この物語はさほど遠い昔のことでは無い。
北の海に添うたある岬に燈台があった。北海の常として秋口から春先へかけて、海は
怒ったように
暴狂い、波の静かな日は一日も無かった。とりわけこの岬のあたりは、暗礁の多いのと、潮流の急なのとで、海は
湧立ちかえり、
狂瀾怒濤がいまにも燈台を
覆えすかと思われた。
しかし
住馴れた親子三人の燈台守は、何の恐れる景色もなく、安らかに住んでいた。
今日も今日、父なる燈台守は、
櫓のうえに立って望遠鏡を手にし、
霧笛を
鳴しながら海の上を
見戍っていた。昼の間は
灯をつけることが出来ないからこの岬をまわる船のために、霧笛を鳴して海路の地理を示していたのであった。今日はわけても霧の深い日で、ポー、ポーと
鳴す笛の音も、何となく
不吉なしらせをするように聞かれるのであった。
「姉さん、今日は何だかぼく、あの笛の音が
淋しくて仕方が無いよ、そう思わない?」
「そうね、あたしも
先刻からそう思っていたけれど、
摩耶ちゃんが淋しがると思って言わなかった。」
「また難破船でもあるのじゃないかしら。」
姉と弟とがこんな話をしているところへ、父はあたふたと
階上から降りて来て
「
須美、浜へ出て見てお
出で、何だか変な物が望遠鏡に映ったから」
「はい」
健気な姉娘の須美は父の声の
下に
立上ると
「姉さん、僕も行くよ」
と弟の摩耶は
後についた。
浜へ出て見ると、果して
其処の砂浜の
帆柱の折れたような木に、水兵の着る赤いジャケツが絡みついているのが見えた。二人はそれを持って急いで帰った。父はそれを見るや否や、
「ああまたやられたか」と言って「
俺はこうしては居られない。
直ぐに救いのボートを出すから、須美は村の者に直ぐこのことを知らせるよう、それから摩耶は
櫓の上で
霧笛を吹いているんだぞ、しっかり吹かないと、お父さんまで難船してしまうぞ。
好いか」
「大丈夫お父さん」
摩耶は元気よく答えた。
「それじゃ
往って来るぞ」
そう言って父はもうボートを卸して、暗い波の上に乗り出した。
「じゃ摩耶さん、あたしも村の方へ行ってきてよ。霧笛は大丈夫?
······しっかり頼んでよ」
「日本男児だ!」
「本当にお父さんはじめ、難船した人達のためなのよ。しっかりやって
頂戴」
姉は
流石に女の気もやさしく、父の身の上、弟のことを気づかい
乍ら、村の方へ走って行った。この
燈台から村へは、一里に余る山路である。
父のボートは暗い波と
烈しい風とに
揉まれ乍ら、濃霧の
中を進んだ。やがて、船の最後と思われる非常汽笛の音をたよりに、つかれた腕に全力をこめて、ボートをやった。行って見ると、船の破片にすがった半死の人が五人だけ見えた。
一人一人ボートへ助け入れたが、どの人も口を利くどころか、
眼さえ見えぬようであった。ボートの
舳を返して
燈台の方へ
漕いだが、霧は
愈深くなり、海はますます暗くなり、ともすれば暗礁に乗り上げそうであった。半死の人を乗せたボートの重みと、
労れ切った腕にとったオールは、とかく波にさらわれ
勝であった。
ここに燈台の
櫓では、父のため、多くの難船した人のため、
摩耶はあらん限りの力で
霧笛を吹いた。
しかし今年十二の少年の力では容易でない。
忽ちへとへとに労れてしまって、霧笛の音は、とぎれとぎれになった。
しかしいま吹きやめたら、父はどんなに困るかも知れぬ。そう思うと死んでも
止められない。ポーと吹いては休み、ブウと吹いては休んだ。しかし父のためだ! 多くの人人のためだ! それでこそ日本男児だ! 吹く吹く、死んでも吹く
······ また海の上では、かすかながらも鳴っている霧笛の音を聞いては、父は新しい力を腕にこめて、ボートを漕いだ。
漸くにして父のボートが
汀へたどりついた。折もよし、村の人人は
須美に連れられて走って来た。
遭難の人人の手当は、村人にまかせて、須美は急いで櫓の上にあがって見た。摩耶は霧笛を唇にあてたままそこに死んだように倒れていた。
「摩耶ちゃん、摩耶ちゃん」
姉は泣声で呼んだ。すると勇敢なる日本男児はすぐ
甦った。
五人の遭難者も死んではいなかった。