此字は、室町の頃から見え出したと思ふが、語がずつと大昔からあつたことは、記紀の註釈書の全部が、挙つて可決した処である。言ふまでもなく、
八俣遠呂知対治の条に、記・紀二つながら、音仮名で、
さずきと記してゐる。それより後の部分にも、神功の継子の二皇子、
菟餓野に
祈狩して、各
仮
にゐると、赤猪が仮

に登つて、
麑坂ノ王を咋ひ殺した(神功紀)ことがある。又百済
ノ池津媛、石河
ノ楯とかたらひして、天子の逆鱗に触れて、二人ともに両手・両脚を、木に張りつけ、仮

の上に
置ゑて、
来目部の手で、焚き殺された(雄略紀)よしが見える。
此尠くとも奈良以前に、
磔殺の極刑のあつたことを示した伝へは、罪人を神の前に火殺する、一種の神事と仮

との関係を示すと共に、形は、足代の上に、屋根なしの
箱槽を置いた様だつたことを思はせる。二皇子の場合も、
うけひの神事と、猟りの矢倉とを兼ねた物らしい。山・塚・旗・桙などの外に、今一種神
招ぎの
場として、かう言ふ台に似た物を作つたことがあつたのだらう。
又、
菟道・
鹿路に
目柴立て、射部
配ゑたゞけでは
適はぬ猛獣の場合に構へたらしいこと、今尚、此風の矢倉構へる猟師があるのでも訣る。記に、門毎に仮

を結ぶと見え、紀に仮
八間なるを作るとあるのも、入り口の上に構へた物もあり、柱間の広い物もあつたことを示すのである。
祭り其他の物見に作り構へた桟敷は、古くはやはり、矢倉の一種であつたと思はれる。桟敷と言ふと、字義と実際とが相俟つて、長く造りかけた物らしく思はせてゐるが、古い形は、今の人の聯想とは、交渉を没した姿で、地上からやゝ高くそゝり立つてゐたのであらう。