[#ページの左右中央]
彼女等はかうして、その血と
肉とを搾り盡された
肉とを搾り盡された
[#改ページ]
三月の末日、
一つの亡者が過ぎて行くと、その兩側の家の小窓から聲がかゝる。遠くから網をなげかけてたぐり寄せるやうな聲、飛びついて行つてその急所へ喰ひつくやうな聲、兩手で
「どうだえ、陽氣なもんだらう。」
先に立つて歩いてゐた辰つアんは、後からついて來る周三とおきみの方へふり向いて、さう言ひかけた。
「まるで何だらう。夏の夜、谷川の道を歩いてると、それ、
周三もおきみもそれには答へなかつた。周三は、よれ/\の
「何しろいゝ氣持ちのもんだよ。それが毎日毎晩、照つても降つても、三千人からの客がなだれ込むてえんだから、まつたく豪勢なもんだらう。おなじ働くんなら、こんな場所で働かなけりや嘘さ。」
辰つアんはまたそんなことを言ひながら、叫びかける女共の聲へ
暗い路地は、奧へ入るほど複雜してゐた。それはまるで蟻の巣であつた。辰つアんは、その中を右へ折れ、左へ曲つて、後の二人を案内してゐたが、とある角の青い
「こんばん」と聲をかけた。と、中から可愛い聲で、
「はい、こんばん、おあがんなさいな。」
「このおたんちん、お客ぢやねえや······ゐるかえ?」
「あら、辰つアんなの、いやに
辰つアんは、少し離れて立つてゐる周三とおきみの傍へ來て、
「ちよつと待つてゝくんな」と言ひながら、やつと人のからだが入れるほどの路地を、裏手の方へ入つて行つた。が、すぐ出て來て、
「こつちへお入りよ」と二人を手招いた。
二人は、裏手の臺所から、三疊ほどの茶の間へ通された。そこの長火鉢の前には、
「こちらがおきみちやん、こちらが旦那樣、それからこれが、當家の御主人、お銀ちやん。」
辰つアんは、そんな言ひ方で、双方を
「どうぞ、よろしくお願ひします。」
おきみは丁寧に頭を下げた。
「あたしこそ」お銀ちやんと言はれた女はさう答へると、「辰つアん、二階へ案内しなよ。こゝは狹くつて話も出來やしない。」
二疊と三疊と四疊半が二階の全部であつた。二疊と三疊は、彼女達の勞働部屋で、四疊半はひきつけ部屋になつてゐた。二人はそこへ案内された。
「どうです、見かけによらずしやんとした家でせう。」とふところから出した手で顎を撫でながら部屋を出て行つた。
間もなく
周三は壁に凭れて、おきみは、ちやぶ臺の上に
「辰つアんが、こゝの
「そんなこと、どうでも構はないわ。」
おきみは、度胸を据ゑた聲で答へた。
「こんな場所で、お前につとまるかえ?」
「やつて見るわ。だつて仕方がないぢやないの、今更ら······」
二人はそんなことを話し合ひながら、各自の胸の中で||こんなことになる筈ではなかつたがと自分に言つた。と言つて、||ぢや、かうならなければどうなつたのだ? と自問しても、それに答へることは出來なかつた。
十日ほど前の夜のことであつた。おきみは、長野發の終列車で上野へ着いた。そして、省線電車のガード下に待つてゐた周三と一緒になつた。半年ぶりで會へた二人は、互の愛情を現はすために、互の腕を力一ぱいつねり合つた。彼等はそんな場所でものを言ひ合ふことを
二人はすぐ省線に乘つた。新宿で下車した。その足ですぐ旭町へ入つて行つた。そして狹い路地の中のマルマンといふ木賃宿についた。
おきみは、命がけの仕事をして來たのである。それは、火のついた爆彈を背負つてゐるやうな氣持ちであつた。二人はそのためにいつ
しかし二人はそれを二人きりの部屋の中でも口へ出さなかつた。あらゆる意力を水の如く冷靜に集中して、その爆彈の火を消さうとしてゐた。
二人は最初一泊二圓の四疊半の部屋で、メリンスの蒲團へ寢た。が、三日目には一泊一圓の木綿蒲團へ移らねばならなかつた。しかしこれも二三日で、こんどは一泊七十錢の、北向きの三疊の、棚も押入れもない、さま/″\の汚物で眞黒になつた疊の部屋へ追ひつめられた。
二人は、この部屋の窓から、灰色の空を眺め、下の路地をうろつく
一週間ほどするうち、二人は日拂ひの宿料が支拂へなくなつた。當然の結果として、二人はその宿の追ひ立てを喰つた。おきみは、宿の主婦の膝元へひれ伏して、もう五六日泊めておいてくれと願つたが、主婦は、
そこへ一人の男が出て來た。彼等の隣室に泊つてゐる夜店のバナナ屋と稱する男であつた。その男は、これまで廊下などでおきみとぶつかる毎に、へえ/\と頭を下げて馴れ/\しく言葉をかけてゐた。それが出て來て、
「同じ宿へ泊つてゐるよしみです。當分の宿料はわしが立て替へときやせう」と言つた。
さういふその男の
と、次の夜、その男は二人の部屋へのそりと入つて來て、おきみへ言つた。
「どうだね、失禮な話かも知れねえが、實ア、わしの女房も働かしとくんでこんな話も持ち出すんだが、一つ、わしの女房のゐる銘酒屋で働いて見ちや。」
おきみはそれを聞くと、ぐつと胸が
「働くのがいやぢやこれから先、どうして生きて行かうてんだね。こんな木賃宿にいつまでもそんなことをしてゐたら、飛んでもねえ
この言葉に、おきみは思はず顏色をかへた。相手の男はそれを見逃さなかつた。そしてこんどはおつかぶさるやうに、
「そいつが恐かつたら、わしの言ふことをきゝなせえ。惡いやうにはしないよ。」
「············」
「いやかえ。いやだといふのかえ?」
彼は自分の顏を、おきみの
見てゐた周三もそれにはギクリとした。
おきみは聲をふるはして答へた。
「行きますわ、どこへでも行つて働きますわ。」
さうしておきみと周三は、首に綱をつけられた仔犬の如く、いや應なしにこの世界へ連れ込まれて來たのであつた。その男といふのが即ちこの辰つアんだつたのである。
二人は
そこへ辰つアんが先に、お銀ちやんも上つて來た。お銀ちやんは、ちやぶ臺の上へぐたりと
「とにかく、ひも(情夫)つきには困るよ」とふて/″\しく言つた。
「まア待ちねえ」と辰つアんは受けて、いが栗頭をぬつと周三の方へ突き出し、「お前さんといふ男が喰つついてるんで、おかみが文句をいやがるんだよ、ひもつきには
「············」周三は蒼白い顏をねぢ曲げながら視線を
「そんなことを言はないで下さい。」おきみは辰つアんへ答へた。「あたしから頼んで無理にこの人を引き寄せてゐるのですから。あたしは、この人がついてゐるからこそ、どんなことでもする氣になつてゐるのですから······」
「お前の心懸けアそりや感心だが、男の方が、それでいゝ氣になつて働かずにゐるつて法はねえ。」
「働きたくつても仕事がないんですから仕方がないんです。······それに男は、女のやうにからだを賣つて喰ふことは出來ませんもの。」
「そんなら死んでしまやアいゝんだ。」
「······だから、この人は、いく度も死なうとしたんです。」
「············」
「そいつをお前が助けてるてえわけかえ?」
「············」
「
「へん、そんなことを言ふなら、默つてこの花と蝶々と引き取つたらどうだえ?」
「それとこれとは別問題ぢやないの。」
「面白くもねえ······」
辰つアんは、さう言つて、急に、例の
「とにかくお前達に言ふことがあるんだ。といふのア、わしアこのおかみの亭主だと言つたが、そいつア嘘だぜ。先づそれを承知して貰つて、それからわつしの商賣は夜店商人といふことにしてゐたが、ありや内職、本職はこの中の女の
「えゝ、よく解りました。」
おきみは、垂れてゐた頭を更らに低く垂れた。
「君もわかつたらうね?」
辰つアんは、周三の顏を
「え、わかりました。」
辰つアんはこゝで、お銀ちやんを顧み、
「二人が口を
「······仕方がない。當分置いといて見ようかね。」
お銀ちやんは、生あくび混りにさう答へた。
「ぢや、着物を買ふぐらゐは貸してくれるだらうね。」
「まア、五六日樣子を見てからね。」
「頼むよ」辰つアんは、こゝでもう一度、狂暴性の浮んだ顏でおきみと周三を睨みつけ、
「この中は、田舍のだるま屋たアわけが違うんだからね、こゝからずらからうなどとたくらんだら、脚の一本二本、おつぺしよられると思はなきアいけねえぜ。」
「今の男、口ぢやあんなことを言つても、氣は至つていゝんだよ、もつともあの鼻の上のこぶがくせ物だが、今日からこのお銀ちやんがついてゐるんだから、安心してりやいゝよ。」
辰つアんが歸つたあと、お銀ちやんはさう
「それでどう? 今晩からでも働いて見たら。」
「······え、でも、こんななりぢや」とおきみは、目を膝の上へ落した。それはボカ/\になつたメリンスの羽織と着物で、膝のあたり、地がすけて見えてゐた。
「着物なんか何だつていゝのよ。厭ぢやなかつたら、この羽織を着ちやどう。模樣さへパツとしてりや、男の目なんかごまかせるのよ。」
「でも、あなたが困るでせう。」
「だからね、
「それぢや當分、それを拜借さして下さいね。」
「拜借なんて
「それはさうと、うちの奴がこんな場所の店へいきなり出て、お客が取れるでせうか?」
周三は、青白い頬を
「ところが案外よ」とお銀ちやんは聲をひそめ、「今、お店でお客を呼んでゐる
「それで、僕達は、その自轉車屋とはどんな關係なのでせう?」
「何の關係もないのよ。その點は、ちつとも心配しなくてもいゝの······あの自轉車屋も、考へると

お銀ちやんは、初めは、
お銀ちやんは二人をまた下の三疊へ下した。そしておきみへ言つた。
「ぢや、お化粧を直して坐つてごらんよ。髮は、今晩はそれでいゝわ。あしたの朝、髮ゆひさんへ行つてらつしやい。あんたはきつと結ひ
おきみは鏡臺へ向つた。その鏡へ映つた眼の細い
お銀ちやんは、おきみの背に向つて、店へ坐つてお客を呼ぶ方法を教へた。その中に二つの××があつた。××を呼び込まぬこと、ひやかし客と長話をせぬこと。
「××の顏はあとで教へるけど、ひやかし客と長ばなしをしてゐると、やつぱり××に踏み込まれるのよ。そしたら、主人名義のあたしとあんたが三日の
おきみは、髮を直し、顏の化粧をすますと、その顏をお銀ちやんの方へ向けて、
「これでようございますか?」と言つた。
周三はそれを見ると、顏を赤くしてうつ伏した。
「さうね」とお銀ちやんは、出來上りの品物を吟味するやうに、「眉をもつと
やがておきみは、店へ||やつと一人が坐れるほどの場所へ出て行つて坐つた。そして、音もなく左右へ流れる人の影へ聲を掛けた。
が、その聲は泣くやうに顫へた。
「駄目よきみちやん、そんなことぢや」とお銀ちやんは茶の間から呶鳴つた。「もつとかう力のある聲で、歩いて行く野郎をうしろからねぢ伏せるやうな勢ひでなくちや。······いろんな野郎が通るだらう。みんな
さう言はれると、おきみはます/\聲がふるへて來た。夕方、外から見たときは、男を呼び込む女の聲が、
おきみは窓の下に
一と月して、春も過ぎた。その中では、春が來て、その春も過ぎたことを、花が咲き、花が散り、木の葉が繁り出したことで知るのではなかつた。この中を縱横に流れてゐる
おきみは、近くの洋品店の二階の三疊へ間借りさしとく周三のところへ、親雀が小雀の巣へ餌を運んで行くやうにして、一日に一度づゝその日の食べ物を運んでやつてゐた。
周三は曇つた顏に、ふがひなささうな色を浮べながらも、その餌の方へ開けた口を持つて行つた。
暗い路地々々には、漁色亡者がボーフラのやうに夜毎に群がりふえて行つた。
さういふ或る夜のこと、お銀ちやんの家では例の十七の女||八重ちやんが、うつかりして
そこへ××が飛び込んで來た。その結果は簡單
この私娼窟に於ては、この體刑と金刑とが、周期的に、一年に×囘乃至×囘の割りで、全部の銘酒屋へ科せられることになつてゐた。で、一度處罰されると、一つの家で、出方(私娼)と主人とが二人で都合六日の
お銀ちやんは、毒々しく塗つた紅の唇から赤い
「······白首のひよつこの癖に、いけ
「だつて、罰金はお銀ちやんが出すんぢやないんでせう。自轉車屋で出してくれるんですもの、ずゐぶんいゝわ。あたしは
八重ちやんも、圓い小さな顏を角張らせて、負けてゐなかつた。
「八重ちやんが自分で出すのは當り前さ。しかしあたしの分を自轉車屋で出すなんてこと、當てになりやしないよ。あたしは、八重ちやんとは何の關係もないんだからね、八重ちやんの卷き添へを喰つちや堪らないよ。」
「そんなこと言つたつて、お銀ちやんはこの家の主人なんでせう。」
「そりや名義だけぢやないかね。」
「名義だけだつて、主人は主人ですもの。」
「だから
「そんなこと××へ行つて言ふといゝわ。」
「へらず口をいふとのすよ、八重ちやん!」
「············」
八重ちやんはたうとう默つてしまつた。
お銀ちやんは、唾の泡立つた唇を
「ねえ、濟まないが、あんた、あたしの代りに行つてくれない」と言つた。
おきみは、さう來ることを
「······でも、あたしが代つてもいゝんでせうか」と何かを嘆願するやうに言つた。
「そりや構やしないのよ。あんたが代つて行つてくれりや、その間の
おきみは頬に
「いやなの?」
「······お銀ちやん」おきみはおろ/\と答へた、「そればかりは勘辨して下さいね。」
「あら、さう!」とお銀ちやんは、ジロリと睨みつけて、「どうもさう來るだらうと思つてたよ。だからひもつきは大嫌ひさ!」
「さういふ譯ぢやないのよ。」
「ぢや、何のわけさ。······あゝ解つたよ。ずらかりもんだからね、警察へ行つたらそいつを洗ひ出されるのが恐いんでせう。えゝ、もう頼みませんよ。その代りあしたつからこの家は空つぽになるんだから、今夜のうちに何處かへ行つちやつておくれよ。だけど、借金はきれいにしてつて貰はなきア困るよ。」
その夜更けである。おきみと周三は、このお銀ちやんから、所有物一切を卷き上げられてしまつた。おきみは持ち金全部を、周三は、洋品店の三疊で使つてゐた夜具まで
二人は
と、うしろから二人を呼びかけるものがあつた。見ると、八重ちやんである。
「ねえ、あんた達、これからどこへ行くの?」
「そのあてがないのよ」おきみはほそ/″\と答へた。
「さうだらうと思つて追つかけて來たのよ。それぢや、あたしについていらつしやいよ。只で泊めてくれる家があるんだから。」
「それは銘酒屋ですか?」周三は、もう怯えてゐるやうに訊いた。
「うそよ、何でもない家なのよ。あたしが、前に世話になつたことのある家よ。」
二人は、八重ちやんの後について歩き出した。もう一時を過ぎてゐたが、雜魚野郎共はまだ、どの路地にも七人八人とうろついてゐた。
長屋の胴腹に穴をあけて造つたトンネル路地まで來ると、周三は、そこの
「どうしたの。氣持ちが惡いの?」おきみは、腰をかゞめて周三の横顏を覗き込んだ。
周三は、何んにも答へず、兩腕の中へ頭を埋めた。
「どうしたのよ。ねえ。」
「······お前一人、ついて行きなよ」周三は腕の下で言つた。
「何をいつてるの!」
「おれがついてるから、お前までこんなことになるんだらう。······おれは······」
「馬鹿なことをいふんぢやないのよ。あたしは、あんたがゐなかつたら、今頃、生きてやしない。あんたは、あんたは······」
おきみはさう言つてゐたが、いきなり周三の腕を取つて引き起し、その胸へしがみついて、
「あんたは馬鹿、あんたは馬鹿!」と
「············」
周三は、默つて立ち上り、よるべない足どりで歩き出した。
その夜、八重ちやんの案内で二人が行きついた所は、赤い軒燈の下に、外科、
玄關の三疊に坐つてしばらく待つてゐると、なまづの顏に似た目の小さい口の大きな男が、
「あゝ、そんな譯なら、とにかく今晩はこの座敷へ寢たらよからう」八重ちやんの話を一通りきいてから、彼はいかにも勿體ぶつてさう言つた。「人の病氣の世話は仕方がないが、そんな世話まではちよつと困るのだがね。」
「そりや、當分のお小使ひに上げときませう」と言つた。それだけで、その金の性質に就ては何の説明もせず、急に語調を、醉つぱらひ口調に變へ、その大きな口をパク/\させながらこんなことを言つた。
「君達は、萬物の理想は
おきみと周三は、妙な惡臭を持つた煙幕を目の前にひろげられたやうな不快を感じた。しかし膝の前に置かれた五十圓の手前、目をしばたゝきながら神妙にしてゐた。
そこへ、お召しの着物をぞろりと着た一人の老婆が、誰の案内もなし、何の豫告もなしにのそりと入つて來た。なまづ醫者の煙幕は、この老婆が現はれるまでの空虚を
老婆は、立つたまゝ、おきみと周三をじろ/\と見下した。その目は飛び放れて大きく輝いてゐた。
「このお婆さんは、うちで
「はい/\。」
間もなくおきみと周三は、その老婆に連れられて外へ出た。
日中の路地は、水の涸れた河床であつた。その中を、五月の
電車線路を横ぎつて、三尺の路地を二三度折れると、二階とも三階ともつかぬ、屋根の
老婆は二人を、先づ、入口の横の二疊へ坐らせた。それから、おきみへ、
「お前さんだけ、ちよつとこつちへ來ておくれ。」
と言つた。
おきみは、梯子段を上つて行つた。そこは高い所に北向きの小さな窓が一つしかない六疊ほどの部屋であつた。
けれど老婆はその古鍋の前に坐つた。そして、入口の所に立つてゐるおきみをジロリと見上げ「こつちへおいで」と言つた。その目とその聲には、おきみはゾーツとした。それには、動物的な凄味と、妙に鋭く冷たい超人間的な
「それから足袋をお
おきみは、言はれるまゝにせずにはゐられなかつた。
「そこで、右の足で、この鍋の灰を踏んでごらん。」
おきみはその通りをした。うすら冷たい灰が足の裏にふかりと觸れたとき、おきみは、髮の毛がワーツと
老婆は、灰の中に印されたおきみの小さな足跡をぢつと見詰めた。それから、その目をまばたきもせず、おきみの面へ移して、
「お前さんは、兩親がいないね?」と言つた。
事實、おきみはさうであつた。
「兄弟はあつても、はなればなれだね。」
それもその通りであつた。
「他人の家ではあるが、子供の時は、しあはせに育つたね。けれど、この五六年は、
それも當つてゐた。
「さア、その五六年の出來事を話してごらん。」
お前が言へなければわしが話してやる、といふ言葉がその裏に潜んでゐた。
「······‥···」おきみは面を伏せて、かたく口を噤んだ。
老婆は、片手を伸して、おきみの
「言へなければ言はなくともいゝ。けれど、これだけははつきり言つてごらん。この
「············」
「なか/\
老婆は、自分も立ち上りながら、おきみのまへ髮を掴んでぐいと引き立て、一方の手で、
が、そこでおきみは、危ふく倒れようとして、
「見たかね」老婆は言つた。「お前さんも、あんな目に會ひたくなければ、白状しなよ。わたしはこの中へ逃げて來た女を三百人も手にかけて、これまでの經歴をみんな白状さしてゐるのだから、わたしをごまかさうたつて駄目だよ。それ、その顏に、そのからだに、何もかも書いてあるぢやないか。白状しなければ、白状するまで、そこの女のやうな目に會はしとくよ。死ぬまであゝして置くよ。死んだ後は、あの大口の醫者が始末をしてくれるからね······」
「いひます、いひます、みんないひます······」
おきみは、疊の上へつゝ伏して、顫ひをのゝきながらさう答へた。
さうしておきみは、胸の底の底へしまつて置いたこと、それは恐ろしい爆彈で、それに觸れたら、自分と周三は、
||今から二年前の春、はじめて福島縣K町の料理屋へ百五十圓で賣られたこと、しかしこれは、彼女の良人、周三の入院費(當時周三は、脚氣と肋膜で身動きも出來なかつた)をつくるためだつたので、半ば自分からすゝんで買はれたこと。が、一年足らずして、群馬縣高崎市Y町の銘酒屋へ
「······あたしは、殺されてもいゝ覺悟で逃げ出しました。あたしが逃げ出て來なければ、あの人(周三のこと)が自殺しさうだつたからです。あの人は、あたしが側にゐなければ、生きてゐられなくなつたのです。あたしは、今となつてはもう、殺されても生きたいのです、あの人のために。だからどうぞ、あたしを警察へだけは屆けないで下さい。あの人と離ればなれになるやうなことはしないで下さい。これだけは一生のお願ひです······」
老婆は、大きな目を半分閉ぢて、うす笑ひしながら聞いてゐたが、この時そのひき蛙のやうな目をギロリとむいて、
「あゝ、それは安心しといで。その代りお前さんはおほつぴらにお天道樣の顏を見ることは出來なくなつたのだよ。法律の網をくゞる罪人なんだからね。その事をよく承知しときなさいよ。······だが、お前さんもよつぽど運の強い女だね。お女郎屋から無事脱け出した上に、この中へ逃げ込むことが出來たなんて、
「いゝえ、もう決して、どこへも逃げ出しません。あの人と別れないやうにさへして下されば······」
かくておきみは、この老婆の手によつて、そのかぼそい
老婆は、おきみをその部屋へ殘して、
「お前さんは、今日から、目も見えず、耳もきこえず、口もきけなくなつた男だと思ひなさるがいゝよ。お女郎屋から逃げ出した女についてゐるやうなひもは、さうならねば生きてゐられないのだからね。」
そして老婆はニタリと笑つた。それから下唇をつき出し、舌なめずりをしながら、
「お前さんの寢起きする部屋も世話して上げませう。夜具や炊事道具も貸して上げませう。そこでお前さんはぢつとおとなしく寢といでなさいよ。そしたら、あの女が
周三は、蛇の毒氣に會つた蛙のやうになつてしまつた。もし、おきみはその
こゝに於て周三も、おきみと同じやうに買はれた一個の商品といふよりは、おきみを生かすために捕へられた一匹の生き餌とされてしまつたのである。
その夕方、老婆の手に依つて、周三は表通りの
表通りではきれいな商賣をしてゐて、その裏へ

それは、蟻の一族が、油蟲の一族を育てふやしてその甘汁を吸ひ取るのと變りがなかつた。
この方法は、彼等自身をうるほすばかりでなく、私娼屋經營者側に取つても非常な利益となつた。即ち、本職の
兩者はこゝで完全に手を握り合つてゐるのである。が、この握手は以上の目的のためばかりではない。もう一つの重大な目的、それは、一度この巣窟へ引きずり込んだ女は、いかなる理由に依つても絶對に外界へ逃がさないための握手であつた。故にこの目的のためには、彼等は單なる握手には止まらず、更らに水も
例の老婆が、その
かうなれば、この有機體は、個人の力では絶對に切り開くことの出來ない
このやうにして、おきみと周三も、あらゆる自由性を奪はれて、外界へ踏み出す力を完全に殺されてしまつたのである。
「さア、こゝは、きみちやんなんかの働くには、日本一のいゝ場所なんだからね。ひと
おきみは、さういふ着物を着せられ、再びいや應なしに店へ坐らされたのである。
その店は、溝に沿つた九尺幅の道路に面してゐた。この道路は私娼窟
そこで、この道路に面してゐる六七軒の家は、互に連絡を取り、警戒しながら女を店へ坐らせてゐた。
倉田では、めざしのやうに干からびたおかみが、いつも便所へ入つてゐて、その窓口から絶えず表を見張つてゐた。主人はまたその反對の家の隅の
さうして、
「だから、うちでは、パツと目につく着物を着てゐて、客が寄つて來たら素早いところで、いや應なしに引きずり上げなきァ駄目だよ、まアふみちやんのやり方を見習ふがいゝ。」
倉田の主人はさうおきみへ言つた。
ふみちやんといふのは、同じ家に働かされてゐる千葉生れの、十三の時に男を知つたといふ、大根のやうな手足を持つた大女であつた。倉田の店の呼び込み口は一つしかなかつたので、このふみちやんとおきみは、三十分
「どうだ。ふみちやんの腕は凄いもんだらう。上るときはあゝして泣きべそで上つても、かへるときアえびす顏だぜ。きみちやんもあゝならなけりや一人前たアいへねえよ。」
主人はまたそんなことも言つた。
しかしおきみには、ふみちやんの半分の眞似も出來なかつた。彼女は、店へ坐ると、その小さな窓口から、往來に沿つた溝の水をぢつと見詰めてゐた。眞黒な水が澱んでゐる面に、あぶくが上つては消えるのをぢつと見詰めてゐた。
「そんなことぢや商賣にならん」片目の主人はまた言つた。「仕方がない、きみちやんは奧へ引つ込んでゐてふみちやんに客を取つて貰ふことにしよう、その代り分け前は七三だよ。」
それからおきみは、ふみちやんの呼び込んだ客を當てがはれるやうになつた。同時におきみは窓から溝の水も見ることが出來なくなつた。朝から晩まで眞暗な茶の間の隅に、
「旦那!」おきみはたうとう言ひ出した。「濟みませんが、とき/″\は
「ちえツ!」主人は片目をむいて、「ぢや、かうしなよ。御亭主をうちへ泊りに來さしなよ。きみちやんの大事な人だから、特別ロハで泊めて上げらア。」
この家の二階の部屋は、三角形のと五角形のとで、何疊とは數へられない廣さを持つてゐた。物置小屋をそのまゝ部屋に直したやうなもので、窓はあつても、それは闇を吸ひ込む窓でしかなく、これこそ蝙蝠の棲みさうな眞暗さであつた。
おきみは、からだのあいた夜は、この部屋の一つへ周三を呼び寄せた。そして、周三のふところへ顏をぐい/\押しつけ、くつ/\と聲をしのばせて
夏がやつて來た。そして炎熱は、無數の蚊と共に溝から湧いて來た。それは、
おきみのからだはだん/\衰弱して來た。彼女は、二階の三角の部屋へ引き込み、終日終夜、身動きもせず寢てゐることがあつた。
ふみちやんは、その枕元へ來ていぎたなく坐りながらかう言つた。
「あんたも、あんな
と、或るむし暑い夜、この家のおかみが
ふみちやんは、待つてゐましたと言はぬばかりに、死んだおかみが座つてゐた長火鉢の前にぐでんと坐つて、終日煙草ばかりふかしてゐた。彼女は、長火鉢の前を獨占すると同時に、おかみの夜の××まで占領してゐたのである。
さうしてふみちやんはおきみへ言つた。羽をむしられて飛べなくなつてゐる庭鳥の尻をひつぱたくやうにして、
「ねえ、あたしはもう店へ坐つちやゐられないから、あんたが代つて坐つて頂戴よ。そのかはり捨て身になつて、命がけでやらなきア、あたしの代りはつとまらないよ。死んだつもりでやつてごらんよ。」
これは、羊に向つて野牛の
おきみは、おぞ毛をふるひながら思つた。
||こんな家にいつまでぐづ/\してゐたら、それこそ血も肉も絞り殺されてしまふに違ひない、と。
が、おきみがさうと氣づいた時はもう遲かつた。おきみはいつの間にか、こゝの片目の主人から、途方もない
主人は、その獨眼をギシ/\音のするやうに光らしながら、おきみへ言ひ掛けた。
「ねえ、きみちやん、少し物いりが出來たんだが、借金をきれいにして貰へないかね。」
「······すぐですか?」
「さうさ、四五日中に。」
「そりや無理ですわ。」
「なアにわけアねえさ、どつかへ住み替へりやいゝんだから。」
「住み替へてもいゝんですか?」
「そりや、この場合仕方がねえ。」
おきみに取つては、この家は吸血鬼の棲み家であつたので、それは耳よりな話であつた。で、その話をすゝめて見た。しかし彼女が返濟すべき前借の高を知つたとき、彼女は
「そんな筈はないでせう!」おきみは、息を
「と、思ふだらうが、よく考へてごらんよ、ひもの二人も持ちア、だれだつてそれぐれえの借金は出來るぜ。」
「あたし、ひもを二人も持つた覺えはないわ。」
「とぼけちやいけねえよ、あれぐれえ注ぎ込んだら立派なひもだらうぢやねえか。」
「だれのことをいつてるの?」
「あの、長さんのことさ」と、主人は、おきみの顏へ唾を吐きかけるやうに言つた。
「······?······?」
おきみはあつけに取られてしまつた。
長さんといふのは、
その金が積つて三百圓ばかりとなつた。で、おきみ自身の前借と合せて都合三百五十圓になつた、といふのであつた。
只のおなじみさんへ、この主人がなぜそんな金を貸してしまつたか?
實はこれは、主人と、この男||長さんとの
その
「あと半年すりや、俺ア師匠の名をつぐんだぜ。そしたら新宿の新歌舞伎座で、大々的襲名
長さんは、おきみへよくそんなことを言つて、今、自分へみつぐことは

それが積つて三百圓ほどになつたのである。主人はこれだけおきみの身に背負はせるのに、僅か五六十圓を長さんの手に渡したに過ぎなかつたのである。
かういふ世界でのザラにある手であつたが、おきみは、主人からさう言はれる迄、夢にもこれを知らなかつたのである。
おきみはカツとなつて叫んだ。
「あたし······そんなお金知りません!」
さう叫ぶと、おきみは、ワーツと氣違ひのやうに泣き出した。泣きながら疊の上をころげ

主人もそれには手をつけられず、遠くから長い棒切れで恐い蟲でも
「まア/\、おとなしくしなよ。表へ人だかりがするぢやねえか······」
さうして主人は、自分の手に負へないと知ると、第二段の手を用ひた。それは長さんをして
次の夜であつた。長さんは
「おい、ぐづ/\言はずに、さつさと住み替へたらどうだ!」と、その
おきみはすくみ上つた。唇をふるはして、凍死者のやうに動けなくなつてしまつた。
その夜半、おきみは二階の三角の部屋で、周三のからだに絡みついて、息が止まるほど泣いた。聲を出せば階下の主人夫婦にきこえるので、聲を殺さうとすると、その苦しさで、からだ中が
周三はハラ/\しながら、おきみのからだを引き寄せては抱きしめ、引き寄せては抱きしめた。そして、
「どうしたのだ? ね、どうしたのだよ!」
と繰りかへし訊いた。
が、おきみはこの理由を一言も言はなかつた。そのうちに、
「あたし、今まで、みんなあなたのために生きてゐるのだけど、今日からは、あなたがあたしのために生きて下さいね。······あたし、······あたし······このまゝ死んだら、死んでも死にきれない。······あなたさへゐれば、あたしは殺されても生きかへつてやります。そして、きつと、きつと、この仇を取つてやります······」
曾ては、すかんぽの
その翌々日である。おきみは、このT私娼窟から、K私娼窟の方の
が、長さんの仕事を
さうして、おきみの生き餌としておきみと共にK私娼窟へ移された周三は、天神樣の裏手の煙草屋の二階の四疊半へ押し込められた。こゝに移されてからの周三は、生き餌であると同時に、完全な人質となつたのである。あの妖婆によつて、この二人の前科||逃亡癖を持つたくせ者であることを知つた新龜の主人は、二人の逃亡の豫防策として、煙草屋の主人と共謀し、周三の毎日の行動を一つ/\
おきみは、風呂へ行くにも、髮ゆひに行くにも、いち/\おかみに附かれてゐた。またそのおかみは栗鼠のやうにチヨコマカしてゐた。
周三は、おきみに會ふにも勝手には出來なかつた。朝、おきみが店へ坐る前の僅かの時間を、それも主人と主婦が坐つてゐる茶の間で、監視つきの面會だけが許された。
「それで物足りなかつたら、まアお客になつて泊りに來るがいゝさ。」
主人は、干からびた茄子のやうな顏に
周三は、自分の妻と一緒に寢るために金を支拂はねばならないのである。その金こそ、妻の身を賣つて得た金ではないか。妻を賣つた金で妻を買ふ。その買つた金はまた妻の借金となる。こんな馬鹿馬鹿しいべら棒な話がこの世にあらうか。全世界のあらゆる社會層の中で、かういふ不可思議な取り引きを強ひるものは、女の肉を切り賣り切り買ひし得るこの社會のみであらう。
しかし周三とおきみが、二人だけの夜を得るためには、二人だけで話し合ふためには、この馬鹿馬鹿しいべら棒な話を敢へて實行しなければならなかつたのである。二人はいやでも、何故、かういふべら棒な事實があり得るのかを考へさせられた。それは、金といふものに絶對權があるからだ、と
「どうする?」
「逃げるしかないわ。」
二人は、二人だけの夜にありつくと、この一言づゝの會話を幾度となく繰り返した。金を取り卷く
だが、彼等二人の周圍に張り渡された鐵條網から、彼等はいかにして脱出すべきか。彼等は、信州の方の遊廓から逃亡した時のことを思ひ出した。それは全く命がけの仕事であつた。しかし今、この中から脱出することは、命がけどころではなく、脱出即ち死であるやうに思はれた。事實またさうであつた。
T私娼窟の有機的


かくて、この一廓からの逃亡は絶對に不可能といつてよかつた。
然らば前借をきれいに
この中にゐても死、脱出しても死である。
「同じ死ぬなら、脱け出して殺された方がいゝわ」おきみはさう言つた。
「さう無茶なことをいふな。こゝしばらく落ちついて、みんなに安心さしといて機會をねらつた方がいゝよ」周三はさう答へた。
が、それから一月過ぎてもその機會は來なかつた。そればかりか、五日に一度は、例の長さんがやつて來て、ふところに呑んで來た短刀を疊の上につき差して見せたりしては、おきみの逃亡を
さなきだにやつれ衰へて來たおきみの身體は、この監視、この束縛、この脅迫のために
と、更に一と月して、思ひがけなく、脱出の機會が
清ちやんは、或る
「そこは冷えるでせう、こつちへいらつしやいよ。」
おきみがさう言ひかけながら傍へ寄つて行くと、彼女はまたワーツと聲をあげて、板の間へつゝ伏してしまつた。
その夜更け、主人夫婦が寢しづまつてから、
「そんなに
おきみは、自分も同じわなに掛けられていることを話して、心から清ちやんへ同情した。
清ちやんは昂奮して、
「あたし、あんたを姉さんと呼ぶわ、だからあたしを妹だと思つてね」と言つた。
まだやつと十六だといふ、色の白い、髮のやはらかい、ふつくらとした顏の、
「清ちやん、いゝ加減で寢なさいよ。」
おきみが姉さんらしくさう言ふと、清ちやんはまた涙ぐんで、
「でも、しかられるわ」といつも答へた。
さういふ女であつただけ、新龜の主人夫婦は、清ちやんの行動に對してはそれほど嚴しい束縛を加へなかつた。それに、彼女に
主人は、彼女の一人歩きにも可なりの自由を與へた。
「清ちやん、そんなことをしてゐるなら、二階へ行つて寢たらどう。」
おきみがまたさういふと、
「でも、しかられるわ」と彼女は答へた。
「だつて、からだを
「どうせもう、こはれてゐるのよ。」
果してそれから四五日した夜、清ちやんは、呼び込んだ客を二階へ上げようとして、梯子段の中途から轉げ落ちてしまつた。眞白くなつた唇を喰ひしばり、泡を吹きながら、からだ中をガク/\
「清ちやん、清ちやん!」
おきみは夢中で叫びながら、そのからだを抱き上げ、茶の間へつれて行つて寢かした。が、この時の彼女の心臟の
主人もさすがに慌てた。彼は、清ちやんのからだを
カンフルの注射で、清ちやんの心臟はとにかく動き出した。
この病院は、この私娼窟
病院といへば、材木倉庫のやうなバラツク建で、内部は、一間の廊下をはさんで、二十疊ほどの疊敷の部屋がいくつか並んでゐた。それは柔道の道場のやうにガランとしてゐた。
この一つの部屋の中に、六七人の患者が、思ひ/\の方向に向いて寢てゐた。みんな私娼窟の女であつた。病氣は、大部分、肺病と性病であつた。
清ちやんは、内膜から外膜を
もう秋も末になつてゐた。そして、じめ/\した薄暗い部屋の空氣は、さま/″\の藥品の匂ひに濁されて、避病院内のやうな臭氣が、部屋の隅々までぢつと
言ふまでもなく、附き添ひの看護人が必要だつた。新龜の主人は、その看護人として、おきみの良人、周三を引つ張つて來た。煙草屋の二階へ置いとくよりも、この病院へ入れとく方が、人質としても更に完全な人質とすることが出來たからであつた。周三は、清ちやんの枕元へ、
周三がさうして囚はれてゐるためか、おきみは、二日に一度は、この病院の清ちやんを見舞ふことを主人から許された。おきみは清ちやんを、ほんたうの妹の如く愛する心から、清ちやんの好きなドロツプを買つては訪ねて來たが、一つは、そこで周三と顏を合せることに依つて、逃亡の機會を
院長は、毎日一度、午後三時頃、一人の助手と看護婦をつれて


「院長さん、苦しい。サンソを吸はして下さいよ。」
「院長さん、早く注射をして下さい。痛くつて死にさうよ。」
「院長さん、からだ中が焦げさうだよ。何とかして頂戴よ。」
だが、それらの訴へ聲が、僅かの前借か、無前借の女の口から出たものであれば、院長は、尖つた頭をふり向けもせずに部屋を出て行つてしまつた。
「馬鹿! 畜生!
「みんな死んぢまへ! 世界中の人間が死んぢまへ!」
「火をつけて燒き殺してやるよ。日本中、燒き拂つてやるよ!」
さういふ叫び聲が、院長の背中へ投げつけられた。しかし院長は、病人は一面狂人である、といふべら棒な見解から、それを平氣で受け流してゐた。
「一體、
そんなことを言ひ出す女もゐた。
「そりや、こゝのキユーピー院長見たいな人間さ。」
「それであたし達は、いくら稼いでも稼いでも借金がふえるばかりなんだね。」
「さうさ。先づ旦那にしぼられて、それから借金に卷き上げられて、ひもに取られて、衣裳代に取られて、罰金に取られて、税金に取られて、おしまひにこんな病院に取り上げられてしまふ。······骨も殘りやしないわ。」
「あゝ、早く死んぢまつた方がいゝ。」
「さうよ、死んだ方がよつぽど樂よ。地獄だつて、こんなぢやないわよ。」
みんなはそんなことを言ひ合つてゐるうちに、誰かゞワーツと泣き出す。と、それにつゞいて、そつちでもこつちでも泣き出す。
それは全く堪まらない絶望の叫びであつた。
かういふ中で、清ちやんは日に日に弱つて行つた。それは、冷たい
「苦しいの?」おきみは、自分の顏を清ちやんの顏の上へ持つて行つて訊いた。
「······えゝ。」
「また注射をしてもらひませうか。」
「いや。」
「ぢや、
「どうしていやなの。」
「あたし、直りたくないの。」
「そんなことを言ふもんぢやありませんよ。」
「だつて、ほんたうにさう思つてるのよ。」そして清ちやんはぢつと目をつぶつてゐたが、「極樂つて、地の中にあるの?」と言つた。
「······さア、さうでせうね。」
「あたし、いくら極樂でも、地の中はいや。やつぱり天國がいゝわね。ひろ/″\と
「清ちやん! 清ちやん!」おきみは叱りつけるやうに叫んでゐたが、やがてこれも涙に
見てゐた周三は、只おろ/\しながら、立つたり坐つたりしてゐた。
その夜更けである。清ちやんは全く危篤に
その男は、蒼い顏を昂奮さして入つて來ると、
「清坊、清坊!」と呼んだ。
しかし清ちやんの耳はもう聞えなくなつてゐた。彼は部屋を駈け出し、宿直の醫者を呼んで來て、強心劑を注射さした。と靜まりかけてゐた心臟は思ひ出したやうにコト/\と動き出した。がそれも五分としないうち、
「清坊! 清坊!」
その男は、膝頭を
「これきりで死んぢやうのかねえ!」
そこへおきみが、ハア/\と息を切らしながら入つて來た。が、この時はもう清ちやんの心臟はぴつたりと止まつてゐた。
おきみはすつかり昂奮し、髮を掻きむしつて泣き出した。泣くといふよりは、からだ中でうめき叫んだ。その聲には、いつものおきみの聲が入つてゐなかつた。月に向つて
おきみに取つては、清ちやんのこの死が、單なる清ちやんの死ではなかつたからである。それはもう自分の足元へもしのび込んでゐるものであつたからである。同時にそれは、自分と同じ地獄にうめいてゐるすべての女達の周圍を取り卷いて、隙を見れば飛びかゝらうとしてゐるものだからである。
清ちやんのひもは、膝の上に頭を垂れて石のやうに固くなつてゐたが、これもやがて、ボロ/\と涙をこぼした。彼は、おきみと周三に向つて何か言はうとして、
「こ、こ、かうなりや、あんた達がやりなせえ」と、どもりながら言ひ出した。
「かうなる前に、
この男は、おきみ達が逃亡を
周三は、
けれど一方、清ちやんの死に依つて生命の根柢からぶち
と、その男はまた言つた。
「ぐづ/\してちやいけません。新龜の旦那か長さんでも來たらおぢやんだ。外までわしがつれてつて上げるから、一人づゝわつしの後について來なせえ。」
「おい」周三はおきみの肩をゆすぶつた。「しつかりしなよ。さつさと立つて出て行きなよ。」
そして周三はおきみの手を取つて、廊下へつれ出し、
「天神樣の前を右へ、それから川に沿つて左へ、二つ目の橋の
周三はそれからまた一方の男の耳へ囁いた。
「こゝの醫者や看護婦に感づかれやしませんか?」
「そんな心配はいらねえ、わつしがついて出るんだから。」
そこでその男は、おきみを前に立て、煙草に火をつけ、悠々とふかしながら、いかにもおきみの行動を
間もなくその男は一人で引きかへして來た。そして廊下から、清ちやんの枕元に坐つてゐる周三へ目くばせをした。周三は立つて部屋を出た。
二人が廊下の突き當りの階段を降りかけた時であつた。逃げた筈のおきみが、ふら/\と階段を上つて來る。おや! さう二人が思つた瞬間、二人の目には、おきみの後から上つて來る長さんの姿が映つた。
「おい、松公、柄にもねえことをするなよ。」
長さんは、さう言ひながら、おきみの先へ出て階段を上つて來た。そして松公と呼んだその男の前へ立ち
「だれの許しを受けて、こいつらをずらかさうとしたんだ?」
「だれでもねえよ。」
松公はさう答へて、長さんの鼻先へ顎を突き出した。
「ちえツ······まア外へ出ろ!」
「へん、どこへでも行くよ。」
二人は、階段を下りて行つた。
さうして五分とたゝない時であつた。清ちやんの枕元に坐つてゐる周三のところへ、おきみが泳ぐやうにして走り込んで來た。
「あなた、大變よ! 大變よ! はやく逃げなさいよ。あの二人が往來で切り合ひをしてゐる。」
周三は、
「あの男が、長さんの短刀で、からだ中、まつ赤に切られちやつた。あの男は、お腹からはみ出した腹わたを片手でぶらさげて······」
それは
周三はその場へ行つて見ようとした。
「あなた、どこへ行くのよ。長さんは、こんどはあなたを殺しに來るよ。はやく、はやく逃げて下さいよ。」
さう言はれると、周三は急に慌て出し、
「あゝ、さうか、どこへ逃げよう?」
「遠くへ、出來るだけ遠くへ。」
「だから、どこへ? 場所をきめろ」さう言ひながら周三は
「······新宿の、いつかの木賃宿。」
「よし、わかつた。後からお前も來るんだぞ。」
周三は、非常口の階段を、夢中で病院の裏庭へかけ下りた。表の切り合ひで病院中の人間が湧き立つてゐるので、周三の逃亡はだれにも氣づかれなかつた。
周三は、新宿旭町の宿、マルマンの三疊へ落ちつく間もなく、一人の警官に踏み込まれ、
「ちよつと派出所まで來たまへ」と言はれた。
周三はギクリとした。Kでの切り合ひ事件の參考人として調べられるのか? それにしてもどうしてこんなに早く足がついたのだらう。
周三は不安な不審に包まれながら、近くの派出所へ連行された。
警官は、電話で本署と打ち合せをした。周三は氣取られないやうに、要點には觸れずに話してゐたが、先方の言葉へうつかり
彼は、さつきの切り合ひ事件に關したこととばかり思ひ極めてゐたので、この不意打ちには全く面喰らつてしまつたのである。
「さア來た! 遊廓の逃亡がばれやがつた! 爆彈が
旭町の宿マルマンへは、この春、周三とおきみがそこを引き上げると間もなく、
一時間の後周三は本署へ連行された。そしてすべてを告白させられてしまつた。おきみが現在どこにどうしてゐるかを。
「それでよろしい」一人の刑事は一枚の電報を見せながら言つた。「この電報通り、上田市のM樓から、君の女房の取り押さへ方を依頼されてゐるのだから、こちらはそいつを先方へ渡せばいゝだけのことだ。君には大して迷惑のかゝることではあるまいから安心したまへ。しかし今晩はこゝへ泊つて貰はうぜ。」
周三は、翌朝になつて、留置場を出された。彼はその足で、K町まで圓タクを飛ばした。しかし、さうして行つて見るまでもなく、おきみは前夜のうちに拘引されてゐた。
おきみは、最初は、長さんと松公の切り合ひ事件の關連者として引つ張られたのであつた。そこへ、周三からの自白に依つておきみの在りかを知つたY署から、その
一人殘された周三は、この場合自分をどう處置すべきか、まるで見當を失つてしまつた。
||とにかくおきみに會はして貰はう。
それだけを考へながら周三はK署へ急いだ。彼は刑事部屋まで入ることを許された。そこには、
「お願ひがありますが······」
「何だ?」
「面會さしていたゞきたいのです。」
「だれだ?」
「おきみといふ女です。」
「駄目だよ。あいつは淫賣だ。」
「ちよつとでいゝんですが。」
「なアるほど」と××が言つた。周三は次の言葉を待つた。と、それは將棋の方のことで、××は腕を組んでしばらく考へてゐたが、その大きなおでこをぎりゝと周三の方へ向け、
「うるさい、かへれ!」と
周三は、取りつく島もなかつた。
その夜周三は、千住の木賃宿へ泊り、翌日の夕方、旭町のマルマンへ行つて見た。おきみが周三へ何かの通信をするなら、この宿宛てにするしかなかつたからであつた。この宿だけが辛うじて二人の引き破られた心と心とを仲介するものであつたからだ。だが、何の便りも來てゐなかつた。
その翌日も行つて見た。が、やつぱり徒勞に終つた。さうして周三は四日ほどの
「······それまでは、封入の金で暮してゐて下さい。かうなればあたしはもう棄て身です。殺されるまでたゝかつてやります。だからあなたも、決して絶望せぬやう、やけにならぬやう、これだけは、くれぐれもお願ひします。あたしのために飽くまで強く生きて下さい······」
おきみのからだが、上田市のM樓へ引き渡されずに、どうして前橋の大阪屋へ引き渡されたか?
すべて遊廓では、一度逃亡した女は、きず玉として、自分の所へ引き取ることは決してせず、それを周旋した口入屋の手に渡すことになつてゐる。周旋屋では、一人の女のために、大事なお得意を棒にふることは堪へられないので、その女が遊廓へ掛けた
前橋のK町、そこは高崎のY町と同じ組織の賣春屋で充たされてゐた。群馬縣は日本唯一の廢娼縣として誇つてゐるが、それは同時に日本第一の私娼窟を
大阪屋は、××からおきみのからだを受け取つてこの家へ連れて來ると、先づ言つた。
「お前の亭主は、昔のまゝ、お前のからだにぶら下つてゐるのかね?」
「············」
「そりや念を押す迄もないが、もしもあの男をこゝへ呼び寄せるやうなことをしたら、お前の逃亡を導いたもの、つまり犯罪
「あの人に、あの人に罪はありません」おきみはせき込んで答へた。「お女郎屋から逃げ出したのは、みんなあたし一人でしたことですから。」
「とか、なんとかおつしやいましても、世間には通らぬ話だ。尚更ら××へは通らぬ。ほんたうなら、お前のからだを引き取ると一緒に、あの男は刑務所の方へ引き取つて貰はうと思つたのだが、まアまアこんどだけは
「いゝえ、あの人には何の罪もありません、あの人は······あの人は······」
おきみは、目を引きつらして大阪屋へ刄向つて行つた。
「さうむきにならんでもいゝよ······ともかく氣の鎭まるまで、あちらでゆつくりとからだを休めるがいゝ。わしは、一度かうと言ひ出したなら、
さう言つて大阪屋はニタ/\と笑つた。その顏は、兩のかん骨が飛び出し、その間の凹地に盛り上つた鼻の頭が白く
おきみは、見てゐるうちにからだ中がゾク/\して來た。それは、曾て、T私娼窟で、おきみの咽喉元を絞めるやうなことをしたあの奇怪な妖婆が、再び目の前に現はれたやうに感じたからであつた。違ふ所は、老婆が老爺になつただけであつた。上田の
大阪屋は、凹んだ
おきみは、その中の二階座敷へ引き上げられたのである。鐵格子のはまつた三尺四方の窓が南に向いて一つあるきりの六疊の座敷であつた。
「こゝだと、誰に遠慮もいらぬ。手足をのばして、よく休むがいゝ。」
さう言つて、大阪屋の例のしやれかうべの顏をニタリと笑はせ、そして梯子段を下りて行つた。と間もなく外から扉に
おきみは、例の妖婆の家の二階の一室に監禁されて、殆んど死ぬばかりになつてゐた

しかし、これを運命といへるだらうか。
||運命ではない、運命ではない!
おきみは階段を下りて行つた。鐵の扉を力一ぱい押して見た。からだでぶつかつて見た。が、扉は動きもしなかつた。
二階へ上つて來た。鐵格子へ掴まつて、腕の脱けるほどゆすぶつた。からだをぶら下げた。が
つひに彼女は、へと/\になつてしまつた。そして、疊の上にばたりと倒れて、打ちのめされた蟲のやうに、力のない息をつゞけてゐた。
梯子段を上つても息が切れるほどに弱つたのは、もう二三ヶ月前のことであつた。そこへこの三日間ほど、おきみは、夜もろく/\眠らされず、まるでぼろ布の如く持ち運ばれたので、今は
その翌日の午後であつた。おきみは、大阪屋の奧座敷へ引き出され、四人の男から、賣り物としての價値を鑑定された。おきみは今まで、幾度か轉賣されて來たが、四人もの男から値ぶみされることは初めてであつた。
四人とは、大阪屋と、升屋といふ同業者と、えたいの知れない老人と、瀬下屋といふ料理屋の主人とであつた。彼等はおきみのからだをぐるりと圍んで、まるで廢物のせり賣りのやうに始めた。
「わしが見たところぢや、きず玉もきず玉、ひでえきず玉だから、まアせい/″\百圓といふところだね。」
料理屋の主人
「冗談いつちや困ります。そりや東京で二三年働いてはゐたが、何も淫賣屋にゐたといふわけぢやねえし······」
大阪屋は、鋭い目を光らしながら言つた。
「それぢや、どのくらゐで話をつけようてんだね?」
えたいも知れない老人は、
「左樣、少なくも千兩ですな。」
「御冗談でせう。」
「それぢや話にも何んにもなりやせんや。」
「さう言はずに、何とか歩み寄つたらどうだね。千兩もちと
同業者の升屋がさう口を入れた。
「ぢや、九百圓まで我慢しませう。」
「いや、百圓がせきの山です。」
「ぢや、八百五十兩。」
「いや、百圓。」
「ど、ど、どつこいさうは參りません。八百五十兩より
大阪屋は、口から泡を飛ばして頑張つた。
これ等の會話を隣室から聞いてゐたら、一匹の牛か馬の賣買としか聞えないであらう。
おきみは頭を垂れ、兩手を膝の上に置いて身動きもせずに坐つてゐたが、周圍の四人の
賣買の話は結局不調に終つた。
大阪屋は再びおきみを土藏の二階へ引きずり上げた。彼もすつかり疲れ、おきみを前にして、がたりとあぐらをかき、せい/\と肩で息をしてゐた。羊をこゝまでくはへては來たが、もう喰ふ力もなくなつた老いぼれの狼のやうに。
が、翌日になると、大阪屋はまたおきみをその部屋から連れ下し、奧座敷の眞中へ坐らせた。そこには、おきみの新しい買ひ手である高崎の銘酒屋の主人と、一人の
「この通り
大阪屋は、二人の相手の顏をいら/\と見較べながら言つた。
「いやどうも」と、かまきりのやうな三角な顏をした
「全くだ」と、銘酒屋の主人もさも汚物でも見るやうに頬をしかめた。「大阪屋さんも、人が惡くなりやしたねえ。」
「そいつア御挨拶だね。わしはもうこの商賣を始めてから十五年にもなり、何百人てえ女を手にかけてゐるんですぜ。それが、あんた達を相手に喰はせようなどと考へられますかね。わしは、値だけのことしか言つてないんですよ。踏めるだけのことしか踏んでゐないんですよ。まアよく目を開けて、どつちからでも覗いてごらんよ。」
「
「ぢや、話にも乘つてくれないんかね?」
「乘るも乘らないもありませんや。そりやロハ同樣なら引き取らねえこともねえが。」
「一體、どれくれえまで踏みます。」
「さうさ、失禮だが、初めの話の一割だね。」
「と、いふと、五十兩?」
「へえ。」
「ば、ば、ばかな!」
大阪屋は吐き出すやうに言つたが、その顏は今にも泣き出しさうであつた。
結局、話はまた完全に不調に終つた。
その翌々日の夜であつた。おきみはまたも土藏から引き出された。そして、大阪屋の女房なのか女中なのか、えたいの知れない下卑た中老の女から、ぺら/\の
東京のTやKの魔窟は、その周圍を取り卷く商店街との握手に依つて、恐ろしい毒液を持つた有機體をつくり上げ、その周圍に鐵條網を張り渡して、私娼達のからだを
しかしこの地方のこの種の搾取者は、一方ではまた被搾取者でもあつた。資本主義制度の無數の段階は、この種の搾取者の世界をその最下層に壓し潰して置くだけ、彼等に與へられた搾取量は、最後の肉の一片、最後の血の一滴でしかなかつた。搾れるだけ搾り取つた最後の
鹽原の男の前に出た今日の大阪屋は、
「一匹の豚の子の賣買にも、掛け引きといふものはありますが、この玉は、一文の掛け引きなしの正札つきです。一聲できめちやつて下せえ。」
「左樣ですな、||止めときませう。」
相手の男は、プスンと言ひ切つた。
「何ですね、そりや?」
「これが手前の一聲ですよ。」
「そいつアあんまりひでえ一聲ですね。······いくらでも構はねえから踏んで見て下せえ。」
「いくら、などと値のつく代物ぢやありませんよ。」
相手は、それを蹴飛ばすやうに言つた。
大阪屋は、突きのめされたやうに、口を開けたなり、煙草のやにだらけの眞黒な齒を現はしてゐたが、急にベソ口になり、聲をふるはして、
「さう言はず、ねえ、助けると思つて引き取つて下さいよ。さつきも話したやうに、二三日中にあれだけの金が出來なきア、わしはこの家にゐられなくなるんですからね。」
「そりやお氣の毒ですが、賣りものにならねえものを買つたところで仕方ありませんからね、ご免をかうむりますよ。」
大阪屋はぺしよりとなつて默つてしまつた。
しばらくして大阪屋は、そのしやれかうべのやうな顏をあげると、おきみの横顏へ噛みつくやうに言つた。
「お前は······お前は生きてゐるのか! 生きてゐるなら、なぜもつと人間らしく、女らしくしないのだ。どいつもこいつも、お前を蟲けらほどにも買はないのを
さう言はれると、おきみは靜かに面をあげて、ぢつと大阪屋を睨みかへした。その顏は氷のやうに冷たく澄んでゐた。こんな場合、今までのおきみなら、口惜し泣きに泣き叫ぶところであつたが、今のおきみはもう泣かなかつた。あれほどよく泣いたおきみであるのに、今のおきみは、目をうるませさへもしなかつた。
大阪屋は、さういふおきみから、
「その面は何だ! 睨むなら睨んで見ろ! 呪ふなら呪つてみろ! 貴樣がいくら我を張つたとて、わしはビクともせんぞ。この大阪屋はな、一旦かうと言ひ出したら、火の中へでも飛び込む男だぞ。見てやがれ! そつ首を縛つてでも叩き賣つて見せるから······」
さう叫んでゐるうちに大阪屋は、すつかり息が切れて、聲が出なくなつてしまつた。そしてまたぺしよりと首の根を折つて默つてしまつた。
おきみは尚もぢつと目を据ゑてゐたが、やがてふら/\と立ち上つて隣室へ入つて行つた。大阪屋はその後を睨めながら、おきみが戻つて[#「戻つて」は底本では「房つて」]來るのを待つてゐたが、
と、いきなり大阪屋が奇怪な驚きの聲を出した。つゞいておきみのからだを引きずりながら出て來た。||見ると、おきみの
「馬鹿なことをしやがつた! 途方もねえことをしやがつた! こん畜生、それで賣り物にしまいといふ魂膽だな!」
大阪屋はぢだんだを踏んで吼え立てた。
「ヘツヘヽヽヽ、まつたくそれぢや貰ひ手もねえ。ヘツヘヽヽヽ、うめえことをしやがつたねえ。」
鹽原の男は、口をへの字にして笑ひ立てた。
大阪屋は、どうしてくれよう、と、その手段を考へ出さうとするかのやうに、部屋の中をわた/\と歩き

「結構、々々。······この節は、
さういふと、そつくりかへつて、ケツ/\/\と庭鳥のやうに甲高く笑つた。
その一夜が過ぎた。
玄關の格子の開く音がした。それだけで何の聲もしない。
大阪屋は立つて行つた。
と、そこには周三が兩手をぶらりと下げたまゝ、うつろの目を開けて、すーツと、消えかゝる影のやうに立つてゐたのである。
大阪屋は、思はず身を引いた。からだ中、水を浴びせられたかのやうに、しばらくすくみ上つてゐた。
が、やがて、たゝきの上へ下り立つと、周三の兩手を、ありつたけの力で捕へた。それは、逃げ場を失つたものが、命がけで敵の急所へ喰つてかゝるやうな狂暴さであつた。
大阪屋はそこで何か言はうとしたが、何も言ひ得ず、そのまゝ、往來へ周三を引き出した。そしてどん/\と歩き出した。
二十分の後、大阪屋は、周三を、警察の刑事部屋へつれ込んでゐた。
「この身なり、この人相を見ても解る通り、氣違ひか馬鹿か、それとも恐ろしい惡人かに違ひありません。とにかく人の家へ無斷で上り込んで來た奴です。立派な
さうして周三を警察に叩き込み、うちへ歸つて來ると、大阪屋は、奧座敷へ
今朝のおきみは、ギザ/\に切つた髮をぼう/\にして、それに蔽はれた目を火のやうにギラ/\光らしてゐた。その相貌は、東京のT私娼窟のあの妖婆の家に監禁されてゐた[#「監禁されてゐた」は底本では「鹽禁されてゐた」]「
大阪屋は、前夜おきみのからだに着せた着物を、おきみの前へ置いて、
「さア、早く着た!」とおきみの視線を避けながら言つた。
「············」
おきみは、ギロリと開いた目をまばたきもせずにゐた。
「コラ! 汽車に乘つて出かけて行くんだぞ!」
「············」
おきみは石のやうに動かなかつた。
「この畜生!」
大阪屋はガバリと立ち上ると、おきみの襟がみを引つ掴んだ。そしてぐずりと引き立てた。
おきみは、よろ/\と立ち上り、うしろの壁へ倒れかゝりながら、ギリリと白い齒をむいた。さうしてヂリ/\と大阪屋の方へにじり出た。と同時におきみは急に
おきみの面相は一變してしまつた。そのからだ全體から、何とも言へない
大阪屋は、からだをよぢりながら夢中で叫んだ。
「この畜生! 畜生! 畜生

叫びながら、蛇でも叩きつけるやうに、目茶苦茶におきみの腦天をなぐりつけた。
おきみは、バタリと疊の上に倒れた。ちよつとの間、泥のやうにぢつとしてゐた。が、やがて倒れたまゝ、靜かに顏だけあげた。血にまみれた顏を······。
と、その顏の表情は全く
この後の事件は詳しく書くに
その日一日、土藏の二階から異樣な叫び聲がきこえてゐた。すべて意味不明であつたが、ときどき「天國、天國!」と叫ぶのだけははつきりと聞き取れた。
大阪屋は、閉め切つた奧座敷の蒲團の中に、
その
周三は、土藏の横手に掛けてあつた
しかし、この時、すべては終つてゐた。おきみは、窓の鐵格子へしごきを掛け、
翌朝、鉛色の水が音もなく流れてゐる利根川の上を、一つの溺死體が流れてゐた。それは周三の自殺體であつた。