炭坑の
斜坑は、動物の通路を第一の目的として掘られたものであろう。炭坑に蒸気機関や電動機の採用されていなかったころ、人間の肩や背の他には、馬が一切の労働力を供給していたのだから。炭坑に機械力が這入って来てから、馬は、次第に
青は鉱山主の温情主義から、
「青! なんとしたことだい。青! 少し元気出せよ。ほう! ほう! ほら!」
坑夫達はそんな風に言って、そこを通りかかる
「青! 本当にお前はどうしたのよ。おう? 元気がなくなったなあ。青! ああ、俺の飯が残っているから、お前に少しやろう。」
併し青は、坑夫達がそうしてくれる飯も、ほんの少しきり食わなかった。それも、一度口の中に入れたものを、思い出したようにしては
青は本当に生きているのか死んでいるのかわからなかった。それは
「俺達も、年を取れば、青のようになるんだろうなあ。青! 俺達も今にこの
「それはそうよ。人間も馬も変わりがあるもんじゃねえ。なあ青!」
坑夫達はいつもそんなことを言うのであった。
*
青が養われている場所には、夜になると、若い働き盛りの馬が二三匹
若い馬は、ぴしりっぴしりっと尾を振った。
青は、この若い馬を見ることで、過去の記憶の中に置き忘れて来た感覚の幾分かを、そこに取り戻して来るような様子だった。そんなとき、青の耳は、
*
炭坑にはストライキが始まっていた。坑内に働いている人達が、青のようになりたくないための運動であった。坑内からは、総ての労働者が、地上に引き上げて行くことになった。若い働き盛りの馬達は、その前に、鉱山主によって、坑の外へ引き出されていた。
併しどうしたのか、青だけは、そのままそこに残されていた。
坑夫達は、今、坑の中から引き上げて行きながら、青の前に通りかかって、足を
「青! お前だって、生きているんだもの、何も食わずに、何も飲まずに、幾日も生きているってわけには行くめえ。」
「いくら馬だからって、随分ひどいことをするもんだなあ。これが人間のように口のきけるもんなら、黙ってはいめえ。なあ。」
「おい! 引き出して行ってやろうじゃないか?」
誰かが力をこめて言った。
坑夫の一人は、青の首に、自分の帯を投げかけた。そして青は、坑夫達の一群の背後に、全く力のない足どりでよろよろと引かれて行った。それは、
「青! 後から押してやろうか?」
或る者はそう言って、青の背後から、両手をかけて押し上げたりした。併し青は、その人間を
「おい! 青の頭から、何か
古参の坑夫が注意した。若い坑夫は
*
地上には初夏の陽光がぎらぎらと降り注いでいた。眼を射るような光線だった。
炭坑事務所から二十間ばかり離れて、三四本の大きな
青はすると、坑夫の手に引かれていたにもかかわらず、立ち停まった。
「青! なんだって停まるんだい? 青! 青!」
併し青は歩かなかった。最早、青は今までの青では無くなっていた。首を上げ、耳を
そのとき、榎の下から、また、馬が嘶いた。その次の瞬間、青は、坑夫の手から
「馬鹿野郎! 誰だあ? 青を引っ張り出して来たのあ? 気違いになるのきまっているじゃないか?」
誰かが事務所の方から怒鳴った。青はその辺を滅茶苦茶に駈け廻って、榎の下に嘶いている馬達を、探そうとしているのだった。
(附記)長い間を坑内に封じていた馬を、地上の明るい世界に引き出せば、すぐ死んでしまうか、気違いになってしまうそうである。またクロポトキンは「相互扶助論」の中で、シベリヤの野に放牧されている馬が、嵐に襲 われると、谷底の何処 かへ、申し合わせたように、一カ所へ一緒になるものであることを言っている。
||昭和六年(一九三一年)『新青年』七月号||