レスリイ・シュナイダア夫人は、七歳になる娘ドロシイの登校を見送って、ブレント・クリイクと呼ばれる郊外に近いロレイン街の自宅から、二
「ドロシイはいつものようにいそいそと、時どきふり返って手を振りながら遠ざかって行きましたが、私は、ドロシイが見えなくなってから十五分間も、夢中で道の真ん中に立って、その姿の消えた方向をじっと見詰めていました。気が付くと、低声にドロシイの名を呼び続けていました。何んですか、訳もなく耐らなくなって、追っ掛けて行って伴れ帰りたい気が致しました」
と、後でシュナイダア夫人が
ドロシイの父ウイリアム・シュナイダアは、近くのフリント市のビュイック自動車会社に勤めている
午前十一時三十分になった。もうドロシイの帰って来なければならない頃である。シュナイダア夫人は、
筆者は、十代の頃からミシガン州に住んだことがあってこの辺の地理には比較的通じている心算である。
少女 Dorothy の父 William Leslie Schneider の勤務先ビュイック自動車会社の工場は、前に言ったように、ブレント
このドロシイ・シュナイダア事件の起った一九二八年一月十二日に先だって、前年一九二七年の十一月一日のことだった。骨を洗ったような灰色の墓標が立ち並んでいる其のフリント市の共同墓地で、エヴァリン・ダンカン、十八歳|| Miss Evelyn Duncan ||という美しい娘が、何者かによって残虐な暴行を受けたのち、
午後まで帰らないなど、ついぞないことである。犇ひしと不安に駆られ出したシュナイダア夫人は、機嫌の悪いケネス坊やを、親しくしている近処の家|| Mr. Thomas Mccarshy's ||タマス・マッカアセイ方に預けて、主人のマッカアセイに頼んで一緒に心当りを捜しに出て貰った。心当りと言っても、別に子供の立ち寄るような
「ああ其の児なら毎日通るから識っています。今日ですか。ええ、きょうも通りました。朝は知りませんが、お正午近く学校から帰るところでしたろう。十一時二十分頃、独りでブレント入江の方へ歩いて行くのを見かけました」
尚このシッド・ハッジスの口から、ドロシイが通り過ぎて間もなく、紺灰色に塗った一台の
「男が一人乗って運転していました。何うと言って別に特徴のある人物ではありませんでしたが、人相や着衣は、はっきり覚えています、私はそんなことに注意を払う方ではないんですが、理由があるんです。というのは、代金をはらうのを忘れて行こうとしたので、呼び停めて請求しました。そのために、普通の客よりも余計に言葉を交して、また顔を見た間も長く、それだけ印象に残っている訳です。金は直ぐ、失敬失敬と言って笑いながら出しました」
グリイスンとマッカアセイは、その足で自動車を走らせて、シュナイダア夫人が、問題の自動車はディクシイ国道をスタンレイ

「そうだ。ここで降りて歩き出したんだ」グリイスンが呻いた。「だが、何処へ? そして何しに||?」
首を傾げながら二人は、その足あとを伝わって傍らの野原へ出た。雪が解けて、一面の枯れ草原だ、靴跡は草に消えて、尾けようがないのである。三十分も探し廻った末、野原の向側に雪の残っている個所があって、そこにふたたび同じ足あとが点々としているのを見つけた。伐った儘の枝を横に渡して、又もや垣根が囲らしてある。足跡は、その柵を越して、灌木や雑木林の連なっている奥へ奥へと踏み込んでいるのだ。垣根の一個処に、雪と土に汚れた靴を掛けて足場にしたらしいところが見える。その真下に、たった一つ子供の足跡と思われる凹みが残っていた。ほかには、附近何処を探しても子供の靴のあとと認むべき印しは一つもなかった。男の足跡は大きく深く、普通人より重量のある、大柄な人物に相違ないことを示している。其処らは矢鱈に垣根が結び廻してあって、グリイスンとマッカアセイは、六つの垣を乗り越えて、耕地や藪原を幾つとなく過ぎて断続している足跡を尾けて行くと、遂に立樹に囲まれた小川の堤へ出た。これが、この辺の地名になっているブレント
恐しい展開を暗示されて、二人は無言で顔を見つめ合った。そして尚も附近を捜索したが、他には何ら手懸りらしいものも獲られなかった。グリイスンは、まだ犯人は遠くへ行かないであろうから、今の内に此の、ドロシイの着衣の一部が現れたという
その、グリイスンの電話を聞いていた主のアウチイ・ベエコンが、さっと顔色を変えたのだ。
「畜生! 飛んでもねえことをしやあがった!」ベエコンが叫んだ。「すると、あの野郎に決まってる。旦那、わっしゃあ其奴に手を藉して、
以下、グリイスンの問いに対して農夫アウチイ・ベエコンの答えたところである。
「正午頃でした。何気なくこの窓から見ていると、一台の自動車が、あの、スタンレイ街道から小路が分れて丁字形になっているところを此方へやって来るんです。非道いぬかるみだが旨く通れるかなと思って見ているうちに、一度車が見えなくなったので、きっと元来た方へ引っ返したのだろうとそれきり忘れていましたところが、暫らくして一人の男が、何か包みのような物を抱えて、あの野原をすたこら奥のほうへ急ぐのが眼に這入りました。が、私は、別に変なことをするとも思いませんでしたから、特に注意を払った訳ではありません。漸て二時間程経ってからです。そうです丁度時計が二時を打ち終ったときですが、それと同一人らしい見慣れない男が、この家を
「何んな人相のやつかね? 自動車の種類は? 車体番号は見ませんでしたか」
「ちょっと待って下さい」立て続けの質問にベエコンは魔誤付いて、「今よく思い出しますから||」
そして、眼をつぶってその映像を呼び返そうと努めていたが、やがてベエコンの陳述した「其の男」の

ベエコンの述べた「其の男」と謂うのは||。
「年齢五十歳前後、身長五呎八乃至九吋、体重約百九十
しかし、細かいことは細かいが、色いろ特徴があるようで、その実、いざとなってみると、余り頼りになる特徴はないのである。適確であり、詳細であればあるだけに、捜査の実際的見地からは、莫然としていて、あまりに多くの人間に当てはまるのだ。従ってこれは、これとして、大して信拠出来ない気がして来る。で、フリント市の在るジェネシイ郡
次ぎにベエコンは「其の自動車」を普通の
グリイスンはその場から直ぐこのアウチイ・ベエコンの陳述をフリント市駐在の Genesce 郡検察官フランク・グリイン氏に電話して、茲にミシガン州初まって以来の大々的人狩りは開始された。シェリフ・グリイン自ら大部隊の刑事を引率してマッカアセイとグリイスンがドロシイの衣類を発見したブレント入江の小川へ急行する。少女の父ウイリアム・レスリイ・シュナイダアも、その働き先のフリント市ビュイック自動車会社から呼び返されてその一行に加わっていた。
冬の日は短い。野に、薄暮が落ちて来ていた。夕ぐれと一緒に寒気は激しく、小川の面てに漸時に水の動かないところが出来てきて、氷りかけつつあった。刑事達は、その入江を中心に思い思いの方向に散って、上流から森の奥へかけて素速い、そして熱心な捜索を続けている。
二十分程してからだった。捜査隊の一人に Fred Dormire というフリント市の刑事が居た。グリイスンとマッカアセイが第一の着物を見つけた繁みから、小川に沿って歩きながら、彼は、川岸の、泡のような氷の粒つぶの下に、
亜米利加の七歳だから、日本流に数えると九つ位である。それに、大柄な米国人にしても、このドロシイ・シュナイダアは発育の早い方だったので、その裸体には、少年のようなぎこちなさの中にも、十三、四歳程度の、もう何処となく女に近いことを想わせる幾分伸びやかな線が見られた。栗色の断髪、乳房のない平べったい胸部、まだ脂肪の乗らない細長い両脚||岸に立って、この、ドウマイアの腕に差上げられた白い物体を一眼見た父親のシュナイダアは、崩折れるように気を失って終った。
この屍体発見の時のことを、ドウマイアはデトロイト
「私は眼を瞑ってドロシイの屍体を堤の草の上へ下ろした。警官として斯ういう場面に慣れている筈の私でさえ正視に耐えない程、惨鼻を極めた屍体だったのだ。実際皆
××を受けた後、死へまで殴打されたのだった。その上言語に絶する残虐が屍体に加えてあって、何のためか、左の腋の下から左肋へ掛けて注意深く×り×き、背中の肩胛骨の真下にも、左右に各一つずつ深くナイフを×き×した痕があった。左の肋骨などは、宛然鶏を料理するように、殆んど一本一本丁寧に×り×してあって、やっと、皮膚と

小川に沿って現場検証が続けられた。間もなく、コロロフォルムの壜の栓がグリイン氏によって拾い上げられ、屍体から××された右手の拇指と小指、其のほか他の部分の血だらけの肉片なども枯れ草の間から出て来た。また暫らくして、リグレイ印のチュウイング・ガムの包み紙一枚と、男持ちの血染めの
薄明は刻々闇黒に変ろうとして、夕寒い風が集まって来ていた。現場の小川の畔りに、シェリフ・グリインを中心に、眼を据えた蒼白い顔が輪を作って、取り敢えず第一回の捜査会議が開かれた。この際、最初の一歩は、先ず、四囲の情況と与えられた事実を材料に此の犯罪の行程を如実に
1 一九二七年八月二十八日、マウント・モウリス町共同墓地に於けるサンドラ・G・バックスタァ||二十二歳||の墓地発掘、屍姦並びに死体毀損事件。
2 同年十一月一日、フリント市共同墓地での暴行絞殺事件。被害者は十八歳になるエヴァリン・ダンカン嬢。
3 おなじく十二月二十六日、オウク・ヒル町墓地におけるマアサ・ガッツ強姦事件。
4 一九二八年一月五日、フロリア・マクファドン||七歳||がカアランド町に到る山道で暴行された事実。
5 同一月十二日、このドロシイ・シュナイダア事件。
この凡べてが同一人の手によるか否かは第二に、ここに、約四個月間に五件の常規を逸した変態性慾的惨虐が行われたのだ。しかもその内二つは七歳の幼児姦と、それに伴って、悪魔をさえ眼を覆わしめるこの Mutilations である。キャリフォルニアのマリアン・パアカア事件のセンセイションが未だ消えやらぬ内に、またこのドロシイ殺しの恐怖とショックは、地方的なそれから忽ち全国的な恐慌||そして一面には公衆の探偵小説的興味へと漸時に拡大波紋して往った。今まで知る人もなかった Brent Creek とドロシイ・シュナイダアの名が、亜米利加中の口に上り、ディクシイ国道を中心に「嫌疑者がリンチされて、後になって無罪と判ったら何うする」グリイン氏が言っている。
「考えてもぞっとするではないか」
そして、全公衆は激昂の極に達して、まるで私刑に飢えている
「合衆国の、いや、法治国の名誉にかけて、この嫌疑者を、そして何れあらわれるであろう犯人を、群集の手に渡してはならない」
これは、群集に弱い亜米利加官憲としては、随分勇敢な言辞なのである。度びたびデトロイト時報を引用するが、大きく言えば劃時代的な表明として、同紙上にも特筆してある。
ジェネシイ郡の警察医D・R・ブラッセイ博士がドロシイの屍体を検証して、暴行の事実その他、警察の意見を一層確定せしめた。
「驚く可き一事は、これだけ人体にナイフを加えながら、手が少しも顫えていないことです」
博士は、この点に特に係官の注意を促した。
シュナイダア夫人は、事件発生と同時に驚愕の余り昏睡状態に陥って、ずっと寝込んで医師の看護を受けているし、父親のウイリアム・シュナイダアは、自宅の一室に閉じ籠ったきりで、日夜
この時、グリイン検察官が一つの声明を発表している。
「われらの求める男は、現にこのフリント市か、若しくは、其の附近に住んでいる。或いは、最近まで住んでいた。凡べての情況は、『その男』がミシガン州のこの部分を自宅の庭のように熟知していることを示している」
フリント市警察署長 Caesar Scavarda 氏はじめ、捜査本部も一般市民もこれと同意見だった。つまり、「流し」の類ではないというのである。
金曜日土曜日とこの二日間に、嫌疑の程度には自ら濃淡があっても、何らかの点で白眼まれた百三十二人という夥しい数の容疑者が、フリント警察署に堂々巡りをして、一人ひとり例のアウチイ・ベエコンの前に顔見せをやった。その中には、少女に戯れる常習犯で前科六犯という豪の者のラピイア郡の一百姓なども混っていた。これらは一応兇行当日の所在、行動等につき訊問を受けた後、一列縦隊に並んで、眼を皿のようにしているベエコンの前をゆっくり歩かせられるのだ。実際このベエコンは、犯人の顔をはっきり記憶えている唯一の証人として、当局にとっては掛け更えのない貴重な存在だった。彼は、自分の蔵している兇漢の映像に絶大な自信を有っているとみえて、次ぎつぎに眼の前に立つ容疑者に、ちらと鋭い一瞥を呉れた丈けで、
「これだ! この男です!」
今にもベエコンの口からこの恐しい一語が洩れはしないか||それは、呼吸詰まるような、昂奮と期待の瞬間の連続だった。
このベエコンは、殆んど毎日のように、「其の男」の相貌着付け等に関する細かい部分の供述を取り変えて、そのため一部では、あれは人騒がせが面白くて出鱈目をいっているのだと言われたが、後で犯人が捕まってみると、不思議なことにはベエコンの印象は、日が経てば経つ程確実になって、あとから変えたところは、またそれだけ一層本人に近づいていたのだった。
州から一千弗、郡から一千弗、計二千弗の賞金が犯人逮捕の緒となる可き重要な
日曜日である。
センセイションは空気の何処にも感じられ、人は眼の色を変えて寄ると触るとドロシイ殺しの噂ばかりしているが、まだ犯人がこの界隈に潜んでいるに相違ないという見込みは、徐々に支持を失いつつあった。もう兇行後三日も経っている。この騒ぎを見聞きして、安閑と済ましている筈はない。疾うに州外へ逃れ出た後だろう||皆そう言い合って、また一つ迷宮入りが殖えたと州民の過半は、警察を非難し揶揄したい気持ちだった。
何時もなら、平和過ぎる程平和な、亜米利加の田舎の日曜日風景である。教会の鐘が、乾いた音を振り撒く。牧師はこの少女殺しを演材に説教して、憐れむ可き罪人が一刻も早く神と人の裁きに就き、この好ましくない騒擾が州から除かれ、女児を有つ親という親の心が安んじられるように||と会衆と一緒に跪坐いて祈る。母親は小さな娘の手を固く握って会堂へ急ぐのだ。父は、その心臓に恐怖を宿して聖餐に列なる。そして、人類の間にこんな野獣が隠れ棲んでいたことを、何うして神は今まで許して置いたのだろう||言わず語らずそんな考えを胸に、それは白じらと淋しい日曜日だった。
するとここに、マウント・モウリス町から三十哩程離れたところに、オウオソ|| Owosso ||という小都会がある。シャワジイ郡 Shiawasee Country の郡庁の所在地で、有名な文士故 James Oliver Curwood の故郷である。
町で唯一の教会を
この
その前晩というから、土曜日の夜である。
此のロスリッジ青年は、何時になく妙に寝つかれなくて困っていた。
傍らに寝ていた妻がびっくり眼を覚まして、白く変っている良人の顔を覗き込んだ。
「あら、何うなすって?」
「夢を見たんだ」ロスリッジは呼吸を整えながら、「恐しい夢だった。夢||というより、まるでサイレント映画の一節だった。背景の細かいところまで、現実のようにはっきりしていた。小さな女の子が殺される夢なんだ||」
細君は、莫迦ばかしいといったように、枕の上から苦笑した。
「嫌だわ、あんまり熱心にあのドロシイ殺しの新聞記事を読むからよ」
「そうじゃないんだ。いや、そうかも知れないが、おれは、殺すところを見たんだよ。その殺したやつの顔がまだありありと眼に残っている」
「じゃ、誰が殺したの?」
「それわね[#「それわね」はママ]」ロスリッジは暫らく
斯う言ってロスリッジは口を噤んだ。
夢||信じられない程不神聖な、非人間的にまで狂暴な悪夢の主人公に、かれは、日頃から敬愛している一知友の顔を驚く可き如実さに於て見たのだ。
話しは再び翌一月十五日の日曜日、オウオソ町の基督教会に返る。
質朴な、信心深い田舎町の人々である。
日常生活も、宗教も、保守そのもののような、小さな社会だった。
頑固な程はっきりした正邪の区別が、彼等の有つ
何時もなら、平和過ぎる程平和な亜米利加の田園の日曜日風景である。教会の鐘が、乾いた音を振り撒く。牧師は、この少女殺しを演材に説教して、憐れむ可き罪人が一刻も早く神と人の裁きに就き、この好ましくない騒擾が州から除かれ、女児を持つ親という親の心が安んじられるように||と、会衆と一緒に跪坐いて祈る。母親は小さな娘の手を固く握って会堂へ急ぐのだ。父は、その心臓に恐怖を宿して聖餐に列なる。そして、人類の間にこんな野獣が隠れ棲んでいたことを、何うして神は今まで許して置いたのだろう||言わず語らずそんな考えを胸に、それは、白じらと淋しい一月十五日の日曜日だった。
この朝の礼拝に最初に教会へやって来た一団の信者達のなかに、アドルフ・ホテリングという人と、その妻、子供たちがあった。ホテリングは、今日まで長く補祭の一人として勤めて、教会の善き仕事のために、いつも先頭に立って人一倍働いて来たので、その謝恩の意味で、今夜の
が、仲間の信者達は、このホテリング
事実、
四十六歳で、五人の子女の父である。上の娘二人は、もう成人して
只彼は、教会員以外の大工と、一緒に働く事を嫌う風がある。不信心な労働者は、自分の繊細な宗教心の容れないところで、伍して快しとしないというのかも知れない。そんなような、妙に昂然たる、偏屈な一面もあるのだったが、これは、狂信者に共通の特性として、珍らしくない心理であろう。同僚の仕事に
その朝ホテリングは、例もの
礼拝が初まる迄に十五分程間がある。
定りの座席に家族を残して、彼は、隅にストウブを囲んで雑談に花を咲かせている、男の信者たちのグルウプへ、割り込んで来た。
大声に挨拶を投げると、
「お早う、
愛想好く応じたのは、ハロルド・ロスリッジである。後刻ホテリングが長老に昇ると、ロスリッジは後を襲って補祭の上席に就く筈になっていた。これは、前に出て来て、あの夢を見た大工だが、二十五歳、オウオソ町の 406 East Comstock st. というのに住んでいる。
「おう、これは兄弟ロスリッジ、いいお天気で、結構な日曜ですな。少し寒いが||」
呟くように、ホテリングが言った。
一しきり、天候の話しが続いた。このところ好晴だが、じっさい此の二、三日、急に寒気が増して来ていた。それから、ホテリングとロスリッジと二人の間に、同じ大工として仕事の
其の時も、後でも、少女ドロシイの暴行惨殺事件に関連しては、教会では一言も話しが出なかった。
礼拝の時刻が、来た。雑談は、静かにこわれた。フライ牧師は、聖壇の上の正規の位置に就き、ロスリッジは
夜の集まりも、同じことだった。
ホテリングは長老へ、ロスリッジはその後任の主席補祭へ、夫れぞれの昇格式があるので、教会員の殆んど全部が出席していた。二人とも、人気があるのだった。其の昇進は、受けが好く、全メンバア一致の欣びと感謝をもって、迎えられた。誰もが、この新しい役員を持ったことで、一層自分達の教会を誇り度い心持ちで楽しく帰路に就く。
ロスリッジ青年は、補祭の上席に抜擢された幸福さに、多分に興奮して
足早に歩いていたのを、歩を緩めて、ぞっとしたように身顫いをした。
「何うなすって? ハロルド、あなた何だか変よ」
ロスリッジ夫人が、覗き込むようにして訊くと、良人は吃って、
「いや、何でもないんだ。心配することは無い」
しかし、その夜彼は、一晩中まんじりともしないで、溜息と一緒に考えこんでいた様子だ。朝の食卓で、ロスリッジは思い切ったように妻に、
「何うしたらいいだろう。気になって仕様がないんだ」
「あら、何のこと?」
「あの夢さ。忘れられないんだよ。実際恐しい夢だったからな。夢||というより、まるで現実だった。背景の細かいところまで、はっきり覚えている」
細君は、珈琲の上から笑って、相手になるまいとした。
「莫迦ばかしいわ。夢のことなんか、そんなに何時までも考えてるもんじゃなくってよ」
「しかし」ロスリッジは神経的に、「少女の殺される現場をまざまざと見たんだよ」
「そんなこと仰言ってらしったわね。そして、殺したのは、あたし達の識ってる人だとか||」
「うん。そうなんだ。知っている許りじゃなく、先輩で尊敬している人なんだ」
鳥渡真剣な色が、ロスリッジ夫人の顔を走り過ぎた。
「だから、だあれ?||と訊いても、おっしゃらないんでしょう? 嫌よあたし、そんな当て物みたいなこと」
ロスリッジが黙って俯向いて、
「誰なの?」
「言って終おう」良人は顔を上げた。「いったほうがいい||僕らの教会の人なんだよ」
「教会の||? 何いってるのよ。教会にそんな人が居るもんですか」
「お前こそ何を言ってるんだ。おれは只、夢の話しをしている丈けだぞ。誰の顔を夢に見ようと、おれの責任じゃない。おれの知ったことじゃあないんだ。だから、問題の夢で、アドルフ・ホテリングさんが少女を||?」
「アドルフ・ホテリング!」細君の手から、匙が落ちた。
「あの、昨日長老になった||?」
「うむ。が、ケイト」ロスリッジは、囁きに変った。「これは何処までも夢の話しだぜ。現実と結びつけて考える必要は、少しもないんだ」
「勿論だわ。それも人に依りけりで、あのホテリングさんが||考えようたって、考えられることじゃないわ」
「何故おれは、長老ホテリングのあんな夢を見たんだか判らない」ロスリッジは、自分を責めるように悄気て見えた。
「そりゃあおれも、愚にもつかない夢として打ち消しているさ。打ち消したいんだよ。だが、昨日教会でつくづく見ると||ねえケイト、お前はそう思わないかい?」
「何を||」
「新聞やラジオで発表されたドロシイ殺しの犯人の人相が、ホテリングさんにぴったり当て
何度も読んで暗記する程知っている映像を、

「あら、ほんとだわ!」
「ね! そうだろう?」
「ほんとに、何処からどこまで、気味が悪いほど合うわ! 不思議ねえ。すると||」
「無論、偶然の一致さ」
「そうね。偶然の一致ね」
「偶然の一致だが、犯人捜査でこんなに大騒ぎしている際だから、気になることも、気になるんだよ。あの夢のこと許り考えて、仕事も何も手につきゃあしない。何うしたもんだろう。いっそ警察へ行って話してみようかしら」
「駄目よ、警察なんて。警察へ夢のおはなしを持込んだところで、みんな笑うばかりで、誰も相手になんかしやしないわ」細君は附け足して、「それに、飛んでもないことで、同じ教会員の、しかも長老の、根も葉もない悪口を言って歩くように思われて、第一こっちが、基督教徒らしくないわ。夢は、何処までも夢ですものね。それこそあなたが大変なことになるわ」
父親に相談してみるのが、一番好いということになった。ハロルド・ロスリッジの父は、矢張り大工で近辺に住んでいたが、丁度此の時、このオウオソ町とフリント市の中間のフラッシング市に小学校の建築があって、父子とも其処に働いているのだった。不眠の眼を窪ませて異常に昂奮したロスリッジは、自分で自動車を運転して其のフラッシングの建築場へ駈けつけると同時に、直ぐ父親を捜して、片隅へ伴いながら、呼吸を弾ませて私語いた。
「お父さん、あのシュナイダア事件の犯人のことですがねえ。不思議なことから、私に、若しやと思う当りがあるんです||」
低声だったが、二人の頭の上の足場に居て、ふと此の声に聞き耳を立てた者があった。シェルドン・S・ロビンスン|| Sheldon S. Robinson ||と言って、マウント・モウリス町の大工である。高い所へ上って何気なく仕事をしていたのだが、飛び込んできたロスリッジ青年の慌しい様子に、鳥渡其方へ注意が行った拍子に、この容易ならぬ言葉が聞えて来たのだ。じっとロスリッジの話しに耳を傾けていたが、軈て其の終るのを待って、ロビンスンはそろそろと足場から降りて来た。そして、道具を捨てて、何処へとも言わずに仕事場から姿を消したのだった。
ロスリッジの相談を受けた父親は、初めの内は好い加減に聞き流していたが、息子の態度が余り真剣なので、それならばと、兎に角オウオソ町の警察へ同行して、嗤われるのを覚悟の上で一応その夢物語を届けて置こう||苦笑した父親が、ロスリッジと同車してオウオソへ引っ返そうとドライヴし出した時、一方は、立ち聞きしたシェルドン・ロビンスンである。
疾うにフリント市のジェネシイ郡
が、言う迄もなくペイルソルプは、この奇抜な聞込みに一顧の価値をも認めなかった。事件以来、ありと凡ゆる根拠のない風説や、個人的な悪感情に基くとしか思われない様ざまな意外な人への疑点や中傷などが、連日何十何百となく、或いは態わざ自身訪問して、あるいは文書で、しっきりなく舞い込んで来ていて当局は応接に暇なく、極度に悩まされ続けていた。明らかに、これも其の一つに過ぎない。しかし、捜査は未だ五里霧中にあって、刑事連は、藁をも掴み度い焦燥に駆られている最中である。
無駄を承知で、鳥渡掘じくってみようか。その分には損はない||ペイルソルプは、机上を片附けて起ち上がっていた。
「おい、誰か僕と一緒に、骨折り損の草臥れ儲けに出掛ける物好きはないか。タマス・ケリイ君、ヘンリイ・マンガア君、何うだ散歩の心算で来給え」
Mark Pailthorpe, Thomas Kelly, Henry Munger ||この内タマス・ケリイは黒人である||の、偶然にもフランク・グリイン氏部下の最も敏腕なる、三羽烏とでも謂い度い此の三人の刑事が、ロビンスンを案内に、直ちに其の場からフラッシングへ自動車を走らせて、小学校の建築場でハロルド・ロスリッジに面接し、質問している。
若い補祭はすっかりどぎまぎして、ペイルソルプの問いに、逡巡して答える許りで初めは一向要領を得なかった。教会でも一個の人格者と観られ、殊には、全メンバア一致で名誉ある長老職に押されて間もない信友であり、先輩である。単に半夜の夢で、この人に此の恐しい嫌疑を投げていいものだろうか。これこそ夢のように他愛ない、そしてそれだけ又、自分としては許す可からざる隣人への罪を犯しているのではなかろうか。刑事連を眼前に、彼は改めて、この夢と現実に苦しまなければならなかった。
が、事実そういう夢を見たか何うか、飽く迄も夢の話しとして訊くのだ||と、ペイルソルプに説かれてみると、ロスリッジも終に肯定して、
「はい。確かに、オウオソ基督教会の長老アドルフ・ホテリングが小川の岸で少女を惨殺するところを夢に見ました」
刑事達は苦笑した。
「そうですか。いや、有難う。只しかし、夢は夢で、一体警察の仕事は、夢なるものを重大視す可く余りに
笑って引き上げた。今迄も随分捜査上の喜劇にぶつかった事はあるけれど、まあこれが傑作だろう。夢とは面白い。殊に、人もあろうに教会の長老が||彼らの頭脳は、署へ帰ってからこの素晴らしいユウモアを何ういう
突然、フリント市への帰路を運転していたタマス・ケリイが、思いついたのだ。
「何うだい、序でだ。其の大工の長老様ってのを拝んで行こうじゃないか」
「そうだ、そうだ」剽軽者のヘンリイ・マンガア老人が直ぐに応じた。「夢の御本尊を見なくっちゃ話しにならねえ」
「じゃあ、オウオソで少し油を売って行くか」
自動車は砂を噛んで廻れ右をした。
こうして、戯け乍らオウオソ町北ヒッコリイ街九〇八番のホテリング方を訪れた刑事達は、それでも、念のため小当りに当ってみる気が、底にあったのだ。矢張り彼らは、刑事だった。名うての三羽烏だった。
主の人柄其のもののように、謙遜な小住宅である。
アドルフ・ホテリングは、家庭的なのんびりした顔で、何思うともなく椅子に掛けている。
「何か御用ですか」
にこにこして、起ち上った。
刑事達は、困って、肩を擦り合わして
「署の者ですが||」
やっとペイルソルプが、口を切った。相手は大工ではあるが、聞えた敬神家で、衆望を集めている教会の長老である。一青年の愚にも付かない夢に関連して、滅多な事は言えないのだ。そういった顧慮以外に、三人は、心からの尊敬をも篤信家ホテリングに対して有っていた。
「鳥渡或る事で、最近の御動静をお洩らし願い度いんですが||形式なんです。ほんの形式なんです」
謝まるような口調だ。ホテリングは、宗教的な人に共通の静かな威厳をもって、
「お易い御用です。然し、最近の動静と言っても、実は、お恥しい次第ですが失業して、この二週間程ぶらぶらしている丈けで||精ぜい彼方此方仕事口を探しておりますが」
長老の穏やかな態度には、元より何ら警戒的なところなど見られない。よく来たと言い度そうな、開けっ拡げの微笑なのだ。
「誠に詰まらないことをお訊きして恐縮ですが」ヘンリイ・マンガア老は、擦り消したキャムルに火を点け乍ら、「ダッジの
「有っております」
事務的な答えだ。三人は、ちらと素速い眼を合わせて、
「御自分で運転なさるんで||?」
「はあ。自分でドライヴしております」
より事務的な返辞である。
「其の自動車は今何処にありますか」
「自動車ですか。車庫にあります」
「何んな
「黒です」
黒||黒では眼指す車ではない。が、言うまでもなく、あの兇漢の自動車が此の長老の車庫に在る訳はないのだ。お役目に調べていたのが、斯う立派に逆証されて、刑事たちは、これでほっと安心した気持ちだった。同時に、足を使ってやって来て、こうして長老の暇を潰している自分達の立場が顧みられて、些か照れ臭い感じだ。
引き揚げるに如かず||。
「や、何うも、お邪魔しましたです」ペイルソルプは、握手の手を差出して、「お察し下さい。吾れわれ警察の者は始終下らないことで駈けずり廻っております。これも仕事で、あははははは」
「いえ、貴方がたがいらっしゃればこそ、町民は枕を高くして眠られるというものです。尊いお仕事です。私どもも常に感謝を忘れません。何らお役に立ちますまいが、知っている事は何でも申上げます」
「いや、もう別に||失礼しました」
ホテリングに送られて、三人が玄関の廊下へ出た時だ。老刑事ヘンリイ・マンガアが急に、
「折角ここまで来たものですから何うです、其のダッジのセダンを拝見して行っては」
気軽に首頷いたホテリングについて、一行は家の横から裏庭へ廻った。ささやかな空地がある。粗末なガレイジが建っている。幅の広い
刑事達は、暫らく其のダッジを取り巻いて眺めていたが、鹿爪らしい顔で全く不必要なことをしているようで、段だん面映ゆい気がして来る。照れ隠しにペイルソルプが運転台のドアの
「さあ、行こう」
ケリイが言った。ペイルソルプは把手から手を離して、其の儘身体を廻そうとした。すると、これが所謂ものの
青||も、只の青ではない。青灰色||
少女ドロシイの暴行虐殺犯人は、駒鳥の卵の色のダッジのセダンに乗っていた。
ホテリングは、この小さな出来事に気が付かない。静かにガレイジの戸口に立って、外を見ている。三人の刑事の眼に、一時に異様な緊張が来た。凡ゆる不可能は、場合に依っては可能である。真逆、と思う、そのまさかを決して除外出来ない事は、経験が彼等に教える所だ。青灰色のダッジ||斯うなると、この尊敬す可き長老と雖も、最少し叩いてみなければならない。
咄嗟に、無言の相談が纒って、
「鳥渡伺いますが、先週の木曜日に、フリント市へ行きましたか」
ペイルソルプが、逸る声を抑さえて、ホテリングの背中へ訊いた。
相手はゆっくり振り返って、
「はい、参りました。仕事を探しに行ったのです」
何らの感情を示さずに、ホテリングはそう首肯いたが、この答えは、兎も角此の際、運命的なものだったと言っていい。
タマス・ケリイがしきりに話しかけて、自然らしくホテリングをガレイジに引き止めて置いている間に、ペイルソルプとマンガアは家へ引っ返して行って、何事が起ったのか喫驚しているホテリング夫人へ、
「あの御主人のダッジは何んな色でしたな」
「あら、何故でしょう。灰色がかった青で御座います」
「今は青じゃありませんよ。黒ですよ」マンガア老刑事が、
「最近黒に塗り直したんじゃないんですか」
「へええ、存じません。確かに青灰色の筈ですけれど||変ですねえ」
刑事の要求に依って、ホテリングの外套と帽子が全部持出された。帽子の一つは「大きな眉庇の附いた黒褐色毛皮製の鳥打帽」で、前掲の農夫アウナイ・ベエコンの述べた犯人の帽子と完全に一致するのだ。三人は、どきどきして来る心臓を鎮めて、その外套の右肩へ一斉に眼を据えた。再びベエコンの証言に依れば、「薄茶と緑の霜降りの外套、其の右肩の部分に、一見何人も気の付く著しい油の汚点がある」||筈である。成程外套は薄茶と緑の霜降りだが、汚点は無かった。が、よく見ると、最近入念にクリイニングした形跡が、読まれるのである。
底は、もう割れた。
不可能が、可能どころか、確定に急転したのだ。自動車の塗色の事から胸を躍らせ乍らも、一方、今の今まで「真逆!」と強く否定していた其のまさかが、既に動かない現実として眼前に展開し出したのだ。
感づいて、逃げはしないだろうか||急に心配になって来た。ケリイは、この発見は知らないが、巧まくガレイジで会話で継いで居て呉れればいいが||。
ホテリング夫人も、此の不時の警官の来訪目的が何であるか気が付いたらしい。恐怖が、顔へ滲み出て来た。が、平静を装って、他二、三の質問に答えると、台所の窓から、大急ぎに車庫へ帰って往く二人の刑事の後を見送った。
「ホテリングさん!」
ペイルソルプが、愛想好く声を掛けた。
「御迷惑でしょうが、鳥渡署まで御同行下さい。なに、お手間は取らせませんよ」
この恭敬篤厚な、長老アドルフ・ホテリングを拘引する。何か他に適確な証拠でも挙がったというのだろうか。それにしてもあの兇悪無二の犯行の嫌疑が此の人の上に||本人のホテリングよりも、何心なく雑談していたタマス・ケリイ刑事の方が、さっと顔色を変えた。蒼くなった||と言っても、ケリイは黒人だから、正確には、その蒼さが濃度を増して、一段と黒くなった。真っ黒になって愕いた。まさに暗然としたのだ。
「警察へ?」ホテリングは不思議そうだが、穏やかに、
「何しにです」
ペイルソルプの返事は、ずばりとしたものだった。
「ドロシイ・シュナイダア事件についてお聞きし度い事があるのです」
敬虔な長老は、鳥渡どきりとした様子だ。が、何も言わない。額部へ汗の粒が染み出て来て

「御主人のお力を借り度い事があって、これからフリント署まで来て戴くことになりました」
ホテリング夫人も黙って、良人の顔を凝視めている。ペイルソルプが続けた。
「殊に依ると、当分帰宅れないかも知れませんから、その心算で||」
夫人は、静かにうなずいた。其の間ホテリングは、何も知らずに纒わり付いて来る幼い子供達の顔を、じっと見廻していた。二人とも女の児で、Vida は九つ、妹の Theresa は三歳である。ホテリングは割りに、子福者で、長女も次女も結婚して、上は Mrs. Joseph Wagner と言って二十五歳、つぎの Mrs. Lyle Munroe は二十一でそれぞれ夫の家に居た。三番目が長男で十六になるドュヴォア Devore、これは其の時オウオソの
これだけの可愛い子等の父であり、恐らくは何人かの祖父でもあろうホテリングである。しかも、前から度びたび言う通り穏厚篤実をもって知られた、町の教会の
情において忍びないが、斯くてある可きではない。引き離すように別れさせて、玄関へ出た。良人を敬愛する妻、父を慕う幼児が、後を追って出る。再び、此の善き隣人、美しい家庭人が、何うしてあのドロシイをああも悪魔的に凌辱虐殺したと信じられよう||。
「アドルフ! アドルフ!」ホテリング夫人が、叫んだ。
「貴方は身に覚えのない事です。何卒警官に、そうはっきり言って下さい!」
自分達の過失を隠すためのように、刑事達は慌てて長老を自動車へ押し込んだ。妻子がドアに立って手を振っているのに、ホテリングは一度も振り向かなかった。恐怖や狼狽を感じている様子はなかった。ただ吾れを忘れたように、何か頻りに沈思している風だった。タマス・ケリイがハンドルを握って、ペイルソルプとマンガアは、ホテリングを中に挟んで後部の座席に就いた。急いでいて、身体検査はしなかった。途中も、色いろ訊問してみたが、ホテリングが皿のように黙りこくっているので、無理に口を開かせようとはしなかった。刑事たち自身、妙に考え込んで終って、口数が尠なかった。若しホテリングが無罪と立証されたら、自分達は何うなるだろう。勿論責任問題だが、教会の長老ではあり、これは只では済まない。そんな考えも期せずして彼等を憂欝にしている。オウオソとフリントの間の真ん中辺へ来た時である。隙を窺ったホテリングが、ポケットから、刄を折り畳んだ鋭利なナイフをとり出して、いきなり咽喉を突こうとした。驚いた刑事が、二人掛りでナイフを取り上げて直ぐ手錠を嵌めると、忽ちホテリングは、今の騒ぎも忘れたように、けろり放心状態に這入って、ぼんやり前方を見詰めているのだ。ナイフを審べて見ると、刄に、明らかに濃い血雲りがある。そして、柄の奥に被害者ドロシイの着衣と同一の色彩、織り方の布地の小破片が、血に固まって挟まっている。もう凡ゆる顧慮を取り去って、世にも狂暴な一殺人者とのみ扱って万間違いない。ペイルソルプは、ほっと微笑した。
「おい、長老さん、気の毒だが、到頭尻尾を出しゃあがったな」
長老の鉄の神経が、漸時に彼を去りつつある。呼吸が、速く荒くなって、鈍い眼に、動物的な欝血が来た。瞳を上釣らしておろおろと車内を見廻して許りいる。今にも発狂しはしまいか||マンガアが運転台のケリイに注意して、交通規定を無視した自動車は、すっぽり窓の覆いを下ろして砂塵を捲いて驀進する。悲しみの家シュナイダア方の前を急カアブしてフリント市へ一直線のディクシイ街道へ躍り出た。
ジェネシイ郡刑務所へ収容されると同時に、ホテリングは再び自殺しようと試みている。何時の間にか看視の眼を眩まして廊下の隅から錆び釘を抜き取って、また咽喉へ突き立てたのだ。ほんのかすり傷だが、血が流れ出て、襯衣の前を真紅に染めた儘、刻を移さず郡警司フランク・グリイン氏のまえへ引き出された。これより先、刑事の一人は逸早く宙を飛んで、何時でも召喚出来るように自宅に足止めしてある、あの、犯人の顔を見識っている唯一の証人アウチイ・ベエコンを迎いに走っている。ドロシイ殺しの犯人が挙ったという噂は、忽ち此の辺の名物の野火のように、もうフリント全市に拡がっていた。冬のことで、早い夕闇と緒に、刑務所の前の野次馬は刻一刻人を加え気勢を増して来る。間もなく、息せき切ったベエコンが、
「こいつだ!」叫んだ。呻いた。「此の野郎です。ああ、この野郎です!」
ホテリングはがっくり崩れたが、直ぐ、眼を血走らせて、四肢を取られている刑事達の手を振り解こうと

「私が遣ったんです」囁いた。「私がやったんです||」
何度も繰り返した。そのたびに癇高い声になって、最後は、殆んど絶叫だった。激情に促されて、自白が、色の無い口唇を流れ出て来た||纒まりのない、躓くような片言である。鬼が哭いているようで、それは、聞く人の顔から血の気を奪うに充分だった。
「自動車で来る途中、あの児の歩いているのを見かけたんです。とぼとぼ歩いて往くのが可哀そうで、乗せて行ってやろうと思い付きました。私は子供が大好きです。自分にも、五人あります。それで、あの児を自動車へ乗せたんですが、其の時は自宅へ送り届けてやろうという考え丈けでした。が、その内に無邪気な子供を見ていると、悪魔が、そうです、悪魔が私に降りたのです。それはもう私自身ではなくて、悪魔の意思でした。此処だと言うので、一度あのディクシイ国道とロレイン街の曲り角で自動車を停めたように記憶していますが、悪魔の手が、下りようとするあの児の前へばたんと
告白者の口は、捻ったように歪み、手は無意識に、しきりに血だらけの頸を撫でさすって、指が、痙攣的に開閉している。一寸
「聞えます。私の耳には、今でもはっきり聞えます||あの娘は最後まで、うちへ帰らして呉れと言って泣き叫びました。それが、聞えるんです」
皆押し黙っている。警官、新聞記者、誰も口を開かない。その面前に揺れ悶えている、血を浴びた、ぐじゃぐじゃの動物から眼を離す力が無いもののように、呆然と見入っているきりだ。ホテリングの蒼い口尻に、泡の玉が吹き出て来た。癲癇の兆候||ぐったり頭を抱えている。
「ホテリングさん!」
検察官グリインが、優しく、
「そんなに興奮することはないでしょう。で、その一時あなたの中に宿った悪魔が、少女を姦した上殺して、屍体を弄んだり切断したりした後、小川へ抛り込んだと言うんですね。いや、よく判りました。成程不届きなのは悪魔ですが、然し、責任は何うも長老にもって戴かなければならないようですな」
と皮肉に微笑すると、ホテリングは、もう発作から醒めたように澄まし返って、同じく微笑を浮かべて答えた。
「其の話しは止しましょう。亜米利加中みんな知っている事です。言わないで下さい。私にも、いわせないで下さい。私にも、いわせないで下さい」
街上の群集の騒擾は頂点に達していた。危険な状態である。刑事の一人が、急に洒亜しゃあし出した犯人の態度に憤りを抑さえ切れずに、
「あれが聞えるか。あいつ達はお前を何うしょうと言うのか知ってるだろう」
二度も自殺しようとしたホテリングが、俄かに追い詰められた野獣のような眼になって腰を浮かしながら狂的に室内を見廻したが、元より逃げ途のあろう筈のない事を知ると、真剣な怖れに捉われたらしく、この儘此の刑務所に留置されるのか何うかと訊いた。
「何だと? 窓からモッブへ抛り出す可き奴はお前だ!」
ペイルソルプが喚いた。まるで喧嘩になって、ロスリッジはやっと帰宅を許されたが、群集の激昂と脅威は昇度する一方である。遂に煉瓦が飛ぶ、刑務所の硝子が割れる。外部と呼応して囚人が鬨の声を揚げる。忽ち窓硝子は一枚残らず破れ散って係官は恐慌の余り、ランシング市に居る州知事フレッド・W・グリイン氏 Mr. Fred W. Green
催涙弾を投げたりしたが、人の上に落ちて破裂しないのを、その儘群集が抛り返して却って刑務所の中に毒煙が罩もって看守も囚人も大弱りだったなどという喜劇もある。代理検察官ロイ・レイスが、群集中の重立った者を所内へ入れて、事実犯人ホテリングが移送されて居ないことを見せて廻ってやっと納得しかけた。其処へ、出動して来た軍隊が銃剣を並べてモッブへ割り込んだ。これで徐々に鎮撫したのだった。
其の時
ランシングの州検事局でホテリングが署名した告白書から抜粋してみると||。
問。被告は無理やりに少女を自動車へ乗せたのではないか。
答。そう言うことはありませぬ。歩いている横へ停めて、乗らぬかと言いましたら直ぐ乗ったのであります。
問。ブレント入江へ伴れて行ったのは何の為か。
答。そんな処へ伴れて行った覚えはありませぬが、つれて行ったと言うなら行ったのでしょう。
問。伴れて行って何うしたか。
答。水の中ですか。
問。殺害の順序方法を述べてみよ。
答。あの娘を殺した者があるなどと、それは全く不可能の事にしか思えませぬ。
問。殴打して殺したのではないか。
答。そんな事はないと思います。
問。暴行の模様を述べよ。
|笑って答えず。
問。ナイフで殺したのか。
答。はい。其のようであります。
問。何度突いたか。
答。一度で充分でした。
問。死体の衣服を剥ぎ脱って何うしたか。
答。一切記憶がありません。
問。死体は何うしたか。
答。斬って川へ沈めた。
問。その斬っている時何ういう感じがしたか。
答。別に何ういう感じもしませんでした。
問。何の為めにそんなことをしたか。
答。それは解りません。多分悪魔が乗り移っていたのでしょう。オウオソ町には七千人の人が住んでいますが、其の中で一人として、私を指して悪い人間だと言う者は無い筈です。
問。このナイフで殺したのか。
答。兎に角それは私のナイフのようです。
次ぎは州刑事部長リチャアド・エリオット氏の取った調書である。
問。被告は酒を飲むか。
答。飲みません。一度も杯を手にした事はありません。煙草も吸いません。それだのに今こんな所へ来ているのは、凡べて悪魔の仕業で、自分でも驚いている訳です。
問。犯行後の日曜に、教会で補祭を勤め乍ら何う感じたか。
答。何うも感じませんでした。基督教の教議を考えていた丈けです。
問。殺した少女の事を思い出さなかったか。
答。思い出しませんでした。
問。教会を出てから思い出したか。
答。はい。多分思い出したでしょう。
問。前年の加州羅府のマリアン・パアカア殺しの新聞記事を読んだことがあるか。
答。よく読みました。
問。それに付いて何と考えたか。
答。恐しい事だ、悪いことをするやつがあると思いました。始終その事を考えていました。頭にこびり附いて離れませんでした。I think about it, think about it, think about it.
(一)一九二七年八月二十八日、マウント・モウリス町共同墓地に於けるサンドラ・G・バックスタア嬢の墓地発掘、屍姦並びに死体毀損、(二)同年十一月一日、フリント市共同墓地でのエヴアリン・ダンカン嬢暴行絞殺事件、(三)おなじく十二月二十六日、オウク・ヒル町墓地において女中マアサ・ガッツを強姦、(四)一九二八年一月五日のカアランド山道におけるフロリア・マクファドンの暴行事件、果してこれら凡べてが、此の Adolph Hotelling 長老||何と穏厚篤実な信心家! ||実に穏厚な活躍であったことを突き留めたのは、この時訊問に当ったリチャアド・エリオット氏だった。ホテリングは、グリイン知事出身市の、州刑務所々在地ミシガン州アイオニア市に移されて翌火曜日の早朝、今度はシャワジイ郡検察官Q・ロウカックとJ・A・フインクの前に引き出されて三度訊問を受けている。デトロイト市の探偵が同市郊外に起った二件の幼児殺しに関する一件書類を持って派遣されて来ていて、この審問に立ち合ったが、それは何うやら尊敬す可き長老の働きではなかったようだ。ホテリングの家族はこれらの自白を信ずる事を拒んで、「敬神家」の友人のオウオソ町の弁護士W・A・シイグミラアを立てて抗争の準備をしていた。が州としては、フリント市のモッブ騒動の例もあり、未だに
「私はあなたに告白し度かったのです。長老に昇進する前日、土曜日に、余っ程告白しようと思って、牧師館の前まで行ったのですが、とうとう其の勇気が無くて引っ返して来ました。早く告白して、牧師さんの手で警察へ渡されれば本望だったのです」
面接後、フライ牧師は興奮して新聞記者に語った。
「私はアドルフが、私の教会のメンバアであったことを、少しも恥じる気持ちはありませぬ。私の識っている彼を想い出すと耐らなく悲しいのです。しかし彼は、精神的に不健全な人間です。憎むことも、恥じる事も出来ないと思います」
息子のドュヴォアも、シイグミラア弁護士と同行して父を訪れた。子供の、泪に光る微笑に見詰められて、ホテリングは、廊下中に響く声を上げて号泣したそうだ。ホテリング夫人は、有罪と確証された以上、群集の手に落ちて私刑された方が増しだと言って、一部に鳥渡問題になったりした。夫人としては、被害者の親達に対する迫った気持ちから、切実に、正実にそう感じたのだろう。ドュヴォア少年は、
「父は、私が物心ついてから一度も、荒い言葉で叱った事もありませんでした」
などと、父親に花を持たした。
獄中のホテリングは、未だまだ小出しに、その大好きな告白を続けていて、段だん判明したことには入浴中の娘を覗いたり、夫人連の寝室を隙見したり、夜間樹に登って二階の若夫婦の生活を望見したりなど、この二年来、附近一帯に恐慌を振り撒いていた変態者が、彼だった許りでなく、今挙げた四事件の他に||。
(五)直接問題となった犯行ドロシイ・シュナイダア殺し。
(六)前年の夏、オウオソ町郊外の墓地で Esther Skinner ||八歳||を暴行傷害したこと。
(七)同じ頃、Hern という二十七歳の女を襲って未遂に終った事件。
この二つは、一般には知られていなかったが、当時のシャワジイ郡
「何か言う事があるか」
「私の家族のことを考えて戴き度い」
「お前は、自分の殺した少女達の家族のことを考えた事があるか」
「私は世界中で一番深い悲しみを持っているものです」
スペリオル湖畔の、荒凉たる黒い森の奥に、ミシガンのシンシン・マルケット刑務所の鉄扉が固く締まっている。アドルフ・ホテリングは、今も其の中で労役に服しているのだが、典獄 James P. Corgan 氏の報告では、精神異常の風も認められない。マルケット第一の模範囚徒だそうだ。ハロルド・ロスリッジの夢に対しては、各地で、多くの心理学者が解説を試みたが常識的には、連日新聞で貪り読んだ犯人の