白い雲が岫を出る。白い国道が青田の中を一直線に南に走る。八月の太陽は耕作地を焦きつくすまでに燃えてゐる。幌馬車が倦怠い埃を立てゝ走る。父は葡萄畑に立つては幾度か馬車の喇叭に耳をそばだてる。東京の学校から帰る長男、県の中学から帰る次男と······田園の父にとつて八月は楽しい待望の季節である。
わたしは故郷の父が、わたしの帰省を待ちあぐんで母や妹たちに隠れては、日に幾度となく停車場に出かけて行つたといふ話を思ひ出す。
夏の白雲がわく時、葦の間の
八月の故郷は一家団欒の世界である。普段は学校に囚へられてゐる子供たちも解放されて故郷の旧巣に還つて来る。親と子と兄弟が十年前二十年前のなつかしい家庭の空気をとりもどす。
父も老いた、母も老いた。だが子供たちのすく/\と伸びた健かな赤裸々な肉体を見出す時、父も母も新婚時代にもました明るい光明を見出す。子供等は海に飛び込み、川原に這ひ、葡萄畑にうたふ。人生至楽の季節である。
たゞ一鉢の朝顔が縁側に置かれてある。
父も寄り、母も寄り、子供等も集ひ来つて一輪の朝顔を眺むる。学校のない子供たちは時間から解放され、宿題から解放され、けさはじめて子供本然の素直さを取りもどして一鉢の朝顔を観ることができるのだ。
南山の小径には木槿も咲いてゐる。菊はまだ早いが、芒の穂はすでに静秋の気をほのめかす。父の後からは牧場の仔馬を想はせるほどにぞろ/\と子供たちが走る。子供たちは今こそ教室の窒息しさうな空気からも、懶い課程からも解放されて、幸福な胸いつぱいに八月の朝の空気を呼吸しようとしてゐるのだ。
父よ、母よ、玉蜀黍の葉はかゞやく。八月の子供たちの自由な、解放された魂のよろこびのやうに。
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父よ母よ。弟が小川から釣つて来たたゞ一尾の
父よ母よ。人間の作つた学校の冷たい扉から解放された子供たちは、神によりて作られた素直さを取りもどしてゐるではないか。かれ等は洗面器の水の底に八月の蒼穹を見出してゐる。八月の白雲を見出してゐる。
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父よ母よ。真夏の空高く、高灯籠をかゝげつゝうたふ子供たちにとつて、
胡瓜の馬に乗つて、赤い
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八月はまたわたしたちを夢の世界に誘ふ。
南方の空に懸かる三つ星を見るごとにわたしは故郷の父を思ふ。
「あれは
八月の空にはまた地平線から、地平線へと天の川が流れる。父は夜ごと
父よ母よ。その愛子たちに八月の夜の大空を見ることを教へよ。そしたら秋になつて子供たちが学校に立ちかへつて行つても、子供たちは寄宿舎の窓から夜の星を眺めて父を思ふであらう。母を慕ふであらう。
父よ幼児を膝に抱いて八月の夜空の星の名と、星の物語をくりかへすがいゝ。そしたら子供たちが大きくなつて遠い外国の海を渡る時も、夜の空を仰いでは父を思ふであらう。
人間は地上の人間苦にへしつぶされて、年一年とあまりに多く地上を眺めては溜息するやうになる。だが八月の夜が来る時、天の川の流れが南から北へ懸る時、不図天上を仰いで幼年時の朗かな世界を取りもどす。
八月の空は、夜ごとの星を見るに一番めぐまれた季節だ。空は磨かれた。星はかゞやきはじめた。だがそこにはまだ秋の悲しい声を聴かない。
父よ母よ。子供等を抱いて八月の夜の空を眺めよ。そして子供たちが大きくなつて人間の苦労にへしつぶされさうな時も、星を仰いで勇気づけられることを教へるがいゝ。
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父よ母よ。子供等を抱いて高原の径を歩め。
父よ母よ。子供等とともに草に寝よ。夜明方の山を見よ。八月の葡萄畑に憩へ。
父と子とともに八月の草に寝て、何物をも持たざる者の幸福を悟ることも必要だ。