一
郷土としてのわが東北、その文化の淵源地である平泉の研究旅行、これは私たちのもっとも意義深い憧れの旅であるのだ。
黄金花咲く陸奥の文化は有耶無耶の関を越えてわが出羽に来たのである。われら一行十四名和田校長を部長とした旅行隊は風俗展そのもののような服装をそれぞれ整えると五月三十一日午後三時四十分出発した。
われら記者に選ばれた者はこれから通信の労をとることにする。
二
五月三十一日午後三時四十分、校前に記念撮影をなして出発、笹谷街道を東進した。ヘルメット帽、麦わら帽、鳥打帽、学生帽、中折帽······
「まるで風俗展のようだ。帽子ばかりでも七種類だ」
この異様な一群の中に山形県師範学校長和田兼三郎氏のいるとは知らぬ人の想像もつかぬことに違いない。
専攻科第一の人気者、通称世之助元気なもので、まず白い鳥打帽に太い金剛杖、近よって見るほどの鼻ひげ、登山袋の中を察するに、きのう買った氷砂糖一斤、小さい詩集二、三冊、その他合計四貫という重さ······まったく得意そのものだ。
つぎに原田御大将一男殿ときている。ヘルメットに包んだあの肥大な体、金剛杖······。
それに続くは自称山男伊淵太一郎、ひらきに美しく装うた山男は、その山男たるを忘れられては、と心配してか一枚の茣蓙を負っている。まあ顔ぶれは長くなるから止そう。
「処女会の人びとがですか······われわれのために······世話をしてくださるんですって······」
東沢の小学校に一休み。
三
校長先生の説明にうなずいて感心している者もある。話によれば、新山分校のわれらの仮旅舎では処女会などが総動員でわれらを歓待してくれる由。旅のさびしさもうるおいある歓待になぐさむことだろう。
旅なれば人の心のしみじみと
なつかしみけり休らへるとき
雲行きを見つつ歩める我が心
明日の旅路を想ひまどへる
一杯の茶にもしみじみ我が心
なつかしみけり旅にしあれば
汗ばみし肌ふく風の寒ければ
峠近きを知りて歩めり
蔵王越しに吹きくる風の強ければ
雲の早きに心まどひぬ
なつかしみけり休らへるとき
雲行きを見つつ歩める我が心
明日の旅路を想ひまどへる
一杯の茶にもしみじみ我が心
なつかしみけり旅にしあれば
汗ばみし肌ふく風の寒ければ
峠近きを知りて歩めり
蔵王越しに吹きくる風の強ければ
雲の早きに心まどひぬ
かくして五時四十分東沢分校に到着、山風凉しき階上に、香強き榛の花を賞しながら、山里の珍味に夕餉をすます。
夜一時間あまり和田校長の平泉郷土史の講話を[#「講話を」は底本では「講和を」]仰ぐ、われらの旅は、あくまでも旅なり、あくまでも旅行研究なり、一行緊張せること流石は専攻科たる所以なるべきか。
茲にても我等を迎ふる人のあり
旅の暮れなり懐かしきかも
ひな乙女等のかざりし室の榛の香の
強く泌みけり山里の暮
疲れたる身に泌々と真白なる
花の香の胸うちにけり
胸うちし真白き花よ榛の名花よ
ひな乙女なる香の放つなる
知らぬ地の窓辺近くにオルガンを
ひけば心もすみ渡りけり
遙々とわが家はなれし山里に
ふく山風のさみしかりけり
旅の暮れなり懐かしきかも
ひな乙女等のかざりし室の榛の香の
強く泌みけり山里の暮
疲れたる身に泌々と真白なる
花の香の胸うちにけり
胸うちし真白き花よ榛の名花よ
ひな乙女なる香の放つなる
知らぬ地の窓辺近くにオルガンを
ひけば心もすみ渡りけり
遙々とわが家はなれし山里に
ふく山風のさみしかりけり
かくして九時半「世之助伍長」の軍隊式号令にて就寝。
風強し、心不安、また不安、雨落つ、ますます不安、夢は故郷か、旅先か、父母兄弟、また妻を子も案ぜらる人もあるに違いない。
また旅の先ざきに胸さわぐあこがれをまどろむ人もあるだろう。
さみだれの降り残してや光堂
夏草やつはもの共が夢の跡
夏草やつはもの共が夢の跡
ああそうだ待っている。まっている。夢の文化が待っている。緑につつまれた伽藍も待っている。美しかった人びとの夢、寂しかった人びとの夢が夏草と一しょにわれらを迎えているのだ。
すめらぎのみ代栄えんと東なる
みちのく山に黄金花咲く
みちのく山に黄金花咲く
こう万葉詩人大伴家持は詠んでいる。われらを待つみちのくの夢は寂しく、静かであるが、われらの結ぶ夢のいかばかり躍動していることか。
おおさらば羽陽の人びとよ。風強ければ、火の用心怠りなく、さらば。
(第一信 新山分校にて)
四
六月一日
朝五時出発。
低くおしよせた雲が雨をまいていった。旅で雨に遇うほど淋しいものはないのに、われわれもとうとうその淋しさに遇わなければならない。
「俺あ雨にあう気できたんだから······行こうや」
和田校長が太い声でこう言ってみんなを元気づけた。
まず新山校に別れを告げて、坂道にかかった。ここの家並みは昔の宿場の面影をとどめた家造りがちらばっている。
うねうねたる笹谷の街道である。村から遠ざかるとみんなはさわぎ出した。山男の井淵君大声で山節を唄った。あるいは、軟かいところで、山は高いし······ひとりとぼとぼ······と、かの感傷的な人間も声を張り上げている。
行け行け男児
日本男児
校長先生が唄った。否唄ったというよりも大声で読んだのである。深い谷まで面白いと見えて、まねて歌を詠んでいる。日本男児
峠、坂道七曲がり八折れ
下にホケキョの音がする
これは私がうたったもの。もう雨は落ちてこない。ただ頭の上を雲のみが足早に過ぎ去る。下にホケキョの音がする
顧みすれば山形の盆地は青く晴れている。
「おい、この街道、今も人通りが多いかね」
「ああ、かなり通るよ。たまにはさ、妙齢の美人も通るということだ」
こんな話に一同どっと笑う。頂上近くになれば霧が盛んに押し寄せて高山気分をおもわせる。
午前六時十五分笹谷の絶頂に到着。寒し、羽陽の山河は霧にさえぎられて見えず。山男××くん、最後の望郷に愛しき妻子に幸あれかしと祈ったか祈らぬかはしらねど、何でも昨夜新山でかいた通信にはたしか、こんなことがかいてあったらしい。
「とうちゃんは、今、新山の学校の二階にいる、お土産をもっていく······火の用心······云々」
ここで記念サツエイをパチン。霧は太平洋のほうからしだいに晴れてくる。青ずんだ太平洋や岬が見えてきた。
ここに和田校長の即興歌を一つ
晴れた/\や空が晴れたや
太平洋まで空がはれたや
このやに妙味があるのだが······太平洋まで空がはれたや
六時三十分頂上出発。
下ること数町、大雪渓に驚き、雪の上にて再びレンズをパチリ。
五
八時頃、笹谷村着。古風な家並みの中に五月鯉が一尾腹をふくらましていた。ここにある分校にて郷土史に関する記録を見せてもらう。
うやむやの関跡にて小憩、往時の[#「往時の」は底本では「住時の」]面影をしのびながら野上村に着く。
分校にて昼食。
ここに和田校長と一酔漢の面白い一幕が展開していくのであるが、このことは他日にゆずろう。
「やあ······親方ァ······これでもうな、若いときゃあ······な、満州の······な、えい······守備に選抜されてな······アッハッハッハッ······」
酔漢はぺらぺらとわが校長に話している。明石近くになると、みんなの足が妙な、くすぐったい笑いを初める。その笑いは、電車の中の人となってようやくだまってしまった。
明石から仙台まで電車にのる。電車中のロマンスといいたいが、それは長くなるから止すが、その主人は、青いヘルメット帽をいただいた一名色男という××くんで、相手は決して妙齢とは思ってくれるな。また婆さんとも思ってくれるな。しかして読者の想像に任せることとしよう。電車を下りるや、
「いよう、色男っ! 罰金は承知だろうな」
と早速一本参る。
宿屋についた。仙台市××町瀬戸かけ旅館とは、みんなが宿屋の看板を見るまで信じていた名、かけとかつの誤りか······うふふ。
明日は多賀城に向かうのだ。疲れたからだに夢も忘れて眠る。
(第二信・仙台にて)
六
三日、午前六時五十五分一の関発、平泉へ出発。まず平泉駅にて下車すればおよそ一町北に平泉館というあり。
「······秀衡が跡は田野に成って金鶏山のみ形を残す······」
と奥の細道は言っているが、今はその一部は人家の下に夢をたたえ、一部には麦の穂の白い花が盛りでした。この一眸の田畑の中を北上川が流れている。即ち藤氏三代の栄耀の跡である。束稲山は北上川をへだてて青空の下に静かに往時の夢をむさぼっている。
まず高館に登る。すなわちわが義経公の居城のありし跡なり。私はまず木像を拝し足下に流るる北上の激流を、絶壁の下にのぞき相対している束稲山をはるかにのぞんだ。
老杉の間から夏緑の影が鮮かである。ここからは衣川の流れも北方の山々も何の遮るものもなく一眸に見える。
義経の自刃の場所である。
私は義経くらい心の美しい武士はないと思っている。そして義経を想うといつも彼を終わりまで助けてくれた佐藤庄司父子の武士らしい一生を夢よりも美しい物語として私は思い出すのである。その佐藤庄司の宅はあの向こうの山の中腹頃にあったのである。陸奥の山河は清い武士の心を育んでくれた。その清い武人を頼ってはるばる奥州へきた世にも美しい小鳥のような魂をもつ義経を彼らは育てあげていたのである。
小鳥は巣立った。美しい小鳥は美しくとびまわった末、再び羽をいためて古巣を訪れたのだ。それをあくまでなぐさめてやったのはこの美しい魂の武人なのだ。
私は陸奥の山河は破れてもこの美しい主従の魂のうえに永久なる幸を祈ってこの丘を下った。束稲山の清峰には昔阿部頼時が桜一万株を植えたという。西行の、
陸奥の国に平泉にむかひてたばしのねと申す山の侍るに、こと木は少きやうに、桜のかぎり見えて花のさきたるを見てよめる
ききもせず束稲山の桜花
よしのの外にかかるべしとは
おくになほ人見ぬ花の散らぬあれや
たづねをいらむ山郭公
ききもせず束稲山の桜花
よしのの外にかかるべしとは
おくになほ人見ぬ花の散らぬあれや
たづねをいらむ山郭公
往時をしのびてしばし感慨無量であった。鉄路を横ぎって中尊寺のほうへ歩を運ぶ。坂の入口に辨慶松あり、苔の墓標には夏の陽がかげって、その側の石には、
色かへぬ松のあるじや武蔵坊
と、素鳥の句を録してある。
年ふれど色は変らじ松が枝の[#「松が枝の」は底本では「松が技の」]
下露あびて墓標は立ちけり
下露あびて墓標は立ちけり
私は立往生をしたという衣川と、この天地とを比べて、快男子としての辨慶、忠臣としての辨慶を想った。
ここから道は爪先[#「爪先」は底本では「瓜先」]上がりになっている。ここは月見坂というのである。その昔、栄華を極めた陸奥の武人たちが女人打ち連れて月見をしたというさまを想い浮かべてみた。老杉の梢で何鳥だか、かん高くないて去った。この坂のふもとにうす墨の桜というものあり。
月見坂上り下りの武士の
心にしみつうす墨の花
心にしみつうす墨の花
辨慶堂、薬師堂を経て関山中尊寺に詣る。慈覚大師の開基なり
古へを関とめけりなみちのくの
関山寺の松に風吹く
関山寺の松に風吹く
なお行くほどに夏緑に包まれた山坊堂宇、みな昔を物語るもので、ことに宝庫に一歩足をふみ込んでは当時の美術工芸の進歩の跡を知ることを得るのである。
われらはここにて念入りに研究の瞳を古き宝物にとどめた。その足ですぐ金色堂を見た。私はここに奥の細道の言葉を借りてくるのを適当とする。
「兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す、経堂は三将の像を残し光堂は三代の棺を納め三尊の仏を安置す、七宝散り失せて珠の風にやぶれ、金の柱、霜雪に朽て既に頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて甍を覆ふて風雨を凌ぐ、暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨のふり残してや光堂」
五月雨のふり残してや光堂」
私たちの訪れたときはよい天気だった。夏風や、夏草や、そこここの一木一草が、昔の夢おぼろに私たちの心の前に展開さしてくれた。
山鳥のなきて霊舎に夏陽さし
静かに眠るみたまなりけり
静かに眠るみたまなりけり
経蔵と釈迦堂、絵画堂などをみて毛越寺に下る。大堂宇の跡は楚石の数々に昔をしのぶに充分である。大泉池も葦の生えるにまかせて昔の夢を浮かべて夏草は一面にそよ風になびいている。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷きて時のうつるまで涙を落し侍りぬ
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
卯の花に兼房見える白毛哉 曽良」
卯の花に兼房見える白毛哉 曽良」
私はかくして芭蕉師弟が夏草に坐して涙を流したる心境の一部に接することの得たことを喜ぶのである。
ああ、平泉の山河よ、この山川草木一つとして生きた歴史の宿さぬものはなく、みななつかしい、しかも美しい武人の夢を宿しているのだ。あの美しい源氏の大将義経も、ここに眠っている。
「あの雪の日、このみちのくを立って、私のためになつかしい故郷をすてて、遠い戦場で死んでくれた、百六十余人の平泉の人たちの魂のためにも、私はここの土となってしまいます。
みちのくは私にとって第一の故郷です。私はみちのくへきて初めて渇えていた人間のあたたかい心に充たされたのでした。」
義経はこういっている。みちのくは私にとって第一の故郷です。私はみちのくへきて初めて渇えていた人間のあたたかい心に充たされたのでした。」
ああ、みちのくの天地よ、さらば永久に静かなれ。
(第三信・平泉にて)