霧がじめじめ
降っていた。
諒安は、その霧の
底をひとり、
険しい山谷の、
刻みを
渉って行きました。
沓の底を半分
踏み
抜いてしまいながらそのいちばん高い
処からいちばん
暗い
深いところへまたその谷の底から霧に
吸いこまれた
次の
峯へと一生けんめい
伝って行きました。
もしもほんの少しのはり合で霧を
泳いで行くことができたら一つの峯から次の
巌へずいぶん
雑作もなく行けるのだが私はやっぱりこの
意地悪い大きな
彫刻の
表面に
沿ってけわしい処ではからだが
燃えるようになり少しの
平らなところではほっと
息をつきながら
地面を
這わなければならないと諒安は思いました。
全く峯にはまっ黒のガツガツした巌が
冷たい霧を
吹いてそらうそぶき
折角いっしんに
登って行ってもまるでよるべもなくさびしいのでした。
それから谷の深い処には
細かなうすぐろい
灌木がぎっしり生えて光を通すことさえも
慳貪そうに見えました。
それでも
諒安は
次から次とそのひどい
刻みをひとりわたって行きました。
何べんも何べんも
霧がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。
けれども光は
淡く白く
痛く、いつまでたっても夜にならないようでした。
つやつや光る
竜の
髯のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを
投げるようにしてとろとろ
睡ってしまいました。
(これがお前の
世界なのだよ、お前に
丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の
景色なのだよ。)
誰かが、
或いは諒安
自身が、耳の近くで何べんも
斯う
叫んでいました。
(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから
仕方がないのです。)諒安はうとうと
斯う
返事しました。
(これはこれ
惑う
木立の
中ならず
しのびをならう
春の道場)
どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。
諒安は
眼をひらきました。
霧がからだにつめたく
浸み
込むのでした。
全く霧は白く
痛く
竜の
髯の青い
傾斜はその中にぼんやりかすんで行きました。諒安はとっととかけ下りました。
そしてたちまち一本の
灌木に足をつかまれて
投げ出すように
倒れました。
諒安はにが
笑いをしながら
起きあがりました。
いきなり
険しい灌木の
崖が目の前に出ました。
諒安はそのくろもじの
枝にとりついてのぼりました。くろもじはかすかな
匂を霧に
送り霧は
俄かに
乳いろの
柔らかなやさしいものを諒安によこしました。
諒安はよじのぼりながら笑いました。
その時霧は大へん
陰気になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな
笑いを
投げました。そこで霧はさっと明るくなりました。
そして諒安はとうとう一つの
平らな
枯草の
頂上に立ちました。
そこは少し
黄金いろでほっとあたたかなような気がしました。
諒安は自分のからだから少しの
汗の
匂いが細い糸のようになって霧の中へ
騰って行くのを思いました。その汗という考から一
疋の
立派な黒い馬がひらっと
躍り出して霧の中へ
消えて行きました。
霧が
俄かにゆれました。そして
諒安はそらいっぱいにきんきん光って
漂う
琥珀の分子のようなものを見ました。それはさっと琥珀から黄金に
変りまた
新鮮な
緑に
遷ってまるで雨よりも
滋く
降って来るのでした。
いつか諒安の
影がうすくかれ草の上に
落ちていました。一きれのいいかおりがきらっと光って
霧とその琥珀との
浮遊の中を
過ぎて行きました。
と思うと俄かにぱっとあたりが黄金に変りました。
霧が
融けたのでした。
太陽は
磨きたての
藍銅鉱のそらに
液体のようにゆらめいてかかり
融けのこりの霧はまぶしく
蝋のように谷のあちこちに
澱みます。
(ああこんなけわしいひどいところを私は
渡って来たのだな。けれども何というこの
立派さだろう。そしてはてな、あれは。)
諒安は
眼を
疑いました。そのいちめんの山谷の
刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が
咲いているのでした。その日のあたるところは
銀と見え
陰になるところは雪のきれと思われたのです。
(けわしくも
刻むこころの
峯々に いま咲きそむるマグノリアかも。)
斯う
云う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。
すぐ
向うに一本の大きなほおの木がありました。その下に二人の
子供が
幹を間にして立っているのでした。
(ああさっきから歌っていたのはあの子供らだ。けれどもあれはどうもただの子供らではないぞ。)
諒安はよくそっちを見ました。
その子供らは
羅をつけ
瓔珞をかざり日光に光り、すべて
断食のあけがたの
夢のようでした。ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっきよりずうっと細い声でマグノリアの木の
梢を見あげながら歌い出したからです。
「サンタ、マグノリア、
枝にいっぱいひかるはなんぞ。」
向う
側の子が答えました。
こちらの子がまたうたいました。
「セント、マグノリア、
枝にいっぱいひかるはなんぞ。」
「天からおりた天の鳩。」
諒安はしずかに
進んで行きました。
「マグノリアの木は
寂静印です。ここはどこですか。」
「私たちにはわかりません。」一人の子がつつましく
賢こそうな
眼をあげながら答えました。
「そうです、マグノリアの木は寂静印です。」
強いはっきりした声が
諒安のうしろでしました。諒安は
急いでふり
向きました。子供らと同じなりをした
丁度諒安と同じくらいの人がまっすぐに立ってわらっていました。
「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが
感じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」
その人は
笑いました。諒安と二人ははじめて
軽く
礼をしました。
「ほんとうにここは
平らですね。」諒安はうしろの方のうつくしい黄金の草の高原を見ながら
云いました。その人は笑いました。
「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに
対する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」
「そうです。それは私がけわしい山谷を
渡ったから平らなのです。」
「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが
咲いています。」
「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は
寂静です。あの花びらは天の
山羊の
乳よりしめやかです。あのかおりは
覚者たちの
尊い
偈を人に
送ります。」
「それはみんな
善です。」
「
誰の善ですか。」諒安はも
一度その
美しい黄金の高原とけわしい山谷の
刻みの中のマグノリアとを見ながらたずねました。
「覚者の善です。」その人の
影は
紫いろで
透明に草に
落ちていました。
「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は
絶対です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい
峯のつめたい
巌にもあらわれ、谷の
暗い
密林もこの
河がずうっと
流れて行って
氾濫をするあたりの
度々の
革命や
饑饉や
疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。」
諒安とその人と二人はまた
恭しく礼をしました。