自分は一昨年の秋から、昨年の十月に懸け、一年間餘歐洲諸國を遊歴し、其傍巴里・倫敦・伯林・聖彼得堡等の國都で、先般燉煌及支那の西陲から發見されて、一時斯學界を賑はした、漢代の木簡、及び

佛國 公平にいつて、將來はいざ知らず、過去及現在に於いて、支那學の最も盛んなるは佛國であらうと思ふ。尤獨逸でも、伯林大學に『デ・ホロート教授』(Prof. Dr. De Groot)大學附屬東洋語學校支那語科に『フヲルケ教授』(Prof.Dr.Forke)ハムブルグ殖民學院に『フランケ教授』(Prof. Dr. Franke)ライプチヒ大學にドクロル・コンラデ(Dr. Conrady)氏等あつて熱心に研究をやつて居り、又彼得堡大學にも昨年正教授に榮陞したイワノフ(Prof. Dr. Ivanow)や助教授アレキシエーフ(Alexief)など少壯有爲の人達が居て、將來歐洲に於ける支那學は、種々の點より露獨兩國が他國を凌駕するやうにならぬとも限らぬと思ふが、兎も角今日までの處では、佛國が斯學に於て覇權を握つて居る。それは如何なる理由かといふに、必竟歐洲に於て佛國人が最も早く支那の文學宗教言語の研究をやつた、佛國が支那學研究の最も古き歴史を有するからである。其一例として歐洲諸國の大學で、支那學の講座を一番先きに置いたのは、何處かといふに、自分の寡聞を以てすると、彼のコルレヂ・ド・フランスでアベル・レミュサ(Abel R

話が岐路に入る虞はあるが、序に歐洲に於ける支那學の起源に就いて申述べたい。抑歐洲人が歐洲に於いて出版した著書中に支那文字の



(大正三年二月、藝文第五年第二號)
(一)Abel R
musat.M
langes Asiatiques.Tome.II.P.1


(二)Henri Cordier.Half a decade of Chinese Studies(1886-1891)
(三)Ditto
(四)イワノフ氏が予に與へたる書翰
(五)Henri Cordier,Notes pour servir a l'Histoire des
tudes chinoises en Europe(Nouveaux M
langes Orientaux 1886 p.400以下)


前に述べた如く、支那人の祖先崇拜につき、『ゼシュイット派』の僧侶は單に典禮儀式に過ぎないもので、宗教的の性質はないといひ、一方『ドミニカン』『フランチスカン派』では宗教的のものであるから、之を教民に許すべからずといひ、互に激烈な爭議があつた。其結果として、『ゼシュイット派』から代表者を選び、羅馬法皇廳に赴き、同會がとり來つた態度につき辯明をさせたが、其任に當つたものは Martino Martini(漢名衞匡國[#改行]1614-1661)といつて當時有名な支那通であつた。彼は支那布教中、眞主靈性理證、述友篇などいふ漢文の著述もあり、支那の歴史文學に關して餘程智識を持つて居たらしい。其人が今申した理由で、歐洲へ派遣されたが、其滯歐中に彼の著述たる支那地圖(Atlas Sinensis)が、『アムステルダム』市の書坊で出版され、それが幾ならずして、歐洲の諸國語に飜譯されたが、此書こそ歐洲に於いて刊行された支那に關する最初の地理書となつて居る。又當時歐洲に於て支那に關する興味が漸く起りかけて居たので、彼れは到處種々支那の事情について質問を受けたと見え、支那に於ける天主教徒の現状や、また彼自身の目撃した明朝滅亡の有樣につき各々一書を著はした。後者は即ちかの有名な韃靼戰記(De Bello Tartarico Historia)で、これも歐洲の諸國語に飜譯され尠なからざる注意を惹いた。かくて彼は歐洲に留まること六年、其使命を果たし數多の少壯傳教士を伴なつて支那へ還つたが、彼は其滯歐中歐洲各地に支那學の種子を撒き散らし、それが後世に至つて、立派な果實を結ぶ樣になつた(一)。それから同じゼシュイット派の僧侶に Michel Boym(漢名卜彌格[#改行]1612-1659)といふ人があつた。此人も千六百五十年に或る重大な事情の爲め、歐洲へ一寸歸國したが、其著 Flora Sinensis は極めて有名なもので、支那の書籍に見えた植物を歐洲に紹介し、又かの Athanase Kircher が China Illustrata に載せた景教碑文の如きも Boym に負ふ所多し(二)と言はれて居る。予輩は今此處で、此の如く傳教士の中に支那の歴史文學言語などを研究し、歐洲へ還つて親しくこれを彼地の人士へ紹介した人達の姓名を一一臚列しない。但序に一言したいのは、凡べてゼシュイット派に限らず、支那に於ける傳教士が歐洲に還るとき、往々支那の教民を連れて往つた事で、此れがまた歐洲に於ける支那學の成立について、影響を有つて居る。其例を擧ぐれば、ゼシュイット派の人で Phillip Couplet(漢名伯應理[#改行]1622-1693)がある。これもかの典禮問題に關し、一千六百八十年に羅馬へ派遣されたが、其時江寧の人某を連れていつた。然るに此の教民は、多少學問があつたとかで、英國牛津大學にいつたら、同大學の東洋學者で、『ボドレアンヌ』圖書館館長をして居た、『トーマス・ハイド』(Thomas Hyde)から、支那の度量衡やら何やらの事を質問され、之に答へた、所が其答辯が『ハイド』の著書となつて出たといふ。又ゼシュイット派ではなく巴里の『ミスシヨン・ゼ・トランゼー』に屬する Artus de Lyonne といつて四川に於ける最初の長老をした人があつた。これもかの典禮問題に少からぬ關係を有つて居たが、其歸國するに及び、福建興化府生れの黄姓で Arcadius といふ名を持つた支那人を連れて往つた。この支那人は巴里『ミスシヨン・ゼ・トランゼー』の研究所に暫時居て、それから巴里の婦人を娶り、千七百十六年同地で客死した。抑々この支那人が巴里へ來たときは、恰も傳教士等の支那に關する著述や報告により、支那に關する興味が非常に高まつて居た折で、本物の支那人が來たといふので、興化府出の田舍漢は巴里人から非道く珍重された。先づ王立圖書館に支那在住の傳教士から送つて來た許多の漢籍が、館員に支那文字を解するものがない爲め、其儘になつて居たものを、この支那人に囑託して整理して貰つた。又巴里の學者 Fr

前に擧げた Fourmont(



かくの如く佛國では他の歐洲諸國よりも早く專門の支那學者を出して居るが、何如にせん本國では書籍も少なく、且つ支那と懸離れて實際の樣子を知らないから隨分可笑しき間違もある。又讀書力に於いても同じ歐洲人ながら支那在住の傳教士には及ばぬ。それで彼等は勢材料を支那に於ける傳教士から取らねばならぬ。即ち前に擧げた『フルモン』の『プレマール』に於ける其の一例である。而して此處に注意すべきは、支那に於ける天主教の歴史を調べて見ると、其初期に於ては「ゼシュイット」派といつても佛國人は比較的少なく、以太利、西班牙、葡萄牙、獨逸、瑞西、フラマン等の人が多かつたが、千六百八十七年頃から、佛國生れの傳教士が非常に多くなり、又從つて傳教以外に支那について種々の學術的研究をなしたものが佛國人に多かつた。即ち Bouvet(Joachim 漢名白晉 1656-1730)Le Comte(Louis-Daniel 漢名李明 1655-1728)Gerbillon(Jean-Fan



佛國にて支那關係の學科を加へて居る學校では猶東洋語學校(L'





佛國ではリオン市にもモリス・クーラン(Maurice Courant)といふ支那學者があつて講師かなにかであつたが、昨年七月同市商業會議所から支那學講座資本を寄附した爲めに、同氏が其正教授に任命された(五)。
(大正三年三月、藝文第五年第三號)
(一)Henri Cordier,Notes pour servir
l'Histoire des Etudes Chinoises en Europe(Nouveaux Me'langes Orientaux 1886 p. 409)

(二)桑原博士西安府の大秦景教流行中國碑(藝文第壹號)
(三)Abel R
musat,Nouveaux M
langes Asiatiques Tome I. p. 258[#底本の本文にこの注釈場所を示す注釈番号なし]


(四)Notice Historique sur l'
cole des Langues Orientale(M
langes Orientaux 1883 p. XL.)


(五)通報(Jnillet 1913 Vol. XIV)
自分は本誌第五年第二號及び第三號に續狗尾録の題目を以て歐洲に於ける支那學の歴史と其現状とを略述し、僅かに佛國を敍して其儘筆を輟めて居たが、再び狗尾を續けて英國と伊太利に及ぶことゝする。
抑

英國人が支那の文學を飜譯し若しくは紹介した最初のものは無名氏の手になつた支那小説『好逑傳』の英譯であらう。『デビス』が其著『Chinese Novels』の卷首に『マカートニー卿』の支那派遣以前になつた英國人の支那に關する述作としては唯一部の極めて不完全な小説のみといつたのは即是れである(二)。此書は題して Hau Kiou Choaan or the Pleasing History, a Translation from the Chinese Language to which are added, I. The Argument or Story of a Chinese Play, II. A Collection of Chinese Proverbs and III. Fragments of Chinese Poetry. 4 vols. London, Dodsley, 1761 といふ。『ヰーリー』の支那文學書目解題に據れば、此書の原稿は、Wilkinson といつて長く支那に在住し、又支那語も可なり出來て居つた人の手にあつたもので、原稿の末に 1719(康煕五十八年に當る)の識語があつたが、それは所有者 Wilkinson が支那を去つた年に當る。又其第四卷は葡萄牙語にて書かれてあつたのを、Dr.Percy といふ人が英譯し倫敦で出版したとある(三)。これを除きては、別に英國人が支那の文學歴史等に關し著述若しくは飜譯をしたものはない。
一千七百九十二年(乾隆五十七年)英國と支那との貿易が盛んになるに連れ、大使を簡派し、兩國の關係を一層親密ならしめ、又兩國臣民との間に起る紛爭を少なくする目的を以て、前に擧げた『マカートニー卿』(Lord Macartney 馬戞爾尼)が大命を拜し、支那へ出發することゝなり、隨員なども澤山任選し、大英國の使節として愧かしからぬ威儀を具へた。それにも關らず此一行に缺くべからざる譯官を物色しても、英國内にて之を得ることが出來なかつた。そこで態々人を巴里に派して支那語に堪能で、通譯の任に膺るものを探したけれど折惡しく巴里の Maison de Saint Lazare でも Maison des Missions Etrangeres. でも人が見當たらないので、羅馬教皇宮殿の文庫に貯藏されたる漢籍の整理を命ぜられ居る支那人あることを聞いたから、巴里より轉じて羅馬に往き尋ねて見たが、かゝるものは已に居ない。そこで又『ナポリ』まで下り同處に嘗て支那に傳道して居た天主教の神父 Ripa(馬國賢)が建てた中國書院といふ若い支那の教民を教育する所があつたので、同書院に就いてやつと二人の支那學生を得、これを倫敦に伴ひ還つて大使の譯官とした。彼等は英語は分らぬけれど、拉丁語と以太利語に通じて居たから、譯官として双方の意思を通ずるには差支なかつたとある(四)。堂々たる英國使節の譯官として、支那の教民を使用せねばならぬことになつたのを見ても、當時英本國で、支那の語言文字を知つた人のなかつた事が分る。從來英國人が支那語を馬鹿にして遣らなかつた咎は當時痛切に感ぜられた。然るに馬大使一行の内に副使 Staunton の子同苗 George Thomas Staunton (司當東)といふものがあつた。當時十二歳の童生で、大使の侍者として一行に加はつて居たが、天資聰敏な人で、船中にて已に幾分か支那語を習ひ覺えた。支那に着いてからも熱心に研究し、又支那文をも讀み出し、數年ならずして非常な進境があつた。彼れは其後長く支那に留まつて居たが、支那通として東印度會社に入り、其辣腕を奮ひ、支那官憲を苦しめた。國朝柔遠記に嘉慶帝が兩廣總督に降したる諭旨を録した中に「聞有二英吉利夷人司當東一。前於二該國入貢時一。曾隨入二京師一。年幼狡黠。囘レ國時將二沿途山川形勢一。倶一一繪二成圖册一。到レ粤後。又不レ囘二本國一。留住二澳門一已二十年。通二曉漢語一。」云々の文句があるが(五)、支那人の側でも、彼れが當時如何に支那通として憚かられて居たかゞ分る。彼が支那文を研究した結果として第一に發表されたものは、大清律例の英譯で、題して Ta Tsing Leu Lee,being the Fundamental Laws and a Selection from the Supplementary Statutes,of the Penal Code of China······Translated from the Chinese & accompanied with an Appendix, Consisting of authentic documents and a few occasional notes, illustrative of the subject of the work: By Sir George Thomas Staunton Bart. F. R. S. London 1810 といふ、出版されて程なく佛伊二國語にも重譯されたが(六)、此書が出來て英國人に對して寡からぬ利益を與へたといふのは、かの南京條約の結果として香港が英國に割讓され其統治を受くることゝなつたとき、爲政者が從來支那に行はれた律例を知るの必要を感じたが、Staunton の飜譯は直ちに其必要を充たすを得た。又判官の案上にも必ずこの一册が備附けてあつて、香港住民の多數たる支那人の獄を斷ずるに缺くべからざる參考書となつた事はかの支那學者で且つ香港太守たりし『デビス』の自白する所である(七)。勿論 Staunton が律例を譯するには將來支那の領土が英國に割讓さるゝことを豫想して居たとも思はれぬ。然れども大清律例が英國人の手になつた殆んど最初の飜譯たることを思ひ、之を明末より清初に懸けて支那に居つた耶蘇會士の連中が、四書五經といふ樣な古典より研究を始めたことゝ比較して考へると、少からぬ興味がある。前に擧げた『デビス』の『英國人は何等の利益あることを明にせねば妄りに時間と精力を費やさぬ』といつた言葉も思ひ當るのである。序に申して置くが、この『デビス』なども色々飜譯をやつて居るが、其種類を擧げると、小説とか劇とかいふ樣な方面を重に遣つて居る。尤も耶蘇會士中にも Pr

Staunton に繼いで支那學者として指を屈すべきはかの Robert Morrison(1782-1834)即ち馬禮遜である。彼は實に支那に於ける Protestant mission の創設者であるが、其支那學の方面に於ける功績も亦偉大なもので、彼の著はした字典丈でも、どの位學界に貢獻したか知れぬ。馬禮遜の傳記によれば、彼は倫敦で當時在住の支那人に就いて少し許り支那語を學び 1807(嘉慶十二年)布教の目的を以て米國を經て澳門に來り程なく廣州に轉じたが、同處に居た Staunton とも交を結び大に益する所あつたといふ。それから專心支那文學を修め、東印度會社に聘せられて支那文の飜譯を擔當したが、比較的閑散なる儘、力を著述と支那文研究に費やすことを得て、耶蘇教の教義に關する種々の漢文著述||神天聖書即ち The Holy Bible の漢譯も其一である||をしたが、同時に英國人が支那文を學ぶことを容易すくする爲め支那文典若しくは其他語學に關する著述をした。然れども尤斯學に裨益する所ありしは其心血を注ぎしかの有名な全部六册の漢英對譯字典 A Dictionary of the Chinese Language in three Parts. Part the First; containing Chinese and English,arranged according to the Radicals; Part the Second, Chinese and English arranged alphabetically; and Part the Third, English and Chinese. By the Rev. Robert Morrison 6 Vol. in-4 1815-1823 である。今でこそ Giles や Williams などの字典があるので、Morrison の方は餘り顧みるものがないけれども、當時にあつて此書が學者に裨益を與へたことは非常なもので其勞は實に多しといふべきであるが、東印度會社が常に其事業に同情を有し、前後一萬磅の大金を支出して之を助けた事も特筆すべきである。Morrison に關聯して記載すべきは William Milne(米憐 1785-1822)の事である。この人も London Missionary Society から支那に派遣され常に Morrison と事を共にし聖書の飜譯も舊約全書の一部は其手になつたものだか、支那文も能く出來たと見え、かの清朝の教育勅語ともいふべき聖諭廣訓を譯し、題して The Sacred Edict といひ 1817 に倫敦で出版して居る。同時英國人にて宣教師たる Joshua Marshman(1768-1837)といふ者が居た。此人は支那學者ながら支那には來なかつた。印度カルカッタから程遠からぬセラムポールで布教して居たうち、支那文を學び支那文典を著はし、又論語の一部分と大學を譯述して居るので(八)、『デビス』の如きは Morrison と同じく英國人で支那學をした初期の仲間に入れて居る。次に申すべきはこの『デビス』(Davis, John Francis, 1795-1890)である。彼れは支那に來て東印度會社の書記から大班に進み、貿易監督官、香港太守等の劇職に居ながら、立派な支那學者で、其著述も極めて多い。漢詩を論じたるものあり、元雜劇、小説を譯したるものもあり、其の中に文句の意味を誤解した點も少なからぬが之を責むるは酷である。殊に其著 The Chinese. A General Description of the Empire of China and its Inhabitants. London 1832. は支那に關する種々の智識を與ふるものとして歐洲人士に歡迎されたと見え、屡

(大正三年十二月、藝文第五年第拾壹號)
(一)Davis, Chinese Miscellanies. p. 50
(二)Davis, Chinese Novels. p. 4
(三)Wylie, Notes on Chinese Literature. p. xxxiii.
(四)Sir George Staunton,An Aushentic Account of an Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China. & c. pp. 45-47.
(五)國朝柔遠記卷七
(六)Henri Cordier, Bibliotheca Sinica. p. 546
(七)Davis, Chinese Miscellanies. p. 51
(八)Memorials of Protestant Missionaries to the Chinese. pp. 1-2.
(九)Henri Cordier, Half a Decade of Chinese Studies. T'oung Pao III.