一
小春の日光は岡の畑一杯に射しかけて居る。岡は田と櫟林と鬼怒川の土手とで圍まれて他の一方は村から村へ通ふ街道へおりる。田は岡に添うて狹く連つて居る。田甫を越して竹藪交りの村の林が田に添うて延びて居る。竹藪の間から草家がぽつ/\と隱見する。箒草を中途から伐り放したやうに枝を擴げた欅の木がそこにもこゝにもすく/\と突つ立つて居る。田にはもう掛稻は稀で稻を掛けた竹の「オダ」がまだ
「どうした、奴等がつかりしたか」
兼次を見て若者はいひ捨てゝ去らうとした。兼次はそれには頓着なしに
「大根一本おいてけ」
立ちあがりながら叫んだ。若者は
「どう/\どうよ」
馬の口もとを止めて、ぎつしり括つた荷繩から一本引つこ拔いて
「そら二人で喰ふんだぞ」
と兼次を目掛けて抛つた。大根は茶の木へがさりと止つた。兼次は菜刀で大根をむいて噛りはじめた。大根には幾らかの辛味はあるが兼次の乾いた喉にはそれでも佳味かつた。其所へ又一人鍬を擔いで田甫からあがつて來たものがある。
彼は兼次を見ると
「なんのざまだ奴等アハヽヽ」
唐突に惡口をいひ出した。
「いゝから
兼次はすぐにやり返す。
「篦棒いつまでたつても夫婦にも成れねえやうな奴等なんでやつかむかえ。親爺奴きかなけりや喉ツ首でも押してやれ。やくざな野郎だあ」
平生惡口をいひ合うてる間柄だけに思ひ切つた憎まれ口を叩いて去つた。おすがは彼等が來た時すぐに立つてうつぶした儘さつきのやうに土の塊をほぐして芋をぼり/\とはがして居た。兼次も別に氣にするやうでもなくおすがと別のうねの芋をはがして俵へ入れはじめた。
二
兼次とおすがの間柄は久しいものである。それで今では拾い手のない日蔭物といふ形に成つて居る。
百姓の間に生れた子は隨分粗末な扱ひである。お袋が畑で仕事をして居れば笠の中へ入れて畑境の卯つ木のもとへ捨てゝおく。泣いて泣いて火のついたやうに泣いても滅多に構へつけることもない位だから隨て營養も不足なのか六つ七つまでは發育の惡い子も數々あるが、手足がついたとなると容赦もなくこき使はれるので其故か十七八に成ると驚く程立派な體格を持つやうになる。それと同時に女の一人位は拵へるのである。例令そんなことが無いにしても同年輩の誰彼と屹度夜遊に出掛ける。それがだん/\募つて來ると村の隅から隅までふら/\と押し歩いて小娘でもある家の風呂を覗くといふやうになる。兼次も年頃來た時には自然夜遊に屈託した。さういふ場合に兩親はどうするかといふと、自分が以前に其覺えがあつて格別惡いことゝも思はないし一向平氣といふのではないが仕方がないといふ位なものだ。それだから繩の一
或早朝のことである。時候はまだ寒さがぬけぬ頃だ。兼次は深い心配な顏で綽名が
「兼ら何だえこんなに早く」
と四つ又は聞いた。
「おらちつと頼みたくつて來たんだ。おら「ツアヽ」は短氣だから打つ殺されつかも知んねえ」
「なにして又打つ殺されるやうなことに成つたんだ」
「ゆんべ遊びに出て褞袍なくしつちやたんだ。おすがら内の土藏ん
「なんだそんなことかおれが謝罪つてやつから待つてろ」
四つ又は兼次の家へ行つた。お袋は竈に木の葉を焚いて居る。釜が今ふう/\と吹いて居る。四つ又はすぐに厩へ行つた。さうして
「ツアヽ」おら何でもえゝからおれがいふことを聽いて
突然にかういひ出した。「ツアヽ」といふのは子が其父に對する稱呼であるが四つ又は格別の懇意である上に年齡が違ふから時としてはかういふこともあるのである。一つは戲談をいふのが好きな性質から四つ又は何時もこんな調子で兼次の親爺に對する。
「なんでえ朝ツぱらから」
とおやぢは不審相にして半はいつもの戲談でもいはれるやうに微笑しながらいつた。
「ツアヽに打つ殺されつかも知んねえて心配してんだから謝罪りに來たんだ。なんでもかんでも聽いてもらあなくつちやなんねえんだよ」
「解らねえなひどく」
「いやわかつてもわからねえでも世間態もよくねえんだ。實は兼次がことだがおらぢへ來て······」
「あの野郎奴ほんとに夜遊ばかりしてけつかつて」
「さう「ツアヽ」等怒つからしやうがねえ。ゆんべ褞袍
「そんぢや任せべえ。兼こと連れて來てくろ」
此れで褞袍の一件は濟んだ。其褞袍は其後盜んだ奴が元の所へ捨てゝ置いたので再び兼次の手にもどつた。兼次はそれを引被つて依然としておすがの許へ通つて居た。
三
暑さが漸く催して此から百姓の書入時といふ茶摘の頃までは何の噂もなかつた。春も八十八夜となつて草木のやはらかな緑が四方を飾るやうになるとみじめな姿で顧みられなかつた畑のへりの茶の木のめぐりも赤い襷の女共が笑ひ興じて俄かに賑かになる。さあ
「ツアヽおれ藥貰ひに行つて來べえ」
とやつたのでそれでも自分が行くとはいはれぬので澁々と兼次を出してやつた。街道は岡を越えて行く。畑には麥の穗が一杯に出揃つて快げに
「兼ツつあんはおすがさんげばかし贔屓しねえでおら方へも來たらよかつぺなア」
といつたのはおすがの向うに居た女である。
「ほんとだおいとさん、可笑しかつぺなア」
少し離れた方からも聲がした。
「そんぢや行くべえ」
と兼次はおいとの方へ茶の木を押し分けて行つた。
「やだよう、兼ツつあん、構アねえこんなに土だらけにして」
と泣聲を出したのはおいとの側に下枝を摘んで居た一番小さな子であつた。兼次が其子の籠へ土足を蹈込んだのである。
「駄目だよ、陽氣のせゐだよ、誰だかはどうかしてんだからなア、おいとさん」
又さつきの少し離れた方から聲がした。此は稍年増なお安であつた。
「おらげもすけたらよかつぺなア兼ツあん、摘んですけなけりや話してやつからえゝよ」
とお安は又からかふ。兼次はお安の方へ行く。
「あらまあ、兼ツつあんはこんなに小麥踏ンぢやして怒られべえな」
おいとがこんどは苦情を持ち出す。茶の木に添うては小麥の畑がある。小麥と交ざし作りの豌豆が小麥の莖にからみながら立ちあがつてしほらしい花をびつしりとつけて居る。
「そんなに摘みえゝとこばかし摘んで兼ツつあんはやだよおら、頼まねえよ」
お安がつゞいて苦情を持ち出す。兼次はお安の肩を叩く。
「おゝひでえまあ、おれことぶつ飛ばしたんだよ、誰さんことかはぶたねえんだんべえな」
「さうだんべえなァアハヽヽヽ」
みんなが一度に笑出す。おすが許りは默つて居る。こんなことで兼次は散々に暇どつた。空には雲雀が交るがはる鳴いて居る。おやぢが叱る急げ/\といふやうに喉が裂ける程鳴いて居る。それでも兼次は頓着なしに指の先の青くなるまで茶を摘んで居た。漸く氣がついた時に一散走りに走りつづけて家に歸つた。幾ら駈けても後れた時間の取り返しはつかぬ。兼次の姿が見えると親爺は
「何してけつかつた、ぶつ殺されんな」
と怒鳴つて棒を持つて飛び出した。兼次は青くなつて逃げた。若いだけに足が達者である。親爺が門へ出た時にはもう前の櫟林へ姿は隱れてしまつた。親爺は焙爐の茶が焦げつくので何處までも追ひつめる譯には行かなかつた。兼次が藥貰ひに出た跡で手に餘る茶の葉をいぢつて居たのであるが強くなつた葉はいくら荒筵の上で押し揉んでも容易によりつからぬ。焙爐の火力を強くして只がさ/\な茶を乾かした。疲勞は其癇癪を促した上に焙爐の蒸し暑さは一層親爺の腹をむか/\させたのである。隣近所の二三人が出て漸く兼次を見つけた。さうして例のやうに四つ又へ詫を頼んだ。四つ又はぶらりとやつて來た。
「ツア、獨で
「こはえな」
「うんこはえ筈だ、つまんねえ
「何よ又そんなことゆつて」
「なにつて兼ことぶつころすなんて騷いてんぢやねえか」
「此忙しいのにあんまりのさくさして居やがつて小世話燒けたからよ」
「のさくさしたつて「ツアヽ」がにや分んめえ。先生がほかさ行つて居なかつたんで待つてたんだつて云ふんだぞ。「ツアヽ」行つたつて先生が居なくつちや駄目だんべ。それも聞きもしねえでぶち殺すなんてそんな短氣出すもんぢやねえよ」
お袋は晝餐の
「本當におらぢの「ツアヽ」は短氣なんだから」
と獨言のやうにいつた。
「えゝからわツら知りもしねえ癖に」
とおやぢは又かアつとしてお袋を叱りつけた。
「それさうだからえかねえ。婆さまこと見ろまアおれが
四つ又は殼竹割である。短氣なおやぢを威したり賺したりいひくるめるのは村でも此の四つ又一人なのである。
「うんそれぢや任せべえ」
といふことに成つた。
「そんだから愚圖々々しねえで何時でもおれが云ふことア聽くもんだよ」
「おめえぢや仕やうがねえへゝゝゝ」
此が笑つて收ると四つ又は兼次を連れて來た。さうするとおやぢは
「此葉揉んでくろ、兼」
といつたやうな譯でさつきの顏とは別のやうである。
四
其後いさくさはなかつたが兼次は依然としておすがのもとへ忍んだ。それではおすがの家で捨て置くまいと思ふ筈だがおすがのお袋は少し愚圖な氣のいゝ女で只娘が可愛くて兼次との間を裂かうなどゝいふ
「
四つ又は厩の所へ行つて問ひかけた。親爺は暇があればかうして厩へ行つて馬の食ひ振を見て居るのである。
「やつと今をへた處だ」
親爺は簡單にかういつて井戸端へ行つた。股引の泥をざつと洗つて家にはひる。四つ又と共に上り
「どうした兼が居なくちや仕事が
「そんでもどうやらかうやら代だけは出來た」
「忙しい所で濟まねえが今日はおれも頼まれたから來たんだ、惡く思つちや仕やうねえぞ、斷つて置くからな。どうしたもんだいまあ、おすがこと貰あも出來ねえ、兼次が足も自分の持物ぢやねえから止める譯にや行かねえつて伊作男げ斷つたつちいんだがそれも隨分酷え噺ぢやえねか。それに二人はどうしたつて切れねえ縁だ困つたものだぞありやあ。遁げたものはそりや手分けして搜せばどこに隱れたつて分るにや極つて居るやうなものゝ連れて來た所でおめえら方がちやんと極つてなくつちや女の方の身分になつても餘り慰みものにされたやうで世間へ顏向も出來ねえな。何もそんなに頑張らねえで一層のことおすがこと貰つちやつたらどうだ」
「此めえ親類うちから世話されたこともあんだが檢査めえだからつて斷つたんだから其方へ對したつて貰あ所の騷ぎぢやねえ」
「徴兵檢査ツてゆつてもあと三十日が四十日で
「おらどうせ馬鹿だから構はねえが、どうしたつてうんたあ云はれねえ」
「酷くをかしなこといふんだな、そんぢや外に氣にらねえことでもあんのか」
「氣にらねえたつて餘まり人を馬鹿にしべえと思ふんだ。おらぢの野郎が甘口だつて何もお袋まで一緒になつて人の相續人に障るやうなことして呉れねえでもよかんべと思ふんだ。おらどうせ馬鹿だから理窟なんざあ解らねえがさうぢやあんめえか。此間だつて兼が出だす晩にも後で氣がついて見りや裏の
「そんなに怒つて騷がねえたつておすがことせえ貰へば怨みもつらみもあんめえ。あつちのお袋だつておすがも可愛いし兼次も可愛いしなんだからこつちせえ譯がわかれば仲よく暮せるつちいもんぢやねえか」
「檢査濟まねえうちはどうしたつて貰あわえから駄目だよ」
四つ又もどうせ駄目とは思つてもいふだけのことは云つて見ようといふ譯なんだが然しかう出ては槍が降つても迚ても駄目だ。四つ又もそれは知つて居る。
兼次の家の庭には垣根について栗の大木がある。松と松との間にあるので枝が一方庭の方へばかり延び出して垂れ下つて居る。房の如く長い花が一杯に白く咲いて居る。白い毛の生えた大きな毛蟲が葉をくつて枝の先にくつゝいて居る。栗毛蟲は構はずに置けばみんな葉を骨ばかりにしてしまふ。兼次の兄の太一が毎日長い竹竿で其栗毛蟲を落して居る。栗毛蟲は強くしがみついて容易に離れないのを太一は氣長に叩いて落ちたのを足で踏み潰す。太一は此を近來の役目のやうにして飽きもせずにやつて居る。兼次には男の兄弟が三人もあつたのだ。一人は十になるかならぬで鬼怒川で溺死をした。其次は此の太一である。此も十位の頃から癲癇になつた。病氣が屡起つてから彼は只ぼんやりとしてしまつた。病氣の起る間が遠ざかれば時としては木の根を掘りに行くこともあつたり一日かゝつて米の一臼位は舂くこともあるが、何處でぶつ倒れるか分らないので殊にお袋の心配は止む時がない。彼は人さへ見ればにや/\と笑つて居る。彼は不具な體でありながら年頃來てからは草刈の娘などに戲談をいふこともあるやうに成つた。娘等は往復共にいゝ慰み物にして太一にからかふ。此を見てつらいといつて涙をながすのはお袋である。こんな不幸な出來事から家の相續をする者は兼次より外には無くなつたのである。其大切な兼次が浮かれ出したのだから非常な打撃であるといはねばならぬ。それがおすがのお袋が指金で此間の晩も垣根の所にうろついて居たのはお袋がお安といふ女を連れて來て居たのだと思つて居るので親爺はもう心外で堪らぬのである。太一は五六日前に隣の五右衞門風呂で病氣が起つて踏板を踏み外して足のうらへ五十錢銀貨位の火膨れが出來たとかで變な歩きやうをしながら今日も落花と毛蟲の糞との散らばつた庭に立つて栗毛蟲を叩いて居る。彼はやがて其竹竿を入口の廂へ立て掛けてぼんやりと立つて此の掛合の後半を聞いた。さうして四つ又が持て餘して双方とも暫く無言であつた時に
「ヱヘヽヽヽヽ嫁さま貰つてやれ」
といつて脇を向きながらにや/\と笑つた。竈の前に心配相な顏をして茶を沸して居たお袋はたぎつた湯を急須にさして上り框へ持つて來た。さうして四つ又の前へ對して極り惡相にして
「太一、わりや默つてろ」
と叱りつけた。
「ヘヽヽおつかあ」
と太一は又にや/\と笑つた。親爺は噺の途中から顏がほとつて來て目の玉まで赤くなつて居る。四つ又は暫くたつて又
「そんぢやどうしても今は貰あねえんだな」
といつた。
「どうしてもおら駄目だよ」
返辭は淀みがない。
「檢査せえ濟めは嫁の世話しても怒るめえな」
念を押す。
「怒らねえとも」
簡單だ。
「ようし齒を拂つて云つたな。そん時はおすがこと世話すつかも知んねえかんな」
四つ又はこんなことで此場は手を引いた。此の表沙汰の掛合があつてから十日ばかり經つて兼次は親爺と一所に自分の家で働いて居た。卵屋は他人へ對しては恐ろしい意地も張りも強い人間であるが兼次がことゝなると大抵のことは忘れてしまふのである。四つ又は其所の呼吸を知つて居るので元の鞘へ收める役目は彼に丈は容易なことであつた。
五
おすがの家では又村の親族が聚つて智惠を絞つた。どうしても此は二人の間を離れさせるのが專一である。それにはおすがを隱すことだと博勞の伊作の考で村の親族の一人が引きとつた。唯の夜遊びでさへ村中押し歩くのだから兼次がおすがを嗅き出すのは牡犬が牝犬を搜すよりも速かであつた。おすがはそれから見習奉公といふ名義で隣村の大盡へ預けられた。然し兼次が其大盡の邸内へ忍び込んだのはおすがゞ行つた其日の晩であつた。其晩兼次はひどい目に逢つた。傭人等が豫め兼次の來ることを知つて主人へ窃に告げたのである。嚴重な主人は傭人に命じて庭の隅へ追ひつめさして捉へた。兼次は地べたへ手をついて謝罪つた。門の外へつき出されてほう/\の態で歸つて來た。娘と
「わしやどうしても思ひ切れましねえ」
と彼は斷乎としていひ放つのである。お内儀さんも成程と困つた。
「それ程ならさうとして私も心配してやらうがお前の親爺もあの通りで兵隊前は駄目だといふのだが、幸ひ檢査も濟んでお前も輜重輸卒と極つたのだからもう先が見えてるんだ。其時に成つてからなら嫁の相談も出來るしそれまでの所の辛抱だがどうしたものだ。長いやうでも一年足らずだ。さうしてどこにも障りのないやうにしたらどうだ」
兼次も此には少し我を折つた。
「それぢやわしも其積りで辛抱して働きませう」
「さうかさうして呉れゝば仲裁人の顏も立つし、親爺の心も解けるといふものだ。愈それと極まれば双方へ兼次が思ひ切つたと表面噺をして一先づ安心をさせるのだが、それには私が一應お前とおすがを逢はしてやるからそこで内實は決して心變りはしないといふ約束をしておくがいゝ。少し辛抱するうちには兵隊も濟むし其上でなら私らも共々心配をして屹度一緒にしてやるが、おすがゞ其間に辛抱が出來なけりやそれこそ夫婦になつても頼みに成らない女だから其時は未練はない筈だがどうだ兼次さうではないかい」
「さうでがす。なあに辛抱しらんねえやうな女ならわしうつちやつちめえまさあ」
「それでは私がお安を使つておすがを呼び出すやうにしてやるから其の時今いつたやうな手筈にしたがいゝ。其代り屹度辛抱をしなくつちや駄目だよ」
「辛抱するつて云つた日にやわしも屹庭辛抱して見せますから」
兼次は元氣よく家の仕事をして居た。其頃は土用に入つて間もないのであつたが畑の大豆は莢が急に膨れる。青々とした稻草の根元まで暑さがしみ透つて鰌が死ぬといふ位で、百姓は晝は裸に
「なんちい馬鹿だんべえなあ」
とお安はいま/\しがる。外の人々は腹が立つといふよりは呆れて物がいへなくなつた。
其うちに笑止しな出來事が起つた。祇園が過ぎてから十日ばかりたつてからである。或朝親爺は
「兼、今から仕度しろ、われ見てえなものはおらぢへは置けねえからどこへでもうつちやらなくつちやなんねえ、一緒に行け」
と親爺は兼次を連れて出た。お袋は餘りの突然なことにあとで獨りで泣いた。晝近くなつて兼次はひよつこり歸つて來た。どうしたのだと聞くと境街道へ連れられて二三里も行くと
「われがことはこゝでうつちやんだ。境へ行くなら此れ眞直だ」
といつて小遣錢をくれて放されたのだといふ。それで親爺の姿が林の角に隱れた時に自分は林傳ひに先廻りをして來たのだといつた。
お袋は仕方がないから暫く親類にでも厄介に成つて居ろといつて自分の巾着をはたいて兼次を出してやつた。親爺は晝過になつて歸つて來た。お袋は
「おら兼こと可愛いからあとで泣いたよ」
とつく/″\いつた。此のお袋が今日まで家内に風波を起さないのはおとなしく我慢をして居るからなので、嘗ては怨みがましいことをいつたことは無かつたのである。
六
此の事のあつてから幾らもたゝぬ内におすがの姿も村には見えなくなつた。兼次が連れ出してしまつたのである。能く/\聞いて見ると此もおすがのお袋が一つで旅費までやつたのだといふことだ。彼等は兼次の叔父が聟に行つて居る栃木の
「寒い思して態々
と四つ又は笑ひながらいふ。
「當てにもしねえ傭が出來ておれは此れだからうめえな」
と卵屋も相槌打つて勢よく然かもそろ/\と石臼をめぐす。暫くで蕎麥の糟は全く穴へ掻き込み畢つた。石臼は其儘幾つかごろ/\とめぐして此れで蕎麥挽はやめた。お袋は箱篩の手を止めて上り
「構はねえで篩つておくんなせえ」
と又四つ又はお袋へ挨拶する。
「篩ふなあしたでもえゝんでがすから」
とお袋は石臼臺の粉を桶へ移して筵を掛ける。親爺は裏戸口の風呂で暖まる。
「篦棒に寒い晩だなどうも」
と又四つ又は火鉢へ手を翳す。
「雪がちら/\して來たから寒い筈だ」
と卵屋は湯から出て土間で褌をしめながらいつた。さうして
「茶よりや蕎麥掻でも拵えろな、腹あつためるにや蕎麥掻の方がえゝや」
といふと
「蕎麥掻はえゝな、そんだが鰹節はなにか土佐節か」と四つ又は啄を容れる。
「へゝたえしたことをいふな、何處で聞いて來た」
「どこつておら土佐節でなくつちや喰つたことあねえんだ」
百姓の家に松魚節のあらう筈はないのである。四つ又はこんなことでそろ/\戲談から口火を切る。鐵瓶の湯が沸つたのでお袋は二つの茶碗へ箱篩から
「こら饂飩粉ぢやあねえかあんまり白えな」
「四つ又もちつと眼がチクになつたな。そりや一番粉で糟がへえらねえだ。甘かんべえ」
「うん、ずうつとかう喉からほか/\して來たな」
蕎麥掻の茶碗へ湯を注いで四つ又はふう/\吹きながら飮んで愈々噺を持ち出した。
「おれが云ふことはもう聞き飽きたんべ、おれも呆きれた。そんでも此んでも聞いてもらあなけれやあなんねえんだ」
「又兼が噺か、その噺ならしねえでもれえてえ」
「それだからおれが聞いてくろうつていふんだよ。おすがの腹がえかくなつて今落ち相になつて歸つて來たんだが、どうも此までとは違つてこんだあ捨てゝ置けねえこつたから向の親類でも困つてんだ。おすがも五六日こつち小便も近くなつたといふんだから今夜にもあぶねえんだ。それがうちへ寄せられねゝえんだから今出來る子供の産す場所がねえ譯なんだ。此所のところはまあどうしたもんだな」
「どうするつておら駄目だよ」
「まあようく
「趣意なんざあ文久錢一文でもおら出せねえよ。向で欲しけりやおら兼の野郎呉れつちやつて構あねえ。おら相續人なんざあ外から養子したつてえゝと思つてんだ。おら旦那にいはれたつて聽かねえから駄目だ。旦那に怒られて村に居られなくなりや居らねえたつて構はねえんだから」
「酷くわからねえんだな」
遉の四つ又も逐にはむつとしてかういつた。卵屋はもう目の玉まで火のやうに赤く成つて居る。
「そりやおれ惡るかんべえ。惡くつたておらさうかたあ云はねんだから、どうぞおれげは其の噺はしねえでくろ」
といひながら火鉢の向へごろりと轉がつて何とも返辭をしない。胸には激しい動悸が打つて居る。豆ランプの薄闇い光が其燃えるやうな顏をてらして居る。四つ又は手持不沙汰にして居たがやがて裏戸口から小便に出る。雪はいつの間にか地上一杯に白くなつて外は薄明くなつて居る。厩の側には落葉が堆く積んであつて其上にも雪がさら/\と微かな音をさせて白く積りつゝある。馬は人の近づいたのを見てがさ/\と敷き込んである落葉を踏みつけながらフヽフヽと懷しげに鼻を鳴らして
「どうぞ惡く思はねえでおくんなせえ。本當にいつでもあゝだから困んだよ」
「思はねえにもなんにも、ありや癖だから」
「そんぢやえゝがなあ」
といつてお袋は少し躊躇して
「さうとあの兼は煩ひでもした樣子はあんめえかねえ」
「なあに眞ツ膨れに肥えて來たからなんにも苦勞することはねえよ」
「おらあまあ獨りで心配なんだよ。眠つても眠れねえことがとろつ
「困つたもんだよ本當に」
四つ又は火鉢の前へもどる。さうして
「ツアヽ」
と一聲大きくいつて
「おれも三春へ行つて見てえ積だが、こんだ行く時にや一緒にすべえぢやねえか。豚も醤油粕が高くつて困つてる所へ四掛や五掛の相場ぢや割に合はねえからな」
かういふと卵屋はむつくり起き上つた。
「本當に行くんぢやあんめえ」
「本當だともよ、駒なら草だの藁だのばかし喰はせてみつしら使つて二三年もたてばたえしたもんだな」
「四つ又でも三春へ行つちや目うつりして買ひめえと思ふんだ」
「戲談いつてらそんなことにやおくせは取らねえんだぞおらなんざあ」
「あぶねえな、豚の手にやいかねえから見ろよ」
噺はいつか賑かになつてさつきの不機嫌もどこかへ行つてしまつた。
「それぢやどうしても兼こたあうつちやんだな。おら今夜はどうでもかうでもうんと云はせべえと思つたんだが
「兼が一人で歸るならおら今が今でもゝどすよ」
「うんさうかわかつた」
こんなことで此場は濁したが四つ又もおすがの身の振方には困つた。博勞の伊作とも相談をする。兎に角急場凌ぎの策をとらなくては成らぬことに差迫つた。其頃仙右衞門とは道一重向隣の綽名を松山といはれて居た家があつた。何か事情があつて家族を連れて他へ移住をすることに成つて家から持地からおすがの兄貴に賣つて立ち退いた。その空家で産をさせるのが妙案だといふので兄貴へ渡りをつける。ところがなか/\承知しない。ごつたすつたやつてたうとうそれぢや自分等へ少しのうち其家を貸してくれろといふのでやつとのこと納得をさせておすがを松山の家へ入れた。仙右衞門も近所の義理で澁々おすがを厄介して居たのだから重荷を卸したやうな心持がした。四つ又もあとはどうでも先づ目先の才覺が首尾よく運んだのでほつと息をついた。
七
おすがは女の子を産んだ。他には介抱の仕手もないので、お袋が公然朝から晩までつめ切つて世話をする。嫂も行つて粥でも煮てやるといふわけで、有繋に兄貴も見て居られぬといふことになつた。四つ又の策略はすつかり其圖に當つた。おすがのもとへは兼次もいつか入りこんだ。さうして松山から買つた畑を讓つてもらつて自分の喰ふだけの働きをすることにまでなつた。赤子は笑ふやうになつた。只さへ少し愚圖なお袋は、もう可愛くて迚ても手放すことが出來なくなつて、二人が仕事に畑へ出れば自分は子守をして居る。赤子が泣けば畑へ抱いて行つて乳を飮せる。おすがの兄貴も忙しい仕事の時には兼次を連れて來て働かせるといふやうに成つた。雙方の間は理窟なしに睦ましいのである。斯くして時日は經過した。然し時としては村で口の惡いものは
「兄貴も餘まり構はねえから仕やうがねえ。どうも兼次をあすこへ入れて置くといふのは卵屋の顏を踏みつぶすやうなものだ。あれぢや仲人が幾ら立つても噺の屆かねえな無理もねえ筈だ」
と噂さをすることはある。旦那のお内儀さんも或時四つ又に向つて
「あの兼次が一件だがね。お前方の指圖で松山のうちへ入れたんだ相だがどうもあれが卵屋では心外に思つてるらしいんだがね。此はお前方にも不似合な計らひだと思ふやうだがまあ一體どうした譯なんだね」
「どうもさういはれるとわし等は誠に惡い者に成る譯なんですが、あの時は全く今夜にもあぶねえといふ腹なんですから始末に困つて一先づまあさうしたんです。卵屋は兼次がことは全くの處呑んででもしまひてえ程可愛いんですがわし等がいふことを聽くとおすが等が方に負けたことになるといふ意地づくなんですから仕やうがねえんです。意地づくでは死んでも負けられねえといふんですからね。それ程可愛い息子のことなら諦めがつき相なものですが息子は可愛いし先は憎いしで理窟をいはれゝばごろつと寢てしまあんですからわしも手古摺つたんですよ。初めは兵隊が濟めば嫁を世話しても苦情はねえことに念はついたんでしたが今ぢや餘ンまりこゞらけたんで云ひ出すことも出來ねえんです」
四つ又は頭を掻きながらかういふのである。此も無理のない理窟だ。おすがのお袋の料簡を聞いて見ると此は單純なものだ。
「四つ又へ頼んでおくんですから何とかして呉れんでせうが本當に困つたもんでさどうも」
こんなことに過ぎない。
「赤んぼはそれでも丈夫かい」
といふと
「へえ兼によく似てまさ」
平氣でいつて居る。おすがの親爺に此ことを話すと
「世間は
こんなことで濟んでるなら人が共々心配をする必要はないのである。それから兄貴へ
「あの一件も困つたものだな」
といふと
「困つたものですよ」
といふから
「お前もあゝして二人を引きつけて置くのでは迚ても埓明きやうはないからお前もおすがを捨てることにしてそれで他から拾ふといふことにしたらどうにか示談が出來相なものだと思ふがどう考へて居る」
斯ういふと
「わしは決してうちへは寄せねえといつたんでがす。實は松山のうちへわしが夜は泊りに行き/\したんですが、毎晩も行つてらんねえから時々お袋等が泊りに行くこともあつたんでがす。さうするとお袋なもんですからおすがも孤鼠々々はひり込むやうに成つたんでさ。それでもはじめはわしこと見ると遁げたんですから。兼次もわしに捉まつた時二度と決して足踏はしませんて證文張つたんでがす。わし今でもちやんと持つてまさあ。そんだからわしはうつちやつた譯なんでがす」
「いやうつちやつた譯でも二人のことをお前の家へ仕事に使つたりして居るのでは駄目ぢやないか」といふと
「忙しい時はほかゝら手もねえもんでがすからね」
どれを叩いてもちつとも要領を得ない。
おすがは自分の思つた男とお袋の膝もとに居るのだからちつとも心に苦勞がない。兼次も好いた女と世帶を持つて女の家の貢ぎをうけて居るのだからこれも苦勞はない筈だが只親爺が出逢がしらに短氣を起しはせないかといふ懸念があるばかりであつた。それも今では安心が出來た。或日のことである。田甫でばつたり親爺にでつかはした。親爺は手織木綿の小ざつぱりした絆纏を着て首へ風呂敷包を括つて居た。兼次はぎよつとした。それでもこちらから
「ツア、何處へ行く」
と言葉を掛けたら親爺は微笑しながら
「うん、絲染めによ」
といつてすた/\行つてしまつた。かういふ間に始終ひとりで氣を揉んで居るのは兼次のお袋である。親爺が短氣を出すから少しも喙を容れずに我慢して居る。相手になるのは癲癇持の不具者ばかりである。一目見たい孫も表向き抱いて見ることも出來ない。人に頼んで兼次へ衣物をやつたり汁の身の葱や大根をやる位に過ぎぬ。
「おら一日でも思ひ晴々としたことはねえんだよ」
と十九夜講で女房達の落合つた時には遂ひ洩れることがあるのである。
「おらまあほんにあれがこつちや「ツアヽ」に隱してなんぼ足袋刺してやつたか知んねえんだよ。氷つた所をぢよりゝ/\押し歩いちやあ足袋も草履も一晩しか持たねえんだよ」
聽き手があればしみ/″\とこぼした。村の同情は此のお袋の一身に集つた。事件の推移はこんな風で卵屋が業を煮やすことのある外表面甚だ平靜のうちに時日が經過して行く。
世間は復た春が蘇生つた。鬼怒川の土手の篠の上には白帆を一杯に孕んで高瀬船が頻りにのぼる。船頭は胡座をかいた儘時々舵へ手を掛けただけで船は舳がぢやぶ/\と水に逆つてのぼつて行く。冬の辛さがこゝで一度に取り返されるので此の南風の味を占めては迚ても職業がやめられぬといふ時節である。篠の中には
短い日は村の林の梢に棚引いた土手のやうな夕雲に眞倒に落ちつゝある。横にさす光は麥の葉をかすつて赭い櫟の林が一しきり輝いた。畑のへりの茶の木の花は白々と光を帶びて居る。筑波山は見る/\濃い紫に染まつて來た。秋の末の晩稻を刈る頃から夕日のさし加減で筑波山は形容し難い美しい紫を染め出す。百姓に聞いて見れば嘗てそんな筑波山は知らぬといふ。知らぬといふのは尤ものことである。日が落ちて殘

「それ/\うんと
といふ聲がして車が急に輕くなつた。坂の上で振り返つて見たら芋俵を馬に積んで來た兼次の親爺が持つて居た手綱を放して後押してくれたのである。
「誰だと思つたら「ツアヽ」か」
と兼次は心の底から嬉し相にいつた。馬は獨りで勢よく右の方へぱか/\と走つて行く。親爺は馬のあとから駈けて行く。兼次は腰をくの字に屈めながら足に力を入れて左へ曳いて行く。村の竹藪から昇つた青い煙は畑の百姓を迎ひにでも出たやうに幾筋も棚引いて田甫から岡まで屆かうとして居る。其時黄昏の中を百姓は田甫から相前後して歸つて來る。何處ともなく鴫がきゝと鳴いて去つた。百姓の後姿を村の中へ押し込んでやがて夜の手は田甫から畑からさうして天地の間を掩うた。
(明治四十一年三月一日發行、ホトトギス 第十一卷第六號所載)