と声をのんで茫然としているうちに、顎十郎は、日進堂の肩に手をおきながら、
「······ねえ、日進堂さん、こういう不思議なものを贈物にして、そいつが水に濡れて自然に首をしめてくれるのを気長に待っているなんぞは、あなたもそうとう
「畜生ッ」
「なんて言ったって、もう追いつかない。······あなたが天草屋の一族だったということは、きょう調べが届いたから、復讐のためにこんなことを考え出したのだろうとは、うすうす察していたのですよ。······長崎屋さん、この日進堂は、むかし長崎で、あなたがた五人組につぶされた天草屋の次男だということはご存じなかったと見えますな」