河内瓢箪山へ辻占問ひに往く人は、堤の下や稲むらの蔭に潜んで、道行く人の言ひ棄てる言草に籠る、百千の
○すゝき························大阪四周の農村・河内・大和・山城・紀伊日高
○すゞし························因幡気高郡
○すゞし························因幡気高郡
すゞしぐろ···············同じ地方
すゞぐろ··················同上
すゞみ·····················美濃大垣・揖斐・尾張西部
すゞぐろ··················同上
すゞみ·····················美濃大垣・揖斐・尾張西部
○にえ···························紀州熊野
にお························信州全体・羽前荘内・陸前松島附近
にご························信州諏訪
のう(ノの長音)······周防熊毛郡
にご························信州諏訪
のう(ノの長音)······周防熊毛郡
○ほづみ························阿波
こづみ·····················熊本・薩摩・日向
ぼと························摂津豊能郡熊野田附近
ぼうど(長音)·········徳島附近の農村
ぼと························摂津豊能郡熊野田附近
ぼうど(長音)·········徳島附近の農村
いなむらぼうと······同上
ぼつち·····················武蔵野一帯の村々・磐城・岩代
○くま···························因幡気高郡
○くろ(清音)···············備前
○くろ(清音)···············備前
ぐろ(濁音)············阿波板野郡
わらぐろ··················備前
わらぐろ··················備前
○としやく·····················長門萩
○じんと(?)···············河内九箇荘
○いなむら·····················阿波其他
○じんと(?)···············河内九箇荘
○いなむら·····················阿波其他
いなぶら··················伊豆田方郡・遠州浜松辺・武蔵野一帯の地
此だけの貧弱な材料からでも、総括することのできるのは、各地の称呼の中には sus, nih 又は hot の語根を含むものゝ、最著しいことである。ほとは、即ほづみのみを落したものと見ることが出来る。私どもの考へでは、今が稲むら生活の零落の底では無いか、と思はれる。雪国ならともかくも、場処ふさげの藁を納屋に蔵ひ込むよりは、凡、入用の分だけを取り入れた残りは、田の畔に積んで置くといふ、単に、都合上から始まつた風習に過ぎぬものと見くびられ、野鼠の隠れ里を供給するに甘んじてゐる様に見える。告朔の

蓋、
まづ、最初に、nih 一類の語から考へて見る。第一に思ひ当るのは、
那須さんの所謂郊村に育つた私は、稲の藁を積んだ稲むらを、何故すゝきと謂ふか、合点の行かなかつた子供の時に「
処が茲にまた、こづみといふ方言があつて、九州地方には可なり広く分布してゐるやうである。徳島育ちの伊原生の話に、阿波では一个処、此をほづみと謂ふ地方があつたことを記憶する、と云ふ。果して、其が事実ならば、彼のこづみも、木の積み物又は木屑などの義では無く、ほづみの転訛とも考へ得られる上に、切つても切れぬ穂積・鈴木二氏の関係に、又一つの結び玉を作る訣になる。尚、遠藤冬花氏の精査を煩したいと思ふ。
hot については、私は二つの考案を立てゝ見た。即、一つはそほどと、他の一つはぼんてんと関係があるのでは無いか、といふことである。そほどを案山子だとすることは通説であつて、彼の山田の
私の稲むらを以てそほどとし、或はそほどの依る処とする考へは、勿論、方言と古語との研究から、更に有力な加勢を得て来なければならぬものであるが、前掲の如くぼとと濁音になつて居るのは、頭音が脱落したものであることを暗示してゐる様でもある。またほとは、ほてから来たらしいといふ説も、標山には招代を樹てねばならぬ、といふ点から見て、一応提出するまでであるが、何れにせよ、後に必、力強い証拠が挙つて来さうな気がする。
くろは畔の稲塚だから言うたもので、必、畔塚と言ふ語の略に違ひがないと考へる。じんとととしやくとの二つに至つては、遺憾ながら、附会説をすらも持ち出すことが出来ぬ。
さて、若し幸にして、稲むらを
大嘗をおほにへ・おほむべなど云ふに対して、新嘗がにひにへともにひむべとも云ふことの出来ぬ理由は、民間の新嘗に該当する朝廷の大嘗が、大新嘗といふ語から幾分の過程を経て来た為だ、と私は考へてゐる。
全体、万葉の東歌の中には、奈良の京では既に、忘れられてゐた古い語や語法を多く遺してゐる。此から考へると、にふなみといふ語を、新嘗といふ漢字の字義通りに説明する語原説も、まだ/\確乎不抜とは言はれぬ様に思ふ。「葛飾早稲をにへす」といふにへが、単に