一
お婆さんはもう我慢がしきれなくなって来た。けれども彼女は、しばらくの間を薄い
襤褸布団の中で、ただ、もじもじしていた。
厚い板戸を隔てた台所の
囲炉裏端では、誰か客があるらしく、しきりと太い話し声がやりとりされている。折々大きな笑い声も洩れて来る。
慥かに誰かが来ているらしい。お婆さんは布団からそおうっと顔を出して見た。併しお婆さんは、また
躊躇した。そして室の中を見廻した。
室の中にも晩秋の
寂寥は感じられた。障子の上には、二尺ぐらいの高さのところまで、かんかんと
陽があたっている。死に残った四五匹の蠅が、陽のあたった白い部分で、ぶぶうっと紙に突きあたっている。ところどころの、破れて垂れ下がった紙の上には、薄黒く埃が溜まっていた。
台所の囲炉裏端からは、再び大きな笑いの声が起こった。
「本当、豆でも買って、まめになんねえで、どうもこうも
······」
ひどく
嗄れた、老人らしい声であった。
「ほんでえ、
俺家の
婆様にも豆買いでもさせんべかな。」とお婆さんの
伜の治助は笑いながら言った。
「
此方の家の
婆様なんか、何が
······りっきとした息子があんのに。」
老人らしい声は、語調を
力めて言った。
慥かに誰かが来ている。
||とお婆さんは思った。そう思った瞬間、客があるという意識で、お婆さんは小児のような心理状態に置かれた。
「松! 松! 松はいねえがあ?」
お婆さんは、
咽喉に引っ掛かるような声を
搾って、二番目の孫娘を呼んだ。併し、それにはなんの答えもなかった。
「松! 水一杯呑ませで
呉ろちゃ。」と、お婆さんは続けた。そして咽喉をごくりと言わせた。
やはり、なんの答えも返っては来なかった。一時
杜絶えた囲炉裏端の話し声は、再びひそひそと続けられているらしかった。お婆さんは、青い静脈の浮いている
瞼を静かに閉じた。そして唇を動かした。また咽喉がごくりと鳴った。
「駄目だ駄目だ。水なんか呑ませじゃ駄目だ。婆様は水を呑ませっとすんぐに寝小便だから
······」
こう言っている声を、たしかにそう言っている声をお婆さんは聞いたように思った。
蒼白い
瞼の
陰には、いろいろな場面が
繰り
展げられた。六十幾年間の自分自身の苦闘の姿であった。そこには、寝小便ばかりではない。食事最中にまで、自分の
懐で
糞をした伜や孫がいた。そして、一旦老衰の床に就くと、一杯の水さえ自由に与えられない自分自身の姿が、自分の瞼の裏に描かれていた。
障子の上で、ぶぶうっと紙に突き当たっていた蠅が一匹、お婆さんの瞼へ来てとまった。お婆さんは閉じたままの瞼をひくひくと微動させた。蠅はすぐに飛び去った。
睫毛の間には、小粒の
涙滴が、一列に
繁叩き出された。
二
お美代が
土瓶と飯茶碗とを持ってはいって来た。足音でお婆さんは布団の襟に眼をこすりつけた。
「
婆さん、ほら、水持って来したで。」
「うむ、水!
||どうも眼が
霞んで。」
お婆さんは口まであけて、
顎をこすりつけているように、顔を布団に埋めながら低い声で言った。
「あ、お美代が? 今朝来たのが?」
「うむ、今朝。」と、うなずきながら、お美代は茶碗に水を注ぎ満たした。
「
大変まだ早ぐ来たで。
||どんな風だ大崎の方は? 仕事の早い処だぢ、
田畑の仕事は片付いてしまったがあ。」
お婆さんは静かに寝がえりながら、低い消え入るような声で吐切れ吐切れに言った。お美代は茶碗を取ってお婆さんの方へ出した。お婆さんは布団の中から、痩せた青筋の
節くれだった大きな手を出したが、手はなかなか伸びそうもない。手よりも先に、
頤の方が出て行った。
「なんだけえ、まず、お美代。
汝の手は
······」
お婆さんは、ごくりごくりと
咽喉を鳴らしながら水を呑んだ。お美代はすぐに眼を伏せて、膝の上の自分の手を見た。
玄い肌には一面の赤い
皸だった。
節々は、
垢切に捲かれた膏薬で折り曲げもならぬほどであった。
「
新田の方はそんなに仕事がひどえのがあ、お美代。
||新田さ嫁に行ぐが、
鉈で顔剃らせるが
||って話は聞いでいだげっとも。」
「なじょして、この
辺の男達よりも、もっと荒仕事しさせられんのだもの、新田の方では。」
「女の仕事の荒いの、新田のようだって言ってるぐらいだから
······」
お婆さんは、また枕に頭を横たえた。電話口へ耳をあてるようにして。
「おらは、どこさも行がねえもは、婆さん。一生家にいで、
独身で、叔母様ではあ、この家にいで稼いで助けるもは。おら、どこさも行がねは。」
「うむ? それさな。
||やっぱり、新田さ行ぐより、町さ行った方がよがったがな。」
お婆さんは、自分がこの老衰の床に就く一月ほど前、町の方へ嫁に行くことに話が
纒まりかけていたお美代を、無理矢理に新田へ、土地の
素封家だと言うことだけで、いろいろと口説き落とした自分であったことを、ぼんやり思い出した。
「やっぱり、町さ行った方がよがったがな。財産など、なんぼあったところで、お墓の中さまで持ってがれるもんでねえし
······」とお婆さんの話は、なんだか自分のことを言っているようでもあった。
お美代は前掛けの端を噛んでいた。そして、その前掛けで折々眼を押さえた。
「俺も、
若え時、牛馬のように
||やっぱり、町の方さでも片付けば
······」
「町さもどこさも、おらどこさも、一生どこさも行かねえは、
婆さん。」
お美代は到頭、両手で
掩うた顔を、お婆さんの布団の端に伏せた。やがて
欷り
泣きは、声にまでなって来た。
三
「こっちの
婆様も、弱ってるぢでねえが?」
声と一緒に、外から障子を引き開けたのは、豆腐を売って歩く弥平爺だった。お婆さんはすぐ眼をあけたが、太陽の光線を受けて
眼叩きを繰り返した。寝た位置がよかったので、ちょうど障子の間から出した顔と対していた。
「なんだ婆様、ひどく弱ったでねえが
······」
弥平は、
頬骨の突き出た白髪の頭をお婆さん方へ寄せた。けれども、お婆さんは、
眩しそうに眼を開いたまま何も答えなかった。
「
婆さん、弥平
爺様だ。豆腐屋の弥平爺様だ。」
お美代は布団を軽く叩いてやりながら言った。お美代の顔には血の気がいっぱい上がっていた。
「
眩しいんだ。眩しいんだ。」と弥平爺は、自分の顔でお婆さんの顔へ日蔭をつくった。
「うむ。珍しい人が来なしたで
······」
お婆さんは、遠い遠い昔の記憶を呼び起こすようにして、頬の上に微かな笑いの線をうごめかした。
「それさな。こっちの家の姉様が、こんなに大っきくなって、
嫁御に行ってるぢのだがら。」
「仙台の方さ行って、
大変儲けだぢ話聞いだっけ
······」
「なあにな。俺もな婆様、ひでえ
長患いしてしまって、儲げだ銭どこでなぐ使ってな。」
「ほうお、爺様も
患ったのがね。俺もこれ、この
大っき孫、嫁にやってがら、こうして床に就いたきりで
······」とお婆さんは眼を閉じた。
「それに爺様も亡くなったぢね? こっちの爺様は面白い人でなあ。爺様に、頭の髪さ赤い
布片でも縛って、少しの間、
廉ぐ売って歩いで見ろ
||って言われたごとあったが、俺なあ婆様、そうして見だのしゃ。ほうしたら、売れで売れで、凍り豆腐は、あの爺様のでねえげ駄目だぢ評判で、随分儲げだのだげっとも
······長患いして、残した銭も、しっかり使ってしまって、またこうしてこれ
······」
弥平爺は、声を低くして哀れっぽい調子に語尾を引いた。
「ほんでも、まだ丈夫になったようですてや。丈夫で何よりだ。」
お婆さんは、また眼を開けて弥平爺の顔を見た。
「さっきの話であ、おめえ、頭の髪も、髪さ結び付けた赤い
布片も皆鼠に喰われでしまって、ほんで駄目なったのだ
||って話だっけ
······」
お美代は、囲炉裏端で弥平が、人を笑わせ自分も笑おうという意識で話したこの話を思い出して、手で口を掩うて笑った。
「そう言うごとにでもしねえげ
······」と弥平は、淋しい笑いを笑おうとした。併しそれは、笑いにはならずに、僅かに口辺の線が
歪められたきりであった。
三人とも口を
緘じられた。どしんと大きな沈黙を横たえられた感じだった。お婆さんは眼を開いて弥平の
老い
窶れた淋しい顔に視線を据えていたが、それも長くは続かなかった。すぐまた眼を閉じてしまった。
「さあ、俺もそろそろ
帰るとするがな。」
弥平爺は、しばらくの沈黙の後、腹掛けの
丼を探りながら言った。そして、
鞣革の大きな財布を取り出した。
「婆様、さあ、これで何が味っぽいものでも
||爺の病気見舞だ。」
弥平爺は、五銭白銅貨を二三枚お婆さんの枕元へ
撰り出した。
「あ、爺様や、こんなごどしねえだって。」
「ほんとに少しばりだげっとも。
||ほう、かれこれ
正午だ。どうも日が短けくて。」
「まるで、馬の
手綱のような
······」とお美代は、弥平爺の財布の
紐の太いのを笑った。
障子を押し開いて、お美代は縁側に弥平爺を見送った。お婆さんは、額縁に
嵌められた風景画のような秋色の一隅を、ぼんやりと、
潤んだ眼に映していた。
「ね、おめえも、早く
帰んでえすぞ。俺も
若え時、
婿に行ったどこ逃げ出した罰で、今になってこれ
······」
庭先で弥平爺は、こう、お美代に言っていた。
「なんぼ貧乏しても、田作る百姓、飯だけ喰えんだから。ね、早く帰って、
辛えくっても、
辛くて死ぬようなごとねえんだから、悪いごど言わねえ、辛抱していんでえす。」
弥平爺は、この言葉を、お美代のために言い残して帰って行った。併し、この言葉は、お婆さんも遠い昔の記憶の上に、現実とかけはなれた不思議な
韻で聞き返すことが出来た。
四
その晩、お美代が隣の風呂から帰って来た時、お婆さんは雨戸を
繰り
開けて、縁側に
蹲んでいた。月光に濡れて、お婆さんの顔はなお、
一入蒼白かった。
「そんなところで、何しているの?
婆さんは。」
お美代は、雨戸に手をかけてその後ろに立った。
「柿の葉も、皆落ちでしまったなは。」
お美代も、お婆さんと一緒に戸外の景色を眺めた。
||実をもぎ取られた柿の樹は、その葉も大方振り落として、黒い枝が奇怪なくねりを大空に拡げていた。柿の樹の下に並んだ
稲鳰の上に、落ち散った柿の葉が、きらきらと月光を照り返している。桐の葉や桑の葉は、微風さえ無い
寂寞の中に、はらはらと枝をはなれている。遠くの木立ちは、すべて
仄黒く、煙りだっていた。そして、丘裾の部落部落を、深い
靄が
立ち
罩めていた。
「婆さん。
風邪引ぐど大変だから。」
お美代は、いつまでも戸外の風景に眼を据えているお婆さんを
促した。
「うむ。
||今年は、
稲鳰、六つあげだようだな。小作米出した残りで、
来春までは食うにいがんべな。」
「鳰一つがら、五俵ずつ
穫れでも
······婆さん、そんな心配までしねえだって。さあ、風邪引ぐがら。」
「うむ。小便しさ起ぎだのだげっとも、動がれなくなったはあ。
||俺、米の無くならねえうぢに死にでぇんだ
······」
「そんなごと言って、まだ死んでられめちゃ、婆さん。」
お美代は、
蹲んでいるお婆さんを、後ろから、室の中に抱き入れた。
床の中は冷たくなっていた。夜の冷気は
犇々と身に迫って来た。お婆さんは、両足を
縮めて、小さくなって見たが、やはりぞくぞくするばかりであった。だが、寝床の中で震えながらも三十分間ばかり我慢して見た。
併し、お婆さんは、いつまで経っても、もう寝床に親しむことが出来なかった。このまま凍り付いてしまいそうにさえ思われた。
「松! 松! 松やあ!」
お婆さんは、お美代を起こす気にはなれなかった。
「松やあ! お湯わかして呑ませで
呉ろ。」
併し、誰も返事をしてくれるものは無かった。お婆さんはまた自分の寝小便を思い出した。眼だけが温かくなって来た。
しばらくすると、誰か
囲炉裏の方へ起きて行く気配がした。お婆さんは耳を澄ました。足音は戸外へ出て行った。ごくりと唾を
嚥み
下して、お婆さんは出来るだけ小さく身を縮めた。
静寂な闇の中に、やがてハリハリと杉の枯れ葉の燃える音がした。続いて枯れ柴のパチパチと燃え上がる音がして来た。
「
婆さん、今すぐわぐがらね。」
お美代が、自分の家で
拵えた粗末な燭台を手にして
這入って来た。お婆さんは、感謝の念だけで口がきけなかった。その灰色にまで
垢染みた枕は、ぐっしょり濡れていた。
「なんだけな婆さんは、枕、こんなに濡らして
······」
お美代はこう言って、お婆さんの白髪頭を持ち上げ、濡れた枕を裏返しにしてやった。
「すぐわぐがら
······」
お美代はすぐ囲炉裏端へ引き返した。
台所で器物を探す音がしばらくしていた。そしてお美代の持って来た茶碗の中には、その底にぽっつり味噌が入っていた。
「味噌湯の方、
身体温まっていがんべから
······」
お婆さんは床の上に起きかえって、茶碗を、両手で捧げるような手付きで、フウフウと吹きさましながら、続けて二杯も呑んだ。
「ああ、
美味がった。
甦えったようだちゃ。身体も
温まって
······」
「ほんでは、これでいいが婆さん。」
お美代は、持ち上げられて隙間の出来た布団を、上から押し付けてやった。
「死んでも忘れねえぞ、お美代。」
「寒ぐねえが、婆さん。」
「なあ、お美代、大崎さは行ぐなよ。なんでもいいから、楽の出来っとごさ行げ。俺死ぬ時、
汝は、町場さ嫁にやるように
遺言して死ぬがら
······」
「俺、大崎など、死んでも行がねえ。婆さんは、まだ枕こんなに濡らして。」
お婆さんの枕は、またぐっしょりになっていた。お美代は自分の手拭いを四つに折って敷いてやった。彼女の眼にも熱いものが湧いて来た。
低声の会話の中に、鼠の走る音と、家人の
鼾の音とが折々はさまれていた。
五
感激が
祟って、お婆さんは夜明けまで興奮し続けた。うつらうつらとまどろみかけたのは、それからであった。
「ナア! ナア!」いう細い消え入るような声で、眼が覚めた時には、短い日はもう十時を廻っていた。
枕元には、いま障子の破れ穴から飛び込んで来た三毛が、ぶるぶるっと
毛繕いして、ものほしそうに鳴いていた。猫の鼻先には、
粥の土鍋と梅干の器物が置かれてあった。廊下の
日向には、善三が、猫の午睡所を占領していた。
「善三があ? 善三。」
お婆さんは、低い
嗄れた声で、障子にうつる影に呼びかけた。
善三は、青い
篠竹を三本切って来て、何か
拵えようとしているのであった。昨日の午後、お婆さんから蜜柑を買って来るように言い付かって、五銭白銅を二枚持って出て行ったきり、そのままお婆さんのところへ寄り付かなかったのであったが、もうそのことも忘れているらしかった。
「昨日な頼んだ蜜柑はやあ? 善三。」
「蜜柑、どこにも、
無がった。」
「蜜柑が無がったあ? ほして、銭はやあ?」
「蜜柑が無がったがら、俺、
飴玉買った。」
「
咽喉渇いて仕様ねえがら、蜜柑買わせっさやったのに、飴玉など買って
······ほして、その飴玉はやあ?
汝あ、一人で食ってしまったのがあ?」
お婆さんは、
粥鍋の方へ行こうとする三毛の足を引っ張りながら、ぶつぶつとこぼした。
「一人で
食ねえちゃ。貞ど菊さもやったちゃ。」
「この野郎は、ほうに、仕様のねえ野郎だ。」
その言葉の中には、幾分の愛情が
籠められていた。
「ほだって、蜜柑が
無えもの
······」
善三は、一生懸命に竹を削りながら、ずるずるっと
洟をすすりあげた。
「ほんじゃ、水持って来て呑ませろ。蜜柑買って来ねえ代わりに。」
「
厭んだ。
父に怒られっから厭んだ。」
「ほんとに、この野郎まで、なんとしたごったやなあ!
······」
お婆さんの言葉には、悲壮、というような
余韻があった。
「お美代姉はやあ? 善三。」
しばらくしてから、お婆さんは言った。
「今朝早ぐ、
父と一緒に、大崎さ行ったは。」
「大崎さ? まだ行ったのが?」
お婆さんの顔には、悲哀の表情が浮かんだ。悲哀というよりも、むしろ悲壮といいたい表情、歯を喰いしばるようにして眼を閉じたのであった。
瞼がひくひくと微動していた。
「美代姉は、
厭んだって言ったの、
父、行がねえごったら、
首さ、縄つけでも
連せで行ぐどて。お美代姉、泣いでいだけ。」
お婆さんは眼を閉じたまま、なんにも答えなかった。そして、しばらくしてから、
独り
言に
呟いた。
「あのがきも、生きでるうぢは、楽など出来めえ、牛馬のように
······」
言葉は、涙に
遮られて、低く語尾を引いた。
こうは言ったが、お婆さんは、お美代の身の上を哀れに思うよりも、お美代を失った自分の身の、死期までの寂しさ、すべての不自由を思わずにはいられなかった。
||昭和二年(一九二七年)『随筆』二月号||