一
茲には主として、神事に使はれた花の事を概括して、話して見たいと思ふ。
平安朝中頃の歌の主題になつて居た歌枕の中に、特に、非常な興味を持たれたものは、東国の歌枕である。
東国のものは、異国趣味を附帯して、特別に歌人等の歓迎を受けた。其が未だに吾々の間に勢力を持つて居る。譬へば関東には「
そんな事の中に、
此は恐らく、正月の門松の
花祭りと、にう木が門に樹てられる事とは、別の時ではあるが、今は正月の初めと小正月前後に当るから、近づいて来たのである。中世では、にう木の樹てられる初春と、花祭りの行はれる霜月とは、間があいて居たけれども、もつと古い時代には、にう木の樹てられる時と、花祭りの時とは同じ時で、其が次第に岐れて来たのであらうと推定出来る。
花祭りの行事は「花育て」といふ行事が演芸種目の中心になつてゐる。竹を割いて、先を幾つにも分けて、其先へ花をつけた花の杖をついて、花祭りを行ふ場所、其は普通
私の考へを述べると、みようどは即、私の言ふ山人である。其山人は、山から多くの眷属を連れて、
昔の人は、杖を倒に突いて、梢の方を下にして居る。此杖を
此等は杖の信仰である。祝福の効果があるか、どうかの試みである。此効果の現れることを「ほ」が現れるとも「うら」が現れるとも言ふ。此杖は即「花育て」の花杖と同じものである。杖の先に花の咲く事がある。三河の花祭りに、杖の先に稲の穂を附けて来たといふが、此では、意味が訣らなくなる。花杖は、今年の稲の花を祝福する為のものである。花祭りの花は、稲の花の象徴であるのだ。
二
花と言ふ
雪は豊年の貢、と言うた。雪は、土地の精霊が、豊年を村の貢として見せる、即、予め豊年を知らせる為に降らせるのだと考へた。雪は米の花の前兆である。雪を稲の花と見て居る。ほんとうは、山にかゝつて居る雪を主とするのであるが、後には、地上の雪も山の雪と同様に見るやうになつた。稲の花の一種の象徴なのである。処が、かうした意味の花は沢山ある。譬へば、冬の祭り、殊に宮廷の冬祭りなる鎮魂祭に持ち出す桙は、柊で作つたものである。日本紀・続日本紀を見ると、八尋桙根と言ふのが国々から奉られて居る。此は恐らく、棒ではなくて、柊を立ち樹のまゝ抜いて来たものであらう。それで、根の字が着いて居るのであらう。此で以て地面をどん/\と、胴突きして廻つたのである。「柊」の字も「椿」の字も国字である。
榎・楸の如き字も、何故問題になるのか。其は村々国々によつて特殊な祭りに、
花祭りの花は稲の花の象徴であるが、其中心になる人は、今では修験道の後々の、前述のみようどが勤める。其前の形は、山伏の前型なる山人が勤めた。其つく杖に、今年の農業に関する先触れが現れるので、此杖を以て、土地を突き廻つた。村人に此象徴を見せて廻ると同時に、土地の精霊に、かう言ふ風にせよ、と約束させるのである。更に溯れば、土地の精霊が自ら示したものである。今年も、此杖に附いて居るとほり、稲の花が咲くだらうと言ふ
三月の木の花は桜が代表して居る。屋敷内に桜を植ゑて、其を家桜と言つた。屋敷内に植ゑる木は、特別な意味があるのである。桜の木も元は、屋敷内に入れなかつた。其は、山人の所有物だからと言ふ意味である。だから、昔の桜は、山の桜のみであつた。遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた。花が早く散つたら大変である。
考へて見ると、奈良朝の歌は、桜の花を賞めて居ない。鑑賞用ではなく、寧、実用的のもの、即、占ひの為に植ゑたのであつた。万葉集を見ると、はいから連衆は梅の花を賞めてゐるが、桜の花は賞めて居ない。昔は、花は鑑賞用のものではなく、占ひの為のものであつたのだ。奈良朝時代に、花を鑑賞する態度は、支那の詩文から教へられたのである。
打ち靡 き春さり来 らし。山の際 の遠き木末 の咲き行く 見れば(万葉巻十)
の如き歌もあるが、此は花を讃めた歌ではない。名高い藤原広嗣の歌此花の一弁 の中 に、百種 の言 ぞ籠れる。おほろかにすな(万葉巻八)
は女に与へたものである。此は桜の枝につけて遣つたものであらう。此花の一弁 の中 は、百種の言 保 ちかねて、折らえけらずや(万葉巻八)
此は返歌である。此二つの歌を見ても、花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る。こゝに意味があると思ふ。桜の花に絡んだ習慣がなかつたとしたら、此歌は出来なかつたはずである。其歌に暗示が含まれたのは、桜の花が暗示の意味を有して居たからである。此意味を考へると、桜は暗示の為に重んぜられた。一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、桜の花が散らない事を欲する努力になつて行くのである。桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である。
平安朝になつて文学態度が現れて来ると、花が美しいから、散るのを惜しむ事になつて来る。けれども、実は、かう云ふ処に、其基礎があつたのである。かうした意味で、花の散るのを惜しむといふ昔の習慣は吾々の文学の上には見られなくなつて来たが、民間には依然として伝はつて居る。
文学の上の例として、謡曲の泰山府君を見ると、桜の命乞ひの話がある。泰山府君は仏教の閻魔と同様なもので、唐から叡山の麓に将来した赤山明神である。此神に願を懸けて、桜の命乞ひをした桜町中納言(信西の子)の話がある。まことに風流な話であるが、実生活には何らの意味もない。だが、こゝに理由があるのだ。即、桜の命乞ひをする必要があつたのだ。此習慣から、実生活に入つて、桜町中納言を持ち出したのである。
三
平安朝の初めから著しくなつて来るものに、
鎮花祭の歌詞は今も残つてゐるが、田歌であつて、かういふ語で終つて居る。
やすらへ。花や。やすらへ。花や。
普通は「やすらひ花や」としてゐる。「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であつて、ぐづ/\する事である。ぐづ/\して、一寸待つて居てくれと言ふ意味である。だから、此鎮花祭を「やすらひ祭り」と言ふのである。この祭りの対象になる神は三輪の
日本人の古い信仰では、色々関係の近い事柄は皆、並行して居ると考へてゐた。譬へば田に蝗が出ると、人間の間にも疫病が流行すると考へて居たのも、其だ。平安朝の末になると、殊に、衛生法が行届かなくなつて、死人は加茂の河原や西院に捨てゝ置かれた程である。そこで、普通の考へでは、春と夏との交叉期、即ゆきあひの時期に、予め起つて来さうな疫病を退散させる為に、鎮花祭は行はれたものであると言うて居るが、実はさうではない。此以前に、もつと大切な意味があつたのだ。即、最初は花のやすらふ事を祈つたのであつた。其が、蝗が出ると、人の体にも疫病が出ると言ふので、其を退散させる為の群集舞踏になつたのだ。此によつても、桜が農村生活と関係あつた事は訣ると思ふ。さう言ふ意味で、山の桜は、眺められたのである。
其後になると、卯の花が咲き、躑躅が咲き、皐月が咲く。卯の花は、卯月に咲くから卯の花だと言はれて居る。此説には私は少し疑ひを持つて居たが、近頃では却つて、此考へに同情して来た。卯月と卯の花とは関係があると思ふ。此 ut は、何か農村の呪法に関係がある様だ。私は卯月と言ふ月は、此と月と結合して出来た語であり、卯の花の u と ut とは同じものと見て居る。
正月に使用するうづゑ(卯杖)・うづち(卯槌)などゝ言ふものがある。形は支那から来て居るが、其元の信仰は日本のものである。うつには、意味がある。捨てるも「うつ」である。うつちやる・なげうつも、捨てる事である。古い処では「うつ」は、放擲すると言ふ事に使用されて居る。だから、私は、卯杖・卯槌は、地べたのものを追ひ払ふ為に、たゝくものだと考へて居る。土を敲くのは、土の精霊を呼び醒す事であり、土地の精霊を追ひ払ふ事とも考へて居た。
十月の卯の日に玄猪の行事をする。
卯月に咲く山の花なる卯の花は、
これからは、幾らでも、象徴の花が出て来る。卯月に入ると、女達の物忌みが始まる。此事は、柳田国男先生が、最初に注意された。私が、躑躅の花を竿の先につけて外に出す習慣の行はれて居る四月八日の、てんたうばな(天道花)の由来を書いた時に、柳田先生は、此時に女の山籠りの習慣があつて、此女たちが山から帰つて来る際に、躑躅の花を持つて来るが、此と関係がある事を指摘された。其為に、私の考へは変つて来たのであつた。
四
女の物忌みとして、田を植ゑる
此山籠りの帰りに、処女たちは、山の躑躅を、頭に
四月八日を中心とした此日は、普通「山籠り」の日と言うて居る。此日、村の娘が
処女が其資格を得ようとする
男は五歳から十歳頃までに



此に対して女は「はねかづら」を着ける。万葉集には「はねかづら」と言ふ語が四个所に出て来る。
はね蔓今する妹を夢に見て、心の中 に恋ひわたるかも(家持||巻四)
はね蔓今する妹はなかりしを。如何なる妹ぞ、許多 恋ひたる(童女報歌)
はね蔓今する妹をうら若み、いざ、率 川の音のさやけさ(巻七)
はね蔓今する妹がうら若み、笑 みゝ、怒 りみ、つけし紐解く(巻十一)
即「はねはね蔓今する妹はなかりしを。如何なる妹ぞ、
はね蔓今する妹をうら若み、いざ、
はね蔓今する妹がうら若み、
処女を犯すと、非常な穢れに触れるのだ。曾て私は、小田原で猟師の歌つてゐる唄を聞いた。其は「下田の沖のけなし島。けのないヽヽヽヽはかはらけだ。かはらけヽヽすりや七日の穢れ。七日どころか一生の穢れ」といふのである。即、けなし島と言ふ所に、処女の期間を意味して居る。つまり処女犯には、七日のつゝしみを経なければならぬと言ふ事で、即、神事に仕へない女は、女ではなかつたのである。神事に仕へると、神の成女戒を受ける。神のためしを受けて、始めて、男に媾ふ事が出来るのである。
処女がはねかづらをするのは、成女戒の前である。成女戒が済めば、其

壱岐では、独身者が死ぬと、
沖縄では、子供の墓と大人の墓とは区別されて居る。花摘み袋の習慣が、仏教の輸入後、頭陀袋を利用する様になつたのである。近頃では、男の習慣ばかりが残つてゐる。ともかく、男でも女でも、花が成年戒を受けた徴になつてゐたと思はれる。此が、夏の田植ゑの為の神人を定める行事であり、又、田の実りの前兆を見る行事の意味に附帯して来る。田の畔に躑躅の花を樹てるのも、此習慣からである。躑躅は、桙や杖と関係が少くなつて来て、かざしの方に近づいて来る。
五
椿の花は疑ひもなく、山茶花の事である。海石榴と書いて居るのが、ほんとうである。椿には意味がある。大和にも豊後にも、
椿の枝は、近世まで民間伝承に深い意味があつて、八百比丘尼の持ち物とせられてゐる。八百比丘尼はよく訣らないものであるが、室町時代には出て来て居り、其形から見ると、山姥が仏教的に説明せられたものに違ひない。何時までも若く又は、死なぬ長寿者であつて、熊野の念仏比丘尼が諸国を廻つたものと、山姥の考へとが結合したものである。山姥は、椿の枝を山から持つて来て、春の
口から吐く唾と花の椿とは、関係があつて、人間の唾も占ひの意味を含んでゐたのは事実だ。つはつばの語根であり、唾はつばきである。椿がうらを示すもの故、唾にも占ひの意味があるのだらうと考へたのである。どの時代に結合したか訣らぬが、時代は古いもので、つに占ひの意味が含まれてゐる。だから、椿と言ふ字が出来て来る。春に使われる木だから椿の宛て字が出来た。
私は、椿の古い信仰は、熊野の宗教に伴うて残つたものではないかと思ふ。熊野の男の布教者は、
榎も、今言ふ様なものではない。えの音の木は沢山ある。朴の木、
田の中には、躑躅でなければ、柳をさす。七部集の「田中なるこまんが柳」など言ふのも、此である。田の中へ柳をさす事は、今でも行はれて居る。柳は枝が多く、根の著き易いものであつて、一種の花なのである。此系統から行くと、正月飾るものは、皆
秋は、楸を用ゐる。楸は梓の一種であつた。棒にするには、
万葉集・懐風藻等を見ても、
万葉集を見ると「花に」と云ふ副詞がある。はなづま・はなにしもはゞの如きものである。見たゞけの妻||妻でありながら、手も触れられない妻と云ふのが、花妻である。萩の花妻と言ふのは、普通の解釈では、萩の花は鹿の花妻で、鹿の連合ひと言ふのだとして居るが、落着かない考へだ。萩の花と鹿とはくつゝいて居るが、ほんとうの妻ではない、と言ふしやれがあるのであらう。
樒の花は、問題になる程目につく花ではなく、榊に近いものである。何かの前兆になる神の木で、榊の一種類であつた。昔、問題にされた木には、却つて、花の咲かないものが多く、咲く花のみに、捉はれはしなかつた。古く、花と言ふ語は、最多く副詞になつて現れてゐる。物の先触れと言ふ処から、空虚なものに使用せられる、浮いた言葉なのである。
秋の花の中には、秋の七草がある。此に対して、春の七草もある。春の七草は、近世では
木や木の花を式に使ふ事は、魂を鎮める為と、予め今年一年の農作の結果を前触れする為の象徴に使用するのと、二様ある。鎮魂の方は、主に桙で、先触れの方は、花である。木に就て、此両面が分れて居る。
六
ふゆは
魂を附加するのは、鎮魂祭である。此を
たまふりからたましづめに変る中に、ふゆなる増殖分岐を考へた。もとは人が魂を附加してくれる。此が、自分の魂の分岐増殖したのを、分けて与へる様になる。みたまのふゆは、此である。魂を祭る冬祭りと言ふ観念が、一緒にくつゝいて居る。御魂祭りは生人・死人の魂を祭る事である。平安朝時代は、専、御魂祭りをすると考へて居た。意味が固定して、古典的になつて居たのである。
以前は、みたまのふゆを「恩賚」と書いて居る。天皇の恩顧を蒙る事をみたまのふゆの義と考へて居るが、実は、天皇或は高貴の方の魂の分岐して居るのを貰ふ為に、恩賚と言ふのである。みたまのふゆは、魂の分岐したものを人に頒けてやる、其分れた魂、増殖した魂の事を言ふ。分割せられた魂を頒けて貰へば、自分も偉くなるので、其が、恩賚と宛てるやうになつた所以である。
たまふりには、鎮魂を行ふ意味と、魂を分割する意味とがある。春夏秋冬の冬は、魂の分割を考へた時代に出来た名であると思ふ。
冬の時期には、山びとが
此等の木は、たぐさとして、
とうてみずむについて、私のまづ動かないと思ふ考へは、吾々と吾々の祖先とが鉱物なり、動物なり、植物なりから分れて来た元の形が、それだとするのではなく、また、吾々の生活条件に必要なあるものから、吾々が、分岐して来た其もの、即、生活条件が吾々と並行して居るものとするのでもない。私は、とうてみずむは、吾々のまなの信仰と密接して居るもの、とするのである。吾々と同一のまなには、動物に宿るものもあり、植物に宿るものもあり、或は鉱物に宿るものもある。そして、吾々と同一のまなが宿る植物なり、動物なりを使用すれば、呪力が附加すると信じて居たのだ。此を古語で「成る」と言ふ。「成る」は内在する事で、其中へ物が入り込む事でもある。即、同一のとうてむを有する動物・植物・鉱物なりをたぐさとして振りまはせば、非常な偉力が体内へ這入つて来る、と考へたのである。
とうてむは人間以外に、外の物へ入る事もあつて、此中、日本では、動物の信仰と植物の信仰とが、明らかに分れて了うた。日本でも、光線をとうてむに使用した痕跡があるし、また、信仰的に、動物や植物が沢山出て来る。動物の時はつかはしめとなつて居り、植物の時はたぐさとなつて居る。これが段々変化して、更に、沢山のたぐさが出来た。こゝに、植物と人間の祭りとの関係が現れて来る。さうして、時代的に合理化せられて、変化する。其過程に、桙を一突き突くと、魂がめざめて来たり、花が咲くと、今年の成りものの前兆になると言ふ考へが岐れて出た。つまり、とうてみずむの考へから、宗教の原始的思想に這入つて来た。そして人間の魂を自由に扱ふ事が出来ると言ふ考へから、ほよ・はなを考へて来た。八尋桙根は、柊の棒で作つたもので、立ち木のまゝで地を胴突くと花が咲くといふのである。此花を以て、農業の先触れとした。柊は、魂をくつ着ける予備行為の為事と、花としての為事との二様の必要があつたのだ。其為、非常に、大切にされて居る。
三河の奥の花祭りは、もとは霜月の末に行はれたのが、近頃では、春になつて居る。だが、時期から見ると、冬から春に変る時に、稲花の様子を示す祭りである。山人が、予め準備して置いた竹棒の先に、花をつけて、其で土地を突いて歩く。此が、中心行事で、土地の精霊が、其に感応して、五穀を立派に為上げると言ふ信仰であつた。
榊は、神と精霊と、神と人との、問答の木である。さか木の語原は訣らぬが、一種の通弁の機関である。謡曲の「百万」を見ると、狂女の背を榊で打つと、ものを言ひ出す
橘はまた違うて、生命を祝福する木に相違ない。橘の実を「ときじくの
日本紀には、
日本の信仰上の現象を見ると、秋になつてそよ/\と戦ぐ荻が、何となく目について居る様だ。秋の草のそよ/\と揺れる事をそゝ・そゝや等と言ふ語であらはして居る。そゝ・そゝやは、神の告げを表す語であるから、荻や萩には此聯想があつたものと思はれる。そしると言ふことも、神の告げである。をぎと言ふ名は、霊魂を招き寄せる意味である。をぎ・をぐとは、霊魂を呼び醒す場合にも用ゐた。だから荻にも何か信仰上の関係があつたのである。
神楽の中に「韓神」と言ふ舞があつて、韓神が枯れた荻の葉を持つて、舞うた事が、平安朝の文献に見えて居る。韓神は韓風の祭りに使つたものであらうが、荻に神霊を招来する信仰があつたものと思はれる。此等にもとうてみずむの俤が見えて居る。
七
つくり花と言ふのは沢山ある。其中一番古くからあつて、一番長く伝はつて居るのは、
筑波嶺に雪かも降らる。否諾 かも。愛 しき児等 が布 乾 さるかも(巻十四)
といふ歌が、万葉集の東歌の中にある。あいぬの削り花は早くからある。古今集巻十の「
花の木にあらざらめども 咲きにけり。ふりにし木の実なる時もがな(文屋康秀)
とある。めどは馬道で、廊下の暗い処に削り花の掛つて居たのを詠んだものである。此頃には既に、削り掛けの出所を疑ひ、後には合理化して、花の形だとして居る。何故花の如きものを作つたかと言ふに、祝福の形なのである。此以前に、も一つ先の形があつたと思ふ。其は、山人が突いて来た杖の先のさゝけたものが、花の此話と関聯して、言はなければならないのは、万葉集の東歌や防人歌などを見ると、はやしと言ふ語が沢山に出て来る事である。
我を見送ると言ふ事も、今の見送るではない。後に残つて居て、私を護つて居ると言ふ意味である。遠くから、其人に災のない様に、気をつけて居る事が見送るである。「立たりし」は「立てりし」と同じことである。家人が此松と同様にぐにやりとして、私に災がない様に、と見守つて立つて居るのが、眼にあざやかに浮ぶと言ふ位の意である。
後世東国では、家人の誰かゞ遠く旅をして居る家では、家の前に祠を建てゝ、其人の帰る迄置いた。近世の伊勢参りの如きも此形である。魂を留める為に、家の門に木を切つて立てゝ置いた。此動作がはやすである。かうして解くと、万葉集の中で、今日まで解けなかつた歌が、大分解けて来る。
この様に、木の花を以て祝福したり、将来の事を占つて見たり、魂ふりをする習慣が沢山あるのである。これで、私は、四季の花を中心として、神事に関係ある花の事は、大体述べたつもりである。