今年の
僕は、史学者でもない、歴史研究者でもない。しかし、歴史を愛し、歴史上の諸人物に親しみを持つ点に於ては、多く人後に落ちないつもりである。殊に、僕個人として、二千六百年を記念する意味で、「新日本外史」といふ小著を執筆中であつたので、「週報」からの依頼も、喜んで引き受けたのである。
悠々たる二千六百年間の出来事を原稿紙にして、わづか百五六十枚で、まとめることは至難中の至難である。しかし、僕が
この「二千六百年史抄」の本願とするところも、勿論国体を明徴にし、日本精神を発揚するところにありと思つたから、その点に微力を尽くしたつもりである。
が、何にせよ、片々たる小冊子である。説いて尽さゞる所が、甚だ多いのである。読者の中、不満を感ずる方があつたならば、どうかこれを機会として、他の史書を広く渉猟して下さらば、欣懐この上もないのである。日本歴史の智識を充分に持つことは、日本人としての自覚を持つ上に、最も大切なことではないかと思つてゐる。
昭和十五年七月廿八日
[#改段]皇孫

神武天皇の御世には、その皇化は九州一円に及んで、皇祖の神勅のまに/\
天皇は、御年十五歳にして、皇太子となられたが、御年四十五歳の時に、
「

と、諸皇兄及び諸皇子に計り給うた。
諸皇族諸臣達、悉く賛同し奉つた。即ち、
これは、御東征と云ふよりも、東方への御発展とも云ふべきで、わが
日向を出発して、大和に達せられる迄、古事記に依れば十数年、日本書紀に依れば、六年の歳月が経つてゐる。これは、古事記の方が実際に近いのではあるまいか。当時は完全なる船があるわけでないから、沿岸づたひに徐々に東進せられたのであらう。九州、瀬戸内海、大和地方にかけて、既に
天皇は、これに
稲飯命は「あゝ、わが父祖は
此の海上でも、我々の先祖の多くは、皇兄に殉じた事であらう。
が、天皇は、此のおん悲しみに堪へ給うて、皇子
軍隊を率ゐて群敵の中を、山塊累々たる熊野から大和に入られることなどは、奇蹟的な難事業であると云つてもよいだらう。
しかも、漸く辿り着かれた大和も、群敵の巣窟であつた。
頑敵たる
神武天皇は、御天性の勇武とあらゆる智略とを以て、これ等を次ぎ/\に征服して行かれた。
しかしながら、寛宏なる皇師は、これらの者どもに対して、決して殲滅的攻略に出ることはなかつた。
たとへば、天皇は帰順した
論功行賞に際しても、さうした降臣をも、日向以来の重臣と同様に、
大和地方を悉く平定せられた後、
「夫れ
と詔を下された。
橿原宮の御即位の式には、
日向を進発した時の男女で、生き残つたものは、果して幾人であつたであらうか。
わが大和民族は、神武天皇の御創業当時、かくも大なる試煉を経たのである。その間に養はれた如何なる困苦にも屈せぬ精神的
* 大伴氏の祖は、道臣命 。久米氏は、大久米命。物部氏は、可美真手命 。斎部氏は、天富命 。中臣氏は、天種子命 。
神武天皇より開化天皇に至る迄の御九代の間は、
然るに、第十代
この時代には、内政も漸く整ひ、人民に対し、初めて
第十二代
この二族の平定者として、
が、熊襲や蝦夷は一、二度の御征討に依つて、屈服するものでなく、
皇威が、中国より九州に
神功皇后の
神功皇后の新羅征伐は、わが国威を海外に知らしめたばかりでなく、以来彼我の交通が開けて、彼地の文物がわが国に輸入され、わが国の文物制度は一大飛躍を遂げたのである。
当時、先進の文明国たる支那は、動乱の絶間がなく、有能有識の士の朝鮮に避難するものが多かつた。朝鮮も、
彼等に依つて、わが国の建築、造船、裁縫、
しかも、彼等は、もつと大切なる精神的進物を持つて来たのである。それは、漢字と、それに盛られた儒教と、やゝ遅れて伝来した仏教とである。これらは、わが国民の後代に於ける精神生活の方向を決定したと云つてもよい。
支那の文字が、わが国に伝はつたのは、何時であるか明確でない。九州地方の豪族は、古くから漢土と交通してゐた様子であるから、漢字も知つてゐたかも知れない。しかし支那の書物が、正式にわが国に伝来したのは、
* 景行天皇の御即位後も、九州南部の熊襲が、屡々、不穏な形勢を示したので、天皇は、御即位十二年七月、熊襲御親征の途に上り給うた。斯様 な大々的御親征は、神武天皇の御東征以来、実に、八百年目である。
天皇は、八年の長きにわたり、九州地方全部を巡られ、熊襲を平げ、民を撫順し給うた。ところが、熊襲は、天皇が、大和へお帰りになると、また忽ち、蠢動し始め、横暴愈々 つのつたので、二十七年八月、天皇は、御子日本武尊をお遣はしになつて、これを征伐させ給うた。日本武尊は、その後、東北地方の蝦夷が叛いた時にも、御自ら進んで出征を志願された。
天皇は、いたく喜び給ひ、
「今、朕 汝の人と為 りをみるに、身体 長大 、容貌 端正 、力能く鼎 を扛 ぐ、猛きこと雷電 の如く、向ふ所かたきなく、攻むる所必ず勝つ。即ち知る、形は則ち我が子にて、実は即ち神人 なり。是れまことに天、朕が不叡 、且つ国の不平 たるを愍 みたまひて、天業 を経綸 め宗廟 を絶たざらしめたまふか」
とまでに仰せられた。尊の無双の御武勇の程が、拝察されるではないか。
天皇は、八年の長きにわたり、九州地方全部を巡られ、熊襲を平げ、民を撫順し給うた。ところが、熊襲は、天皇が、大和へお帰りになると、また忽ち、蠢動し始め、横暴
天皇は、いたく喜び給ひ、
「今、
とまでに仰せられた。尊の無双の御武勇の程が、拝察されるではないか。
わが国上古の社会制度の特色は、氏族制度と祭政一致である。
上古は、祖先を同じうする人々が、
そして、この氏族制度が今日の家族制度の
しかも、天皇は天つ神の神意を受けて、
それは、神武天皇が、御東征の途次、困難に際会される毎に、天照大神の神意に従はせられた事を見ても分ることである。
天皇が天つ神を祭り、神意の奉体に努めさせられることは、直ちに国民の日常生活の端々にまで及び、「氏神」の信仰が深くなつてゐるのである。
天皇は天つ神を祭られ、その神意を奉体して民を治められる。即ち「
上代に於けるわが日本国家の基礎を堅め、国民をして文化生活の恵沢に浴せしめた偉大なお
聖徳太子は、天成の御英才を以て、第三十三代
是より先、
が、聖徳太子の仏教御信仰は、崇仏派の勝利を決定的にし、以後仏教は、広くわが国土に流布し、わが国民文化の発達に、精神的にも、物質的にも、多大の寄与をしたのである。
推古天皇の二年に仏教興隆の詔が発せられ、聖徳太子は、
太子は、仏教の興隆を図られると共に、仏寺の建立に附随する建築、絵画、彫刻、鋳金などの美術工芸などを奨励された。されば、大工左官などの間に、太子が今もなほ守護神として崇敬されてゐるのを見ても、太子の御遺徳の一端が、うかゞはれるわけである。
又、太子は、推古天皇の十一年に十二階より成る冠位を定め給うた。それまで、勢力のある氏族に属してゐないと、高い位置に上れなかつたが、冠位の制定に依つて、人々は、才能に依つて、立身する道が開かれた。十二年には、支那の暦を用ゐ、同年に十七条の憲法を制定された。
これは、文章となつたわが国最初の法典であり、仏教と儒教に基づいた道徳律でもあり、官民心得でもあるが、その大意は、次の通りである。
一、和を貴び、相争ふな。二、
第十二条の「国中の万民は、天皇を主とする」の一条は、当時の大氏族の長が、人民を私有することを戒められたのである。
太子は、内治に御心を用ゐられたばかりでなく、欽明天皇の御世に
又、太子は始めて国史編纂の業を起され、天皇記、国記を編まれ、その間に、卓抜なる御見識を以て仏典の註釈を完成された。それが
十七条の憲法も、太子の御自作であるが、詩経、書経、易など支那の古書を引用して書かれた漢文で、わが国の漢文では最古のものであり、かつ御名文である。
太子は、推古天皇の三十年に薨去されたが、天皇をはじめ奉り、全国民に至るまで「日月
この聖徳太子の御精神と御事業を継承して、大化の改新を断行されたのが、
是より先、氏族制度の頽廃の結果として、大氏族の長が、広大なる土地人民を私有し、権勢を専らにせんとするものが生じてゐた。が、その内、大伴氏、物部氏は失脚して、蘇我氏のみが、強大なる勢力を擁してゐた。
王は、一度は生駒山に逃れ給うたが、「自分は今、兵を起して入鹿を討つならば勝てるだらうが、一身のため、人民を傷つけたくない。わが身は入鹿にやらう」と仰せられ、一族の方々と御一緒に、御自殺になつた。が、蘇我氏のかゝる不臣が許されるわけはなく、御英邁なる中大兄皇子を中心とする中臣
皇極天皇は、蘇我氏が滅んだ翌日、皇位を中大兄皇子に譲り給はうとしたが、皇子は叔父君たる
そして、皇子は皇太子として、中臣鎌足と共に、政治の改新に当り給うた。
それまでの日本の政治は、
だから、臣、連など云はれる勢力のある氏の長は、土地人民を私有し、勢力を養ひ、遂に蘇我氏の如く国政を
されば、大化の改新の一大眼目は、これらの氏の長の私有してゐた土地人民を悉く皇室に返上させ、凡てを公地公民とし、天皇たゞ御一人が、君主として、支配されるやうにすることだつた。
それと同時に、新たに戸籍を作つて、公民の数を調べ、男女老幼に応じ、田地を分配し、六年毎に調べ直して、死んだ者の土地は朝廷に収め、生れて六歳になつた者には、
また八省百官の制を設け、地方に於ける国造、県主の世襲を禁じ、新たに国司郡司を命じ、期限的に交替させることにした。
又、聖徳太子の制定になつた十二階の冠に、改正を加へて、最高の
中大兄皇子は、後に第三十八代
その中に定められてゐる官制や諸制度は、爾来千二百年間、明治十八年迄、用ゐられてゐたのである。
明治維新の革新と並んで、日本の二大革新である大化の改新は、中大兄皇子に依つて成し遂げられたのである。
当時としては、思ひ切つた改新であるから、大氏族や守旧派の反対は、さぞかし猛烈であつたらうと想像されるが、それを押し切つての御断行は、一に、天皇の御英明に依るものだと思はれるのである。
* 欽明天皇の十三年(皇紀一二一二[#改行]西暦 五五二)百済の聖明王が、特使を我国に遣はして、仏像や経論を献じて来た。
天皇は、百済王の上表を聴召 して、諸臣に勅して、仏教信仰の可否を諮 り給うた。
朝臣の内、物部氏・中臣氏は排仏を主張し、蘇我氏は崇仏を主張した。
その理由とする所は、「一は我が国には古来神道があり天神地祇を祭つてあるから、蕃神を祭れば、神の怒りに触れる」と云ふのであり、一は、「他国が既に仏像を礼拝してゐるのに、我が国独り反対する要はない」と云ふのであつた。一は、守旧的な保守的思想であり、一は、開放的な進歩思想であつた。
それは、中臣氏は、代々神祇祭祀を掌 る家柄であり、物部氏は、代々武将であり、これに反して、蘇我氏は、先祖武内宿禰 以来韓土と交渉を持ち、代々外交を司 る家柄であつたから、この対立が出て来たのであらう。
天皇は、百済王の上表を
朝臣の内、物部氏・中臣氏は排仏を主張し、蘇我氏は崇仏を主張した。
その理由とする所は、「一は我が国には古来神道があり天神地祇を祭つてあるから、蕃神を祭れば、神の怒りに触れる」と云ふのであり、一は、「他国が既に仏像を礼拝してゐるのに、我が国独り反対する要はない」と云ふのであつた。一は、守旧的な保守的思想であり、一は、開放的な進歩思想であつた。
それは、中臣氏は、代々神祇祭祀を
第四十三代
此の時代初期の重要なる史実は、銭貨の鋳造と、国史及び風土記の撰修であらう。
武蔵国よりの和銅献上に依つて、和銅と改元せられると共に、
上古は、物々交換で、その方法も割合便利であつたので、国民の多数には銭貨の重要さが認められなかつた。そこで朝廷では、田の売買には必ず銭貨を用ゐしめられ、銭七貫以上を蓄ふるものは、初位に叙するなど、銭貨使用を奨励せられたのである。
又和銅四年には、勅命を承けて
是より先、天武天皇は、わが国の古伝の保存及び国史の編纂に大御心を注がせられ、天皇おん自ら
古事記は、漢字の音と訓とを交ぜ用ゐて、記されたものであるが、日本書紀は、全く漢文に依つて書かれてゐる。その書名に「日本」なる字を用ゐられた点より考へて、当時の朝鮮及び唐に対して、独立国家たる威容を示すための修史であつたのであらう。
又、元明天皇は和銅六年、諸国に勅して、国、郡、郷、里の名は好字を選んで二字を定めしめられると共に、それ/″\地方の物産、地勢、伝説を記して差出さしめられた。いはゆる
かやうに、国史地誌の編纂が行はれた事は、わが国民の国家意識を高め、愛国心を
記紀、風土記の編述と共に、忘れてならないのは「万葉集」の存在であらう。
その撰者は、
その中には、上代国民の剛健素朴な日常生活や、純真無垢な忠君の精神や、天真無縫の感情生活が脈々として流れてゐるのである。「古代日本人を知らんと欲せば万葉集を読め」と云ひたいくらゐである。現代の活字本の万葉集は、甚だ読み易くなつた。何人も一読すべきだと思ふ。
奈良時代は、大化改新後に於けるわが国の統一国家としての活動期であるが、第四十五代
美術史では、この御代を
唐より伝来の文化と、仏教の興隆とにより、美術工芸は非常なる発達を遂げ、単なる唐の模倣でない、新らしい芸術を産んでゐるのである。
殊に彫刻は、前時代の生硬な技法を脱し、流麗典雅な手法を以て、あらゆる材料を駆使して、幾多の傑作を残してゐる。東大寺の大仏、同じく
建築に於ても、東大寺の
又、奈良に現存せる正倉院は、聖武天皇の御遺物を初め、当時の家具、楽器、武具、装飾品等三千点を、千数百年後の今日まで、その儘伝へてゐるが、わが国工芸品の粋を集めてゐるばかりでなく、唐、西域、
かうしたわが国文化の発達は、仏教の好影響であるが、一方仏教流布に伴ふ悪影響もあつたのである。
聖武天皇は仏教に依つて、国家を治めようと思召し、天下泰平、国土
皇后光明皇后も亦御信仰深く、その御信仰に依る社会事業に、おん自ら活躍された事は、いろ/\の伝説さへ残つてゐるくらゐだ。
が、かうした朝廷の仏教御信仰に依つて、僧侶の位置は向上し、上下の尊信厚きに誇り、遂には僧侶の分を忘れ、政治に関与せんとする者をも輩出した。その巨魁は、
が、妖雲が、天日を
「我が国家
と神託を受け、奏上したことは、当時儒教思想や仏教思想の伝来に依つて、多少の影響を受けてゐたかとも想像される、わが国体観念の確立に対する一大声明であつて、爾後非望の輩が、長く根絶するに至つたことは、誠に欣ばしいことである。
紀元千四百五十四年(西暦七九四)、第五十代
平安京への遷都は、国運の進展に伴ひ、交通至便な土地を求められた意味もあるが、奈良時代末期に於ける仏教の政治に及ぼす弊害を避けられる意味もあつたと云はれる。
されば、桓武天皇は、仏教の改革に御心を用ゐられてゐたが、あたかもよし、この時代に
最澄も空海も、政権の地を離れて、山林の地にその本寺を置いたことと、仏教と日本固有の神祇崇拝との調和を図つたことと、また彼等の創始した天台宗及び真言宗が、必ずしも唐土伝来のものでなく、日本人的思索が、十分加味せられてゐた点に於て、この二人は日本仏教の危機を救ひ、その宗教的基礎を確立した人と云つてもよい。
たゞ叡山は、あまりに京都に近かつたため、以後屡々政争の渦中にはひつたことは、やむを得ないことだつた。
空海は、宗教界の偉人であるばかりでなく、わづか一年九箇月余の唐土留学に於て、絵画、彫刻、詩文、書法、音韻学、医道、薬物、その他土木、造筆、製墨、製紙の諸技術など、あらゆる唐土文化の芸能技術を習得して伝来した点に於て、その才能努力は殆んど超人的である。弘法大師について、いろ/\の奇蹟が伝はつてゐるのは、その功績に対する当時の讃嘆から生れたものであらう。
平安時代の初期に於て、その武功の伝ふべきは、
延暦十六年、田村麻呂を征夷大将軍として、東北の
平安時代の御世に於て、第六十代
大化改新の功臣たる藤原鎌足の子孫が、朝廷に勢力を占むるは、当然の勢ひではあらうが、彼等は他の名門、旧家を排斥し、皇室の外戚として、摂政関白、その他の高位高官を独占する傾向を生じてゐた。
藤原
かうした藤原氏の政権
聖徳太子の
支那の文化は、その後、それほど発達してゐたわけでもないから、この遣唐使の廃止は、かへつて時宜的であつて、支那よりの影響が中断したため、支那伝来の文化は、以後いよ/\日本化され、わが国独得の文化を産むに至つたのである。
唐風を真似てゐた住宅、衣服等も、日本化して行つたし、漢文学の盛んであつたため、国語を写すにも漢字を用ゐてゐた習慣が打破され、誰発明するともなく、平仮名や片仮名が自然に案出され、短歌、ひいては国文学の発達を促した。
「古今和歌集」、「後撰和歌集」に依つて、男女の歌人が輩出したし、国文学に於ては、清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」などが出た。
源氏物語は、欧洲に於ける写実小説の元祖であるボッカチオの「
その他「土佐日記」、「伊勢物語」、「竹取物語」、「今昔物語」など注目すべき作品は
又、漢文学に於ても、菅原道真、
書道に於ても、空海、道真と、次第に唐風を捨てて日本風となり、
一方、
建築も、彫刻も良く、日本趣味のものとなつた。絵画も、
又、刀剣
又、官制の上に於ても国司の治績を監督する
* 道真の著書には、「三代実録」、「菅家文草」、「菅家詩集」、「新撰万葉集」、「類聚国史」等の編著があり、何れも、彼の非凡な学識才能を窺ふことが出来る。
中でも、「類聚国史」の如きは、我史学史の中でも最も重要な名著であり、且つ、道真の醇乎たる国体観を知ることが出来る。
中でも、「類聚国史」の如きは、我史学史の中でも最も重要な名著であり、且つ、道真の醇乎たる国体観を知ることが出来る。
この世をばわが世とぞ思ふ望月 の
かけたる事もなしと思へば
かけたる事もなしと思へば
と歌つた摂政道長の権勢は、藤原氏の全盛を語ると共に、満つればかくる世の習ひをも示して、以後藤原氏の頽勢は著るしかつた。それは藤原氏に御縁故なき
天皇は、才学優れさせ給うた御英明の資を以て、
朝廷に租税を収めない荘園の激増は、
後三條天皇は御在位わづか四年にして、御位を
白河天皇も、又英明の御資質で、藤原氏の権勢など顧慮せらるゝことなく、万機を決し給うてゐたが、応徳三年、御位を
これは、従来の朝廷の高官は、藤原氏の人々で、必ずしも練達堪能の士ではないので、新らしい人材を抜擢して、実際的な政治を行ふために、院政と云つた形式が案出されたのではなからうか。このために、摂政関白の手中に在つた政治上の実権が上皇に帰し、藤原氏は全く雌伏するの外なくなつてしまつたが、天皇御親政の理想から云へば、やはり変態であつて、保元の乱の一つの原因になつたとも云はれてゐる。
藤原氏全盛時代から、この時代にかけて、重大なる社会的事実は諸国に於ける武士の擡頭である。大化の改新に於ける軍団制度は、第四十九代
かうした紀綱の紊乱に連れて、貴族及び豪族の私有地なる荘園は、ます/\激増したが、これ等の貴族豪族は、各自の荘園の治安を維持するため、各々の子弟もしくは臣従を武装せしめ、武技を
しかも、これらの貴族豪族は、多くは前国司の位置にあつた
最初、これらの武士が、中央の政界に於ては、何等の勢力のなかつたことは、平
武士の擡頭と同時に、当時朝廷及び藤原氏等の尊信を得てゐた延暦寺、興福寺などは、白河上皇の仏教御尊信に依つて、いよ/\勢力を加へ、その広大なる寺領を自衛する必要上、武力を養ひ、僧侶自身武装すると共に、浮浪の徒が
しかも、白河上皇が、従来藤原氏の爪牙たる源氏に対抗せしめるため、
かくの如くにして養はれて来た源平二氏を中心とする武士の勢力は、保元の乱に於て、遂に中央の舞台に躍り出たのである。
保元の乱は、藤原氏に於ける父子兄弟間の権力争ひが、皇室をまで、その渦中に引き入れ奉つた戦乱であるが、政権の争奪が、武力に依つて左右さるべきものであることを、如実に示したことに依つて、今まで他の勢力の爪牙を以て甘んじてゐた武士をして、遂に政権に対する野心を
されば、この戦ひに於ける殊勲者たる平清盛は、相つゞく平治の乱に於て、その対抗勢力たりし源
* 平将門は、桓武天皇の後裔平高望 の孫に当り、父は陸奥鎮守府将軍平良将である。
初め、京都に出て、太政大臣藤原忠平に仕へてゐたが、検非違使 になることを願つて許されなかつたので、不平の余り、所領下総に帰つたと云はれる。
初め、京都に出て、太政大臣藤原忠平に仕へてゐたが、
平家の衰亡は、武家にして、藤原氏を学んで、大宮人としての弊害を承け継ぐと共に、土地を根拠とする武士自身の生活を忘れたためである。
日本に於ける大叙事詩とも云ふべき平家物語に於ける平家の人々の頼りなさと、「風流」とは、この弊害を、そのまゝに現はしてゐる。
源
平家の追討にも、
彼は、建久元年初めて上洛し、
さらば、弟
頼朝が、その武家政治に依つて、天下を統一し、国民生活を安定せしめた功績は、武家嫌ひの
頼朝死後、
が、関東の将士は、頼朝以来の武家政治を謳歌してゐたと見え、彼等は北條
変後、北條義時父子が、後鳥羽上皇、
幕府は承久の変後、
承久の変に於ける不臣を敢てした鎌倉幕府が、かくも強大になつたことは、悲しむべきだが、武士の統制機関が出来るだけ、強大となつて、将に来らんとする皇国
蒙古の欧亜征服が、いかに圧倒的で、その勢力がいかに強大であつたかを考へるとき、一島国日本が、彼をして一指も触れしめなかつたことは、世界史上の奇蹟であり、日本民族の優秀性を誇示するに足る史実であるが、その大きな功績は、強固なる鎌倉幕府を統帥した八代の執権
時宗大勇猛心を以て、蒙古の使者を斬ること再度、承久以来阻隔してゐた朝幕の間も融和し、君臣一如、
弘安四年、七月
六十三日間、一堂に籠つて、蒙古調伏を祈つたと云はれる
この歌に現はれたる如く、蒙古の撃退は、わが国民の民族的自覚心を向上せしめると共に、海外発展の壮志を呼び醒した。世界の最大強国たる蒙古を撃退した国民にとつて、怖るべきものは、何者もなくなつたわけである。以後、日本の海賊衆は、朝鮮及び支那の沿海に出没し始めたのである。
元寇は、日本の
それと同時に、幕府を窮地に陥れたことは、文永弘安の両役に於ける戦功者に対する論功行賞の問題だつた。平家を滅した時は、平家方の土地を恩賞に与へることが出来たし、承久の変に於ても、没収された京方の公卿武士などの土地を恩賞に与へることが出来た。が、元寇に於ては、その戦勝に依つて獲たる所は皆無であつた。しかも、幕府は、将士を励まさんがために恩賞を約束してあつたのだから、戦後将士の恩賞を求むる者、引きも切らず、その訴訟は二十年間も続いたと云はれてゐる。
幕府が、かうした難関に直面してゐた時、弘安七年北條時宗が三十四歳の壮年で世を去つたことは、北條氏の運命を決したやうなもので、その子貞時は凡庸、その孫高時は暗愚にして、一族の中の
天皇は、後の三房と云はれた
しかも、北條氏が皇位継承の問題にさへ、
正中元年その御計画は、北條氏の探知するところとなり、資朝、俊基の公卿を始め、
所が、この御計画が、意外にも三房の一人にして天皇の御親臣なる吉田定房に依つて幕府に密告されたのである。北條氏の大兵が、内裏を襲はんとするを
楠木
太平記に依れば、天皇がおん夢に依つて、正成の存在をお知りになつたとあるが、天皇も宋学に御造詣深く、正成も宋学を研究してゐたと云ふから、さうした因縁で、
正成は赤坂城に天皇を迎へ奉るべき準備をしてゐたが、笠置山の間道を知つた賊兵は、夜中山上に達し、火を放つて猛攻したので、笠置は遂に陥り、天皇は北條氏の手に依つて
笠置の陥る前、
焼死と信ぜられてゐた正成が、吉野に兵を挙げられた護良親王と呼応して、赤坂城を奪還したのは、
千早、赤坂、吉野の
しかも、村上彦四郎
新田義貞、
この間、隠岐におはしました天皇は、名和長年のお迎へを受けさせられて、
九州に於ては、
中にも、
関東に於ても、北條氏の運命は尽きてゐた。先に、千早の攻囲軍中にあつて、護良親王の令旨を戴いて、東国へ帰つてゐた新田義貞は、義兵を起して鎌倉に攻め入り、北條氏一族を討滅した。時に元弘三年五月である。
此処に、源頼朝に依つて、始められた武家政治は百五十年にして一旦滅び、輝しい天皇御親政の御世となつたのである。いはゆる建武中興がこれである。
北條氏の滅亡するや、後醍醐天皇は、伯耆より御還幸の途につかせられ、兵庫迄お迎へ申し上げた楠木正成に、「北條氏を討滅し、今日京都に還幸出来るのは、
が、建武中興の大業が、間もなく破れ、北條氏に代つて足利氏の興起を見るに至つたに就いては、次の原因が数へられる。
(一) 建武中興に参加した武士の中には、自己の利害関係や、恩賞目当に行動した者が大部分であつたこと、従つて、之等の武士は公家 勢力の再興を欣ばず、公家と武家とが頗 る不和であつたこと。
(二) 政治の実権が久しく朝廷を去つてゐたから、公卿 は政治の実際に疎く、しかも鎌倉幕府の滅亡と共に、幕府が処理してゐた政務をも朝廷で併せ行はねばならぬことゝなり、政務が渋滞してしまつたこと。
(三) 訴訟の裁決に当つて統一を欠き、恩賞に不満を懐く者も現はれ、新税に対する不平などもあり、人心漸く新政を離れるに至つたこと。
かうした新政に対する不平不満を利用して、自己の野心を逞しうしたのは、足利尊氏であつた。足利氏は、新田氏と共に、源義家の子義国から出で、その勢ひは兄の家なる新田氏を凌いで、源頼朝の直系が断絶した後は、源氏の統領として、武士階級の輿望を集めてゐたのである。しかも、六波羅を滅して先づ京都に入るや、巧みに私恩を施して人心を収め、北條氏に倣つて政権を尊氏の野心を早くも察せられたのは、建武中興に大功労のおはしました護良親王で、打倒尊氏を策せられたが、却つて尊氏の
たま/\北條高時の子、時行が信濃に兵を起し、父祖の覇業の地たる鎌倉を奪還せんとして襲来した。相模守として鎌倉に在つた尊氏の弟
尊氏は、それを聞くと、勅許を待たずして、関東に下り、時行を
天皇は、新田義貞をして西より、
当時九州には、先に建武の中興に忠死した菊池武時の子武敏があり、
当時、新田義貞は、赤松則村を播磨の
正成が敵を京都に入らしめんとの献策が、藤原
正成、桜井駅に子
京都に入つた尊氏は、先に北條氏の擁立した
後醍醐天皇は、その後も新田義貞に勅して、皇太子
しかも、延元四年、後醍醐天皇は、吉野の
これより先、足利尊氏は、京都に於て
吉野時代の変乱は、足利尊氏が、後醍醐天皇の御親政に背き、武家政治の復興を計つたことに起因してゐるが、当時武士階級に大義名分を解するもの甚だ少く、多くの武士は利害情実に依つて動き、昨日の
されば、北畠親房は、吉野の朝廷の中枢にあつて、軍政両方面に肝脳を砕いてゐたが、人心の頽廃を嘆じて、日本の国体を明らかにせんとし、「神皇正統記」を著述し、「大日本は神国なり。天祖始めて
足利尊氏は、後醍醐天皇の御親政に背き奉つて、足利幕府創設に成功したが、その天罰は彼の在世中早くも報い来つて、一生涯部下の諸将を初め肉親との
その因果は子孫にも報い、足利幕府十三代を通じても、同じやうな、内訌
だから、足利十三代を通じて、わづかに太平を
されば、民政の上にも悪政が続いたが、その著るしいものは徳政である。徳政は、元来仁政に基づく社会政策であつたが、足利幕府では、その意味が変つて、重税を課せられた窮民が、貝を吹き鐘を
さうして、窮民が一揆を起すと、鎮圧に赴いた将士の部下が、一しよに掠奪を始めるといふ有様である。その上、応仁の乱が十一年も続き、京都は戦塵の巷となつて、将軍の威令が地に落ちたのだから、天下は分崩して、実力ある者が各地に割拠する戦国の世となることは、当然の帰結であつた。
日本歴史を読んで、この時代くらゐ、頽廃的な感じを起させる時はないが、たゞ一つの欣びは、日本民族の海外に対する膨脹運動が旺んになつてゐることである。
元の来寇を撃退して、わが国民は対外思想を刺戟されると同時に、「日本人強し」の自覚を得たのである。その上、国内生産力の発展や、地方都市の発達から、貿易思想が起つて来たのである。四国や瀬戸内海諸島の士民は、足利時代の当初から
倭寇と云ふのは、支那人が付けた名で、日本人自身は
彼等が、海洋を行くや、疾風の如く、遠く安南、シャム、ルソン、マラッカ、フィリッピンにまで押し渡り、貿易が許されない場合は、忽ち両肌を脱ぎ、長刀を振つて命知らずの奮闘をした。
明の史書には、「国患は倭寇に在り」と書いてあるし、わが太平記にも「賊徒数千艘の船を揃へて、元朝高麗の
欧洲でも、貿易の
日本民族の本能の一つは、常に海外へ向けての発展にあるのだが、それが徳川幕府の鎖国政策で、その跡を止めなくなつてゐたことは、いかにも残念である。
徳川幕府の世になつても、ルソン、安南、シャムなどには、日本の植民地があつて、日本町と呼んでゐた。シャムなどには、寛永の頃には、日本の居留民が、八千人居ると云はれた。山田長政が活躍したのは、かうした日本人を指揮してゐたからである。
秀吉の朝鮮出兵も、その目的意識がハツキリせず、たゞ秀吉の大陸進出思想の現はれとして了つたことは、甚だ残念である。秀吉は、貿易の利をよく知つてゐた男だから、半島出兵などをしないで、これら南方に於ける日本人居留者に、国家的掩護を与へたならば、日本の南方に於ける発展は、どんなに目ざましいものになつたであらうか。惜しみても余りある機会であつたのだ。
維新後、日本民族は再び海外発展を開始したが、三百年のハンディキャップが、いかに我々にとつて、不利であつたか、しみ/″\と感ぜられてゐる。が、このハンディキャップを克服して、邁進する点に於て、日本人は先祖に劣らざる勇気を発揮すべきだと思ふ。
* 足利八代将軍義政は、政治に心を用ゐず、奢侈 に耽り、土木を起し、課税を重くし、度々徳政の令を発したので、人民は塗炭の苦しみに陥入り、極度に頽廃的となつた。
この時、管領細川勝元と山名宗全は互に勢力を争ひ、畠山・斯波 の両管領家にも相続の争ひがあり、たま/\、将軍家にも家督相続の争ひが起り、それ/″\、聯合して、敵味方に別れて、後土御門天皇の応仁元年、京都の内外で戦争を始めた。
これを見た、諸国の守護・地頭などは、俄 に領地に帰り、或ひは領地にゐる者は、これを機会に兵を挙げ、互に封地を争ひ、租税を入れず、天下動乱した。
六年後、宗全と勝元相次いで卒 し、義政もまた職を義尚 に譲つたが、両軍は、尚ほ相対峙して、容易に戈を納めなかつた。
が、文明九年に至り、やうやく諸将は、戦に疲れ、兵を収めて、国に帰つた。
この時、管領細川勝元と山名宗全は互に勢力を争ひ、畠山・
これを見た、諸国の守護・地頭などは、
六年後、宗全と勝元相次いで
が、文明九年に至り、やうやく諸将は、戦に疲れ、兵を収めて、国に帰つた。
足利時代の末期には、
だから、鎌倉時代以来の大名で、潰れなかつたのは、九州で島津氏、奥州で伊達氏くらゐだけで、山名、細川、両上杉、今川、京極、畠山、赤松、大内、九州の
そして、その家臣もしくは被官の中の実力あるものが、その後を襲つたわけだが、しかも何等の地盤もなしに、蹶起したのは、北條早雲と豊臣秀吉の二人である。尤も、北條早雲は駿河の今川氏との縁故を頼りに、伊豆を奪つたわけだが、秀吉は徒手空拳でスタートしたのである。
この時代の人物を二つに別けると、
(イ) 武将としても政治家としても一流の人
豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、毛利元就 、北條早雲、北條氏康 、伊達政宗、武田信玄、小早川隆景、長曾我部元親 、蒲生氏郷
(ロ) 武将として一流の人
上杉謙信、吉川 元春、立花宗茂 、加藤清正、加藤嘉明、藤堂高虎、島津義弘、黒田長政
(イ)に属する連中は、秀吉、家康以外の人々も、政治家として民政に明るく、人情の機微にも通じ、天の利、地の利を得れば、もつと大を為し得た人々である。(ロ)に挙げた人々は、政治的手腕には乏しいが、義理堅く勇敢で、殊に吉川元春などは同じ長州の乃木将軍を思はせるやうな剛毅質朴な猛将である。戦国時代の戦争の中で、頼山陽は三大戦として
が、この三大戦よりも、川中島の戦争が、有名である。これは、あの豪快な主将の一騎打が、後代まで人気があるのだらう。上杉謙信は、足に少し引きつりのある五尺そこ/\の小躯だつたが、その猛気は、敵味方に怖れられてゐた。
当時、一軍と一軍との戦争とすれば、甲越二将は、もつとも強かつたが、この二将と相模の北條氏康とが、南北の一線上に
戦国時代は、一見いたづらに混乱した暗黒時代に見えるが、この中に日本全国が自ら統一に向つて、動いてゐたのである。
しかも、群雄の胸裡に共通した思想は、京都に
上杉謙信の如きは、年二十三の時、朝廷から従四位下
毛利元就も、勤皇の志があつたし、織田信長は、父信秀の代から、皇居の修理に献金などしてゐる。
彼等に忠誠の
だから、戦国時代の後半は、彼等の上洛競争になつてゐたのである。
その中で最初に上洛行動のスタートを切つたのが今川義元である。
今川家は、下剋上の犠牲にならなかつた足利時代の名家だ。義元は相当の人物で、
義元を打倒した信長は、義元の壮図だけを承け継いで、その戦勝の余威に乗じて、上洛行動の準備を為し、先づ今川から自立した徳川家康と攻守同盟を結んで、後顧の憂を絶ち、美濃の斎藤を追うて道を開き、近江の浅井長政に妹を嫁して、途中の不安を除き、その上洛の志を達したのが、永禄十一年である。桶狹間の大勝から八年目である。
三好、松永などの下剋上の兵隊と違ひ、規律の厳粛な新興兵士とも云ふべき信長の軍勢は、京都には
織田信長が、先づ京都に入つて彼の理想たる「天下布武」の第一歩に成功したのは、彼が他の群雄に比して、最も地の利を得てゐたからである。濃尾の地は、伊吹、鈴鹿の縦走山脈に依つて、近畿と隔絶したゐたため[#「隔絶したゐたため」はママ]、中央政局の波動から、超然としてゐることが出来たし、又本州中部の上杉、武田、北條の諸勢力は、互に牽制し合つてゐたし、
戦国の群雄が
されば、以後の数年間が、彼としては一生の危期であつた。
甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、
周到な信玄、
謙信と信玄とは、軍の編成と統率、団体戦法と用兵に於て、戦国時代の群雄をはるかに凌駕してゐて、我が国に於ける戦術の開祖とも云ふべきである。後世、由比正雪が楠木流の軍学などと称したものも、武田の兵法を太平記に結びつけたものである。
だが、この越後の獅子と甲州の龍は、中央の舞台を外に、十年も対峙してゐる。川中島合戦は、戦史を飾る激戦ではあつたが、政治的には、何ほどの意義もなかつた。後年秀吉が、「ハカの行かぬ戦争をしたものだ」と評した
甲越の決戦を観望して、「
入洛競争のテープを切つたのは信長だつたが、甲斐の龍、信玄の鋭鋒を
氏康逝き、信玄歿し、関東は謙信の
豊穣な濃尾の地利に
この時、中国毛利氏と対陣中の秀吉は、すぐさま媾和して、神速飛ぶが如くに引き返し、摂津山崎の一戦に、光秀を討ち取つた。叛逆後わづか十三日にして、光秀は滅んだのである。三日天下の称がある所以である。光秀の叛逆は、下剋上の最後の場合だつたが、近世に近いのと、相手が大物であつただけに、主殺しと云つた悪名を、相当以上に受けてゐる。
独力で主君の復仇戦を遂げた秀吉の声望は、一時に加はつた。近畿の諸将は、先を争つて彼の麾下に集つた。織田家の宿将たる柴田勝家や滝川
天正十一年五月、秀吉は諸国から大木巨岩を集め、三十余国からの人夫を使役して、大坂に大規模な築城工事を起し、翌年の八月に殆んど竣工した。金城鉄壁、難攻不落の堅城であり、荘厳壮麗、天下統一の覇業を期する秀吉の理想を象徴した名城でもあつた。秀吉は築城と同時に、大都市建設の計画を立てて、堺や伏見から商人を移住させた。
天正十二年には、秀吉は統一の功を急ぐために徳川家康と同盟し、一方では長曾我部
越えて天正十八年三月、自ら大軍を率ゐて北條氏を小田原に攻囲して
足利時代は暁暗期である。その中から生気に満ちた近世の朝は明け初めて、豪快な戦国の舞台は展開したのだ。そして、信長と秀吉と家康は、満身に照明を浴びつゝ相
信長は気象の荒々しい性急な乱世的英雄で、彼の活躍は実に目覚しかつた。秀吉は戦国的英雄であると同時に、実に平和を愛する英雄であつた。戦国百年の焦土の上に、絢爛たる桃山時代を出現させたのは彼である*。家康は信長のやうな目覚しさはないし、秀吉のやうな華やかさもないが、実に緻密で組織的で建設的で、近代的な英雄である。この三人の性格を比べると、秀吉と家康は、信長に比し、滅多に人を殺してゐない。政略以外には、人を殺してゐない。秀次の妻妾を殺したことは、秀吉の晩年の過失である。秀頼母子を殺したのは、家康として政略上止むを得なかつたのである。それ以外は秀吉も家康も、人を殺すことを
結局、英雄といふものは、時代が生むのだ。世の中が真に必要に逼られてゐる大事業を遂行する人物が英雄なのである。信長も秀吉も家康も、それ/″\、大きな社会的需要に応じて現れて、独自の役割を果した人物で、真に英雄である。
もし家康が応仁の乱時代に生れてゐたならば、精々細川か山名の一将で終つたかも知れない。又、信長が家康の時代に出てゐたら、叡山や本願寺を焼打したりして、日本のネロとして悪名だけを残したかも知れないのである。
叡山の山僧の
信長は一切の
信長は荒木
信長は畏服させたし、秀吉は悦服させた。そして家康は、智慧の力で服従させてゐる。
家康は、関ヶ原合戦の時にさへ、「
* 信長も秀吉も、今日で云へば、成金的成功者であつたから、その時代の文化も、亦、絢爛豪奢を極めたものだつた。いはゆる、安土・桃山時代の文化である。
信長の安土の城は、天正四年から七年まで、巨万の財を費 して作り上げたもので、戦争の為めの城と云ふより、寧 ろ、華麗な邸宅だつた。三つの丘の真中の七重の天守閣の頂には、金の鯱鉾 が朝日夕日に輝いてゐた。屋根瓦には、漆を塗り、金粉をまき散らした。襖はいづれも、金地で、狩野永徳らが牡丹に唐獅子といつた風な、思ひ切つて華美な絵を描いた。
秀吉が、諸大名に命じて築かせた大坂城は、周囲三里に余る大城郭で、八層の天守閣を中心に、華美を極めた建物が立並んだ。聚楽第も、絢爛眼を奪ふものだつた。
従つて、彫刻も独立した美しさを持つたものよりも、豪壮な邸宅寺院などの建築美にそへる装飾彫刻が盛んになり、左甚五郎などゝ云ふ名手が出た。
絵画も、狩野永徳・山楽、土佐光吉 ・光則・光起 など彩色目もまばゆい程の華麗なものを描いたし、墨絵も、大幅で、華やかなものがもてはやされた。
足利時代に始まつた茶の湯は、信長・秀吉共に好んだ。秀吉は、北野の大茶の湯のやうに平民も遠慮なく参会させたので、茶の湯は、非常な勢で、上下の区別なく拡まつた。
武野紹鴎 とか千利休が出て法式を整へたので、千家表流・千家裏流・千家武者小路流などが出来、更に、石州流・有楽流・藪内流・遠州流などの流派が出来た。
その上、秀吉は、都市経営策として、美術工芸の名工を京都烏丸 に集めたので、京都は美術工芸の中心地となり、本阿弥 光悦とか野村宗達などの優れた工芸家があらはれ、桃山風の華美な工芸品を作つた。
また、茶道の隆盛とともに製陶業が盛んになつた。殊に、朝鮮出兵の時、諸大名は、彼の地から陶工を連れて帰つたので、製陶法は著るしく進歩した。殊に、九州の諸藩では、競つて新らしい製法の陶器を造つた。福岡の高取焼、熊本の高田焼(八代焼)、佐賀の有田焼、鹿児島の薩摩焼などは、この頃、始まつたのである。
秀吉は、この様な豪奢な生活をする資金の獲得の為、外国貿易を奨励した。彼は、当時、堺の町に多数の外人が居留して、商業が盛んなのに目をつけ、大坂を政治の中心とすると共に、腹心の石田三成を堺町奉行として、外国貿易を自家の監督下に置いた。
信長の安土の城は、天正四年から七年まで、巨万の財を
秀吉が、諸大名に命じて築かせた大坂城は、周囲三里に余る大城郭で、八層の天守閣を中心に、華美を極めた建物が立並んだ。聚楽第も、絢爛眼を奪ふものだつた。
従つて、彫刻も独立した美しさを持つたものよりも、豪壮な邸宅寺院などの建築美にそへる装飾彫刻が盛んになり、左甚五郎などゝ云ふ名手が出た。
絵画も、狩野永徳・山楽、土佐
足利時代に始まつた茶の湯は、信長・秀吉共に好んだ。秀吉は、北野の大茶の湯のやうに平民も遠慮なく参会させたので、茶の湯は、非常な勢で、上下の区別なく拡まつた。
その上、秀吉は、都市経営策として、美術工芸の名工を京都
また、茶道の隆盛とともに製陶業が盛んになつた。殊に、朝鮮出兵の時、諸大名は、彼の地から陶工を連れて帰つたので、製陶法は著るしく進歩した。殊に、九州の諸藩では、競つて新らしい製法の陶器を造つた。福岡の高取焼、熊本の高田焼(八代焼)、佐賀の有田焼、鹿児島の薩摩焼などは、この頃、始まつたのである。
秀吉は、この様な豪奢な生活をする資金の獲得の為、外国貿易を奨励した。彼は、当時、堺の町に多数の外人が居留して、商業が盛んなのに目をつけ、大坂を政治の中心とすると共に、腹心の石田三成を堺町奉行として、外国貿易を自家の監督下に置いた。
秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮を討つためではなくて、
秀吉は、
家康は、あれほど質素倹約を旨とし、金銀の貯蓄に努めながら、彼の死後四十年で早くも財政の窮乏に苦しんでゐるのである。だから、秀吉の天下は、制度や法令の力ではなくて、財政の力で支へられてゐたと言へる。しかも、その有力なる財源は、外国貿易に依つたのである。
それを、江戸幕府は、何故に鎖国したか。表面の理由は、キリスト教*が口実になつてはゐるが、事実は、海外からの活気ある自由な商業資本主義的風潮が、土地と農民を経済的基礎とする封建制度を、侵蝕すると信じたからである。徳川封建政府を維持して行くためには、日本を永久に農業的鎖国にしておく必要があつたのである。
鎖国令の実施は、寛永十年が第一回で、十三年、十六年と、三段階に分れ、次第に厳重になつてゐる。以後、日本の造船術は、全然後退してしまつたし、日本人の頭には、鎖国は祖法であり、国是であるといふ観念が成長し、外国人と交ることを、極度に怖れるやうになつたのである。そして、日本民族が得意とする、他国文化の吸収同化作用は、一切止んでしまつた。だから、鎖国以後は、固有の文化は発達したが、何となく不具的で盆栽的で、活気のない、いはゆる島国性を感じさせるやうなものとなつたのである。
しかも、江戸時代に、日本の人口が殆んど増減しなかつた理由は、五十年毎に襲つた大饑饉のためで、鎖国令が国外からの食糧輸入を遮断してゐるから、饑饉になると、今なほ古老が語るやうな悲惨な状態を現出したのである。
もし、鎖国令といふ
維新後、日本は再び開国して、世界文化に追ひ付かうとして
一たい、我々の祖先は、他を
* 足利義輝の天文十八年、イスパニヤ人フランシスコ・ザヴィエルが鹿児島に来て、我が国に初めてキリスト教を伝へた。
当時、異国の風物が珍らしいのと、乱世の為め、国民は不安に戦 いてゐたので、神の愛を説くキリスト教は、吉利支丹 宗或ひは天主教と云はれて、非常な勢ひで信者を獲得した。
ザヴィエルが薩摩に教会を建てゝから二年ばかりの間に、九州や山口などで、五千人程の信者が出来た。
信長は、本願寺の勢力を制する為めと、外国の新知識、文物を入れる為めに、吉利支丹宗を保護した。
秀吉も、信長の方針を踏襲して、宣教師を保護し、キリスト教の伝道を放任した。「日本西教史」によると、秀吉は宣教師の一人に向つて、殿中の侍女のうちキリスト教を信ずる者は操行端正である、キリスト教の宗規がもつと寛大であれば、自分も信者になると言つたと伝へてゐる。
従つて、諸大名の間にも、キリスト教の信者が多くなり、九州の大友・有馬・大村などはローマ法王に使節を出すと云ふ熱心さであつた。高山右近、石田三成、小西行長、黒田孝高 、細川忠興 、その夫人なども、有名なキリスト教信者である。
ところが、大村純忠 が財政に苦しんで、宣教師に金を借りて長崎を奪はれたことから、天正十五年、秀吉は、ポルトガルの宣教師を追ひ払つた。慶長元年には、イスパニヤが領土を狙つてゐるとの疑ひから、吉利支丹 を禁じ、宣教師や信者を殺したが、家康は、又、初期の間、貿易の利益を得る為めに、吉利支丹 を黙認した。その結果、九州・畿内の各地に、教会・ミッションスクールが出来、ラテン語、ポルトガル語、地理、文学、西洋音楽などが伝へられた。
が、幾何 もなく、宣教師はキリスト教を伝道して日本を侵略する下心ありとして、家康は、慶長十七年、天下に令して、キリスト教を厳禁し、外国宣教師を尽 く海外に追放した。
然し、外国商人が裏面で布教し、国内のキリスト教信者の反抗も意外に強かつたので、三代将軍家光は、数度にわたつて、外国商船の往来を禁じ、遂に、寛永十六年(紀元二二九九[#改行]西暦一六三九)七月、和蘭 人と支那人を除く他の外国人との貿易を一切禁止したのである。
当時、異国の風物が珍らしいのと、乱世の為め、国民は不安に
ザヴィエルが薩摩に教会を建てゝから二年ばかりの間に、九州や山口などで、五千人程の信者が出来た。
信長は、本願寺の勢力を制する為めと、外国の新知識、文物を入れる為めに、吉利支丹宗を保護した。
秀吉も、信長の方針を踏襲して、宣教師を保護し、キリスト教の伝道を放任した。「日本西教史」によると、秀吉は宣教師の一人に向つて、殿中の侍女のうちキリスト教を信ずる者は操行端正である、キリスト教の宗規がもつと寛大であれば、自分も信者になると言つたと伝へてゐる。
従つて、諸大名の間にも、キリスト教の信者が多くなり、九州の大友・有馬・大村などはローマ法王に使節を出すと云ふ熱心さであつた。高山右近、石田三成、小西行長、黒田
ところが、大村
が、
然し、外国商人が裏面で布教し、国内のキリスト教信者の反抗も意外に強かつたので、三代将軍家光は、数度にわたつて、外国商船の往来を禁じ、遂に、寛永十六年(紀元二二九九[#改行]西暦一六三九)七月、
徳川家康は、秀吉の死後十五年も待つてゐたが、余命が幾ばくもないことを覚つて、遂に秀吉の子秀頼を大坂城に
百年間も戦乱の舞台にされてゐた社会の全体は、戦争には厭き/\してゐたから、家康が立てた江戸幕府は、その徳性はともかくとして、天下安定の重鎮としては
江戸幕府の政策に一貫してゐる精神は、善政も悪政もない。自存であり自衛であつて、徹頭徹尾徳川本位である。
家康は、頼朝の鎌倉幕府の組織に傾倒したが、単なる模倣はしなかつた。旧制度の研究に熱心ではあつたが、法制道楽ではなかつた。彼は時代に順応して巧みにこれを参酌した。彼は天才的な立法者であり、巧妙な運用者であつた。だから家康が立てた政治の根本方策は、「
家康は、鎌倉幕府や室町幕府の政策の跡に鑑みて、皇室に対し奉つて十七箇条の
諸大名に対しては、
江戸幕府の制度は、外面は最も地方分権的体裁を示してゐるが、内面は最も精緻な中央集権制で、自領内では行政権、警察権をもつてゐる百万石の大名も、幕府の一片の命令で
江戸幕府の制度が整備したのは、三代の家光の時代で、その職制は、幕府の重職に大老、老中、若年寄の三役があり、その下に三奉行がある。
大老は一人で、諸役の上にあつて大事を総裁した。これは適当な人物がなければ、
大目附、目附は、それ/″\老中、若年寄の耳目となつて諸大名及び旗本を監掌した。何れも旗本の士を任じたのである。
側用人は、初めは将軍に近侍して老中へ取次役をしてゐたのであるが、後には五代綱吉の時の柳沢吉保のやうに、政事に参与して、権勢を振つた。やはり大名を任じたのである。
地方行政機関としては、幕府直轄領に郡代または代官を置いた。特に京都には所司代を置いて、朝廷守護の名の下に、公家及び畿内以西の大名を監視させたのである。なほ、大坂と駿府には城代を置き、その下に町奉行を置いた。この外、奈良、伏見、山田、日光と、金銀山の佐渡、貿易港の長崎、堺、下田等にも奉行を置いたのである。
大名の取締りは最も重要問題だが、徳川氏の一族たる親藩と、関ヶ原役以前から家臣であつた譜代と、関ヶ原までは徳川の朋輩であつた外様とを、大小親疎に従つて、その領土を犬牙錯綜させて配置し、牽制の妙を極めたのである。
又、
又、徳川幕府は、頻々として諸大名の移封を行つたが、それは鎌倉、室町の時代のやうに、諸大名を同じ領地に定着させては、中に財政家がゐて民心を得、富強を致す者ができては、江戸幕府が危いからであつた。
家康、秀忠、家光と、江戸幕府三代の将軍は、朝幕問題、諸大名問題、
その上、織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、皇室に対する純粋な敬意を持つてゐたが、徳川氏はそれを継承せず、徳川家康にしろ秀忠にしろ、皇室に対して、終始政略的であり、江戸幕府の朝廷に対する態度は、国史を読む者にとつて、痛憤を感ぜしむる点が、甚だ多いのである。
葦原やしげらばしげれおのがまゝ
とても道ある世とは思はず
とても道ある世とは思はず
の御製に依つても、幕府の横暴が察せられるのである。
然し、天下の政権を握つた徳川家康が、治国の道徳的基礎として、従来の戦国武士道を、学問に依つて、新らしい君臣道徳に体系づけようとしたことは、やがて天下の武士に、君臣の大義名分を知らせることに役立つた。彼等は自分と主君との名分を知ると共に、主君と将軍との名分を知り、それと同時に将軍と朝廷との間に、より一層大なる名分の存在することに気がついたのである。
幕府の学問奨励に依つて輩出した江戸時代初期の大儒たる山鹿素行、熊沢
聖徳太子が「
幕府が、御用倫理学と頼んでゐた朱子学派の山崎闇斎が、尊皇賤覇思想の一つの源とさへなつてゐるのである。
かうして、江戸幕府が、自家の道徳的立場を擁護せんとして奨励した学問は、国体観念を勃興せしめ、それと不可分なる尊皇思想の擡頭を誘起してゐるのである。
しかも、徳川の御三家として、その
しかも、その修史の事業は、当時に於ける国史の定本を提供したと云ふだけではなく、水戸三十五万石の財力を傾注したと云はれる編史事業そのものが、学問の奨励となり、学者の優遇となり、国史の研究を促し、国学勃興の動因となり、尊皇精神の昂揚に多方面から寄与してゐるのである*。
* 義公以来連綿として続いた水戸の藩学は、会沢伯民、藤田東湖の二碩学 の出現により、鬱然たる体系をなし、後世、水戸学と称されて、尊皇論の中核となつてゐる。
水戸学の定義を強ひて定めるなら、それは大義名分の学であり、皇道第一主義の思想である。その背後には、大日本史と云ふ力強い史論を持ち、その実践方法に於ては、あく迄も実行第一を主として、この点では、陽明学の実践主義も遥かに及ばない位だ。
その思想の中心が、国体明徴だから、勢ひ覇者である幕府否認に傾き、しかも、それをどし/\実行したのであるから、幕府に取つてこれ程恐ろしいことはない。
井伊直弼 が安政の大獄で狂気じみたテロリズムを行つたのも、この勤皇思想の中核水戸学の総主たる斉昭 を押へる為めだつたのだ。
水戸学の基礎を大体築いたのは藤田幽谷 だが、これを体系ある思想として完成したのは、その高弟である会沢伯民と、その子である藤田東湖である。
会沢伯民は、諱 は安 、通称正志斎とも言はれた。東湖その他の水戸学者の稜々たる野性ぶりとは違つて、温厚篤実、心の底からの学者肌の人であつた。
後進を戒めて、常に、
「口を以て書を読むことなく、心を以て読め。」
「士は弘毅でなければならぬ。弘なるが故に之に安んじ、毅なるが故に少しも撓 まない。」
などと、佳い言葉を遺してゐる。
然し、何と言つても、彼の名を不朽にしたのは、四十四歳の時に著した「新論」だらう。
「日本国民のすべては、何を措いても、日本国体の自覚の上に立て。」
と云ふのが「新論」の冒頭で、正志斎が絶叫した趣旨である。その巻一の初めには、
「謹みて按ずるに、神州は太陽の出 づる所、元気の始まる所にして、天つ日嗣 、世々、宸極 を御し、終古易 らず。固 よりに大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく宇内 に照臨し、皇化の曁 ぶ所、遠邇 あることなかるべし。」
と、堂々、日本国の優越を宣言してゐる。
「新論」は、熱血溢るゝ当時の勤皇の志士達には、経典の如く読まれ、奮起の原動力となつた。
吉田松陰は、肥後の宮部鼎蔵 と手を携へて上京する船中でも、この「新論」を読んで感激措く能はず、幾度も船中で雀躍して、快哉を連呼したさうだ。そして、会沢に逢ひたくてたまらず、遂に水戸の寓居を訪れて、その謦咳 に接して、
「吾れ今にして皇国の大道を知れり。」
と述懐し、
「会沢先生は、人中の虎なり。」
と、死ぬまで、敬慕の念を寄せてゐた。
高杉晋作は、「新論」を読むと、すぐ藩公の世子に献上してゐるし、真木和泉は、「新論」を読むや、矢も楯もたまらず、水戸へ出掛けて、会沢門下に加はつてゐる。
「新論」の名声は天下を風靡して、「新論」を読まざる志士なく、「新論」を読んで勤皇志士たらざる無し、と云つた有様であつた。
会沢は、水戸の南街塾で、諸国から集まる好学の志士を教導しながらも、万巻の書に埋り、清貧の中に、文久三年八十三歳の天寿を全うして生涯を終へた。
藤田東潮は、会沢の学者肌に対して、寧 ろ、悲憤慷慨する稜々たる気骨の政治家肌の男であつた。東湖は、天下の諸侯有司志士と交はつて、積極的に水戸学を鼓吹した。
西郷隆盛は、大先輩として、事ごとに東湖を敬ひ、「天下真に畏敬すべきは、東湖先生である。」と晩年に至るまで語つてゐる。
東湖は、土佐の豪傑殿様山内容堂とは非常に親密で、常に置酒高会 して、盛んに時勢を語り明したが、或る時、「水戸は親藩でダメだが、山内侯一つ幕府に対して御謀叛 なさつては如何でござる。」
と云つて、容堂の荒胆をひしいでゐる。
東湖の著書で、有名なものは、「常陸帯 」「囘天詩史」「弘道館述義」「正気歌」などである。中にも、「囘天詩史」「正気歌」は、維新の志士に愛誦好吟されてゐる。
東湖の政治的活動には、常に、藩主、烈公斉昭の推輓がある。
之を要するに、水戸学は、会沢伯民、藤田東湖に至つて大成し、しかも、これに配するに烈公斉昭といふ当時の諸侯中の冠冕 を得て、一藩をあげて、鬱然たる反幕府の一大中心となつてゐたのである。
水戸学の定義を強ひて定めるなら、それは大義名分の学であり、皇道第一主義の思想である。その背後には、大日本史と云ふ力強い史論を持ち、その実践方法に於ては、あく迄も実行第一を主として、この点では、陽明学の実践主義も遥かに及ばない位だ。
その思想の中心が、国体明徴だから、勢ひ覇者である幕府否認に傾き、しかも、それをどし/\実行したのであるから、幕府に取つてこれ程恐ろしいことはない。
井伊
水戸学の基礎を大体築いたのは藤田
会沢伯民は、
後進を戒めて、常に、
「口を以て書を読むことなく、心を以て読め。」
「士は弘毅でなければならぬ。弘なるが故に之に安んじ、毅なるが故に少しも
などと、佳い言葉を遺してゐる。
然し、何と言つても、彼の名を不朽にしたのは、四十四歳の時に著した「新論」だらう。
「日本国民のすべては、何を措いても、日本国体の自覚の上に立て。」
と云ふのが「新論」の冒頭で、正志斎が絶叫した趣旨である。その巻一の初めには、
「謹みて按ずるに、神州は太陽の
と、堂々、日本国の優越を宣言してゐる。
「新論」は、熱血溢るゝ当時の勤皇の志士達には、経典の如く読まれ、奮起の原動力となつた。
吉田松陰は、肥後の宮部
「吾れ今にして皇国の大道を知れり。」
と述懐し、
「会沢先生は、人中の虎なり。」
と、死ぬまで、敬慕の念を寄せてゐた。
高杉晋作は、「新論」を読むと、すぐ藩公の世子に献上してゐるし、真木和泉は、「新論」を読むや、矢も楯もたまらず、水戸へ出掛けて、会沢門下に加はつてゐる。
「新論」の名声は天下を風靡して、「新論」を読まざる志士なく、「新論」を読んで勤皇志士たらざる無し、と云つた有様であつた。
会沢は、水戸の南街塾で、諸国から集まる好学の志士を教導しながらも、万巻の書に埋り、清貧の中に、文久三年八十三歳の天寿を全うして生涯を終へた。
藤田東潮は、会沢の学者肌に対して、
西郷隆盛は、大先輩として、事ごとに東湖を敬ひ、「天下真に畏敬すべきは、東湖先生である。」と晩年に至るまで語つてゐる。
東湖は、土佐の豪傑殿様山内容堂とは非常に親密で、常に
と云つて、容堂の荒胆をひしいでゐる。
東湖の著書で、有名なものは、「
東湖の政治的活動には、常に、藩主、烈公斉昭の推輓がある。
之を要するに、水戸学は、会沢伯民、藤田東湖に至つて大成し、しかも、これに配するに烈公斉昭といふ当時の諸侯中の
江戸時代に勃興した学問で、わが日本の社会に最も大きな影響を与へたものは、第一に国学であり、第二に洋学であるが、この国学の興隆に、直接有力な刺戟を与へて国学復古の気運を
光圀は大日本史の編纂に当つて、和文の本原を
当時、大坂に
その上、漢学者も刺戟されて国学の必要を感じ、古典研究に余力を用ゐるものが多くなつたが、新井白石や伊藤
長流、契沖についで現はれた専門の国学者に
春満の家は代々京都伏見稲荷山の祠官である。彼は家を弟に継がせ、自らは国学の復古を以て任とし、国史、律令、古文、古歌および諸家の記伝に至るまで
当時は支那かぶれの
真淵は
荷田の門の人も多かりしと聞ゆる中に、一人ぬけ出て、その正意をば得られてぞ有りける。其は荷田の門に大人 (真淵)をおきて、外に大人の如く、師に勝れる人なきにて知るべし。
と、評してゐる。
その門下にも加藤
彼の著書「玉くしげ」に、
凡て天下の大名たちの、朝廷を深く畏れ、厚く崇敬し奉り玉ふべき筋は、公儀の御定めの通りを、守り玉ふ御事勿論也。然るに朝廷は、今は天下の御政を、きこしめすことなく、おのづから世間に、遠くましますが故に、誰も心には、尊き御事は存じながらも、事にふれて、自然と敬畏の筋、等閑 なる事も、無きにあらず。抑 本朝の朝廷は、神代の初めより、殊なる御子細まします御事にて、異国の王の比類にあらず。下万民に至るまで、格別に有りがたき道理あり。(中略)されば一国一郡をも治め玉はん御方々は、殊更に此子細を御心にしめて、忘れ玉ふ間敷 御事也。是即ち大将軍家への、第一の御忠勤也。いかにと申すに、先づ大将軍と申奉 るは、天下に朝廷を軽しめ奉る者を、征伐せさせ玉ふ御職にまし/\て、此ぞ東照神御祖命 の御成業の大義なればなり。
と、いつてゐる。仍ち宣長は自分が仕へてゐる紀州侯に向つて、朝廷尊崇は幕府に対する第一の忠勤であると説いてゐる。彼は将軍職を、朝廷のために不義不逞の徒を討伐する役目で、幕府は独立して存在するのではなくて、朝廷のために存在するのである、と大義を説いてゐるのである。彼が師の真淵を超えて、国学者の魁首とされた
篤胤は、春満、真淵、宣長と共に国学の四大人と呼ばれてゐるが、その尊皇愛国主義の主張は実行的であつたために、幕府に忌憚され、天保十二年江戸を逐はれ、秋田に帰郷を命ぜられ、その著「扶桑国号考」は絶版となつた。
ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の
跡を見るのみ人の道かは刺竹 の
君がみ言を今日きけるかも
高麗もろこしも春をしるらん
やまと島根にたてんとぞ思ふ
跡を見るのみ人の道かは
荷田春満
みたみわれ生れけるかひありて君がみ言を今日きけるかも
賀茂真淵
さしいづるこの日の本のひかりより高麗もろこしも春をしるらん
本居宣長
人はよしからにつくとも我が杖はやまと島根にたてんとぞ思ふ
平田篤胤
国学の研究は直接的には江戸幕府の脅威ではなかつた。多くの国学者も幕府には何等の反抗的思想を懐いては居なかつた。だから幕府は国学に対して幾分の保護を加へてゐるほどである。
併し、国学の究極の観念は、皇室中心主義である。幕府絶対中心主義とは根本的に相反するのである。
この尊皇思想は、江戸幕府の内部的な矛盾が発展するに
江戸幕府は、三代将軍家光に至つて、あらゆる機構が整ひ、武家政治は完成された形を示したが、五代将軍綱吉に至つて、幕府の太平が謳歌される傍ら、綱吉の偏執的な性格や、生類
その後も庸主が続いたので、幕府の政治的機構は、生気を喪つてしまつたのである。
江戸幕府の命脈は、彼に依つて、延長されたに違ひないが、幕府制度の本質内に含まれてゐる欠陥は、如何ともすることが出来なかつた。
江戸幕府の中心思想は、封建的農業主義である。が、日本の土地の広さは一定してゐるし、農事の技術も百年一日の如しであるから、農産額などは、殆んど増さないのである。これに反して、都市の発達に伴ふ近世的な商業は、発達して行く一方である。
これでは、土地所有を基礎とする武士階級の経済力が、商業すなはち町人に支配され、その政治的位置までが、動揺を来すことは当然である。幕府創設以来百年に足らずして、熊沢蕃山は、「今は、大小名とも借銀が多からざるは稀なり。」と云つてゐる。その借銀は、主として大坂の町人から借りたのである。
むろん、町人に借りる前に、家臣達の知行米を借りたから、小身の武士は、
現在でも、経済力の伴はない軍備などは考へられないが、昔でも同じ事である。昔の武士は、千石について約三十人の兵を連れなければならない。平生から、それだけの人数とそれに必要な武器とを用意しなければならない。が武士が貧乏してしまふと、人を養ふことが出来なくなるし、持つてゐる武器も手放すわけである。役儀上、ぜひとも人数を揃へなければならない場合は、
恩顧譜代の家の子郎党に取り囲まれた鎌倉時代の武士と比べると、幕末の武士達は、もう武士でなくなつてゐるわけである。
それに、武士は田園に発達したものだ。土地に固着して、半兵半農で武を
其処へ持つて来て、勤皇思想の勃興と外交問題とが、時代の激浪として、幕府に迫つて来たのである。
結局これが幕府の命取りになつたのだが、三代の家光の鎖国以来百五十年の間に、世界の形勢は一変してゐた。
鎖国当時、ヨーロッパ資本主義は、
世界の交通が大規模となつて、ヨーロッパ人の東洋経営が猛烈化し、フランスの安南占領、イギリスの
幕府維持の最大綱目は、幕府中心主義と、日本孤立主義である。
幕府中心、将軍絶対主義は、勤皇思想の勃興によつて動揺しようとしてゐるし、農業的鎖国の徹底によつて維持しようとした封建的大土地所有制度は、今や世界商業資本主義流入の急潮によつて、脅かされてゐるのである。
元来、勤皇思想は国体観念と聯繋してゐるのだが、外国問題も、当然国家意識を喚起させた。だから国防思想は勤皇思想と融合し、国防論と尊皇論とは抱合して、尊皇攘夷論となり、
大名の中での攘夷論の第一人者は、水戸の徳川
ペルリの軍艦は、二隻は帆船で二隻は風力と気力兼用のものだつた。いはゆる
洋学によつて海外の事情を学んでゐる者は、攘夷の無謀を知つて、開港の意見を抱いてゐた。渡辺
安政元年ペルリは再び浦賀に入港して、前年提出した通商条約の国書の返答を求めた。
翌六年には横浜、神奈川、函館の三港が開かれた。
かくして、外国を恐れた幕府は、鎖国主義の本家でありながら、事なかれ政策のために開国してしまつたのである。とにかく、外交問題は幕府にとつて致命傷となつた。国内は開国論と攘夷論とで沸騰した。
併し、開国論者といへども、幕府の態度を支持したのではなくして、当初から進歩的な鎖国排撃論者であつた。又攘夷論者も、鎖国主義的攘夷論でなくて、国家の面目を
そして、その間、島津久光の家来が横浜郊外の
そして又、梅田
幕府が、百五十年に亙つて厳守して来た鎖国政策を、案外容易に放棄したのは、幕府絶対中心主義の根本が、経済的には商業資本主義による町人の興起と、武士階級の財政難、思想的には、尊皇思想の全面的勃興、この二つによつて動揺し出し、鎖国の効果も減じて来たからだと思ふ。
併し、外交問題は、幕府倒壊のモメントとなつた。江戸幕府を直接
かくして日本が世界歴史の発展から孤立するといふ矛盾は、こゝに全く解消されると同時に、日本民族の理想たる天皇親政は、頼朝以来実に六百七十六年にして、本来の姿で永遠に再現するに至つたのである。
* 剛直漢掃部頭 井伊直弼は、安政五年四月、大老職に就くや、矢継早に、反動的な改革を強行して、勤皇の志士の憤激を買つた。
殊に、将軍継嗣問題と通商条約問題とでは、井伊の傲岸不遜は言語に絶した。
当時の輿論たる一橋慶喜 を将軍世子に就けることに反対して、紀州慶福 を推したことと、勅許を待たずして日米条約に調印したことである。
孝明天皇は、その非礼に、いたく逆鱗 あらせられ給うたのであつた。
天下の志士の井伊弾劾の叫びは、嵐の如く捲き上つたのである。
この時、井伊の輩下たる間部詮勝 と長野主膳は志士の裏を掻いて、京都のアンチ井伊の主魁と目された頼三樹三郎・山岡慎太郎・梅田雲浜等を捕へた。
次いで、志士追及の疾風は、枯葉を捲くやうに、京洛の地を払つた。
六角の獄舎は、志士達で埋まつてしまつた。捕へられた人々の中には、公卿の諸大夫、宮方の青侍、処士、町人、画家、近衛家の老女村岡もゐた。越前の橋本左内も、六角牢へ投げ込まれた。
検挙の手は、堂上公卿の上にものびた。青蓮院 の宮、鷹司太閤、近衛左府、一條、二條、徳大寺その他数十家へ、慎み、落飾、辞官、出仕止めなどの横暴な断罪が下された。
追捕 の手は、京都江戸のみにとゞまらなかつた。第二次、第三次と、全国に亙る検挙網は布かれて、多数の志士が捕縛された。
事件に直接関係なく、長州の野山獄につながれてゐた吉田松陰もまた縛 められて、江戸へ送られた。
江戸に集められた志士を裁くに、井伊は、閣老松平乗全 を裁判長として、「五手掛 の調」にとりかゝつた。これは、寺社奉行、勘定奉行、町奉行、大目附、目附を掛員として、評定所に開く、一種の特別裁判であつた。
その時の拷問のひどさと、断罪の不合理は、言語に絶した。
断罪に先立つて、梅田雲浜は病死し、日下部伊三次 は拷問の為め死んだ。
評定所組頭木村敬蔵が、
「この度の吟味は、人間の皮をかぶり候 者にては出来申さず······」と書いてゐる位ひどかつた。
安政大獄の第一回の処断は、主として水戸派、即ち、安島帯刀 、鵜飼 吉左衛門、幸吉父子がいづれも死刑を執行された。
第二回は、頼三樹三郎、橋本左内、飯泉喜内の三人である。
頼は、井伊派から、梁川星巌 、池内大学、梅田雲浜等と共に「悪逆四天王」と云はれて憎まれてゐた程の硬派だから、死罪は覚悟の上であつた。しかも、関東へ送られる途中、彼は少しも懼 れる色なく、「日毎に軍鶏籠 の中から酒を乞ひ酔眠すること平日と異らず」と云ふ程、腹の出来た人間だつたと云ふから流石 に頼山陽の子に恥ぢない。
橋本左内は、攘夷令降勅の件には関係なかつたので微罪になると思はれてゐたが、彼は、堂々と裁判官に所信を披瀝して退かなかつた。二十六歳の天才児左内は、裁判官に大義名分を述べ「貴公達もさう考へないか」と大いに説教したのである。
幕末の能吏、水野忠徳は、「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と喝破してゐる。
吉田松陰の処刑は第三回目である。
「奉行死罪のよしを読聞せし後、畏り候よし恭しく御答申し、平日庁に出る時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ」、正午、伝馬町の獄に帰つた。それから、裃 紋附の上に荒縄をかけられ、刑場へ引かれたが、この時、松陰は同囚等への告別のつもりで、自筆の「留魂録」の冒頭の歌、
殊に、将軍継嗣問題と通商条約問題とでは、井伊の傲岸不遜は言語に絶した。
当時の輿論たる一橋
孝明天皇は、その非礼に、いたく
天下の志士の井伊弾劾の叫びは、嵐の如く捲き上つたのである。
この時、井伊の輩下たる
次いで、志士追及の疾風は、枯葉を捲くやうに、京洛の地を払つた。
六角の獄舎は、志士達で埋まつてしまつた。捕へられた人々の中には、公卿の諸大夫、宮方の青侍、処士、町人、画家、近衛家の老女村岡もゐた。越前の橋本左内も、六角牢へ投げ込まれた。
検挙の手は、堂上公卿の上にものびた。
事件に直接関係なく、長州の野山獄につながれてゐた吉田松陰もまた
江戸に集められた志士を裁くに、井伊は、閣老松平
その時の拷問のひどさと、断罪の不合理は、言語に絶した。
断罪に先立つて、梅田雲浜は病死し、
評定所組頭木村敬蔵が、
「この度の吟味は、人間の皮をかぶり
安政大獄の第一回の処断は、主として水戸派、即ち、
第二回は、頼三樹三郎、橋本左内、飯泉喜内の三人である。
頼は、井伊派から、
橋本左内は、攘夷令降勅の件には関係なかつたので微罪になると思はれてゐたが、彼は、堂々と裁判官に所信を披瀝して退かなかつた。二十六歳の天才児左内は、裁判官に大義名分を述べ「貴公達もさう考へないか」と大いに説教したのである。
幕末の能吏、水野忠徳は、「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と喝破してゐる。
吉田松陰の処刑は第三回目である。
「奉行死罪のよしを読聞せし後、畏り候よし恭しく御答申し、平日庁に出る時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ」、正午、伝馬町の獄に帰つた。それから、
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂
留め置かまし大和魂
と、次の辞世の詩、
「吾今為レ国死。死不レ負二君臣一。悠々天地事。鑑照在二明神一。」
と吟唱した。
刀を振つた浅右衛門は、「多くの罪人を切つたが、吉田松陰の最期程、堂々として立派なのは他になかつた。」と云つてゐる。
安政の大獄は、安政五年九月から志士の逮捕を始め、六年十二月に一段落をつげた。その範囲は、上は親王、五摂家、親藩、大名から下は各藩の下士、浪人にまで及んだ大規模のものである。
井伊の目標とする所は、勤皇志士を絶やし、水戸斉昭をやつゝけることであつた。勤皇運動の総帥斉昭さへ押へれば、朝廷や尊皇攘夷論者は参つてしまふと思つたのである。
然し、尊皇攘夷思想は、そんな簡単なことで止まる可くもなく、却つて、益々、熾烈となり、井伊は、桜田事変で水戸藩の志士に復讐されたのである。
「吾今為レ国死。死不レ負二君臣一。悠々天地事。鑑照在二明神一。」
と吟唱した。
刀を振つた浅右衛門は、「多くの罪人を切つたが、吉田松陰の最期程、堂々として立派なのは他になかつた。」と云つてゐる。
安政の大獄は、安政五年九月から志士の逮捕を始め、六年十二月に一段落をつげた。その範囲は、上は親王、五摂家、親藩、大名から下は各藩の下士、浪人にまで及んだ大規模のものである。
井伊の目標とする所は、勤皇志士を絶やし、水戸斉昭をやつゝけることであつた。勤皇運動の総帥斉昭さへ押へれば、朝廷や尊皇攘夷論者は参つてしまふと思つたのである。
然し、尊皇攘夷思想は、そんな簡単なことで止まる可くもなく、却つて、益々、熾烈となり、井伊は、桜田事変で水戸藩の志士に復讐されたのである。
明治維新に活躍した勤皇の志士の中でも、その忠誠や志操が、何等報いられずして、中途で斃れた人が、何と多いことであらう。吉田松陰、
しかし、これらの人々こそ、真に明治維新の大業の礎石となつた人々で、明治、大正、昭和と三代の恩沢に恵まれてゐる我々が、決して忘れてはならない人々だらうと思ふ。
かういふ人達に比べれば、尊皇討幕の大義名分が、全国を風靡した後、各藩の方針も定まり、それに依つて行動した人達などは、仕事も楽であり、一身の栄達も思ひのまゝだつたのだから、功臣であると同時に成功者であつたわけだ。
明治維新の初期を彩つた、各地の討幕反幕の行動を挙げると、井伊直弼の首を挙げた桜田事件、閣老安藤
これらのアンチ幕府運動の結果、果して彼等の期待したやうに幕府の勢力は地を払つたであらうか。
成程、歴史の歩みは寸時もその歩調をかへず、その根本に於いては幕府の声威は日々に衰勢を見せてゐるが、表面に現はれたこれらの事件の結果は、必ずしも勤皇運動の伸張を意味するものではなかつた。
元治元年の禁門戦争の結果は、いよ/\この反動的な時勢の動きを、露骨に示してゐる。凡そ無分別な長州勢の禁裡に対する発砲は、今まで勤皇運動の総本山とも云ふべき長州藩に対して、ハツキリと朝敵の烙印を押しつけた。勤皇側の公卿の参朝停止、これは有名な七卿落ちとなつて、惨憺たる急進派の敗北である。
京都の市中は、今や勤皇の志士は全く
更に、幕府は朝廷に請うて、長州征伐の師を起し、藩主毛利父子を謹慎させ、その封土から十万石を削らうとしてゐる。
これらのことを大観すると、明らかに幕府勢力の復活といふことが云へると思ふ。尊皇攘夷の代りに、今や公武合体といふスローガンが尤もらしく振りまはされ、幕府は朝廷を擁して、天下の諸侯に昔日の威を以て臨まうとしてゐる。明らかに、頽勢挽回である。
これは一体どうしたのであらう。これでは今まで
各藩の志士の中の頭のよい者は、かうした逆効果に反省して、今までのやり方の失敗に漸次気がつく者が出てきた。
桜田事件、寺田屋事件、大和、生野義挙、蛤御門の変、水戸天狗党の
つまり、彼等は有志として蜂起し、擾乱を企てただけで、その背後に、少くともその成功を確信させるだけの実力を持たなかつたことである。自分たち同志だけで、先づ事を起せば、天下は自然に動いて、討幕が出来ると、簡単に考へてゐたことである。やせてもかれても、幕府はそんなに脆く崩壊しはしない。
この誤りを再びくり返さず、討幕の大理想を実現する方法は、たつた一つしかないのである。それは、もつと実力ある者が一致して、幕府に当ることである。バラ/\ではダメなのである。
つまり
なるほど、今や薩長は仇敵の間柄と云つてもよい。長州兵の精鋭は、蛤御門の戦ひで、薩摩軍の銃火にかゝつて、沢山死んでゐる。薩奸会賊と云ふのは、当時の志士の標語であつて、薩摩は会津と同じく、佐幕の張本人と目され、その評判のわるいこと甚だしい。
薩藩はしかし、果して佐幕であらうか。断じて否だ。たゞ長州や勤皇急進論者のやうに、過激でなかつただけだ。その耿々たる勤皇精神に於ては、一歩も譲るものではなかつたのである。目的は同じであるが、その手段に於て、異つてゐただけなのである。それから封建の世だけに、藩と藩との間の対立嫉視もある。彼等は一藩を以て一国とし、互ひに対峙してゐたのである。
しかし、大体のコースとして、薩摩と長州とは、それ程深刻に憎み合はなければならぬ理由はないのだ。西国の雄鎮として、共に率先して勤皇の大義を唱へた両藩の先覚者の間に、それほど深刻な
こゝ四五年の間の不幸な行きがかりを捨てゝしまへば、両藩の妥協は可能だし、提携も出来る。
たゞ、薩摩でも長州でも、かう気づいてゐたが、責任ある当局者は、自分で先に言ひ出すわけにはゆかないのだ。
この時、両藩の間に橋渡しをして、その提携の糸口を開いてやつたのが、土佐勤皇党の俊英、坂本龍馬と中岡慎太郎であつた。
慶応元年五月六日、馬関へ長藩の巨頭桂小五郎(木戸孝允)を引つぱり出し、薩摩藩の代表、西郷隆盛に会はした。
そして、薩長が互に肚の探り会ひをして、なか/\木戸、西郷の会見がまとまらないと、彼はかう云つて怒鳴つた。
「何がわが藩の面目、体面、名誉だ。もういゝ加減にしないか。あんた等は、まだ封建制度の幽霊を背負つてゐるか。此の大きな日本を何故忘れてゐるか。同じ日本の土地の上に、位牌知行を立て合ひ、わが藩、わが主人と、区別を立てて何になる。西郷も桂も、これ程馬鹿とは思つてゐなかつたよ。」
さう言つて、西郷に
しかも此の秘密同盟は、七十七万石と三十六万石の大藩が、漫然と一緒になつたのではない。この両藩を代表するに足る、西郷と木戸が、腹心を披瀝しあつて、討幕の役割を分担することを決めたのだ。
その他に、土佐藩、越前藩、宇和島藩等の各藩も、これを機に一つに固まらうとしてゐる。
坂本龍馬を仲介とする、西郷吉之助、桂小五郎両人の晴れやかな握手は、正に維新大業の出発点といつてよい。
慶応三年十二月九日、明治天皇小御所に出御、諸卿諸侯を召見し給ひて、皇政復古のことを諭告し給うた。こゝに於て、明治維新のことは、一まづ形の上では成つたのである。
この復古の大号令に先立つこと二箇月、徳川
薩長の攻勢はいよ/\激しく、このまゝでは幕府の瓦解は免れ難き情勢となつた。この時慶喜将軍は土佐派の公武合体、公議政治論を採つて、大政奉還と先手に出たのである。これでは如何に幕府打倒といきり立つてゐる薩長と
しかし、薩長派の西郷、大久保、木戸たちは、たゞに大政奉還だけでは、ダメだと達観した。二百有余年の旧習に汚染した人心を振起するためにも、幕府にはどうしても武力を以て一撃を加へ、天下の人心を一新しなければ、新時代は来ないと見てとつたのだ。
板垣退助などは「馬上でとつた徳川の天下だから、馬上でなければ
そして彼等は、さま/″\の挑戦的行動をとつて、幕府側を怒らせようとした。江戸薩摩邸の焼打などそれだ。こゝに於て、衰へたりと雖も、幕府は依然として幕府だ。大坂に退いて謹慎してゐる慶喜をめぐつて、幕臣の激昂は渦をまき、伏見鳥羽の一戦となつて爆発、こゝに一箇年余に亙る戊辰戦争の幕は切つて落されたわけである。
この薩長主戦派のやり方は、充分に理由はあつたけれど、しかし考へてみれば、ずゐ分危険な権道だつたとも云へよう。
当時フランスは、ナポレオン三世の命を承けた公使ロセスが、積極的に幕府援助に乗り出してゐるのである。金も六百万
だから慶喜が、突如として大政奉還の挙に出ると、公使ロセスはすつかり呆れ、また驚いてしまつた。
「三百年も天下太平を
が、慶喜は、フランスの援助を拒絶したし、血気に逸る旗本の将士を慰撫し、あくまでも絶対無抵抗主義をとつて、慶応四年(明治元年)四月十一日には、本拠江戸城をも官軍に引渡し、郷国水戸に退いて、弘道館の一室に退隠してゐるのである。
慶喜は烈公斉昭の子で、水戸学の精神で、幼時から育て上げられてきた人だ。皇政復古は皇国本来の姿で、これは歴史の必然だと観じてゐたのだ。薩長の専恣は、固より好むところではなかつたが、わが皇室が中心となつて、これからの日本は世界に乗り出してゆかねばならぬと信じてゐたことは、決して勤皇の有志と違ふものではなかつた。たゞ将軍といふ立場が、今まで歴史を逆行させる役目を担はせてゐたのである。水戸に退いて、はじめて、慶喜は、一日本人としての自分と、そしてその立場を得て、静かに時勢を眺め得るに至つたといへよう。
攻められる慶喜に此の感懐があつたとすれば、攻める薩長側にも、称揚さるべき佳行があつた。
フランスが幕府に力を貸したのと同じやり方で、英国の薩長援助は公然の秘密であつた。英国公使パークスは、機会ある毎に、薩摩に説いて、幕府及びその背後にあるフランスを打倒すべくすゝめ、その為めにはどんな援助でもするからと、もちかけてゐる。
これに対して、薩長の領袖、西郷吉之助は何と答へてゐるか。
「戦争のことはとに角、日本の政体変革のことは、われ/\日本人だけで考へるべき問題である。外国の援助を受けるは面目ない。」とキツパリと断つてゐるのである。
慶喜といひ、西郷といひ、わが国体といふ点にいたつて、その両極端の立場にも拘はらず、期せずして一致したわけである。外国をある程度まで利用しようと考へたであらうが、その国政干渉は一歩たりとも許さなかつたし、近づけもしなかつた。そこに維新史を流れる、日本人独得の力強い信念の流れを見るのである。
あれほどに
伏見鳥羽の戦争がまさに一触即発といふ時、大坂城に在る慶喜のもとへ、岩倉卿から一使者が遣はされた。孝明天皇御一年忌に際し、慶喜に対して献金のことを申出でたのである。恐懼した慶喜は、勘定奉行に命じて、直ちに五万両を朝廷に奉つてゐるのである。想へ、京都は今や薩長の精兵によつて充満し、幕兵一掃といきり立つてゐる時である。大坂城は、江戸から上つた竹中陸軍奉行の大軍によつて守られ、京都に対して、一戦に及ばんと、陣容を整へてゐる最中である。これらの物々しい空気の中にあつて、大坂城と京都御所を結んで、一脈清冽の気の相
伏見鳥羽の一戦に朝廷の[#「朝廷の」はママ]汚名を着た、徳川慶喜に対する処断は、当時諸説紛々で、初めの中は死刑論が圧倒的に多かつた。薩長の諸将は慶喜を憎むこと甚だしく、ぜひこれを
この時に於て、明治天皇は三條
これらの聖恩が、たゞに徳川氏をしてその家祀を全うせしめたばかりでなく、明治維新の大業をして容易に成就せしめた
戊辰奥羽諸藩の処断に於ても、
この洪大無辺の聖恩があつたればこそ、維新の戦乱も容易に鎮定されたのである。慶喜、西郷などの立派な国体観などもさることながら、一たび、明治天皇の御洪大なる大御心に思ひ及ぶ時、明治維新史の花を観る心持がするのである。
明治元年正月の鳥羽伏見の戦ひで始まつた維新戦争は、翌二年函館の幕軍が降伏して、一段落となり、輝かしい天皇親政の御世となつたが、しかし天皇親政の障害となるものは、徳川幕府だけではなかつた。
討幕の急先鋒となつた薩長二藩をはじめ、全国無数の大小各藩も、一君万民の理想のためには、やがて廃滅せらるべき運命に在つたのである。
討幕のために奔走した勤皇諸藩の主従が、幕府の廃滅はやがて諸藩の廃滅となることを、意識してゐたかどうか、それはかなり疑はしい。幕府の代りに朝廷を戴いて、討幕の功績に対する恩賞をも受け、旧幕時代以上の威福を
この形勢を、ハツキリと認識してゐたのは、大久保
「即今、内外の大難、危急存亡の
と喝破してゐる。たゞ、当時の各藩は、水戸の天狗騒動で、武田耕雲斎が、わづか数百の兵力で、中部日本を押し通るのを、傍観してゐたのでも分るやうに、軍備的に無力であつたのと、天皇親政の中央集権的情勢が天下を風靡してゐたので、利害的にも、人情的にも、至難と思はれた廃藩置県が、見事に断行されたのである。西郷隆盛が、
「お互に数百年来の御鴻恩、私情に於ては忍び難きことに
と、述懐してゐるのを見ても、当時の実情が分り、その局に当つた岩倉、大久保、西郷、木戸等の苦衷は察せらるべきである。が、この廃藩置県をはじめ、廃刀令、徴兵令その他明治政府の革新政策に対する武士階級の不平不満が、やがて、西南戦争その他の変乱となつて、勃発してゐるわけである。
明治六年の征韓論に就いての廟議の紛糾は、当時の重臣間に於ける文治派と武断派との意見の対立ではあるが、武断派の思想的背景としては、西洋文明の輸入に快からざる保守主義的傾向、攘夷思想の変形である国権論、武士階級の撤廃に対する不満、薩長専制に対する不平などが
が、当時の征韓論は、たとひそれが当時の情勢から云へば無謀であつたとしても、やはり発展的日本民族の気魄であつて、この気魄があればこそ、後年日清、日露の大戦勝となつたのである。
が、この征韓論の決裂に依つて、多くの反対勢力を野に放つた明治政府は、爾後数年間、苦難の道を歩まねばならなかつた。
現在でも、学生間では、歴史的人物としては、第一に人気があると云はれる西郷隆盛の、生前に於ける大衆の輿望は想見すべきで、その西郷を魁首とした薩軍の蹶起は、明治政府にとつては、現在の我々が想像する以上の危機であつたのである。
が、大久保を中心とする政府は、よくその措置を誤らず、徹底的に
討幕から廃藩置県までの立役者は、西郷隆盛であるが、廃藩置県以後、変乱時代を通じて、その文明政策に依つて、近代日本を築いた大立物は、大久保利通である。
明治時代に創始された立憲政治の起源は、維新当初の五箇条の御誓文である。いな、御誓文は、当時すでに実行されて、各藩選出の
が、既に、公議政治の何物であるかを知つた国民が、藩閥政府の専横を見るにつけ、国民参政の要求をなすのは、当然であつた。殊に、征韓論で破れた板垣退助が、立志社を組織し、国会開設の建白を成すや、人心が
が、五箇条の御誓文に依り、憲法を制定し、立憲政治を行ふといふことは、明治天皇の叡慮であつたと拝察してよい。
されば、明治十二年の夏、アメリカのグラント将軍が来朝するや、明治天皇は、将軍を浜離宮に召されて、政治上の事を、いろ/\御下問になつたが、将軍の、
「承るところに依れば、日本にも国会開設の議論がある由、いづれ憲法を御制定になることと存じますが、何事も忌憚なく言上せよとの御沙汰であるから、申上げます。日本の憲法は日本の歴史及び習慣を基として、御起草あそばさるゝことこそ最も願はしく存じます。」
と、いふ意見が、よほど
この時の大隈の意見が、あまりに急進的であつたため、大隈は廟堂から追はれて、後年の改進党を組織したのである。されば、憲法制定、立憲政体の実施については、政府に於ても、明治天皇の大御心に依つてその大方針が確立してゐたのであるから、当時に於ける自由民権運動の騒ぎは、藩閥政府の強権に対して、不平分子が国会開設の名を利しての抗争とも見るべきであらう。
憲法の調査起草に率先して当つたのは、伊藤博文であるが、その主旨とするところは、英仏流の憲法ではなく、わが国体を基礎とする「日本の憲法」であつた。伊藤は、憲法調査のために外遊し、憲法学者、
当時の最高知識たる井上
元来、憲法は、欧洲に発達したもので、民主的色彩の強いものである。それを日本に採用するについて、伊藤は渾身の努力を傾け、日本精神の根柢をなす、皇室中心の忠君思想を盛つて、日本独得の憲法を起草したのである。
明治二十一年四月、憲法草案は、明治天皇の御前に奉呈された。天皇は、その草稿を御嘉納あそばされ、新たに枢密院を設けられ、国家の元勲と練達の士とを集めて、逐条御諮詢、その審議を
かくて、明治二十二年二月十一日、紀元の佳節を期して、わが万世不磨の大典は全国に発布されたのである。
明治六年に、その時を得ずして、開花しなかつた征韓論の精神が、その時を得て花を開き、実を結んだのが、日清戦争であり、東洋に於ける日本の位置を確立した戦争である。しかも、戦勝日本の実力を築いたものは、大久保利通に依つて指導された殖産興業に依る富国強兵政策であつた。それと同時に、民意に基づく国民戦争を行ふについて、立憲政治がいかに有力であるかを示したのである。
当時、官民朝野の反目甚だしく、国会開設以来、議会は闘争場の観があつたが、一旦開戦となると、国民は
当時の新聞雑誌を見ても、国民の一致団結は、涙ぐましいくらゐであり、純粋素朴な愛国的感情が随処に、ほとばしつてゐるのである。精動運動を必要とするやうな現代の国民は、
日清戦争に依つて、東洋に於ける位置を確立した日本は、その発展途上の宿命として、
これは、当時としては、喰ふか喰はれるかの一大抗争であつた。
日清戦争の終局に於て、三国干渉の首謀者として日本の遼東半島領有を放棄せしめた
これより先、日本は、日清戦争の苦き経験に教へられて、日英同盟を締結し、専心
果然、明治三十七年二月八日、旅順に於て、第一戦の砲火が交へられた。開戦当初は、作戦当局にも確固たる勝算はなく、国家自衛のための決戦であつたが、戦争の結果は、海陸共に戦勝を重ね、遂に敵の戦意を挫折せしめたのである。
媾和談判の結果は、国民の期待通りではなかつたが、結局露国は満洲を断念し、その東方政策を放棄し、日本は代つて満洲に大陸発展の第一歩を踏み入れたのであるから、実に満足すべき大成功と云つてよいので、一に大陸及び黄海、日本海に血を流した同胞の犠牲のおかげである。
日清、日露両役を通じて、明治天皇が、軍国の御政務に御精励遊ばされた御様子は、畏れ多き極みで、幾多の御製を拝してもその一端を拝察することが出来るが、二箇年の歳月を経た日露戦争後には、戦前まで、漆黒であらせられた御頭髪が、半白にならせ給うたとの事で、恐れ多くも、六年後の御大患は、この戦争中の御過労に起因するとも云はれてゐるのである。
国家の如何なる大事変に際しても、
日露戦争に依つて、世界に於ける日本の位置は、確立せられたが、第一次欧洲大戦に際しては、聯合国側に参戦して、東亜の安定勢力たる実力を十二分に発揮した。
この辺から、日本は世界史の舞台に登場したわけで、ロンドン及びワシントンの軍縮会議などは、日本の
昭和六年の満洲事変は、日本が世界歴史をリードしようとしはじめたことを意味してゐる。満洲の一角に上つた現状打破の波紋は、旧勢力に依る国際聯盟を無力化し、
今や、わが日本は、世界新秩序の一角たる東亜新秩序建設に従事してゐる。「無賠償、無割譲」といふ道義的和平条件を正面に立てて、東亜諸民族の恒久平和の楽土を建設するために戦つてゐるのである。
その目的は宏遠であると共に、日本始まつて以来の難事業である。しかし、この大業が達成せられるかどうかは、日本の国運をも、左右しかねないのである。
我々は、先祖以来二千六百年来の皇恩を思ひ、現在日本国民たるの多幸を思はば、一致団結、今次の大業のために、身命を捧げ、以て二千六百年